まんだら第二篇〜月と少年44 放心から覚めやまないままに孝博は己のいきさつを語ることより、エンドウと名乗る男がその超常現象とやらでここに存在している理由を欲した。 「わかりました。魚たちが飛びまわり始めるには少し時間があるようです。あなたの探している女性もそのとき見いだせるでしょうから。お話しましょう、この場にこうして居るわけを、、、」 エンドウの言葉は、漂白され糊付けされたシャツのように端正で邪気がなく、見渡す限り整然とした配列を乱しはしない、一貫した秩序によってまっさらな潔癖で紡がれていくようだった。 自ら運転する走行車のサイドミラーに映じた転落する浴衣姿、幻覚とは言いがたい確信を裏打ちしているもの、分析心理学者らが秘められる意味を再構成してゆく行程より遥かに優れた解答へと導かれるはず、それは偉大なる力によって了解される。ここに佇んでいること自体が、そうしてこうやって明解な論理を伝達出来ることが証左となっている。 確かに超越者の存在、それはこの星以外のところから訪れると聞かされても、容易には信じることが無理なのは仕方があるまい。しかし、いくら文明が発達しようとも科学が進歩しようとも、この天空をつきぬけて無限大にひろがっている大宇宙の神秘にどれだけ肉迫出来ると云うのだろうか。個と個は断絶した入れものでしかないなどと云う考え方は、所詮矮小に定義された民主主義的なうさぎ小屋でしかなく、その精神はまさに進化を肯定し認知する一方で、不確かな領域への足踏みをかたくなに拒んでみせる。それは安住を得たいが為の方便に過ぎない、何故ならばいかにも肥大した情報社会に生きるすべを身につけようと躍起になったところで、その情報自体がちょうど巡回する海流のように、めくるめく季節の到来のように、信頼と安寧で保たれているから。真に貴重で重大な情報など一般社会には決して流布されることなどない。 歴史の隠蔽は突然変異体の発覚を怖れるが故に、われわれの目のまえからあらゆる革新的な事象を消しさり、緩やかな進化と約束された未来を提示してみせる。例えば地球外生命体の確率を推定した「ドレイクの方程式」は一見数式を踏まえた理論であるが、銀河系における恒星惑星の計量はさておき、そこからなしくずし的に展開される独断とも云える思弁は決して綿密なものではない。あくまでも仮説のうえの仮説に過ぎないのであるなら、せめてそこにより豊かな可能性を希求する精神を芽生えてさえてはならないとは言えまい。知的生命が有する星間通信手段が光速の域を脱しえない理屈そのものを疑ってみる、つまりは現代物理学の成果とは別の位相で宇宙をとらえなおしてみれば、おのずから人類科学の限界を知らしめる嚆矢となろう。 個と個は断絶などしていない。山川草木にいのちが宿り、そこから様々な生命連鎖がくりひろげられ、言葉なきゆえにわれわれは直接コンタクトすることが出来ないけれども、大いなる力はすべてを熟知し、言葉が抱える矛盾を解くことを知らしめてくれる。それは夢のなかに送られる真実のメーセージなのだから、秘められたものを探りだそうとか、新たに意味を付与しようとなどとしてはいけない、ただ、耳を澄ましてひたすら受信機のように待てば、むこうから顕われてくるのである。 「ではあなたは、何が目的でここに」 「確認に来ただけです。能動的夢想による超越で示される可能性を確認しに来ただけなのです」 孝博にとって多少は腑に落ちない論旨ではあるし、随所にさながら焼き印をあてているかの飛躍した思考に違和を覚えながらも、実際こうして夢見を通して、顕われてくるものに向かいあう態度には共通するものがあり、宗教学者としても、彼が抱く天上への深い憧憬は理解出来る範疇にあった。そもそも超常現象と宗教は切っても切れない紐帯で固く結ばれているのではなかったか。 仏陀入滅後、数十億年後に姿を見せる弥勒菩薩も、その気の遠くなる年月が授ける異相も、遥かかなたの星雲から人智を越え飛来する宇宙人のような尊厳を備えていればこそ、崇拝の対象として連綿と伝えられたのだ。 気休めにも似た、いや、不思議な親和が胸のなかで温かくひろがってゆく安心感に身をまかせようとしたのは、エンドウなる人物に出会ったことに違いないのだが、それでも孝博にとっては彼は不埒な闖入者であった。だが、そんな男を追い払う理由はどこにもない。己の陰に浸透し、私論を披瀝してくれたこの来訪はとてもこころ強かったからである。他者であろうと影法師であろうと、もはやそんなことに拘泥することもあるまい。「個と個は断絶していない、、、」 「さあ、魚たちが水面をはねています。そのさきにあなたの探している姿が見えるはずです」 エンドウの口調は、運動会のかけ声のように勇ましく楽し気であった。 |
|||||||
|
|||||||