まんだら第三篇〜異名6


夢の断章はときと云うしおりをいともたやすく抜き出し見開かれるべき光景へと連れさる。
普段着の高森を想起させた求心力はどこから供与されたのか、美代には漠然ながら頬の軽い火照りのように理解出来た。おぼろげな意想がくもり硝子の不透明さのなかに実相をとめ置くように。

めくられる頁のさきはすでに夢の彼方であった。おそらくは中学生の風体を持ちながらも高森はおとなびた素振りで自宅で調理をしていた。その場に美代が来訪していたのか、実体を伴わない浮遊する受動器だけがその一室を眺め彼の言葉を耳にしていたのかは把握することは出来ない。だが夢見た当人である以上、その見聞は美代が引き受けるしかない。
「いつもそうだよ。夕飯はぼくがこしらえるんだ。父ちゃんはぼくと同じでからだが弱いんだ。母ちゃんは仕事で帰りが遅いし、うん、慣れたもんかもね」
相当古びた平屋の家屋、土間からわずかに離れている台所で腕まくりをして包丁を上下させている高森の表情に陰が見出せないのは、低い天井から勢いよく放たれた裸電球の地下室をも照射させるやや黄ばんだ強烈な明かりの仕業だと感じた。ガス台には大きめの底厚なフライパンが置かれ、今日の総菜らしき魚のぶつ切りと皮つきソーセージが、まな板上ではなくステンレス流しのなかで無造作に切り刻まれている。
「この方がさっと洗い流せるから」
問われるまえに自ら悪びれた様子どころか、気楽さを謳歌する口吻で説明してみせる横顔にもまぶし気なくらいに電球が反射しているのだが、やがて奇態な調理法がいよいよ仕上げにかかったころには、光線が直裁に高森の顔色はもちろん食材や台所あたり全体を浮き上がらさせる情景に一抹の忌諱が滲みはじめ、それと云うのも魚とソーセージはだし汁のようなもので煮詰められているさなか、おもむろに戸棚から取り出された食パンがそのフライパンに放りこまれたのであり、ここでもすかさず弁明の物言いなのか、
「こうやって煮たほうが手間もはぶけるし」
と、飄々とした表情を損なうことなくぽつりと自身に言い聞かすようにもらした語感は、おそらく本人の思惑から隔たりをみせ呪文を思わせる効果をまわりに及ぼすと、夕餉の仕度が完了した安堵がもたらす日々の疲弊は言霊に憑依されるのか、美代の胸のなかに気まずさを含んだ言いようのない憐れみみたいな感情を植えつけ、煌々とかがやく天井からぶら下がった裸電球のかさに遮られてしまった仄暗い壁の上、黒かびを思わせる暗部へと視線を這わせた。
夜の気配が玄関を通り抜け、この家屋にも漂いはじめたのを感ずることは、他人の居住まいを容赦なくよそよそしいものに仕立てあげ美代のこころは次第に不安感がつのりだし、得体の知れないものに対する恐怖心で充たされはじめる。そんな気持ちを察しているのか、高森はふすま一枚隔てた部屋に病臥しているらしい父親に夕飯が出来たことを事務的に知らせると同時に、さきほどから恐れを抱いている明かりが遮断された壁に向かって指を差し、
「これ知ってる。『クリムゾンキングの宮殿』とジェネシスの『怪奇骨董音楽箱』中古で買ったんだけど」
なるほど、LPレコードが帯付きの状態で天井間際の壁にかけられている。そのさきの高森の言葉も仕草も脱落し、あるいは忘却の深淵に眠っているのだろう、そして実生活のおいてもあの夢以来、彼と会話をかわした記憶はない。
ただ、不穏な雰囲気に立たされたにもかかわらずそのLPレコードを差し示されたときに、このひともこんなアルバムを買うんだと、胸に巣くっている振り払ってしまいたい念とは別のところで、妙に感心したと云う事実である。目覚めの瞬間に拭いきれない眠気にからまるようにして夢の世界から顔をのぞかせたのも最後の印象、忌まわし気な緊張を払拭してしまったとも云える、やはり楽天的な風貌であった。
「移ろったのは高森くん、あなたじゃない。あなたは正直すぎるくら馬鹿正直だったわ。身勝手に解釈したわたしのこころがどこかをさまよっていたと思う」
夕飯後、高森は早々と寝てしまうと話していたことがあった。そして早起きであることも、、、
「もう一度あの夢のなかに行くことが出来れば」
薬が効いてきたのか、まぶたが重く感じられそのままいつもの眠りにつきながら美代の目は潤いを慈しんでいるのだった。