まんだら第二篇〜月と少年39


「触ってはいけない、医者はどうしたんだ。すぐに手術してもらわないと、、、」
あわてふためき突き上げてくる衝動に忠実であることを夢は認可しない。床が強力な磁場で形成されているかの身動きの制御が夢の常套手段であるとしても、全身から生き血が抜きとられたこの虚脱感はどうしたことだろう。
「そうだ、ここから脱出しようとしているんだ。これはまやかしに違いない」
「虚構と知りながら興奮するのは誰、あなたの血は抜かれてしまったわけじゃないわ。騒いでいるのよ、血が騒いでいるのよ。熱い眠りをご存知でしょう」
富江がそう言っているのか、ひとりごとが聞こえてくるのか、判別はつかなかった。ただ、ある論理的な考えが呼び起こされる。
「授業中に生徒らが収拾つかなくなるくらいに騒がしくなる、途中でこれは夢だと気がつき、冷静に目覚めを待ち受けるのだが、スクリーンの裡に物語が展開されていくように、目のまえの情景は決してとどまろうとはしない。吸血鬼にとりかこまれるおぞましい場面に接したときに、おれも首筋を食いつかれて奴らの仲間になればもう恐怖は消えてしまう、などと開きなおりながらも最後には絶叫を浴びせる、いや、ふりしぼることで夢魔から解放される。生徒たちに対しても同様、怒りとも悲鳴ともつかない雄叫びが精々のところ、、、よく覚えているはず、身を挺して異形の群れや恐怖の原型を体現した輩に飛びこんで行くのは、必ず目が開いてからだってことを、、、」
「ではどうぞご自由に、わたしも晃一さんもあなたに襲いかかったりしませんから」
富江の声は、この世のものではないくらいに優しく耳に届いた。天女のごとくやわらかな羽衣の言の葉は孝博をいっとき慰撫しながら、笛の音が風にかき消される風情で、ゆるやかな傾斜にふたたび意を馳せる。
「地平線を知らない原野よ、ここだろうあかずの間の扉は。それでもってそいつが鍵っていうわけか。笑わせるんじゃない、一体誰の夢だと思っているのだ、おれの夢なんだよ、これはおれが編み出したからくり仕掛けで稼動しているのさ。すべて答えはまさにここに眠らせてあるんだよ」
そう虚空につぶやきながら、孝博はさきほどと同じ笑みをつくったまま見返している晃一に殺意に近い愛情を込めながら近づくと、ためらうことなく、純白で満たされた眼帯に向かって手をのばし、清潔な屹立を保持し生地を痛めることなく芽生えている、刺にしては長すぎる小枝をつかみとった。
「父さん、それはぼくが自分で、、、」
ささくれた感触をにぎりしめる孝博の手を、ひんやりとした、しかし力強い晃一の手が被った。息子の体温が自分より低いことにやるせなさを感じつつも、素早く痛みに切迫する被虐で声を押し殺すようにして、
「放すんだ、おまえの痛みはおれの痛みなんだよ。おまえじゃ無理だ、一気に抜きとってやるから、その手をどけろ」
そのとき孝博は自分の言葉の影に、幼年のころ押し入れに自ら閉じこもって泣きわめいたこと、母と湯船につかりながら『孝博ちゃんはお父さんとお母さん、どっちが好きなの』と問われて、何も言えずに無言を通していたら『こういうときはお母さんと答えるのよ』とかつてないきびしさとかなしみを突きつけられたこと、そしてあのあげは蝶の優雅でせわしない羽ばたきと、彼岸花の鮮血を香らせる生き生きとしたすがた、それらが連続写真となってよぎっていった。晃一の手は死人のようにつめたく、かたくなであった。
夢の時間をひとは計れはしない、、、それからどんな攻略が応じられたのかは演出されないまま、いつの間にか、てのひらにある木片を、それは小枝を細工して鍵状にこしらえたとでも云ったふうな異物を、まじまじと見据えているのだった。あまりの様式性に興ざめしてくる、あの退屈へと橋渡しされる手前のため息が、新たな地平まで未開の地までかきわけて行った先発隊の報告を受けるまでもなく、そっともらされた。
「閉じているんだね、地平線も水平線もないんだね。どうして夢の造形まで球体で作ってしまうのだろう、、、あのまんだら図絵みたいに、、、」
夢はとても律儀であった。意外性と放埒に耽りながらも自ら陶酔することなく、様式美を重んじて常に欲望の発火点に気配りしながら、無限地獄と理性を調和し、和声の響きをもって富江にこう語らせた。
「あなたの夢が嫌なら、どうでしょうか、わたしの夢をごらんになっては。それも嫌ですって、嫌ではなく見れないのですよ。そうでしょう、仕方のないひと、さあ、その手にしたものをわたしに、、、」
孝博はほぼ覚めきっていた。そして、こう確信を得るのだった。
「出口が薄皮一枚のところに、おれはいる。手につばを吐いて、それで顔を洗えば目が覚める」孝博は覚醒へと急いだのだが、「おっと、いけない、別の夢見を繰りひろげないと」
すると、富江が言った。「そうはいかないわ。ごらんなさい、あなたの顔、そんな顔でよそに行けると思いますか」
つばきで禊ぎされたと思われた孝博の顔には、耳以外に目も鼻も口もなにもなかった。