断章16


三階の一番奥、部屋の前に居並ぶ姿で佇みふたりしてドアを開ける。実際には性也がややぎこちなく上着の内ポケットから鍵を取り出して、弁当の包み袋とハンドバックを手にしたY子を中へと促した。それでも、ふたりしてこの部屋の歓待を受けたことに違いはないだろう。
玄関先で靴を脱ぎ部屋の明かりを灯すと、こらえきれなかった胸のうちに渦巻いていたものが、光を求めて奔流になって溢れ出てきた。手にした荷物をテーブルの上にのせると同時に、それらが重荷であったと疑いたくなっても仕方がないと性也はとっさにそう思った。Y子がこちらをまっすぐに見つめている、彼もその視線を逃さないよう努めた。それもつかの間、Y子の目線はうつむきかげんになり、その傾斜に沿って大粒の滴がぽたぽたと両眼から頬をつたう猶予もなく、床に落ちていった。
性也にしてみれば、予感がこんなにも見事に適中するのかと、運命と呼ばれるものを憎みながらもその宿命を決して避けてはいけないと確信して、Y子を引き寄せながらやんわりと包み込むようにして抱きしめた。
「わかってるよ、お別れを言いに来たんだね、時間はある、さあ、そこに腰掛けて」
出来うる限り、動揺に身をゆだねないで、上滑りしていく自分に何とか言い聞かして、今は気持ちの高揚を抑えられるだけ抑えて落ち着きを失わないことが大事なんだ、、、Y子の想いを、言葉を、瞳を、涙を、今は受け止めてなくては、、、灯された蛍光灯の明かりがいつもより、まぶしく感じる、悲劇のどん底では眼の前が真っ暗になるとか言うが、本当は青ざめ氷ついたようで醒めていて明るい。
性也の心中の葛藤とはうらはらに、Y子は自分に対してこんなに柔らかに接してくれる態度から、彼の心の悲しみをおもいはかってみたが、例えようなくつかまえどころないと感じ、それはわたしが落涙の真っ最中のだからうまくとらえられないのだと、あきらめの静かな情感をほんの少しだけ生みだして、それから淡雪が積もっては消えてゆく白銀の野を想像した。
見渡すかぎり一面が大きなこてで平たく、けれども自然の大地の起伏には逆らわず、その上をそのままの盛り上がりで、くぼみも同じくそのままに優しくなぞっていったふうに雪景色がきらめきを惜しみながらどこまでも続いていく。はらはらと紙吹雪が舞い視界の遠近感を忘れさせようとしている。どこまでも続いてゆく、、、遠くの山々のむこうもこんなに真っ白なのだろうか、、、幼い頃、ある朝母親から外を見てごらんと言われて、庭先から前の道路、近所の家々の屋根まで純白に変貌していた光景が鮮烈によみがえる、一晩の間に誰がこんな仕業をしていったのかと、訝りながら底知れない恐れと魅惑が同時に胸裏にわき起こった始めての知覚、、、しばらく呆然と立ち尽したままだった、、、雪国の世界に迷いこんだはずだったが、白銀の照り返しがすでに始まっていることを感じとれなくて、すっかり眼が光彩に奪われてしまい瞳孔が拡大していくのが分かる、、、
Y子が意識してまばたきをしたのは、雪の精に魅入られたおののきに慌てて我に帰ったからだろうか、するとY子はこう答える、、、わたしには帰るところがないわ。「えっ、今のは誰が言ったの」そのまばたきにより涙で曇った視界が一気にひらけた。気がつけば性也が手渡してくれた白いタオルを両手でしっかり握りしめている。思い返したといった仕草でぬれた眼元をぬぐい、わずかの間だったかも知れないけど遠い別世界をめぐってきたようで、眠りから覚めた時みたいにまわりへゆっくりと眼をやった。
見慣れたテーブルがすぐ前に、暖色で覆われた特徴のない何色だったかも思い出せないカーテンが、今夜は黄土色であることを主張しているのか、しっかり識別できる。テーブルの横に座り込んでいる本当に小さな冷蔵庫はどこにでもありそうな小型で白いもの、だけど小さすぎて今は反対に目立っているわ、、、テレビの上に置かれた赤い縁取りの四角い時計、これ目覚まし時計かしら、、、Y子の虹彩が今度は収縮しそこに視線がまるで一本の糸でピンと張りつめられた、、、じっと見つめる、時計の縁は赤かったが次第に地と図が転換するあのフォーカスが起動しだした。
耳をすますと秒針の移動がはっきりと聞こえている、その時を細かく刻むリズムが視覚と完全に一致した、、、八時五分、カーテンがひかれてない窓の方へと自然に大きく首をひねった、、、雪なんか降っていないわ、そうよ、まだ冬仕度には早いだろう秋の夜、、、そう確認するとひねられた首が反動で元の戻る具合に向きかえられた、、、その位置には寂しい表情をこらえている子供みたいな顔をした性也が立ちすくんだまま、見つめかえしているのだった。