まんだら第四篇〜虚空のスキャット6


この店で形作られたものなのだろうか、一見ありふれた透明な硝子の器。すでに箸をつけながらもその素朴な風味に、いや、刺々しい感情や上昇する熱意などを一切洗い流して、ここが夏日から遮断された屋内であることをはなから承知させる気概すらも漂わせない冷麺の涼味に、身もこころもさらわれてしまいすぐさま何かしら言い表せる間合いも同時に失いかけた矢先、孝博がひも解かなくてはならなかった念いは、落ちつきをあらためて取り戻したように自然なひかりを放っているその容器へと沈みこんでいった。
よくよく察してみれば、湯気を立てているスープも一口すすっていたし、冷や麦にしては以外としっかりした歯ごたえを認め、更にはよく讃岐うどんにあるよう麺へからまる汁に塩分よりもまず出汁加減を舌先で覚える、あの小躍りしてみたくなりそうな得心をあたえられていたにもかかわらず、どうやら先駆けてみなくてならないのは別の方角に聖地を発見する予兆でもあるようだった。
そんな大仰なひらめきは孝博に寡黙な居ずまいを律したのか、あるいはこの家全体から音もなく降り注いでくる噴水のしぶきみたいなものが意識に影響を及ぼす為なのか、とにかく必要以上の口数をなくして今は食事に専念し、美味をたたえる配慮は遠ざけてもかまわないと云う気持ちが大きくもたげてくる。
久道にしてもごく当たり前の雰囲気を崩さない配膳に徹しているよう見えるし、前もっての口上にはあらかじめこちらの感興を含んでしまっていて余計な気組みを排除してくれている。過剰な想念を働かせたのは己であって気のおもむくまま勝手な追憶にひたりだし、食材の色合いなどからとめどもなく過去への遊泳に興じ、結局は味覚を的確に表現する意義だけを衣にしてしまい、その衣もいざ身にまとうとなると恐ろしく昂揚して、まるで急速眼球運動の勢いで独語をほとばしり無意識的かはどうか、乱れたぎこちなさの夢見を体験する調子で、動体視力の超現実性と表裏一体になったまま先制攻撃さながらの応答を巡らせてしまうのだった。
これは明らかに内心を見透かされてしまっているのではと云う怖れが禍いをなし、自意識に沈潜するしか方便を持てないまま、対座する相手の顔つきに正当な意味あいを感じとれない、まさに金縛りに陥った情況が形成する負の磁場であった。身振りはともかく久道の表情に真意を汲みとることなど等閑に付され、すべて辻褄が合わなく見えてしまうのだが、孝博自身から行動を起こした由縁にこうした場面はやはり帰着しているのである。
おそらく俺は祈願をかけるみたいな意志でここに臨んだわけではない、、、虚しさを埋めようなどとも思っていない。あくまで学者としての探求心が稼働しているだけだ。ただ、いとも容易く自分を受け入れてくれたこの遠藤と云う人物、昼飯の振る舞いにしても、妙に冷静さを見せつける態度に少々とまどっているのは事実かも知れない。この後も彼の方から色々と尋ねられることもないだろうし、こちら側から話題を提供しなければこの男は何も語りはしないだろう。だが、もしも悠長な素振りが彼なりの演出だとしたら、、、
あたかも閃光が射し込む徴に威厳をただすふうにして孝博はようやく自縛の縄目を弛められた。すると衣服の着衣が手際よくなったようで、それは袖を通したときの腕が自在な運動によってもたらされたと勘違いしてしまう颯爽とした感覚を伴い、軽やかに抜け出た手先は空を切り、空をつかみ取る。その鮮やかさは置き忘れられた雨傘が翌朝、太陽に向かって大きな羽ばたきを示すような晴れ晴れしさにあふれ、自らが地面に作りだした影を今度はそのまま置いて行こうとさえ思いあます。光線に乗じて一歩踏み出し、輝きを見つめる瞳の奥はどこまでも透明であり続ける。

硝子の器に反射する意想は、茹でられ熱せられた挙げ句に冷水の洗礼を受けた食材の如く、痙攣的な思弁で調理された末にひとつの活路に陸離として光彩を放つまぼろしであった。けれどもそれは鋭角な面を持った切り子硝子と同じく、ひとつひとつの刻みが深く陰りつつ輝く証明でもあった。
やがて孝博は手応えのある確信を抱くことになる。食事も済んでいよいよ話頭が切りだされた頃には、あの妄想が繰り広げた対話はひとりよがりな脇道にそれるどころか、予習よろしく脳裏を一回りさせた甲斐あって澱みなく開陳され、同時に危惧した相手の機嫌を損なうこともなく、むしろ瞠目させてしまう効果を生じさせた。久道は少しづつ動揺をあらわにしつつも決して自らを抑制させようと試みていない。それは彼の反応の裡に如実にうかがえた。重苦しさが排斥された答弁もさることながら何よりも眼光の強度が増して行くのを。彩度と一緒に劇的なまでの放射で満ち始めた室内は、異なる照明があらたにゆきわたった鮮烈な印象で塗り替えられてしまった。
夢見の導入部より聞き耳をそばだてた久道に対して抱いた感情、それはどの様な過程を通り越した複雑なものであれ、照らしだされているのは己自身でもあると云うまぎれもない知覚に基づいている。親近感で濾過された感謝の念に染まった合わせ鏡を見るように。