断章14


会社がある最寄りの地下鉄線より二駅先まで電車で運ばれ、続く乗り換え線で十五分くらい揺られ降り立ったホームの改札から徒歩でわずかの距離に性也のアパートはあった。
こうしてY子と連れ合って電車に乗ったことは今までなかったと思えば以外な感慨であり、いつもの帰宅する慣れすぎて決まりきった路線を見知らぬ乗客らもそうであるよう、ひとり押し黙って一日の終焉へともうどれくらい繰り返してきたことか。時折思い出したといったふうに性也に腕を信頼以前の親和が寄り添ってくる加減がとても敏感に察せられる。Y子は長身の上にヒールの高い靴なので、腕組みとともに小首をかしげるような向きでしなだれらると、頭と頭がぶつかりあいそうでその為にY子は少し腰を屈める要領が必要だった、がそんな彼女の小さな配慮が今は胸にこみ上げてくるくらい切ない感情となって性也を幸せな気分にさせた。
退社してからここまでほとんど会話らしいものは交さなかったが、こうして今ここにふたりして何処かに、それは見知らぬ街や土地ではなく、実際に自分のアパートに向かっているという現実と同じ意味あいで、ある場所へと歩んでいるのである、それがどういった幕開けで始まりどう閉会するのか要点は絞りきれない、しかしふたりの道行きは確実に一歩一歩そこへと進んでいるのだった。
性也が言った通り駅前には何件かの飲食店が目に入った。Y子は出来るなら彼のいきつけの店で夕食をともにしたかったのだったが、前に話したよう出来るだけ人気のないところに落ち着きたかったので、この胸の中でこうしてどうにかあふれ出してくるのを必死でこらえている激情と涙を、一刻も早く性也に受け取ってもらいたかったのだった。すべてでない、少しでいい、理解してもらえなくてもかまわない、今は性也に自分の持ち物からクローゼットの中のもの、過去からこうしてここに蓄積されてきた想いや情感、何もかも一切合切まとめて広げて見せたかった。それらをひとつひとつ克明に、まるで散らばった宝石箱の中身をそれこそ血眼になって見つけて欲しいなどとは考えてもいない、これは揺れる不安定な場面にあっても毅然たる信念であった、たったひとつの信念かも知れなかった。

商店が立ち並ぶ交差点脇を折れ、道幅が狭くなったその先にある弁当屋を性也は指差し、内心食欲などほとんどないY子も彼の勧めるままにして買った総菜やお茶の包みを「わたしが持ってあげる」と楽し気な声で言ながら帰りについた。
性也の住まいは三階立てのアパートと形容するよりコーポとかマンションと呼んでも差しつかえのないまだ築数年らしい建物に見えた。もう幾度となくここを訪れているはずなのに、どうしてこんなにしみじみと眺めてしまうのだろう、いつもはY子は自分が運転して彼と一緒に、または送りの役目を果たす為に道のりも完璧に把握して近道まで発見するくらいであった、、、でも今夜は違う、、、会社から始めて電車を乗り継ぎここまでたどり着いた、おそらく彼ひとり毎日の帰路、、、わたし自身はほとんど車の移動、、、同じ時を過ごし、お互い見つめ合い、相手のうちに何かもうひとつの幻影を作り出して、出来ればそのままいつまでも夢見る心持ちでそこに居続けたい、、、傷つきやすく壊れやすいのはわたしたちの感性と一緒、どうしてかしら、生まれてくる以前からこんな気持ちがすでに存在していたと信じ込んでしまいそうになるのは、、、一体いつからこんな錯覚に囚われだしたというの、わたしから何が離れていこうとしているの、、、
Y子は一心に抱え込んだ悲哀と苦悩とは別のものが、個人的な煩悶と云った種類とは位相の領域で新たに産声を上げているのを聞いた。それが、目の前の玄関のそれからこうやって上がり下りしたこの階段や殺風景な壁面を凝視する意味であると、訃報を耳にした時の苦渋にこわばる手前のそれが虚構だと高をくくる、あの瞬間の小さな箱の中のもがきのような、それでも奥行きがかろうじて確認出来る感覚であることを、じわじわと底辺から足下にかけて忍びよってくる影の実体はもう追い払われないことを認めたのだった。
「この階段、わたし好きよ、だっていい足音が響くじゃない」
Y子は自分でも意識しなかったそんな言葉が不意に口をついて出たのに驚いた。
性也は黙ったままうなずきもせず、いつもなら気の利いたセリフを返すところ、反対に口元を、唇の上下全体を内側にすぼめた。Y子は無言の受け答えを納得した仕草で、早足になり性也を追い越して三階の廊下前まで駆け上がり、踊り子が踵を返す時みたいに鮮やかな動作で、階下の性也の向かって陽気なポーズを決めると、やや声高にこう言い放った。
「やったー!一番乗り!」
その声は残響音になって辺りに散らばった。人気のない気配を承認しながら、、、