まんだら 第一篇〜記憶の町へ5


木下富江は神木と言われる大楠の木陰で自然の涼をとると、港のにぎわいが潮気をはらんだほどよい熱気に感じられ再び川縁に沿って海の方へと歩いていった。
鉄柵が幾分低くなった辺りに来て、ふと下方を見遣ると垂直に切り立っていない、少しだけ傾斜のあるコンクリートで塗りかためられた中程に何かがこちらに向かってうごめいているのが見てとれた。身を策から乗り出すようにして凝視すれば、それはたわしくらいの大きさをした石灰色の亀で、地の底から天上を目指して這い上がってくる風に感じとれて、小さい頃、みどり亀を飼っていたがいつの間にか逃げ出してしまったのか、富江の前にはそれっきり姿を現さなかった記憶が、切実とした気持ちになって自分の方へと一生懸命に上ってくる場面となり、ことさら胸をときめかしたのである。
更に声援を送る勢いで上半身をくの字に曲げたのが、まったく予期しない結果を招いてしまった。
履き慣れない下駄が上背を持ち上げるあんばいで、両足が地から離れると同時に全身のバランスが失われ頭部が錘の役目を果たした瞬間、富江は緩やかに半円を描くように真っ逆さまに川の中に転落してしまった。
落下の最中はまるでスローモーションだった。最初ふんわりと重力から開放されたかの感覚が訪れた時には、非常に危険な状態を意識しつつも、一方では深い川ではない、溺れることもあるまい、祭りの日に最悪なアクシデントに見舞われるなんてまったくついてない、などと不測の事態を客観視する余力がこころの中に残存していた。
しかし、顔面が水しぶきをあげて半身が水没した刹那には、ことの次第を緊急回避させるべくあらゆく思惑は消え去り、声にならない悲鳴が全身に響き渡ったのだった。
確かに水かさは日頃より増してしたし、この河口が連なる海原はこれから満潮時を迎えるところでもあり、思いの他深みを実感した富江は、ほとんどパニック状態で水中でもがいて、呼吸を確保しなければと焦った為に川水を吸引してしまい、これまで味わったことのないくらいの息苦しさと恐怖の中に翻弄されるはめになった。
それでも手足をばたつかせているうちに片足が川底をなぞり、ややあって両の足を固定しかけた時には何とか救いの光明が見いだされ、後は手をひろげて羽ばたきをする要領で均衡をただし水中に立ち止まることが出来た。
胸元まで及ばない浅瀬であることを確認すると、一気に悲しみやら怒りやら恐やらが混交となって再び、冷静さをなくしかけたのだったが、よく辺りをみればすぐ先に人が歩いていける格好の平坦な場所があった。
そこまでたどり着けばよい、あくまで慎重にと右足から踏み出したのだが、落下の衝撃かもがいている最中なのだろうか、下駄は失われてしまっていて素足になっていることが得体のわからない不安を呼び寄せた。それでも左足をっ確認するとこちらは素足でなない、しっかりと履物をしている。その安堵が先を急がせた、足下の情況は不安定なままで、、、
眼前に迫る平の地にもう少しのところだった、歩を進める自分の足下に落とし穴が存在いるとは富江は夢にも思わなかった。正確には川底に横たわっていた金属製の細長い部品のようなものに躓いて、今度は真正面に倒れ込んでしまった。しかも後わずかで到達するはずであった水面から浮き出た平坦なコンクリートの角にしたたか顔面をぶつけ昏倒してしまったのである。
その姿は溺れかけた者が岸壁に半身をささえるようにして、ようやく一命をとりとめた様に似ていた。
富江は運が悪かった、すぐ上の道路はいつもより交通量も多く人通りもあったのだが、祭りの日の今日、人々の意識は華やかな舞台となるべく海の方面へと向かっているのだった、誰も日頃から連綿と流れゆく河川に一瞥をくれる者はいない。
やがて満潮によって水かさは富江を被い隠そうとし始めた。しかしちょうど帯をしめたあたりの水中にしっかりした突起物があってうまい具合に浴衣をひっかけ、コンクリートの側面から浮遊して流されることはなかった。