まんだら第三篇〜異名9
穴があくほど美代は今日はじめて目の当たりにした有理の顔をうかがったわけでもないのに、自分の家に帰ってから夕食をすませた後母と一緒に銭湯に行った際、ちいさな背中を流してもらいながら湯気でくもりかかった鏡に反射するおさなげな表情が、より頼りない造作で目鼻だちを並べてあるように思え、いつものことながらこうして母にからだを洗われている無防備な体勢によくわからない羞恥が浮き上がるのを、なぜかしら躍起になって打ち消したい焦りが意識を別の居場所に案内させたのか、それとも総タイル張りの浴室に反響するほかの入浴客の声や、気持ちいいほど軽やかなそれでいて不意をつかれたときのとまどいのように風呂桶が床へカランと響く音がおもわぬ居心地のよさを提供させるためなのか、湿り気に濡れた鏡にしたたる汗となったしずくが悲しげな風情をつくりだし、美代の面にゆっくりと重ねあわされるふうにして有理の笑みがあらわれた。
驚きを隠すすべもない美代は振り返ることさえ自分の胸中を母親に悟られてしまう気がして、ゆっくりとかぶりをふってさも石けんの泡が目許にしみる素振りで、そっと鏡に映る母の裸身に目をやった。最近、少し小太りになってきたと子供ながらにも一抹の感慨がもたらされる以外母のすがたに特別な興味があるわけでもなかった。だが、さきほどふっと霧のむこうに面影が見え隠れするよう出現した有理の微笑みから素早く追想される混濁したものの正体を見極めるには、この場がふさわしくないのはかねてより夜具に包まれた安寧と眠りの世界がさしせまっている闇夜の懸念が錯綜する就寝前が何かにつけ最善であると信じていたことで、美代は恋するものが忍ぶところはたえ忍ばなくてなないらいと云ったメロドラマによくある様相を型どうりに理解した。
「美代ちゃん、はい、じゃもう一回あったまってからね」
いつの間にやら洗髪まで済まされてしまったときの過ぎようを不思議な感覚ではな至極あたりまえとしてとらえたことが、なぜやら誇らしくもあった。
春の夜とは云え、日中との寒暖のひらきは罪深い火のしもべがこらえきれない情念を世のなかにさらけだしているように、その夜が底冷えしたことがかろうじて脳裏を巡ってくるだけで、しかもこの病室からでも体感出来そうなくらいここ数日が同じく春先とは呼ぶにふさわしくない気候であることのほうが、反対にあの幼少時代の記憶を裏打ちしているのか、美代にとって残念ながら明かりが消された畳部屋に連ねる両親の布団が敷かれた箇所が読書灯のぽっとしたともしびを見届けたどうかすら危うい記憶の貯蔵庫に、かの想い出は眠っていない。
初見の印象を追い求める意想が、かたくなな意志と云うよりもあくまで形式上のこだわりによって善くも悪くも脅迫的な記念碑を打ち立てようとするちからに誘導されているのは、まさにひとの業であろう。
現在から振り返ってみれば、映画のプロローグに似せたい心情が発生するのも首肯してしまうところであるが、いまは養生に専念するため日々の生活から解放された身、クライマックスが伏線なき切り取りで再生されるのは興趣に欠けるであろうし、何より時間の住人であることを避けて通ったとしてもそこには、たくさんの忘れものを残してくることが懸念される。細部にまで追想の手をのばし続けるわけではなく、もっとも強烈な体験や感情が織りなす綾をいま少しだけひもといてみるのも無駄ではあるまい、、、
美代のこころはすでに決定された脚本に忠実であるよう、こうして手鏡を慈しむまなざしで過去のなかへと旅だってゆくのであった。
「ねえ、そうそうこのあいだのお祭りの日、お話は出来なかったけどお互い気づいていたわよね」
「うん、有理姉さん、わたしのほうじっと見てたから、ますます緊張しちゃった」
正月を越し、毎年催される二月の祭礼の最終日、海岸線から幾筋か隔てた古くからある街道沿いに主のこどもたち主体の手踊りがくりだされるのだけれど、今年で連続三回目の参加となった美代の七五三以外では施されることのない念入りな化粧すがたに毎回、感嘆の声をあげるのはものの見事に年かさの順であり、まずは待ちかねた気持ちを押さえることなく満面に笑みをたたえながら、ほんとう美代はこうしてみると将来たのしみなくらい可愛らしいね、と祭りに集まった孫をもつ老夫婦ら誰もが紋切り型に口にする褒めことばが円満にささやきだされ、続いて両親、わけても母がおさな子を見守る目のなかに同じ女性としての野性味さえ匂わせるような、
「美代、お化粧すると一変するわね、お母さんも若くなりたいわ」
などと、我が子でありながらすでに失われてしまった自分の思春期あたりを相当、胸裏に呼びよせるのか大きくため息をひとつついて見せたりするのだった。父と兄とは美代が祭礼に初参加したおりこそ、目新しい発見を求めるような気概でありあまるよろこびを託してしたのであったが、父は青年部の寄り合いの酒盛りやつきあいでそうそう美代を見守り続けているわけでもなく、久道と云えば生来からの出不精なのかひとの集まるところが苦手なのか、家でみんなを見送ったあとはひとり読書に耽ったりして、やはり兄妹の距離を律儀に保っていると呼ぶのは、それは褒め過ぎなのかも知れない。
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