まんだら第二篇〜月と少年28


「前略、この様な形でお手紙を差し上げるとは思ってもみませんでした。帰省の折、列車内で隣合わせた夏から一年が過ぎてしまった今、何か巡り合わせでもあるかのように、貴方の息子さんと知り合い(出会いやその後の詳細は晃一さんから聞いてらっしゃるでしょう)ええ、先日も彼から両親に対して、わたしのことを随分と熱心に報告、、、こう云ったらおかしいでしょうが、確かにそれは熱意のこもった言葉であったと思います。
晃一さんは、そんなやりとりを逐一伝えて下さるので、わたしには磯野家の狼狽ぶりが透けて見えてなりません。とは申しましても、一人息子の早婚に対するご両親の内心をわたしの側から冷静に見つめさせてもらった場合、そう、すでに貴方の胸中を支配してしまっているのは、若年の身で早まった結婚を希求する情況以上に、あの夏の日の淫猥な想い出があれから片時も放れることがなかったであろう、錐でもまれるような痛感ではなかったでしょうか。
そう念じたいのは、ことさらに沈滞した心情でも過敏な神経でもないはず、、、ごく普通の思いではありませんか。
貴方の当惑の由来がそこにあることは、ご自身が一番ご存知でしょうし、更に輪をかけて痛みを深めるのは、わたしの尊大な態度に他ならいのもお分かりのはずです。
息子さんが、ひとりこのまちで暮らす決意を示されたとき、何よりも予感として(そうです、確率的な)このわたしと遭遇する可能性を取り払うことが出来なかったのは、隠しきれない気持ちであり、しかし、差しだしてしまったあの一枚の名刺の行方を非常に怖れつつ、わたしがその後、貴方に苦情なり抗議なり連絡をしなかったことである意味安堵を抱きだして、これは憶測の域を出ませんけれども、、、自然と風化してしまうよう、ことが本能による所作であったよう、わたしの受け身も時間のなかにかき消されていくと願ってみたのではありませんか。そう思いこむことで、確率的な不安は、ひとつの運命へと浄化され自らのこころをも平静化させてしまう。
すると、晃一さんとわたしとの関係はあくまで因果に結ばれながらも、遠い糸口の隔たりは予感された自然の意思の裡でふたたび自由を取り戻し、貴方の悪心は消滅されることなく、能動的に時間の裏側に返されることになりますね。無造作に振られる賽子自体に何の邪心も存在しないように。
貴方の危惧はそうやって、つまりは怖れをすでに了解してしまう発想の転換をもって、ご自分の贖罪へと収斂させてしまったのです。そうでなければ、息子さんから写真を転送されたとき、あの前もって決められていたかの反応が成立しません。貴方は実は待っていたのではないですか。こんな日がそう遠くはないうちにやってくるのを、、、平静なこころを保持し続けながらも、いえ、その平静さを知るがゆえに来るべき運命を密かに祈っていたのではないでしょうか。
さすが宗教学の教授でありますこと、生と死の境地を悟ってしまったみたいな精神ですわ。勘違いしないで下さい、わたしは軽蔑をふくんでそう言っているのではなのです、、、誤解なきよう、そしてすべてを語り尽くすためにも、これからお話することを、今度は貴方が疑いを持ち始めてしまうことを懸念して、こう明言しなくてはいけないのです。
『そんなときを望んでいたのはわたしのほうかも』と。
ああ、罪深いひと、、、貴方の痴態に反応してしてしまったのは、わたしにとっては汚辱であると同時に強烈な郷愁となって、この身に眠ることを知らぬ妖怪を棲まわしてしまった。
お分かりいただけるでしょうか、始めて彼と山道で出会った際に名乗られた名字、、、このまちには一件も存在していない、鮮烈な想い出を急上昇させてしまう、貴方と同じ姓、、、封印しきれずに、かと云って苦悩を育むほどの過去ではない、まるで自分の影のような印象さえあたえ続けてしまう暗がり。
あのとき即座に全身を貫いていったのは、まぎれもありません。貴方の指先だったのです、、、
しかし、わたしはその後こう幾度も反芻するよう言い聞かせたのでした。
『磯野教授が忘れられないじゃない、これは恋でも憧憬でもない、得体の知れない郷愁なのだ。肉感と云うものが訪れ、見知らぬ世界を開示していっただけ』
そう念じてみればみるほどに、自分の淫らさみたいなものを了解してしまうことになりかかり、列車がトンネルに潜ったときの闇の到来が、本来閉ざされているものをかいま見せてくれるように、暗中であることで眼には映らない別のものを感じさせて、それが性的な一面を浮上させようとしているのか、おんなはこんな感性を持ってはいけないのだろうかなどと、日常にさらされないこんな意識をどうにも上手く扱うことが出来そうもなく、じっと影を見つめる不安のこころにもう一度、投げ返してしまうのでした。
意識の葛藤とは複雑なものですね。それに比べると肉体の葛藤とは、もはや知性を疎ましくさせます。
晃一さんと再会するきっかけを講じたのはわたしです。その際に、、、あなたの血を受けた、、、そうです、肉欲を彼に求めたのもわたしのほうからなのだったのです」