まんだら 第一篇〜記憶の町へ15


夜霧が何のためらいもなく晴れていくように、漁り火が静かな別れを告げながら遠ざかっていくように、めざめはいつもと変らず待っている。
谷間をつたう清水に足もとをひたす感触が、ちょうど冷水で顔を洗う手間を先取りしてくれていればなおのこと、いつになく沈着した気分を保とうとしたのは、おそらく今しがた聞かされた川に転落したあの光景が、幾重にも反射しているまぶしさに目をふさごうと、再びまどろみのうちに戻って行こうとする葛藤が意識の片隅で働いたからであった。
それが起床と睡魔との攻防の態で現れたのは、もっともだと了解した頃に久道は反射しつづけるサイドミラーを脳裏に思い浮かべることによって、映像を我がものへと回帰させた。イメージが乱射されるなかにあって、こころ乱すものを鎮静させるには、一点に集中する意思が必要とされる。
ほんの数秒の間に光は脳裏をかけめぐる、まず最初に昨日の走行中の出来事が想起され、続いてまぼろしかといぶかった自分を呼び起こし、更にはまったく忘却してしまったのではない、本読みの最中も夕飯時にも、遥か彼方の星がわずかに明滅するように、あの浴衣姿は一瞬見え隠れしていた。そして寝入り際、想念が霧中に消え入りそうになった瞬間にもやはり姿は立ち現れていたのだった。しかし、あまりの速さでめぐっている、そんな光の粒のようなものだから記憶はあえてとどめようとしなかったのだろうか。
その答えもやはり深い霧のむこうに隠されている、我々が意識の極限と呼ぶものを観念として想起させるには、志向性の食指をのばさないなくてはならない、久道が転落する女性を鏡を介して認識したところに、幻覚と現実との境目が発生した。日頃から空飛ぶ円盤などを追いかけては見失い、ありありと目撃しても確証をおさえられなかった久道にとっては、やはりあの時は目の錯覚だと認識したと考えても誤りではないだろう、しかし、いざ後から現実問題だと知らされるにおよんで、幻覚と云われたものが光となって乱反射はじめた事実をどう受けとめるのだろうか。
あらゆる現象をまのあたりにするとき、各人はそこに決まりきった様相などを見いだしてないない、ただ、自分にとって最良の光景を作り出そうと努めているのである、時間という波に乗りながら、、、

どこかさえない気分のまま、久道は朝食後、今日は日曜で仕事も休みなので、寝室にもどってうたた寝を始めた。何気ない休日の家庭、まつりのあとの静まりかえった町並み、流れゆく川面にはどこも異変はない。
ところが久道は違った、部屋のカーテンを再び閉めきると、家のものらに起こさないよう強く伝えると、引き出しから睡眠導入剤を取り出して強制睡眠しようとしていたのだった、理由は明白である、もう一度夢見のなかで真相を探りあてようと目論んだのである。
小数派を自認してつきつめた結果がこれであった、己の裡に生起するもの、脳波が安定した状態で確証を得るためにも睡眠時による交信こそが彼の最終兵器なのであった。夢占いなどとは方法論を異にする、それは考古学者が遺跡で発見した秘密の回廊をときめきながら奥まったほうへと進んでゆく、実証的なアプローチに他ならない。
久道は失意を補填するためにことを起こしているとは考えなかった、ただ割り切れない感情がどうにも澱になって胸の底に沈殿しているみたいで、すっきりとしなかったのだった。そして混濁した気分はやはり感情として蒸発することを望むとそこには力学が発生する、ただむやみやたらな悪感情だと自分自身が収拾つかなくなるので、それを別のものへ委ねると、待ちかまえているのは、そう超能力者たちの恩恵であった、これほど熱心にあなたらの存在を信じている、その情念はまぎれもない宗教心の発露であり、まさにブーバーが著した「我と汝」で論じられる全人格的呼びかけの出会いに違いなかった。
あのメフィストに魂を売り渡したファースト博士の信念が、狂おしいまでの美学と悦楽に彩られていたように。