まんだら第二篇〜月と少年21 目が覚めたとき、晃一はここが何処であるのか瞬時にして判別することが出来なかった。 しかし、次のまばたきで確認された事態は、夢の出口を振り返る意思より先行された、おそらく外泊をしてしまった、三好の家に釈明を、と云った焦燥が前景に押し出されるのであった。 ただちにそれが杞憂であり、三好には酔い具合によっては森田のところに泊めてもらうことになるかも知れないと、そうむこうからも遠慮なくと言われていると、昨夕のうちに伝えているのを思いだして、安堵を重しにあらためてまどろみのなかへと沈下するゆとりを持った。 後景への歩幅は夢見の重力から逃れる意味を知らないまま、沈みゆく枕の安らぎを保ちつつ、そうして弱音で奏でられるピアノの旋律のごとく、ゆるやかに戻り、たおやかな身のこなしであった。 それは極めて短命なときのまたたきであっただろう、、、ふたたびまぶたの裏に赤い色彩が染まりだし、まわりにひとの気配が感じられない認識へと移行したのは、そこに麻菜の姿を見いだすことが出来ないと云う、敗北に似た驚きを受理するためであり、明るみにさらされることのなかった始めての女体を、こうして陽光にさらわれてしまっている悔恨に惑溺するためであった。 奇跡は自ら捻出されるべきと妄信した根拠の彼岸には、砂上に構築された城塞が純白のかがやきで崩落しようとしている。やがては深く沈みゆく古城と変化することを願って、、、 ベッドの脇に置かれた小さなテーブルの上に麻菜が書き記したものを目にしたとき、その字面を追ってみたあとにも、晃一のこころに波紋はひろがることはなかった。 「よく寝ていたので起こしませんでした。わたしも今日は仕事は休みですが、実家に用事があって午後まで帰りません。それまで居てくれてもかまわないけど、もしそうでなければ、この鍵で施錠して入り口左手の芝生に立てかけてある、さるぼぼの下に、あっ、さるぼぼ知らないか、でもすぐに目にとまるわ。真っ赤な顔したのっぺらぼうの人形よ。そこに置いていって」 壁に掛けられた時計は九時をまわっていた。我ながらよく痛飲したものだと妙な自信がわき上がったのも束の間、カーテンでさえぎられた窓のそとを窺えば、たしかに玄関先からあたり一面は芝生が敷きつめられているように見える。 晃一は昨夜の服装を身につけたままであることに奇妙なとまどいを覚えたが、腰のベルトが随分と緩んでいることにほくそ笑み、室内は冷房がゆき届いていることも感心して、おもわず白日を呼び込んだ部屋全体を見回してみるのだったが、ひとり暮らしの若い女性にしてはえらく殺風景な印象で、それより脳裏を巡ったのは性交の光景へと飛翔しかけた充たされない幻影が空回りして、羞恥らしい居たたまれなさが虚しさに飲みこまれてしまうまえに、麻菜の言うよう、影は影のむこうへ、幸いにして灯りに見とがめられることがなかった故、足跡ひとつ残さない気持ちで速やかにこの部屋をあとにすることが出来た。さるぼぼとやらのまん丸した顔は昇りつめようとしている太陽より赤かった。 自分でも不思議なくらい強く握りしめてしまった鍵をそこに収めて、小走りで自転車を置いてきた公園へと向かった刹那、初夏らしいまだひかえめな陽射しが、それでも鮮烈な印象を常に肯定させようとする気概のある光線を斜めに浴びながら、鍵をつかんでいた手の芯に微かながら、それは陽炎が立ち上るゆらめきのように曖昧でいて、しかもめくらむほどの甘酸っぱさを味わさせる。 それはまぼろしなのだろうか、、、それとも夢をみていたのか、、、だが、この掌に残る未知なる感触、己の身体とは別種の柔らかでしかも張りつめた弾力の新鮮さ、あるいは指のあいだに、そうまるで櫛で梳く要領で長く色香がただよう髪の流れ、、、あらゆる方向へと曲線が描きだされる様を果てしなく愛撫しようとする意志を持ったこの掌。 耳を澄ませば、夜の扉はきしみをあげ闇の情炎を解放しようと、哀しみを帯びた悦びがもれだす小声が聞こえてくる。しなやかに躍動する半身はいにしえからの妖術に操られてでもいるふうに、乳房を原始のリズムで弾ませ、続く腹部にまとわるもっとも柔らかな肉付きは優雅に小刻みしながら左右へ振動を伝えているようだ。 女体の存在を知らしめる尻から、餅のように伸び膨らむふとももの頑丈さは、股間を這う陰毛の叱咤に反撥するとでも云った感じで、その局部を変幻自在のかいま見せることを熟知しているのは、どこまでも力つよい大蛇のうねりを連想させる。 一見小柄に映る女性のほんの薄きれ一枚隔てた先は、何と豊満な密林が展開しているのだろう、、、体内から湧出するもので湿ったところへ指先が到達したのは、すでに目に見えない糸とやらで結ばれていたあかし、、、そうして今度は渇いたくちびるを潤すためにときめきながら近づき、その泉に舌先もろとも潜入してゆけば、両の掌がすでに撫でつくした感触とは異なる、悦楽がこの身に訪れる。 いや、この身だけではあるまい、此岸と彼岸が出会う刹那、おんなのからだにも異変が顕われ、もうひとつの世界へと移り住む心づもりが、満ち潮のごとく押し寄せてくる。 幻想は終止符を打つよりも罪深く、晃一にある実感を悟らせた。手のなかに包まれる金属片がもたらした、柔軟な白日夢。 何よりも救いがなかったのは、そんな白日夢を他者も共有しているとは到底およびもつかない現実にあった。 |
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