まんだら第二篇〜月と少年45 意識の連鎖はふとした弾みで断たれたと云うよりも、それが必然の理であるように過去は隠れ去り、いまここに未知なる映像がときの支配から愛でられながら孝博を包み込んだ。 湿り気を十分に含んだ磯の香りが泥にまみれたふうな、不快でもないが決して好ましいとも感じられぬ臭気があたりに沈滞している様子が、夜目を通せない視界以上にこの川底から連なる河口を呼び覚ましたようにも思われる。川の流れはどこまで続いているのか、、、やがては海水を交じりあうことで、希薄される運命にあろうとも水の精は広大な海原に拡散し、あらたな潮流へと導かれることで自由を得る。 膝上深く水面に佇んでいるはずなのだが、その感覚は孝博を拘束することなく、濃紺が夜気に溶け込んだような水流の暗色な色合いだけが、しっかりとこの目に映りこみ、それ以外の気配や光景は遠方へと後退したか、遮断されたか、ただ呆然としたままその場から身動きはとれない。 エンドウなる男の言ったとおりに魚の小さな群れは、まるで静寂を損なう気兼ねでもしているのか、勢いを抑制したまま、水中からほんのわずかの跳梁を試みはじめている。川水と夜の帳でその色調もまた鈍色に施され、見ようによっては細長い石つぶてが跳ねているようでもあった。 右隣にそっと影を落としている男に孝博はこう質問してみた。 「それであなたは転落した姿を追ってここまで来たと言うのですね。しかし、今はわたしにとっての領域だと確信しているわけですが、どうでしょう、ここから出たあと、再びあなたとお会いすることは可能でしょうか。そして、、、」 「そして」 「確かめてみたいのです。エンドウさんが可能性を確認しに来たように」 するとエンドウは微少とも苦笑ともつかない、いや、それらが共存したと形容したほうが正しい具合の表情を作りながら、 「そうですか、わたしはエンドウヒサミチです。あなたのお名前は」 「はい、わたしは、、、」 さぞかし狼狽しきった反応を予期しながらも、孝博は何故か、火に焙られた紙きれが見る見るうちに燃え尽きてしまうのを、悔やみ焦りつつも、どこか覚めた気持ちで見届けてしまうときの諦観に促されるまま、 「すいません、自分の名前がわかりません。誰かに呼ばれたらきっと、、、」 父親であったこと、教授であったことなどの記憶もおぼろげになりつつある。一匹の魚が不意に左のほうでわりと大きな跳躍で水音を立てた。 気はつけば、問いに対し簡明な返答と予言を告げた当のエンドウの姿はここにない。振り向いてあたりを見遣ることももはや必要ではなく、孝博はひたすら前方に視線を固定したまま、魚の群れが集まりだすのを、祭りの提灯が寄り合う際の、あのぼんやりした恐怖が胸になかに訪れようとする予定された、しかしどこかで異形のしるしが形作られる望みともにじっと待ち続けているのであった。 どれほどのときが流れていったのだろう。意識は極度に明晰であることのよって、間隙の存在を意識的にちょうどふるいにかけるように見落としてしまう。純化物を前面に引き出す使命に忠実であるあまり、あみの目の役割さえ忘れてしまった愚鈍さのうえに、ある意味精選された恣意がとり残されるのである。 夢の世界では定則と云えるこの放埒で無軌道な過ぎゆきは、扇のひだに潜まされた荒ぶれる情念を思わせ、ひと振りの刹那にたち現われてはかき消されるはかなさで、幽かな余韻だけを夢から覚めたあとに運んでくれよう。複雑な夢見であったのはこの扇のなせるわざ、見果てぬ情念を封じるためにたたまれるのか、はたまた、物語りを流暢にそして鮮やかに演出させるために禁欲的なはからいがもたらされるのか、すべては夢の意想、全貌をあらわにすることなく隠される。 それは雪おんなの面影のごとく冷淡でありながら、凍りつくほどに美しく、そう、欠片とも云える他の情景はまさに瞬時にして凍結された想い出だったのかも知れない。 さて、孝博のこころ模様も超俗にしたがい変化を見せていた。無論こと定則など事情を知るよしもない、反対に彼の胸中に高まりつつあったのは、地獄図絵にも見まがうだろう水死寸前の富江の様相から受けるおぞましさが、それは腐敗する人骨が放つ、根源的な忌まわしさを連想させる圧迫感を備えているにも関わらず、朽ちゆく悲哀を永久の彼方までたなびかせることなくとどめ置かれることで、そこに魂の所在を感じとったとき、あたかも腐臭の素をなす粒子が散々と黄金色にきらめく霧状の放出に昇華されながら、無言の裡にも、孝博を怨憎会苦から解放してくれる予感であった。 |
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