晩夏14


木梨銀路の葬儀がいつ営まれ、遺骨がどこの墓地に埋葬されたのか、誰も知り得なかった。彼の親族をたどればそれらは判明することだろうが、銀路個人の死より、複数からなる殺戮劇に人々の注目が集められのは至極当たり前であった。
それも束の間、世にも不穏な態勢は猖獗を極める手前で、戒厳令とやらの人権を全面的に無視した超法規的措置により報道の自由が剥奪されると、一気に潮が引いていくように、素早く日常の顔付へと立ち戻ることを余儀なくされた。
恐怖に青ざめた相貌を、瞬時にして血色の良い面に塗り替える離れ業だったが、そもそも血の気を遠のかしておいて、手違いでしたと言わんばかりの高圧的な整列、そして速やかに解散では、脱臼をその場で即座に治してもらうような拍子抜の見せ物と何ら変わりはないと言えよう。
銀路の訃報から一週間が過ぎた宵の口、グリムに鈴子が現われた。その日は店内は賑わっており、常連である麻菜や周三の顔もあった。店中の客全員が鈴子の来店を知るや、演奏会で指揮者がタクトを振り上げる直前のように、完璧の無音が生み出された。時間がそこで停止したと換言しても大仰ではあるまい。何故なら来客者すべての瞳孔が急激に収縮して、虹彩はその縮瞳を讃える如く大きく、しかも限りなく純粋に澄みきっていたからである。
鈴子は光であった。音のない時の流れは静止画像そのものであった。固定観念とは融通の利かない視野狭窄でしかない、、、喪服かと見間違えても仕方ない黒衣の装い、、、それだけで見損じるのか、よく目を凝らせ、、、ドレスとも云える艶やかで華やかな裁断による胸元、身体の線に沿って所々を優美なフリルがまるでこぼれ落ちる花びらのように降下し、ウエストにはアラベスク模様が散りばめられ、その裾に広がるふくよかさはプリンセスラインを想起させる、、、そして、アップにした髪型の下に泰然として能面のような柔和な笑みを浮かべる様は、幸福の絶頂を抑制出来なくて思わず溢れてしまった女神による法悦に違いあるまい、、、何と美しい尊厳、何と輝かしき未来像、、、
鈴子が銀路の死をどう受け止めたのか。この美装を前にして、我々はもはや深海へと沈潜する冒険を犯す必要がないことを、考察をこれ以上進めてもすべてはここに屹然と動じず存在していることを、十二分に認めなくてはならない。
さあ、そして結論を述べたいところだが、その終結自体がどうにもまとめきれそうにない。簡潔に断片的所見だけを記そう。辺りが次第にざわめき始め、麻菜は開口一番に鈴子の安否を問うたのだが、こうして今、麗姿をもって佇んでいる現実を目の当りにすると、そんな質問が如何に無意味であるのか、切実に思えてきて言葉を失ってしまった、寡黙な性格が乗り移ったように。すると突然、鈴子が全くの別人のような快活な口調でこう喋りだしたのだ。
「やっと、完成したのよ、私の恋が、、、恋とは復讐だったの、誰にでしょう、、、木梨先生に、違うの、私自身の恋に復讐したの、いつも逃げ去ろうとした、隠れようとした、でも、これでもう安心、私は永遠の花嫁になったのよ、後は木梨先生を待っているだけ、、、あの人が四国巡礼から帰ってきたら婚礼を挙げるの、、、とても楽しみなのよ、麻菜さん、あなたも式に出席してくれるわよね、お願い」
鈴子はそう言いながら、満面が笑顔で崩れるようにして、誇らし気に背筋を伸ばして見せた。黒衣の花嫁の威厳をもって。
後は麻菜と周三の反応に焦点をあて、その情動を見送りながら、この物語を終えるとしよう。
感情より先に双の目からは、大粒の涙が次々とあふれ出してはこぼれゆく。そのうち麻菜の視界は完全に失われてしまい、両の手が湧き出る泉を抑えようと顔を覆った。それでも後から後から勢いは、とめどもなく涙川となって指先の間から漏れるようにして滴り落ちていった。不思議に嗚咽とはならず、ひたすらに滂沱として流れるばかりであった。
周三は苦虫を潰したような顔をしていたが、何度も何度も、眼鏡を掛け直している自分を意識していた。そうしながらも何か一言くらい鈴子に声をかけるべきだと考えを巡らせている横で、足下を崩してしゃがみ込む麻菜の姿が、忽然と眼鏡の奥へモノクロ写真のように仕舞いこまれるのだった。


ーこの小説は祝福を込めて若き夫婦に捧げられるー