まんだら第二篇〜月と少年29


「もちろん、晃一さんにはあの列車のことなど話してはいません。でも想像してみて下さい。こころのどこかで希求したものが、実際ではないにしろ血を介してこのわたしのなかにふたたび舞い戻ってくる。
あなたの息子さんは一途な思いで抱いてくれるのです。そして、遂には結婚を申し込まれたのです。
貴方が彼をこのまちに解放したように、わたしは彼を貴方のこころに解放してあげたように思います。彼の携帯で写真を撮らせたのもそんな意志が秘められていたからに違いありません。
貴方のつぐないが、自然にうちに回帰することを願ったのであれば、そこでは価値や常識、保身や弁明さえほとんど色褪せたものになり、そして最終的にこのわたしの采配へと、つまりは悪夢を日常へと委ねたのであれば、避け得ることが可能であったにもかかわらず、その悪夢のなかに自ずと飛び込んでゆくことで、貴方とともにわたしは暗黒の世界を旅することになるのです。
もう影法師を意識することなく、こうして、ようやく、自分らしさを発見することが出来るのでしょう。
晃一さんの影に貴方を見ているわけではありません。わたしの影の裡に貴方たち親子の人影が棲んでいるのです。
さて、肝心な一番重大なことをお話しなければ、、、わたしの心情がどのようなものであったかは、ご推察いただけたかと思います。
他者から見れば、といいましても貴方以外に口外する気はありませんけれど、おそらくこんなふうに解釈されるのではないでしょうか。
『態のいい、復讐劇だ。しかも、快楽を肯定する口実を巧みにはらませている』
実際、磯野さん、、、いい面の皮だと苦虫をつぶしながら、これからさきの現実をどうやって共有していくのか、そんな観念論でものごとを判別したところで、悲劇が、しかも、毛抜きで一本一本頭髪をつままれるような陰険な悲劇が続くだけ、そう思っているのではないですか。
ご心配なく、わたしの影に納めたと云う意味をよく吟味して下さい。貴方から受けた肉感、、、肯定することさえ覚束なかった、閉ざされた暗所、反面、こぼれ日が聖水のように降り注いでいる魅惑の神殿、陵辱と誘惑、まだまだおとなになりきれない、割りきれない、すくいとれない混濁したこころ。
どうぞ、お願いですから復讐とは思わないで下さい。これはわたしのこころの問題なのです。これが精一杯、自分と闘った証明なのです、おんなとして、ひととして、これからも生き続けなくてはならないかがやける存在として。
彼とわたしだけの世界はもう終わりました。短命であることを覚悟した恋でした。こうしてものの見事に貴方に知れた以上、これで悲劇風の寸劇は閉幕されます。
わたしは晃一さんの求婚を断るつもりでいます。これが何よりの誠意でしょう、そして観念論ではない生き方の結論でしょう。結果、彼ひとりが何も知らないまま、ただひたすら傷つきますが、それはわたしたちの眼を通したうえでのことです。
彼は初恋に破れただけです。人類共通の悩みの一頁を開いたのです。『君はやはり小悪魔か』そう版押しされても仕方ありません言い草ですけれども、、、
悪魔ついでに、これも邪推であればと願うのですが、磯野さん、貴方の思惑はもしかしてわたしとは似た位置にありながら、それでも、限りなく平行線をたどってしまうところにいないでしょうか、、、間違っていればどうぞお許し下さい。
まさか、貴方は悲劇を喜劇へと転化して、ええ、こう云うことです、、、彼との結婚を了解どころか、それすら予想図に描かれており、わたしとの関係をさきほどの風化とは異なった意味で、再編してみる方法も念頭にあった、、、ああ、それこそ悪魔です、、、そしてこんなよこしまな考えを浮かべてしまうのも自分のなかにも悪魔がひそんでいると云うことでしょうか。
想像です、妄想です、いいえ、そんなふうに、そんなドラマみたいに人間の思考は大胆に働かないものですよね。
さあ、晃一さんとの別れをどう切り出すか、なるだけ彼の心中を察して、もう一度、徹底したオナニストに帰ってゆくように、、、
磯野さん、アドバイスは失礼ながら必要ありません。大事なひとり息子でしょうが、決してたぶらかしているわけではありませんから。それはこの手紙に書き尽くしたつもりです。

木下富江」