まんだら第三篇〜異名8
夢ごごちのなかにほんの少しだけ、留め置きした感触を美代はどこから招きよせたか思慮するのでなく、その淡い色合いをもつ薄紙が漉かれる優麗さのためらいすら洗いながしてしまう親しみへと静かに呼吸をあわせるようになすがままであり続けた。
まくらもとから差し出された両の指先が、感ずるままにそれが人先指と中指であることを察知しつつも、とても軽やかな触れ合いをもって美代の閉じられたまぶたのうえに添えられる。かすかな肌触りからその手の持ち主が妙齢の人物であることを覚らせたのだが、夢うつつのなかではそれが母である可能性は等閑に付され、と云うのも正直親密さにおいては隔たりがある兄の存在が、姉妹への見果てぬあこがれになって巣くっていることを日頃より、同級生の幾人かのうち兄久道と同じくらい年齢差がある環境に出会ったこともあって、兄妹とはまるで接触の異なった話ぶりや互いの表情が投げかられる様子に名状しがたいうらやまさを禁じ得ることができなかったのである。
夢からさめてみてからもふさがれた双眸に映った面は、確認されることは遠い過去の情景を想い浮かべる模様となって、わずかに相手が微笑とともにこぼれ落としたような好意をあらわにしたことばになる以前の声色だけが残さただけだけれども、美代自身これは錯覚と云うより実感に限りなく近い感情を呼び起したに違いない、わたしが男性であったならこうして残り香となって漂っているうら若い女性の思慕がとてもうれしい、と云った気持ちがまるで鮮烈な積雲となって蒼穹にひろがっていくのだった。
まだ幼少の美代にとって、もうおとなに成りかけている体つきや、女性特有の甘い香りがそれとなく発散されているかぐわしさへの憧憬は、ただ単に信頼を寄せる対象として年長の同性であるばかりでなく、当人もやがては成長してゆく過程を先まわりして捕えてしまいたい念いが隠されているのだろうが、それだけでは当てはまらない情感の起伏でおおきく揺らぐ要因まで堀り進める意欲はまだ封印されるべきものであり、また見た目にも明確な彼女らの胸の隆起にときめきを覚えることに恥じ入る心持ちさえ滲み出してくるのが、どこか落ち着きの悪い恐れとなったからであった。
初潮を迎えるまで心身の発育も十分な余裕のときの過ぎ行きのなかにあった美代は、むろん生理の仕組みさえ想像しがたく、ましてや男女のあいだに生まれる恋愛の心中もテレビ番組で展開される物語を文字道理なぞるにすぎず、絵本のなかに大仰で描かれる王子さまとお姫さまの結びつきにも官能的な夢想をいだくこともない。想像力を喚起させることにおいては兄のあの謎めいた幽冥譚などからの刺激に満足しているわけだけれど、語り部と化した兄本人が魅惑を全身から発しているのでなく、あくまで彼の聞かせる不思議の数々に共鳴するだけであって、どちらかと云えば普段は無口な久道の存在は、気分本意に饒舌度をたかめる随意さでもって割合を定める結果となり、美代の気分を軽減させてしまう始末であった。
それが毎日顔をつきあわせる馴れ合いで生じる鮮度の低下にせよ、およそ世間を知らない美代にとってみれば仕方のないこと、よその家の姉妹を観察すると云うよりも、我が家とは別のところにいまこうして足を踏み入れている興奮を受け止めているのが精一杯で、最初のあいだは他家のたたずまいや建具、美代の生まれてくるまえから匂っていただろうと想起してしまう土から立ち上っている生活の異臭とも呼べる、だが決して不快でない独自の空気が部屋のつくりや目にはいる調度類や飾りものの珍しさと相まり、次第に意識しだしたその家の姉との接近がもたらす、新鮮な胸中のたかまりは徐々にかたちをあらわにし始める夜目にも映える花影となった。
同級生のなかでも特に最近親しみだした山下望美のうちには幼稚園に通っている弟と中学三年になる姉がいることは以前より誰に聞いたというわけでもなく知っていたのだが、はじめてここを訪れた去年の暮れ、姉の有理もまた冬休みで在宅していたのだろう、玄関先から突き当たった廊下の先で受話器をとりながら、勢いよく戸がすべったほうに自然と目がいったというふうな顔つきを見せると、やや遠慮がちな仕草で妹のうしろから一歩遅れてきた様子で見知らぬすがたを判別しようと務め、あの不意の遭遇にありがちな怪訝な目線を送りだしてしまってから笑みを作り出すまでの一瞬、あたりまえのように美代は当惑を感じたのだけれど、電話を中断することなくさながら話相手に投げかける笑顔がこちらに向けられたのを、同級生だけではなく自分にも分配されたのかとまぶしい光源を見つめる思いで軽く会釈したのが、あのころからしてみれば随分と大人っぽく見えた彼女との出会いであった。
「あら、おかえり」
有理の目許は判然としたことばを宿していた。
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