まんだら第四篇〜虚空のスキャット10


「怖いもの見たさなのでしょう。わたしが現在不可思議な現象から頭を切り離せないのもおそらくその延長だと思うのですが、、、そうです、磯野さんの言われるように多分に妹にも知らず知らずに影響を及ぼしてしまっていたかも知れません。ええ、ご質問には正直に申し上げた通りですし、わたしの知る限りにおいてはあなたが言及したい箇所を記憶の底から浮かび上がらせたいのですけど、今までお話してきた以上に目立った出来事はありませんでした。時間系列、つまり順序よくと云う方法論は極めて見通しをよくするものです。確かに時間軸に沿って流れる川面みたいに間違いはない、、、可逆する事象などはあり得ないわけですね。ただしあまりに信頼し過ぎてついつい見落としてしまうこともあるでしょう。とるに足りない小さなものだけでなく、非常に重要な事柄も、、、
わたしはあの頃の遠藤家を川の流れのように見届けてお話ししてきました。その結果ここまでことなきを得たようですが、あえてひとつだけ小学時代の美代に関してですね、いい落としていることがあります。いえいえ、これは川面の下を覗くことが不可能だから、つまりは水面に浮かびあがることの偶然性と必然性をよく審理する必要にかられているからこそ、一連の時間の流れからは切り離して内情を見据えてみたいわけでして、それは他でもありません、後々の事件に関連あるかも知れないと云う接点で強引に結びつけてしまう独断を危ぶんでいるからです。そこでこの件はこうやって年代の区切りをつけた後で、補足として述べておきたかったわけで、、、」

陽光を照り返しながら流下する河口に跳ね上がる銀鱗、前触れなくなくとも、水しぶきの音なくとも、驚きさえもが予期されていた光景に感応するあの瞬間。孝博のこころにも反射した久道の言い様に同調したのも束の間、思いもよらぬ名称が耳朶に吹きこんで来た。磯野さん「血とバラ」と云う映画をご存知ですか、、、薄明の向こうにたゆたうほのかな記憶が呼び覚まされ、残像は次第に色づく。ええと言いかけてみたもののロジェ・ヴァディム監督以外、出演者などの名前は出てこない、すると相手はあたかもナレーションを語るかの如く、
「信じられないくらい美しい映画です、怪奇映画と呼ぶのが似つかわしくない、気品あふれた吸血鬼を題材にした作品でした。わたしはあれ以上に綺麗な女吸血鬼を見たことがありません。もっとも単に美貌からだとポランスキーが撮った、ええあの惨殺された女優シャロン・テートが並びうるでしょうけれど、あちらは作風も正反対であり、また王道ハマープロダクションの一連のドラキュラ映画の確立された雰囲気、こちらはとにかく怪奇色を前面に打ち出しているので登場者が『血とバラ』みたいな女性にはなり難い。そうですか、ご覧になったことがあるのですね、覚えていますか、主人公が従兄弟の婚約者を幻想に誘うあのモノクロームで描かれた異様に静謐な情景。寝台脇に死人のようにたたずむ胸許からしみ出す深紅の鮮血、窓辺は水平に開かれ並々にたたえられた水上と化し、招かれるまま飛び込んでしまった先は小雨が溜まる広場、舞踏者たちに横目もくれず一心に向う病棟、そして待ちうけている悪夢そのもの、、、思い出されましたか、決して牙などむかずに絡み合う美しい女同士の抱擁にも似た吸血の姿、もうお分かりでしょう。あれはわたしが十五の頃だったと思いますから、美代はまだ十歳になる前のことです。冬の日曜、夕刻前だったでしょうか。あの日は珍しく兄妹揃ってテレビの前から動かず、ふたりしてその放映された物語に釘付けとなっていたのでした。当時わたし的には映画雑誌などで格調高い女吸血鬼ものとか紹介されていたこともあり、多少の興味を持ってましたのでひとつじっくり観ておこうと思っていたところ、気がつけばこたつの横に美代が座りこんでえらく食い入るように画面を見つめていたのでした。途中で会話したのかはよく覚えておりませんが、見終わってからはこんなふうな質問されたのです。
どうして女のひとしか襲わないのかと云うことと、あんな吸血鬼だったら本当に居そうな気がするけど果たしてどうなのかと。普段はそれほど喋り合ったりする仲ではなかったですし、あっ、そうそう美代にはさっきも申しましたけど、時折怖がらせる悪戯心で幽霊話しなどを聞かせていましたので、あの日は別な意味で驚きを示したのかも知れない、何故ならわたしは観賞後、どこか肩すかしされた物足りなさを感じてましたので、それと云うのも全然怖くない内容に失望したところがあって、もっともっと先なのですよ、本当にあの映画の美しさが理解出来たのは、、、ところが妹からしてみればわたしとは違った感性で捉えるものがあったのでしょう。おそらく美代は怪奇映画としては認めていない、物語も現代の設定で何せ冒頭から旅客機が滑走路から飛び立つ場面ですので、どこか異国の地に降り立った感覚を想起させたのではないか、また森のなかの古城で展開される情況はいかにも絵本なんかで読んだことのありそうな、日々の夢のなかに忍んで来てもおかしくはない既成のロマンで彩られています。
美代は何の違和感もなくすんなりとそんな舞台に入りこめたのではないでしょうか。それであんなことをわたしに尋ねてみたのだと思うのです。はい、確かこう応えましたよ、きっとどこかに吸血鬼は居るだろうね、女専門って云うのはそのほうが血の味がおいしいからだとも適当に付け加えておきました」