まんだら第二篇〜月と少年38 夜の海からゆっくりとわき上がる、落ちつきに満たされ出した気分にひたろうとする刹那、忘れかけていたもうひとつの感情が静かに、まるで足音をしのばせたかのような慈しみをもってこの胸のなかに浸透してゆく。 美しい音色でこだまする幽かな旋律は、思念においては捕らえようもない、不穏な気ままさと気高い曖昧さに包みこまれているようでその正体を見定めることなど及ばず、ただ夜目に映りこむ安慮で予感された気配に静謐な調べをささげることによって、はじめて世界の輪郭線がとけだしていることを知るのであった。 孝博の意識は眠気を受け入れようとしている。緊縛に苛まれる時間を振りほどこうとした結果でもあろうが、安易に夢の彼方に降りてゆくことを拒んでみせる、あのつつましくもやわらげな意思が、油に水ををそそぐようにして胸の裡を燃え上がらせ緊縛の縄を焼きはらった。 油は皮膜からしぼりだされ、水は涙の通りみち深くにたたえられ、それぞれ異質の感性で培われていたけれども、帰ってゆくところは同じ場所であり、それゆえに火焔は立たず白くかがやくばかりであった。 夢の炎は冷たい、少なくとも外界の温度よりはるかに低温であり、すべてを鎮火させる作用を秘めている。まどろみかける瞬間、孝博は両の目がまたしてもこちらに反射しているぬけがらになったような自分の顔と出会った。陰影深く沈痛なその面持ちはいわくありげな謎を孕んでいながらも、所在ない子供の無心へとすげ替えられるぞんざいな視線を放ち、音もなくまぶたが閉じられるのだった。 至上の旋律はこうして鼓膜の向うがわで奏でられる。長いトンネルへとのみこまれた列車とともに、、、 記憶の原野はその広大さを偉容をしめしてみせるわけでもなく、ちょうど小さなつむじ風のごとく孝博を軽やかにまえの夏へと引き戻した。 開け放たれた窓に花ひらく祭りの夜と向き合った、三好荘での一夜。想い共々に二階の欄干から落ちてしまえばさぞかし気楽なものだと、酔眼を弾ませながら、夜空ににじむ打ち上げ花火の残影に感傷を差しだした、あの動揺たなびいた過去が信じられないくらいに懐かしい、、、 来るべき予感の兆しを胸に宿したときが、これほどまでに美しく悲哀で彩られるのは、きっと我が子を身籠ったあらゆる生命体が抱く、しあわせの絶頂であると同時に死への道標であるからに違いない。古代人は、いやそれほど遠くもない人類もそう感じとっていただろう。 夢の無限とも云える勾配は、こうして孝博の意想を華やかに大きくさながら大輪が弾け出す火花となって映像を生みだし、瑣末な神経を豊かな所作に駆りだして、悪夢が悪夢であることを、亜空間が時間どころが魂までもねじ曲げてしまったことを、まのあたりに顕現させる。そこではすでに悔恨や内省は流れ去る星屑となって、物質の残骸であるかのようただ一瞥をくれるだけ。 けれども果てしもない彼方にひかりかがやく星たちの、たったいまここに到来しつつある、あまりに壮絶な意志のようなもの見上げる目に、切実な祈りはやはり含まれているのだろうか。 孝博の夢想はきらめく光線と一緒になって、今度はあの夜の氷が浮かべられた木桶が思い返された。いまが夢のさなかだとは彼はもちろん知らない。しかし、どんなに豪勢な巨大客船のなかで宴に酔いしれようが海上を運ばれていることを疑わないないように、ここが日々の延長から不思議な扉で閉ざされている空間であることは半透明の意識にしみ出す岩清水の清澄さで感じとっていた。その純粋さは、夢見を限りなく尊いものに導く。 木桶にはられた氷水を弾きかえすようにして、きらきらと饒舌なひかりを浮かべる光景は、まるで夜光虫の自在さで部屋のなかから遠く天空の果てにと誘われてしまい、そのひかりの、まさに瞬時の、奇跡をふりまく様には陶酔さえも追いつけないあきらめをおぼえるしかなく、取り残されたこころはせめてもの意趣返しと云わんばかりに、放心状態を甘受するしかなかった。 ところが小さな願いは祈りへと通じていったのだろうか、そんな無心に、白地の画布に、人恋しさからそっとなぞってみるときの素描のかき出しに似た微笑が現われる。 孝博は病室らしき寒々とした部屋のベッドに横たわる晃一の顔を見つめていた。 息子は以前とかわりのない白い歯をみせ、こちらをうかがっている。少年らしい、どんなに大人びてもようとも高尚な精神に囚われようとも、いつまでたっても自分の子供であることにはかわりはない。 「目は大丈夫なのか」孝博がそう声をかけるのと、晃一の「だんだんのびてくるんだ、この小枝が」と悲しみとも喜びともつかない声色が重なりあった。 そのとき孝博は「いまのは晃一が喋ったのではない」そう強く、裁決をくだす勢いで念じられ、さきほどからベッドのすぐ脇に立っている富江のすがたに驚いてみせる必要もないように、ほどこされた眼帯を突き破るようにして人さし指ほどの長さで右目から芽をだしている、若葉をもたないささくれだった小枝に言い放ったのである。 |
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