まんだら第二篇〜月と少年17


歩いている時間も閑却させるほどすぐ近くにあるスナックのカウンターに並んだときの別種な感触を味わっている間もなく、好子が乾杯とともに一曲歌いだすと他の客らの手拍子も始まってにぎやかな雰囲気がにわかに形成され、別段遠慮してみたわけでもなく、三人のあとに座った席の隣がたまたま麻菜であったと云う現実にスポットライトがあてられた高揚に乗りこめないでいるもどかしさは、さながら喧噪のなかでの孤絶感を想起させてしまい、そうなると横目で窺うような自分の目つきに過敏にならざるを得なくなってしまうのは、やはりまだ拮抗する胸裡を意識しているからと云えよう。
しかし、いまは森田、好子、麻菜、自分と横列した事実に感謝しなければいけないと、ふとあたまによぎったのは疑うべくもない、思惑はどうであれ麻菜のことに引き寄せられている事態を承認する、いわば通行手形みたいなものであった。
妖しい魅惑の根底に巣くう正体を見極める為くぐる隧道への。

気持ちよく声を張り上げる好子のすがたに感心する振りをして、その視線は焦点をあわせるようにたぐり寄せることで麻菜の横顔を不自然ではなく、堂々と見つめることが可能になった。
森田はなじみらしいカウンターの向うの女性となにやら話しこんでは、まわりに囃され連続して歌声を披露する好子に時折、拍手することも忘れてはいないようで、一番はしに位置した晃一にとってみればそれは約束の地をあたえられた迷い子であった。
そして、思いついたと云うふうに目のまえに置かれた焼酎を迷うことなく一気に飲み干した。
「あら、若いひとはさすがに豪快だわね」
そんな愛想に真正面から応じるよう、ママらしいもうひとりの女性が作ってくれた濃いめの水割りを何杯も勢いよく喉の奥に流しこむ。
視野が急速にせばまりゆくのが自覚出来たのが、晃一にとって明晰な判断に信憑を寄せられる最後の光景であった。途中で歌の順番が自分へとまわって来たときには、すでにスピーカーから鳴り響く音とは異なる耳鳴りのような高音が空気中を漂っているなか、幽体離脱したかの自分にとマイクを渡そうとする麻菜に向かい、
「僕は歌は苦手です。いえ、けっこうです」
そう昂然とした口ぶりで意思をしめし、好子の高ぶりへと連なるよう、あたかもその場の情況に自然であるよう、拒絶を柔軟に仕上げてみせたのは決して胸算によるものでなく、あくまで本能的な目論みであった。
再びマイクを手にした好子の微笑みが、自分の意想に照応したであろう連鎖を確認したとき晃一は、初めて麻菜に対して距離を埋めていることに積極的であることを見いだした。そしてこう言った。
「麻菜さんは彼氏とかいないのですか」
今しがたの反応からは想像してもいなかった唐突な投げかけに、一瞬何を言っているのかよく分からない面持ちを保たせようとしたのだったが、
「あれえ、磯野くん、そんなこと聞くんだ。じゃ、教えてあげようかなあ。わたしはね、去年の春さきに大失恋しちゃって、このまちに帰って来たんだ」
自分でも予期しない、不思議な反動のような勢いが口を借りて勝ってに込みあがってくる。それがいつから蠢いていたのかは知らない、、、嘔吐をもよおす加減が突然であるのと同じく。
晃一はもう酩酊の手前の横断歩道を左右確認しないまま通行する、無頓着さで危険を信頼してしまっていた。すると麻菜の心中も同様に乱雑な文体で綴られた物語りのごとく、展開してしまうのだった。
自分の酔いが相手の酔いと同調し、錯覚であることを目醒めようにもそれが実感となってこころのなかを満たしてゆく限り、混乱は素直に落ちつきを認めようとはせず、暴走は程よい抵抗の風を生みだす行為となって、涙も血も鼻水もよだれでさえ何もかもを肯定する覚醒した夢想と拡張してしまう。
唯一、片隅でささやくように点滅しているのは、膨満し続ける意識が虚栄を育んでいるのではいかと云う危険信号なのだが、うれしいことにこの信号には色彩が剥奪されているのだった。悲哀と悔恨は酔い覚めの朝、陽のひかりで照らしだされてから彩りを取り戻すのである。
縮小する意識が虚栄を持てあますことで、反対に居場所を明確な彩度を探りあてると云った方程式は背理ではない、何故ならばそれは営為そのものだから、、、