まんだら 第一篇〜記憶の町へ34


太陽の意思というよりも白雲のわだかまりと千切れ雲の気まぐれが光線の配分を決定し、車両の縁どりを見送っていく山々と夏木立が使命感に萌え、陰りのときを創出した。
富江のからだは陰陽に引き裂かれながら、嵐が過ぎてしまったあとでは陽のひかりは白々しく思え、すがすがしさなどどこにも感じられず、はばまれることで生まれた陰りもまた日常の芥が積もりきった沈滞でしかなかった。
秘めやかなところを触られるままどうするわけでもなく、時間にしてみてもほんのわずかの間だったことが、窓のそとを通過してゆく無人駅の名前を横目でとらえてみると、簡単な足し算をする感覚で認められる。夏の嵐はあまりにすばやく、そしてとらえどころがなかった。
自分をなぶった、しかも始めて会ったおとこを叱責することも打擲することも出来なかったわけは、反対に制すれば制するほど得体の知れない快感と汚辱を得てしまう、そんな危うい底の見えないものを瞬時に抱えこんでしまったのかも、、、相手の目と自分の目がかさなりあったとき、おとこ特有の物欲しげなひかりが上手く隠されているようで、すぐ直感的に緊迫した糸にからまったことを観念したことが、すきを大きくひろげてしまったそもそもの起因だった。
でも、くちびるがおおいかぶさってくることは予感できたけれど、まさか、いきなり下半身を直撃されるとは以外だったし、そのせいで緊縛が強まりからだも固まってしまったのだから、、、
カーディガンで膝からうえを隠してと言われたときには、富江はもう抵抗することを放棄していた。
そのあとの意識は、おどろきが拡散されてどこかに弾けてしまうような、悪夢も見ようによったら楽しめるかもと云った、一種の遊離現象が発生したなかで、ところが、沈着な意思はやはり残されたままで、そこから見据えることはもうひとりの自分を見続けているだけであったような気がして、なぜそこに葛藤が起こらなかったか問うてみれば、答えはすぐそこに届きそうなところでたち消えていまい、結局悪夢の側から覚醒を願ってこそ悪夢らしさを体験するのであって、では夢見られたのはどちらの自分だったのかつきつめてみれば、それはなかなか正確に言いあらわすことが出来なかった。
しかも、おとこの手は今までにない密やかな夜光動物の息使いで、富江の穴を嗅ぎわけていった。無論こんな痴漢みたいなことに遭遇したのもはじめてで、どこでどう話しが横道にそれたてしまったのか、なぜ、からだの芯を求められたのか考える余地もなく、拡散された感情はどうしてまた、不本意にも淫らな快感を得て収束してしまい当然波立つ激情を押し殺すはめになってしまったのだろうか、、、

ことが終了したのは富江にとって終着駅についたのと同じくらいの明瞭さで理解された。
次第に大胆になるおとこの手つきがいったん途切れてふたたび動きはじめた矢先、その指先の振動が意志によって小刻みに震えているのではなく、別のところからくる伝播によりもたらされていることがよく感じられたからである。
あきらかにそれはおとこの沸騰点による身のこわばりが、くまなくかけ巡ったあかしであった。そのあと、蛇のようにもぐりこんだ手が同じくもとの道をすばやく引き返していくのを、富江は沼地に棲息する小動物が警戒心を丸だしにして逃げ去ってゆく光景に重ねあわせ、郷愁にも似たわびしさを覚えるのだった。
そして、左手のさきが粘液で濡れ光っているのを同時に見合わせたときには、悪戯を見つけられた子供がすぐに感傷を取り寄せ一気に埋め合わせしてしまうのと同じで、富江はおとこが自分よりも強く恥辱と悔恨を胸に宿しているのを知り、そのまま拭おうともしない手をどうするのか、ここでハンカチを差しだすのは相当に気恥ずかしく、なぜなら突然噴出してしまったであろう精の後始末にとまどっているばつの悪さも生理的に居たたまれなくて、かと云ってときが流れるのをこのまま黙殺してやり過ごすのは堪えがたかったし、でもそれは今しがた感じとったおとこの羞恥心が感染したことを納得する自分の意にそぐわないことだと、ようよう感情をわがものにして、『大人のくせにしっかりしなさい』と喉元をことの葉が吹きあがってきたことで、なにやら少しはすがすがしさが近くまで訪れたことが内心うれしく思われ、窓枠に置いてあった飲みかけの缶コーヒーを、おもむろにつかんでおとこに手渡したのである。
とても自然な手つきで、しかも、若さを失わない恥じらいを取り戻した素っ気なさは、凍りついた孝博の顔をほんのすこしだけ溶かしたようであった。
それから、静かにその場を立ちおそらく洗面所に向かったそのうしろ姿は、振りかえるまでもなく富江のまぶたの裏へ遠い記憶のように焼きつけられた。