まんだら第三篇〜異名18


その一室に満たされている僅かな匂いは、落ち着きを忘れ、狐につままれてしまった美代のこころを見守る役目をそっと果たしていた。何故なら、同い年の望美が発散させるものに程度の差を見出す意味あいは、あくまで近場の半径で計られる駆けっこのようなものであり、そこには未知なる好奇が生まれる条件も、一瞬にして鳥肌を浮かびあがらせる異香も、あらかじめ聴要された馴れ合いで薄められた約束事によって決して湧き立つことがなかったからである。
予想外の地平が胸のなかにひろがる可能性は、どこまでも続くであろう線路が提供してしまっている負の側面、単調で凡庸な連なりに、見た目には余韻を残していくようでもその実あまり感興を育まない轍に似ていた。裏返せばやはり夢想を巻き起こす温度差が少なかったと云える。それだけ同年の感性は良くも悪くも隣どうしに並んでいたのだ。子供の頃はそうであった。
ところが年長からの知らしめはいつも未だかつてない魅惑の鱗粉を放ちながら時間のうえをすべって行く。目くらましにあったときに覚える不安と同居する興奮をついぞつかまえられないように。
その情況は例えば、親しくもないけれど学校内では見かける上級生がどういうわけか、鬼ごっこに加わっていてしかも鬼の役であることから来る得体の知れない怖さであり、ましてやいきなり塀のうえからひょいと顔をのぞかせる折に身震いをもって感じてしまう、圧倒的な醍醐味、そう極めて上質な遊戯を味わうひと時などであった。
幼なごころに弾ける豆鉄砲みたいなよろこびは一見たわいもなかったが、ある定理で運ばれている。他でもない、年齢差が算出する未知数への挑戦であり、それはまた絶対的な直線に物差しをあててみる現実性に培われていた。大人になればなるほどに、言い方を変えると、ときの過ぎゆきを体験すればするほどに濃密だったはずの世界は希釈されてしまい、ぼやけた分だけ随分と無理してまで修正しようと躍起になるのが当たり前だと信じ込んでしまうのだけれども、小さな躍動のうちには紛れもない凝縮された無垢なる時間が燦然と輝いている、その明るさに気がつかないのはもちろん罪なことではない。
明暗がこころの奥底に映しだされる年頃にはじめて異性を意識しだすと云うことはある意味理にかなっている。彼らは光輝が放たれている現実に罪を被せて、あまつさえその場所が禁じられた花園であると見立てるすべを学習するからである。
ここから色香にまつわる感覚を差し引いてみれば、おのずと純粋な培養は陸離として年少期に沈潜しているのが分かるだろう。肉体の発育がどの世代に比べて急速であるにもかかわらず、こころの発達は一番の感受性を萎縮させることをもって豊かな想像を育成してみせるが、思いの他それは偏狭な羽ばたきであり、矮小な空間を押し出す単一な作業なのだ。
美代は当然年上の有理に惹かれたわけを明確に知る由もなかった。ただ、幾らかひとより感性の伸縮が自在であって、無論ゴムのように陽気な一面を持ってはいるけれど闊達な性質とは形容し難い、詳細は見通せない形が定めにくい模様以前の白雲であった。それゆえ有理の空模様に流れゆく運命をひたすら願っていた。美代が信じていたのは、戯れと運命が別れ別れになってしまうことを疑わない眠れる宝石だった。
「やっぱり明かりつけなかったからはっきりしないけど、ほんとうはね、ぼやけたふうな具合に写らないかなあって思ってたの。よくあるじゃないブロマイドとかに。そうすると美代ちゃん、もっと大人びて見えるんじゃないかって」
有理のうしろを影のように付き添いながらこうして物おじしている気持ちさえ曖昧になりつつあったのか、出来上がった写真を手渡さされるまでの間、視界に入っていたはずの場面はすっかり止め置くを忘れてしまったようで、やはりこの部屋から香っている言葉に出来ない印象のなかをさまよっていたのが、長い時間であったふうに思われる。当惑がやんわりとごまかされたのは追い風にあおられたそんな嗅覚の為せるわざであると、ぱっとよぎったりもしたけれど今度は意識が別のところに張りつけられている実際は、ちょうど喚声に驚き窓の外をのぞき見る衝動と同じく無意識のうちに稼働し、楽し気なのか、切実と問いかけているのだろうかよくつかめない有理の感想が次第に説得力を帯びているように聞こえだす。
「どうしたの美代ちゃん、気に入らなかったのかなあ」
「そんなんじゃなくて、、、」
有理が心配な顔をつくりしみじみと見つめている視線がじりじりと熱気を持ち始めてしまったと、気にかかり、返答に窮している自分がどこか惨めであるとも思えてしまい、写真に収められた異相に向かいあっているのに互いの意識は宙ぶらりで、増々別のほうへと泳ぎだして収拾がつかないまま、頬から発火した火照りが耳たぶまで類焼してゆく様を思い知らされるのであった。
美代の羞恥をどう解釈していいのか、それからどう対処するべきなのか迷ったあげく、
「びっくりしたんでしょ。ごめんね」
そう、腹の底から浮上してくる想いをことさら優しい声音でもなくさらっとしたふうに口にすると、まだふたりして畳にも腰をおろしてなかった性急さに気づき、寛容な態度を取り戻そうと念頭にのぼった省みは、有理自身も予期してなっかった行動へ移されてしまった。
「お姉ちゃん、、、」
胸へ抱え込んだ斜になった美代はすでに涙声になっている。立ちつくしたまましっかりと両手をまわし妹と同い年である子に悲しみをあたえていることが、夢の出来事のように思えてくる。
有理の胸もとの弾力は自然とその悲しみを深めた。美代にとってもそれは説明のつかない甘い香りに包まれた夢であった。