まんだら第三篇〜異名21


不意に訪れた深く眠る色褪せたはずの想い出、いやそれらはきっと取り戻さなければならない宿命であったから、呼び子によって彩りを施され今ここに巡ってくる。ちょうど遠い汽笛が潮風を運んでくると信じてしまうように。
視界をさえぎる夜霧に包まれた時に感じる不思議な心地よさに、美代はすっかり我を失ってしまった。
煙立ち靄がかったさきに写しだせれていたのは、まぎれもないわたしの姿だったのだけれど、どう受けとめてよいのやらわけが分からず、そこに後押しされるよう有理の心配気な口ぶりが被さった途端、もう意識は乱れた気流によってさらわれ、めまいが生じ、しかしながら心棒を回転軸にする駒のような一定感はむしろ反対に覚めた情念をこの身から逃さず、確かに大人びた、我ながらうっとりとしてしまう妖しさを醸し出しており、その刹那わき起こった衝動はおそらく抱擁のあとに来る行為を切実と願っていた。
ませた仕草を演出したのは有理であったが、懸命に役柄を演じたのは美代であった。そうして脚本とも即興とも云える一瞬は、予定調和に即すよう美代に放電を促す。有理の気遣いは、まるで人造人間を生みだしてしまった博士が、目のまえに展開する所業におののくよう、それは生命の神秘を暴いてしまったかの狼狽であった。
過剰な電流によって強烈な意志を得た美代は、飛び込んだ有理の胸もとで今度は写真に焼き付けられた以上の、つまりはそこから抜け出てしまった別人となり、同級生の姉は年上には違いないけれど、もはや同性であることに拘泥する意味あいは剥奪されひとりの好男子と化し、あるいは美代が少年に変容したうえで女装し、有理に切ない胸を打ちあけようとする。そんな自分を美代は異名で呼んでみたくなった。
有理の柔らかなくちびるが、生暖かい吐息をともなって寸前にまで近づいてきた。さあ、わたしは誰になればいいの、だいじょうぶ怖くなんかない、わたしはわたしじゃないから、、、鬼ごっこでつかまったときの罰ゲームと同じ、、、それと映画の一場面みたいなもの、旅行先で泊まった夜の枕があたえる冷たい親近感、そのあと聞こえてきた町並みが震える微かな音、、、音、、、たぶん聞き慣れない、魔法の国からやってくる、だって明日になればすっかり忘れてしまう音、、、想い出したわ、音の波、いいえそうじゃないの、有理姉さんの口先に初めて触れたときのことを何度も憶い返すと、あの感触に浸ろうとすればするほど、望美から聞かされた内緒話しや三人組の悪戯と云ったつまらない事柄が一緒になって脳裏の駆けてゆく。どうしてなのかよく分からない、以前何かの本で読んだが男性は自慰にマンネリ化すると、妄念の勢いをあえて妨げて、まったく無縁の場面に移行させながら頂点を呼び寄せる、そうした延長作用がかえって快感を引き延ばしているのだとか、、、わたしの場合もそれなのかしら、でも無縁と云うよりも付随した想念が招かれるのだから、話しの腰を折るような中断作業ではなくて、だって男性にとっては絶頂を抑止することで少しでも快感を先延ばししたいって欲深さだろうけど、わたしにつきまとう追想は婉曲に申しでてくる、そう、緩やかな非常階段みたいなもの、手探りを必要としない、向こうから探られる軽やかな手すりへの触れ合い、、、冷めた紅茶を飲み干すときに覚える、あの矛盾したようだけどとても時間が長く感じられる性急さだったから。
それを前戯と呼んでみればどうだろう、遠まわりで不本意でありながらも目的を成就させる為、終着を向かえる為に乗り継がれる列車の振動。その振動がもたらす反復は律動となり、五感に安定と痙攣を授けていく。
口中に異物が侵入しかけたと思われるほどの違和感が発生した美代は、そんな言い草でしかそれらを思い浮かべられなかった。別人に扮してみたとしても感覚自体に異変は生じない。背丈も違えば、顔も、肝心のくちびるの大きさも異なり、ましてや初めての経験である事実は期待した以上の贈り物には成り得ず、逆に圧迫にも成りかねない一面をうかがわせていた。しかし、どちらが分泌した唾液によってか知るよしもないまま、互いのくちびるが濡れてなめらかになった頃、美代の意識は純化され先ほどまでの邪念からは十分に距離を保つことが出来た。
そうね、あれからの光景は俯瞰図で見取れるくらい鮮明に憶えている、、、わたしはやっぱり無我夢中だったに違いない、だって有理姉さんたら、思いっきり両腕にちからを入れて抱きしめるから、からだがきつくなってしまい、そうするとキスしているって感触が散乱してゆくけど、そのお陰で何故かしら自分がとても冷静な気持ちでいられたと思える、、、わたしを無くすってことは、ああした緊張のなかを云うのではないかしら、、、だって、冷静な自分はすでに別のひとだから、、、