まんだら 第一篇〜記憶の町へ14


久道の大きな危惧の念とは、とにもかくにも彼の主張する神秘の扉が開かれたとき、果たして人々は各国家は軍事大国首脳らは、どのような対処をもって未知なる存在を受け入れることとなるのかと云う憂慮にあった。
だが、長年の研究によれば世界各国にはすでに異星人の塁家とも呼ばれるべき一族が太古の昔から棲息しており、彼らの実体はフリーメーソンの創設時からも介入しており、その秘密結社がもつ秘匿された高度にして驚嘆すべき技術を久道は、人間離れした奇跡的なものだと信じてやまないのであった。
そんな彼の意見に対し、大方の反応はまやかしでしかないとあたまから否定する限りではあったものも、なかにはまれに生真面目な論客もいて、「遠藤さんの話しは確かに飛躍しすぎたところもあるけど、大体において仏教の究極が億万光年の彼方へとひろがっていく宇宙空間的な哲理をもっている以上、あながち現実遊離した論理ではないと思うのでして、これはあくまで精神論とした上での言い方ですが、ギリシャ神話とか日本の記紀に登場する神々だって争いごとをして勝者が讃えられるわけですから、結局、強いもの偉大なもののほうに聖性を求めていくのが業と云うものでしょう。遠藤さんが、人格神をより絶対的な巨大な装置として(これは例えですけど)備えつけて、自らもその装置のなかである種の開放感を得られるのであったら、裏付けが独断であろうとも、本人がそれでかまわないのなら、人にとやかく言われる問題でもないですが、本来的には」
などと、久道の琴線に際どく触れつつも、最終的には誇大妄想のゆえんを力学的な位相から計り直すもの言いは確かに、頼もしい共感者となり得るはずだったのだが、あらためてひとからそんな意見を聞いたところで、正直それほど感激するわけでもなく、というのも久道自身がすでに重々知りつくしていて、いわば確信犯がことあるごとに、己の信条を一から説明しなければならない煩わしさで辟易してしうまう場合と同じように、もはや超常現象全般は微動だにしない確信として屹立した、取り替えがかなわない久道のいきり立った男根そのものあったと云えよう。
これは有無を言わさぬ根源的な体感として、彼の全存在となって時折放出する精液の粘り気もまた過剰な戯れをしたたるい成分へのなかにまとわりつかせ、まるで蜘蛛の糸のごとく、全体が分泌液にまみれているかのようであった。
そんな特異な性質の保持者であるという自負が久道を陶酔させるのである。隠されたものに心底あこがれを持ち続けることで、現実から逸脱しようとも、精神の根っこではそれらも所詮夢見るロマンの発露でしかないと以外に醒めた情熱が、くすぶっているだけなのだと割り切っているとすれば、そこに薪をくべることがまさに生命力を燃え上がらせることになろう。
久道を見誤ってはいけない、彼は決して自らを霊能者や超能力者であるとは微塵も考えてはいないのであり、ただただそういった存在に触れたいがゆえに情熱をたぎらせているだけなのだ。それはちょうど作家にあこがれる文学青年がいつの間にやら作家気取りで書き物をしはじめる仕草に似たもので、そのうちゲルマニューム療法などを施しはじめ、心身ともに浄化させていく効能を感得することも、至高体験へと登りつめてゆく過程に相違ない。
もっと卑近な例を上げれば、アイドル歌手にならって髪型をまねてみる心根も同様の形態である。久道のアイドル、つまり偶像は地球規模を離れた無限の宇宙の彼方に存在した、そして何万光年の先からやってくる光が今ようやく夜空を見上げる肉眼のうちにとらえられるように、いつか必ず異星からの訪問客が現れると心待ちにしているのであった。
まわりからすると風変わりな所作に映るだろうが、久道にとっては日常を豊かなものにしてくれる、大切なドラマでもあった。現在彼が夜毎の夢見にある着想を見いだしているのも、いかに日々を充実した精神で送っていこうとしているのかうかがえる、そう、久道はそれほど偏狭でもない、実に人間らしい人間の特質をよく体現しているだけのことなのである。
あくる朝早く、サイレンの音を耳にしたような気がしたのだが、まだまどろみのなかにあった久道は、妻や子供らが騒がしいのでしぶしぶ起きだし何事かと問いただすと、
「大変、前の川に女の子が落っこちていたそうよ、救急隊が来てさっき助かったみたいだけど」
妻の言葉がまだ夢のなかから聞こえてくるものに思えたのは、超常現象を前にして立ちすくむ、あの恐怖と感動が交じり合った複雑にして明瞭な認識が訪れた為だったからなのだろうか。