まんだら第三篇〜異名19


あのとき感じた、神妙に引き締まりながらもどこかへ吹き流されてしまいそうになる安楽さが、どうした加減で発生し、わたしの胸のあいだに渦巻いたのかよくわからない、、、
それから二階から見下ろす隣の庭をいつもの平静で認める何気なさ、、、切迫した情況であった距離感を引き離した優雅な空想の源も、雲間から自若として照りつける日差しのごとく、手は届かない。間近で惹き起こされる悲しみに進んで耽溺してゆく行為を、片方の自分が冷静に見届けている。
いったい何に期待を寄せているのかさえ不透明な動揺は、砂時計がしめす無音の世界を思わせた。極度にせばまったくびれを抜け落ちる刹那に覚える、あの瑞々しくも鮮烈な手触りを醸し出さずにはいられない過剰な共感。それはまたモノクロームの映像が網膜に焼きつけられる際に想起させる、水辺にたたずむうら寂しさの裡にあった。
有理の心境をあやつり人形のように何よりも先んじてくみとってしまうのは仕方ないことであり、沈着な片方の自分は、こうして悲哀に染めあがる情感を維持させている脈拍をとめるわけにはいかない使命で、あらぬ対話を脳裏にこだまさせた。
「ごめんね、、、」
又ぽつりと囁かれて、美代はまっさらなノートに鉛筆書きしたときに知る甘美な失望を得る。
すでにわかっていた、いいえ情況を把握していたのではないわ、わたしが理解したのは、背後からのぞき込むように頷いているお人好しの映画監督みたいな歓び、、、かくれんぼや鬼ごっこと同じ性質をもった手放しの緊張感、それがいかにこじんまりとしていても幸い計るすべはここにはない。
望美が自転車の修理に出ていないと聞かされた瞬間から、美代は洞窟の入り口を目の当たりにし闇の到来へすべてを託し恐怖さえ懐柔した、ふたつの眼光を怜悧な指針とみなす遊戯に惑溺してしまった。
光は有理を宝石に仕立てあげた。階段で振りむかれたときは髪の毛がさっと突風に煽がれたふうにも映り、その偶然の裡に忍びこむように自分はいま異国の空気に取り巻かれていると嘆きつつ微笑して、寸暇に別れを告げる連鎖へと旅立っている余情を満たしながら、幾すじかの毛が黒目のうえを被い肌にまとわりつくまで遠近が曖昧な洞窟を駆け抜けていた。そして新たな輝きに包まれた。
待望していたのは確かに等身大の自分が変貌を遂げた写真でもあるのだけれど、更に欲したのは、そこから煙のごとく浮かびあがりこの世からはみ出してしまう純粋な想いであった。
美代の生霊を橋渡しさせる為に必要だったのは他でもない、成熟にはほど遠くまだまだ青みを留めている肉感を宿した、子供の目から見ても大人に成りきれてはいない柑橘類に直結する溌剌とした味覚だった。
それはいつの日か、有理の同級生らしき小太りでいかにもませた口調でまくしたてる、何回かこの家で居合わせたことがあるい女生徒から漏れた最後のひとこと、
「あのさあ有理、こないだのことだけどもっと詳しく教えてよ。とぼけてもだめ、いいじゃない誰にも話さないから。ねえ、したんでしょ、キス」
別に聞き耳を立てていたのではなかったが、有理の部屋に昇がいるかも知れないから見てくると、階下から声を出して呼んでもいつもながらに返事もしない弟を昼寝させるのに連れ戻すため、さっと小走りにしかも軽やかに階段を駆け昇った望美は、帰りはえらく足音を忍ばせながら美代に近づき、今さ、お姉ちゃんたら内緒話してて、それが、、、と言うより、目が笑ったかと思うと美代の手をとってもう一度二回へと今度は慎重にかまえている姿に圧迫され腰が浮きかけたけれど、そう執拗でもなかった誘いに「わたしはいいわ」と断ってからひそひそと会話の内容を聞くに及んで、瞬く間に顔面が上気していくのが意識されるのであった。
妹が言うには、中学を卒業するまでに体験するとかしないとか、どうも男女間にまつわる生々しい秘められたことに関する話題らしく、それで姉はどうもすでにキスは経験済みだとその口からはっきり聞いたからと、最初はおっかなびっくりに目線を下げ気味に喋っていたのだったが、段々興がわいてきたのか、去年の夏休み臨海学校の折、宵闇があたりを浸透した時分先生を囲んで行われた怪談にこころ奪われてしまった衝撃波の再来とばかり、話す方も聞く方も五感が研ぎすまされてゆくあの冷ややかな体温の下降にのみ込まれ、反対にどんどん上昇してゆく頬の熱さでからだは苛まれ置きどころを失ってしまう。
しかし、姉から放たれた矢尻は深く妹の喉仏に突き刺さり、その声色に異変をきたす頃には語感がまるで鐘の音のように響きわたって美代の胸に沁み入り、あるいは消化を司る機能が十全に役目を果たす自覚を得たときと同様なのだけれど、異なるのはどこまで入っても尽きることのない底なし沼に引きずられていきそうな予感であり、夜更けの家並みを眺める眼球に還ってくる孤独感を生み出してしまう浸透であった。