断章12 「人気のないところがいいの。二人っきりで話したいの、性也くんのアパートがいい。食事は、、、ごめんね、何か手料理をって思うけど、そんな馬力ないんだ。それにわたし料理へただし、、、お弁当でも買って行こうよ」 わずかだが、苦笑しているY子の目が今にも湿りだそうとしているのを性也は見つけごく当たり前に頷いてみせた。 「わかった、そうしょう、じゃすぐに済むから少し待っててくれる」 そう言い残すと素早く自分のデスクに駆けつけた、一切の感情の起伏を平定させる勢いで。 本来ならば動揺に波打つ鼓動は以外にも平静を保ち、残務処理の手際も同様に落ち着いたものであった。性也はこれから知らされるであろう不透明だが、邪心を宿した良からぬ怪鳥が、実はもう何年も前より遠い天空の彼方から翼をひろげこの夕暮れを目指して飛翔を続けているように思えて来るのだったが、それもどこか空想じみた絵巻物だとよく主題曲を鼻歌で吹かしていた子供の頃を思い出して、今度は反対にこんな場面なのに能天気なイメージが降ってくるものだ、はやる気持ちを押さえる時いつか似たようなことがあったはずだったと、混線した胸騒ぎを自覚したのだが、普段通り的確に残務はてきぱきと片付けられている事態に変わりはなく、手先は別人かと錯覚を起こしてしまいそうなほどであった。 そんな葛藤とも矛盾とも云える、内実は超常現象のなかに放りだされているような不安感と現実離れした浮遊感が混合され、時間だけが正確に刻まれている連鎖は、気がつくとすでに帰り仕度が整っている現在へと横滑りしていた。 「早かったのね」そうひとことだけぽつりと、晴れ間が広がった大空の真下で先刻までの驟雨の忘れもののように、青葉からしたたるひとしづくを想起させる言葉がこぼれた。 夏日が遠い時間の向うに去っていったのがついこの間だったと、例年にならい訪れた郷愁はその場に佇む性也とY子のうちに今年も舞い降りた。 足早に外に排出される速度で二人は会社を後にした。オフィス街の近辺、複数のビルから各自が帰宅する顔がいっせいに、ネオンライトや車道を往来するヘッドライトの照射を浴びて浮き上がるほどに明暗が説得力を育んだ頃合いには、すでに街並は夜の墨汁でもって背景が確実に塗りつぶされてしまっている。 行き交う人の衣服の袖先に、胸元の隙間に冷ややかな空気が浸透してゆくと、誰もが似た感慨をもたらすといった具合に思わず首筋を縮めてみせるのは、やはり均等に辺りに時間が流れて行く証拠と言ってもいいのだろうか。 うつむき加減のY子のまなざしから予感される負の恩寵に性也はどう対処するべきなのか、歩調をあわせながらも内心にくすぶっているものが、どういった発火点となって飛び火してくるのだろう、足並みが揃えば揃うほどにその先の到着地への不安感がここに来て一気に性也のなかで母体を持たないスクリューのように回転し始めた。 「もうコートが必要ね、夜は寒いわ。ごめんね、立ち話でもいいから言葉にしたいんだけど、どうかしているかしら、すれ違う人たちも全然知らないあかの他人なのに、何故かわたしに聞き耳をたてている気がして不快なの、きっと考え過ぎなのはわかっているのよ、でもわかっているなら、大人しく従った方がいいわ。誰に従うってわけでもないけど」 「後で俺のアパートでゆっくり話してくれればいいさ、確かに今日は冷えこむね、ついさっき、何か数分前から更に気温が下がったんじゃないかって思うよ。日中の秋空は清々しくて、湯たんぽみたいなぬくもりがあるけど、夜になると態度が変る」 「何よそれ嫌み、ちゃんとここにあるものを伝えるからさ」そう言ってY子は自分の胸を二回叩いた。 「ねえ、性也くん、わたしたちほとんど外食ばかりだよね、いつもさあ、夕飯どうしてるの、わたし今まで気にしたことなかったけど、ほんと何食べているのかしら」 「気になる?」 「とても気になるわ」いつか見た映画の探検隊に参加する素人娘にそっくりの大仰な目のかがやきを表して、ご愛嬌と少し微笑んでくれた。その瞬間、性也はY子の胸に納められているものの輪郭がほんの少しだが透けて見えたような気がした。 「近所に定食屋があって、そこでオムライスとか、焼きそば定食とか、そうだな湯豆腐なんかも注文するんだ。それからバーがあってそこでうどんを食べることもある」 「あらあら、ひとりでも外食なんだ」 こんな些細で何の刺激にもならないが、小鳥のさえずりみたいな会話をY子はその時とても新鮮に感じた。しかし、鮮明な現実は小鳥たちを驚かせてしまうに違いない、そして飛び立ってゆくその残像に大きな傷跡がもたらされることになるであろう過酷な情景は、悪意をむき出しにした刺激で急転回される映像を無惨に粉砕してしまうのか、性也のなかで音をたてながら募って行くのはやはりそんな恐れであった。 |
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