まんだら第三篇〜異名7
木枯らしが目にしみるままの冷たさは、多少の違和感を差し出ているとでも云う愛おしさの忍苦に逆に守られている。小学の二三年へあがる時分には、ひとり家路をたどる足取りにも習慣から案内されるのか、ひっそりとした分別さえ備わっているのでないかと思われる心持ちが波状をもって従容と充たされていく。それは見慣れた通学路の並木に照りつける光線の、いつもとは色合いが違ったようにも感じられる彩度が決定権を揺るぎないものに定める強引さであるより、もっと微弱な、おそらくそう勢いもない向こう風を身に受けるときに覚える、ほどよい刺激に親和が呼び起こされるあの透明な感情が胸の奥底に沈んだままの柔らかな質感によった。
木々の枯れ葉を、燻ったかわら屋根の背景となるべくして青みを増した空模様を、庭先の茂みとの隔たりをさらにかけ離れた空間へ位置づける縁側を、経年によっておおらかに朽ちかけてはいるけれども、雨樋をつたい流れおちる雨水がまるで濾過された純然と澄んだ清らかさを想起させるよう、通り過ぎてゆく見知らぬ家屋の風情が見慣れたはずの印象を変化させてしまう不思議をはぐくんでいること、眠りのなかに入りこんでしまいそうになる安心感に包まれている落ち着きは外の世界がまだまだ無限大なひろがりであることを脅威として知らしめるのではなく、毎日の天候がその加減によって刻一刻と新たな光景を鮮明に描いてみせてくれている。
すべては偉大な単調さのうちにあるのだからと念いは、確かに目にしみいるのであった。
雨上がりのしずくが草木を濡らしたままのすがたである続けるのを、どこか陰にかくれて気ままに望んでいる意志のようなものは、目立って眼前にあらわれるのはなく、夜露が早暁に眠りをさまされるふうにあくまで抵抗を如実に指し示さないことで、隠れ蓑はごく相応に嫌がる素振りもみせないまま季節のさきへとその身を投げ出している。
美代は四季が織りなす町並みの移りようを描いてくれていた年少時に想いを馳せるとき、同時に風に巻き上げられた土ぼこりや、塀をのりこえ顔をのぞかせていた果実が香った印象を銀木犀の放つな甘い芳香とともに攻め上がってくるのだったが、その濃厚な記憶を明確につかみとることがもどかし気に意欲の淵へと消えていく失意をどうすることも出来ないままに、いや、正確には記憶の輪郭をたぐる寄せる意味を見出せないからだろうし、実際においての鮮烈な嗅覚の方こそが明確に追想を補強するのであって、やるせないうちに時間のうしろへと流れさる車窓の情景みたいに、醒めた視線が配置されている現実にたいしてそれほど感傷を捧げるまでもないことを、薄葉の手触りのように理解していた。
だが、五感をゆさぶる指先とも云える想い出の目線の彼方には、その薄くはかない紙質をかすろうと務めるもうひとりの自分がときの住人である決意を穏やかに保持し続ける陽炎となってこちらを見返している。
美代はしとしとと朝から降り続けた薄暗い天候が家のなかまで入りこんでいた、春さきの小寒い昼さがりの場面に音もなく落ちていった。祖母がひとり縫いものをしながら留守番しているだけの、普段でもありがちな一日ではあったのだけれど、南に面した硝子戸からもらい受けるくぐもった明かりを頼りに手先を操っている置物でもあるようなすがたが部屋の端に鎮座している様は、一室を変貌させるに必要な条件をさり気ない手つきで添えられたに違いなく、電灯が活用されるまでのひとときをいま過ごしているのだと云う、やはり静かな気配にひたされた明暗がかもす雨空に圧迫された空間がどこか間延びとも似た不確かさで広々としており、開け放たれたふすまの脇に備えられている仏壇のとびらのうちの奥行きもまた、遠いところへと通じているありようを地に這う深い鉛色の絨毯の如く漂わし幻惑させた。
きっと兄ならば「それは異界に向かってのびている門構えなのさ」などと言い出しそうな勘ぐりも閃光に近い邪心のなさで呼びだされる。
祖母は生来闊達な性格で、むろん末娘である美代に小言はおろか、しつけがましい物言いをした試しもない猫可愛がりの情愛にくるまれていたからであるのだが、足腰もしっかりとし雨天でなければ近所の老人仲間のもとを訪れたり、旬の山菜やときにはバスに乗り込み浜辺まで潮干狩りにと精を出すくらいの気力を維持していたのだけれど、今日みたいな薄暗い虚空に寄りそう様子で黙々と手芸に埋没している雰囲気は、老齢そのものが別段意識するまでもなく薄日にひっそりとすがっているようにも感じられ、さきの兄なら端的にあらわにした言葉がはらむ、それはすぐ近くの仏壇の暗闇の奥や、墓苑の石碑、砂底深いなかに想いをめぐらすことへの本能的な、もしくは自分自身を呪縛せしめている禁句が発令する永遠にたどりつくことが不可能な領域へと連れ去る磁力を察してしまうゆえんであったなら、、、「天候に罪はない、そんなひっそりとしたあの昼下がりが甦ってくるのもわたしのこころ模様のなせるわざ」
美代はつらつらを思念をめぐらしながら、どうであれ少しは気味の悪い場面ではあったけれども、あの寂寞として一種、日々のときから取り残されたような、鈴のねが遥か遠いところから鳴っていたような、桜も散りさった気候にしては肌寒く、薄手のカーディガンがほどよい温もりを与えてくれたやすらぎを忘れてはいなかった。
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