日本映画製作者連盟という団体があって、
そこが、毎年1月に前年の映画産業に関するデータを発表しています。
(発表データのページ)
それによりますと、昨2002年の映画の入場者数は、
160,767千人で1.5%の減だそうです。
2001年は、「千と千尋…」の大ヒットがあったこともあって、
対前年で20%以上増の163,280千人でしたので、
斜陽といわれている映画にしては、
よく健闘しているということでしょうか。
過去のデータも発表されていますが、
入場者数は、1958年の1,127,452千人
スクリーン数は、1960年の7,457スクリーン
が最高で、以後、どんどん減ってきたわけです。
映画は、
私たちの生活からも、どんどん遠のいていき、
街の映画館は、次々に廃業していきました。
ところが、
入場者数は、1996年の119,575千人、
スクリーン数は、1993年の1,734スクリーンを底に、
それ以降、増加傾向に転じています。
ワーナーマイカルが、
本格的なシネコンを設置したのは、
1993年のことだそうですから、
街の映画館から、シネコンに移ってきたということでしょうか。
そういえば、私自身、津にワーナーマイカルが出来てから、
映画をよく見るようになりました。
プログラムが多いので、
見たい映画を見るチャンスが広がったことが大きいでしょうね。
映画の平均料金も出ていますが、
最盛期の1960年は、何と72円です。
朝日文庫の「戦後値段史年表」によりますと、
正規の入場料は、200円のようです。
「キャラメルの値段」(一橋芳則;河出書房新社)では、
昭和30年ころの映画観覧料(大人)は、
東京108円、名古屋112円、大阪123円とあります。
この二つの本によると、
公務員の大卒初任給が10800円(今の20分の1くらい?)、
背広1着が約1万円、
京都の市電の運賃が13円という時代ですから、
映画がそれほど安かったわけではありません。
封切館と再上映館では入場料が大きく違っていました。
多くの映画ファンの実態は、
場末の三流館のトイレの臭いがただよってくるような客席で、
立ちながらスクリーンに目を凝らしていたのです。
日本が豊かになるにつれて、
そんな映画に魅力を感じなくなっていったわけです。
もちろん、音声がドルビーになったり、
業界もいろいろ努力はしたのでしょうが、
決定的に映画のイメージを変えることはできなかったと思います。
それが、シネコンの登場で、
映画館のイメージがガラッと変わりました。
津東宝にトトロを見に行った時は満員で、
小さな子どもを抱きかかえながら立ち見でした。
今は、全席指定ですから、そのようなこともなくなりました。
街の映画館では見なかった
若いカップルも目につきますし、
日曜日などは、
ロビーが、家族連れなどで、ごった返しています。
客層が広がったということです。
私の世代には街の映画館への、一抹の郷愁があることは確かですが、
新しい時代にふさわしいシステムで、
新しい時代にふさわしい魅力的な映画が上映されることによって、
たくさんの人が映画を楽しむことは、良いことではないかと、
思います。
一方で、前回ご紹介した
シネマテークや岩波ホールのように、
マイナーな映画を
きちんと上映していくことが大事なのでしょう。
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