まんだら 第一篇〜記憶の町へ27 春の陽は長かったが、気がつけば宵闇はすぐそこにせまっていた。 孝博にも家内にも暗影は忍び寄る。息子はと見ればまるで光源を背にした独裁者の孤影のように、危うさはらみつつも、飛び立つ鳥に似た警戒心を先取りしていて、それが一種の確固とした信念にも映ったのだった。父親の問いに対し、彼はこう答えたのである。 「あと一年になった高校生活で確信を得たいんだ、つまり、卒業後は家を出て、田舎暮らしをする具体案を練るために進学勉強でもなく、就職活動でもない、自然と共存する可能性を自分なりに見いだしていきたいんだよ」 息子の表情はどこか憑依されたふうにも見えたが、何ぶんその口調にも態度にも奇矯な雰囲気が出ていない、能面を思わせる妖しさが顔を被う仮面となって、別の人格になりすましているかの錯覚さえ感じる。しかし、話している内容自体が突拍子もなく稚拙であることは歴然としていた、少なくともふた親にとっては。 「そうよ、あんた、それでどこに行く気でいるの」家内もストレートな意見を吐くしかない。 「気持ちは中学の終わりくらいからあったんだ。うん、そうだよ、おとうさんたちの故郷さ、なにもリュックひとつで世界を旅してまわろうなんて思ってやしない、ぼくはあの町で暮らしたいんだ。そりゃ知ってるよ、過疎化の一途だってことも、陸の孤島なんて呼ぶ奴もいるのも、でも、よく分からないけど、これは宿命のような気がしてならないんだ、おとうさんらはあの町から出てきた、ぼくは帰っていくんだよ」 「おい、今なんて言ったんだ、よく分からないままだって、それでそんなこと考えているのか!」孝博はすかさず言質をとったことで、やっと感情を高揚させることになった。 「おれにはただの現実逃避としか見えんよ、ああ、誰にでも聞いてみればいい、一目瞭然じゃないか、まだ背中に何かおぶって訳のわからんとこを放浪する方がよっぽどましだ。おまえのは隠遁生活へのあこがれにしかみえんよ、とうさんらの親戚がいるから心強いとでも思っているのかい、家にこもる代わりに外にこもるってことか」 「違うよ!安易な発想じゃないんだ、肌で感じとったんだよ、小さいころから何度か一緒に帰省しただろ、その度に気持ちが惹かれていった、そして段々と自分の生きる方向が見えてきたんだ、それが何故なのか、どういった根拠かってことは、正確には答えることは出来ないよ、でもいい加減な、そんなとうさんの言うように逃避的な意識じゃない」 「じゃあ、何なんだ、親元を離れるのはそれはどこの家庭でもあることだ、無理に進学しろとは言わない、前におまえの担任の先生と面談したときな、こう言われたよ、お宅ではあまり教育を奨励していないようですね、ってな。おれが大学教授なのを知っていて、そんな環境に育てば自ずと勉学にいそしむとでもいわんばかりの薄笑いでな。確かにおまえは小学校から成績もいいし、今でも学年のトップクラスだよ、それはかあさんもおれも自慢の種だった、これは放任ではない、おれの書斎から専門書なんか持ち出していってたのも知ってたよ、知っているどころか、どんな書物を読んでいるのかまで把握していたつもりさ。おまえは隠れて読んでいただろうが、こっちは本の虫のプロなんだ、抜きとられてはもとに戻してある本は全部わかっていたよ。でも実はうれしかったさ、おれの研究書である宗教関係のものばっかり読んでいただろう、さすがは血をわけたせがれだって思ったよ。本来の学業に差し障りがあるわけでもないし、好きなだけ読んでくれればとな。だが、担任が言った言葉の意味が今はじめて理解できた、おまえはそつなく高校生活を終えたい、それからことに誰からも文句がつけられないくらいそつなくな、ただそれだけのためだったんだなって。あの担任の先生もまんざら目が節穴ではない、そんなおまえの冷徹さをよく見ていたわけだ。なるほどそうなると、どうあれ一応の算段はしていたことになる。それでも、まだ正確に答えることができないんだな、、、」 そこまで勢いに乗り一気にまくしたてた孝博だが、最後のくだりに来てにわかに胸騒ぎを覚えてしまった。「正確に、、、誰が誰に対して、何を、、、正確に答えるというのだ、、、」 そのとき、柱時計がいつものように鳴りだしたのだったが、不思議と無機質である響きはくぐもりながらも、音を伝播させる媒体、それがまるで濃厚な湿度で充たされた肌触りに思えてきて、自分を阻害している空気が実はまわりと云うよりも、すぐそこにそれこそ薄皮一枚ぎりぎりの隔たりを保っているかの感覚におそわれた。 その感覚はある不快さを予想させる、、、こうして今度は毛穴のなかにまで深く浸透してゆくのだと、、、 |
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