まんだら第二篇〜月と少年16


小さく、しかし大胆に耳へと吸い込まれた麻菜のひとことは、初顔あわせした今夜の時間の流れを一瞬にして固定してしまい、つかみようのないままに指先から逃げさってゆく期待を芽生えさせた。
そう感じられたのは、予期せぬ僥倖に先んじることで受け入れ態勢を整えようと構える結果が逡巡を招きいれてしまっていると云う、あの尊大な好奇心を晃一の胸中に植えつけていったからである。
異性を含め他人との距離感を意識しなくとも、すでに自動的に間合いがはじき出されている世間慣れした人間であれば、あの艶めいた健全な問いに即応して思惑が素早くめぐり、股間へと脈打つことを知るが故に却って、過剰な反射を本能のあかしと認める余裕が獲得される。
同時に発動されてしまった事態を不埒なものといさめる分別があったと云う良識が、下半身の躍動を牽制し、やがては狩人が慎重な足どりで獲物に近づいてゆく沈着さを、つまりは欲望を遠回しにコントロールする器量を養うことになる。
秋波を送られたにもかかわらず、すぐには踏み足を出さず機が熟すのを待つことによって駆け引きを楽しむ、気品に香るしなやかな情欲をある程度持続させる為に、、、
ところが、若き晃一にはそんな術など持ち合せているはずもなく、また元来の性質からしてみても到底、欲情を一巡させてみるしたたかさは欠落していた。もっとも、このような場面以外のところでは心理の動きや彼なりの世界観は独自の価値が理論化され、あるいは理論を基礎づける装飾がほどこされて、秘められた性欲としての範疇できわめて珍妙な禁令が遵守されているのだった。

麻菜の目のひかりにまぶしさを覚えたのは紛れもない事実であり、いまこうやって数秒にも充たない威圧にも似た好意を含んだ質問にひるんでしまっているのだが、どう答えればよいのやら戸惑う根因は、つまるところ女性経験を知らない恥らいに由来するからだと、投げ打つよう自尊心の裡から鮮明な感情を見つめてみれば、そこには放擲される自尊心も同様に認められ、以外とすっきりした心持ちになり足を引っ張っていたのは脆弱な理論なのかも知れない、径庭を造りあげていたのは秘匿された怯懦によるものだと、それこそ開き直りに近い明朗さが晃一をもう一皮むかせることになった。
「麻菜さんの目はきらきらしていて美しいと思います」
麻菜の側からしてみれば、決して間合いを経てそんな言葉が口にされたなどとは思ってもいないのだろうけれども、晃一からすれば自分で吐いてしまった表現に実は深い意味合いなどなく、ただ直感がかする上澄みの内奥まで透過できなかっただけのことであった。
そんな晃一の気後れには関知してないと云ったふうに麻菜は、
「あら、お上手ね。ではその目に映っているのは誰なの」
如何にも含蓄をはらんだ言い方は、ふたたび目尻に寄せられた俊足なしわと協調しあうように笑みを誘っている。
彼女の美点を讃えたばかりにもかかわらず、不意をつかれた、いや更に追い打ちをかける秋波であることを正面から受けとめれない狼狽は、晃一の目線をテーブルの上へと下げさせてしまい、
「ひょっとして僕なのかな、、、」
と、まるで無実であることを忘却させられた容疑者のような投げやりな覚悟が醸し出される。
「そうだとしたら、どうするの」
「それは、、、」
にごり水の中に顔面を沈めたときの困惑と、咄嗟の判断を見あやまる不快な驚きを相手に見いだしたのか、
「かなり酔っぱらってきたのかなあ。目のなかにはお星さまがきらきら、わたしは王女さま、、、ねえ、もう一件いこうよ」
隣の好子をうながす素振りで森田のほうへ向きなおってみせると、多少大きくなった声に素直に煽りをうけたといった様子で、
「よし、じゃあ、カラオケに行こうか」
夜はこれからだと云うふうに、森田は心配りなのだろうか、今日の主役は好子なのだと暗に示す態度もさりげなくそう提案した。好子の表情は洗顔あとのように歓びを隠せなかった。
一同席を立ちかけたとき晃一は足がふらついているのを感じたのだが、店の外に出てみるとすでにその感覚も夜気に溶けだしてしまったのか、次の酒場を選択している森田らの声を遠くに聞いている茫洋とした自身を発見し、それがまさに酔いの証拠だと、揺れる小舟が大海に身をまかせる方便であることに大きく首肯するのであった。