まんだら 第一篇〜記憶の町へ35


短い嵐が去ったあと、富江は目を閉じたまま言葉を置き忘れたかの面持ちで静かに呼吸していた。
しばらくしておとこが席に戻ってからも、この姿態がもっとも的確な距離感を保てると思いなし、お互いのかかわりはそうやって見知らぬ他人へと還ってゆくのが本来だと願われたのである。
夏草のうえを軽やかに吹き抜けるそよ風のような寝息は、富江してみれば殊更あらぬ感情をなだめすかしているわけでもなかった、相手もまた同様にそよ風にのって忘却の彼方へはこばれていくのが純粋な戯れなのだから、、、

まだまだ太陽は盛りであることを忘れようとはしない、申し分なく照りつけられたホームのコンクリートが白銀にかがやいて映った。
別れしな富江が「姉が迎えにきていると思います」それが最後のことの葉だと想いをこめて解き放つようにして言うと、孝博は「そうですか、ありがとう、それでは、、、」口ごもったでそう返答したのが、停車した列車のエンジン音に圧搾された低いうなり声にも似て聞こえた。
孝博にくるりを背をむけ、改札を小走りに抜けていった富江のこころは、衣が一枚はがれおちた身の軽さでいま、帰省したと云う実感のさなかにあって、左側に見なれた白い車を背にした姉とその息子の微笑みがひときわ陽光にきらめいて、まぶしさをもたらすのだった。
富江は「ただいま」と言いかけて、ふと、右のうしろの方から何か黒い人影がよぎっていくのを覚え、一瞬、時計の針が止まるあの不吉な刺を感じとり、それが、車両に残してきたあの淫らな余韻であることに向けられそうになったのだったが、黒い影は実際にはこの目には映らずに、かすかに耳をこだまする水滴のごとく、しかし一滴一滴は、確実に言葉の一音一音につらなる語感を鮮明に反響させ、こうささやかれたのであった。
「・・・よるのみずはつめたい・・・」
はっと振り向いたとき、目に見えないその声の主がそこにいたことを裏づける気配となって、薄気味の悪い笑みだけが仮面のように剥ぎとられ地面にころがっている既視現象が、閃光の速度で富江の網膜に飛び込んできた。
もう随分とまえから、それが夢のなかであるのか、何かの物思いの最中に降ってわいて出たのか、記憶の原野をかき分けてみても、意識の留め金を確認してみても、まるで常に先々で蒸発してかき消えてしまう逃げ水のように、定めきれない地下の洞窟へと底深くつながっている畏れは、この夏空にいだかれた盤石の太陽が教える永遠とまったく同じく、手応えのないままひたすらに圧倒する。
そんな押し寄せてくる巨大な、けれども、暗すぎて不明瞭な、明るすぎて不澄明な、限りのなさは針の穴よりもっともっと極微な世界へ通じているようにも予感され、その針穴がわずかに動く刹那を時間と呼べるのなら、富江にささやきを残していった人影こそ、恩恵を施しつづけていると解釈してやまない日輪がかかえる灼熱の地獄を、生けとし生きるものにしらしめる天使であり、黒点に歓びと安息を求める死の住人であり、そして時を超えて降りてきた自分自身のひとがただったのであろう。
手を振りこちらに満面の笑顔を送る姉らに応えるため、口角をあげ両頬へと笑みをつくりだしかけた、ほんの一秒にも充たない間に幻影はまぎれこんだ。
高校の頃クラスメートのひとりが白血病と診断されてから、たいして日数を経ないで死んでしまったことが、予兆の付録みたいに、それにしては生々しいはずの死が、薄っぺらい紙切れに書かれた名前のようによみがえり、微笑みのうしろ側へと仕舞われるのだった。


まんだら 第一篇〜記憶のまちへ     

終