まんだら第四篇〜虚空のスキャット5
真夏の幻想であろう汗ばむ想い出を払拭するに正確な涼感が伝わってくる五目冷や麦とやらは、現実には冷や汗となって居場所を確認していた孝博に良好な印象を授けた。
もはや冷や汗は引いた。ほどなくすると湯気を立てたスープを盆に載せて現れる久道に対峙するだろうが、素早い思考に伴う記憶がかいま見せた陽気な側面にほだされたところもあり、それはまるでこれから展開する白熱の演技に向って備えられた準備体操のように思われ、敵陣に踏み込んだ緊張をほぐす効果を存分にあたえてくれているのだと言い聞かせてみるのだった。
反面、時間の猶予はまさに寸前であるはずだけれど、孝博の脳裏に去来する段取りなき意想は久道の調理の下ごしらえに挑戦するがごとくに火炎を上げている。とは云え、それは決して火花散る情熱に支えられた直情を宿してはおらず、所詮は青白い魂魄がこの身から抜け出し飛翔する勢いをなだめすかすのを楽しんでいる、あたかも客席から見物するときのような気安さが用意させていた。孝博にはそうであるほうが好ましかった。
現実の時間は奇妙な誤差を受け入れる。久道が言った通り、きゅうりや錦糸卵が冷や麦の麺に即すようほどよい細さで切られており、他にも大葉やかまぼこも似た具合で添えられている。白地に映える野菜の緑と黄身が際立った彩りは申し分なく涼味をあたえ続けるのだったが、己の裡にある醒めた情念がそうであるように、十全なる冷たさには幾分かの不純分子がまぎれこんでしまい、目には見えない微細なそれらの動きが温度をわずかながら上昇させている。夜空にまたたく光を見つめても寒々とした意識に支配されることがないことに似て。五目冷や麦は宿命的な気配でそこに涼んでいた。
孝博の思考はやや神経質な傾向に流れ出していたが、ここまで来て不意に独りの時間が隠し扉を開けるみたいに訪れたからには、現実のほうが精一杯空間をゆがめてもらいたいところ、だとしても考え自体をいびつさせるのではなく、もう決して取り返しのつかない過去だけをそこに圧縮してどうにか置き場所とすること、それから出来るだけ手短かにここに至る経緯を提示すること、何のことはない、あの生命危機にさらされた際に覚えると云う超然とした動体視力の威力のような、意識の時間推移を自在に駆使し予行演習しているだけなのだ。孝博の願いはどうやら不純な動機で稼働しているようであった。
「ええ、夢の裏打ちを求めたことは事実ですけど、三好荘で見つけたペナントに実はおぼろげながら知るところがありまして、たわいもないかも知れませんし少々失礼かと思いますが、今時ペナントを作成してることを以前にひとづてに耳にしたことがありました。息子の件でこちらに来た折です。それとわたしが小学生のときなんですが、同級生の従兄弟が遠藤硝子店の近くに住んでいまして何度か遊びに行った際に、前を通りかかったこともあってやはり記憶には残っていたわけなんです。はい今は越してしまったようでその従兄弟の方はそれきりです。とにかく、わたしはあのペナントの新月の夜らしき山奥に跋扈している鹿や兎、狸の類いが小さな光に照らしだされている図柄に惹かれるところがあって、又わたしの夢見に共通する雰囲気も感じられて、三好の主人に尋ねてみるとあなたの名前があぶり出しのマジックのように浮かびあがって来たわけです。そこで他にもあなたのことを調べさせてもらいますと、何やら若い時分より超脳力などを熱心に研究されているとやら、すぐ様電話帳を引きますと硝子店と書かれた下にはまぎれもなく『エンドウヒサミチ』と記されているではありませんか。それだけで十分な確証を得たわけですけど、問題はどうしてわたしがあなたを夢のなかで出会う結果に至ったかと云う説明なのでしたが、それは先ほどお話した息子にまつわる顛末であり、それからこれは誠に申しにくいことなのですけれども、よろしいでしょうか、はい、遠藤さんの妹さんの噂なのです。現在は嫁ぎさきからもほぼ縁をなくされたと聞き及んでいまして、とある施設に入院されているとか。ええ、わたしはそれほど噂話しを鵜呑みにするわけではないです。けれども、、、ある事件を、、、かまわないですか、そこでわたしも一応方々をあたって見た結果なのですが、妹さんが吸血鬼まがいの行為を何件か引き起こしたと云う風聞、これは実際に新聞などにも掲載されていますし、いくらなんでも根も葉もないそんな奇怪な報道はあり得ないと思いますからでたらめではないと。それにしてもどうして吸血事件などと騒がれているのか、わたしには何か隠されている事実が存在するように感じてなりません。仮にですよ、妹さんに病的な疾患があったとしても、本当に生き血を吸ったりしたのでしょうか。もっと異なる行為、あえて申しますが例えば同性愛傾向による過剰な肉欲が、相手を傷つけてしまい失血をもたらしてしまったとか。ええ、新聞によると三件とも相手は若い女性であったと書かれてますね。そうですか、、、遠藤さんにもやはり理解し難い事件なのですか」
そこまで急速に独語が乱れを見せながら散らばった時、先ほどとまったく同一の表情を持った久道が案の定、両手で持たれた盆を運んで来た。その手つきには慎重さは感じとれず、どこまでも静かに安置されている仏像を彷彿とさせるのだった。
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