まんだら第二篇〜月と少年46 出現などと言い表わすには現実味から遠く、夢見のなかではあまりに近距離であり、ちょうど飾り棚の人形を見つめるなまなざしが、そこに生身の生命を見いだそうとする幻視のような仕掛けであったならば、半身水中に没したままの浴衣のなりはまさしく実在しつつ、霧にさらわれた神隠しの少女であった。 なるほど、いつぞや聞いたように確かにボラの稚魚らしき群れが川面を飛び交いながら、富江の面をかすっているようでもある。その目はちからなく垂れた首の角度に沿うようにして、閉じられたまま水流をまぶたの裏でとらえているのだろうか、抵抗することなくほとんど横倒しの情況からは、如何にも虚ろなからだを浮遊させているふうにも判ぜられ、こころなし川の流れはもうこれより速まることも、深まることもなく、ただ夜が明けるのをそっと待ちわびているのだと、確信に近いものを得た孝博はもうこれ以上ここにとどまる理由を探し出すことが出来なかった。 あれほどまでに疑心暗鬼がはびこり、果ては決死の覚悟まで抱いたことが霧散し、と同時に瀕死の状態である人間を救いだす算段もないまままに、、、もちろんこれは、孝博の意志とは別のところで大きく働いていることを認めざるを得なかったわけであるけれど、朦朧としかけたあたまのなかで意識を保てるのは結局、己の想像が編み出した怯懦と自虐的であることに債務を委ねた証しであったなどと、蓋を開けてみれば興ざめ甚だしい帰結へと降りて行っただけであった。 「そうさ、俺が彼女を転落させたのかも知れないけれど、そこには因果や縁起が介在していたのかも知れないけれど、もう俺の手からはすべて離れてしまっているじゃないか。それともこうして夢の奥深くまで迷宮をたどるように彷徨っているのは、いまだ因縁から解き放たれていないことを自覚するためなのか、、、それほどまでに罪深いというのか、、、俺は破戒僧なんだ、、、ときがときならば。だが、それがどうした、俺はそんなときに生きてなどいない。現代を生きているんだ、、、いや、違う現代を夢想しているんだ」 列車がトンネルを抜けた瞬間、気圧の関係だろうか孝博は夢から覚めたことを実感した。しかし、ため息のような声を軽くもらすと再度、目をふさぎ夢の連鎖をたぐりよせ、口角にやるせない笑みを浮かべる調子で、呼吸を静かに整え死の国へと旅だつ心構えを了解した。 車内は幾分騒がしくなっている。彼が向かっている駅が近づいてきたようで、乗り合わせた中には同駅に下車する者もけっこういるようだった。孝博は気にとめなかった。「あっという間さ、夢の補遺は」 閉じられた目の裡に再び夜の川が流れだすよりさき、くだんの、ほんの束の間に嗅ぎとったあの不快ささえ懐かしさを醸し出す磯の香りが鼻孔をくすぐり、河口のさきに広がる港にたたえられる海面が波打ち揺らぐ様は、車両の振動と重なりながら満ちゆく潮のリズムに誘われ、いとも簡単に河口を飛び越えて岸壁に寄り添うようにしながら海上へと魂を流し始めた。 上空で爆音が響いているようだが、父や親戚筋から幼いころ聞かされた空襲のはなし、、、そんなことを呼び起こしつつ、海面から頭上を仰ぎ見ようとしてみたのだけれど、やはり顔を整える余裕が足りなかったのか、耳より他は孝博の面には何ひとつ存在していなかった。 「でも、この臭いはどこからやってくるのだろう。紛れもない潮の臭い、転校先の漁村で迎えた第二の少年時代。潮騒が夜になると際だって聞こえだし、夏の蒸し暑い時節には、いつも鼻先を漂っていった海の香り」 孝博はしばらくして納得した。それはこの体内の記憶から発生しいていることを。そう思うと涙がこぼれ落ちそうになった。しかし、悲しいかな、涙を噴出させる涙腺も眼球も持ち合せていない。仕方なく海中にもぐりこんで見れば悲しみは一気に鎮静され、今度は息苦しさを覚えてあたまを海面に突き出したのだが、そのときぼんやりとしたひかりがほんとに遠い遠いところで鎮座しているのを見つけたような気がした。 それが月あかりであること知った瞬間、孝博の目は完全に閉ざされたのであった。 |
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