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funada-fuji
信仰マガジン
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(資料提供 福田 学 氏より)
《富士山名》鮒田富士(ふなだふじ)
《正式山名》尾子山(おじやま)
《標高》302.9m
《所在地》三重県南牟婁郡紀宝町鮒田
《コメント》
鮒田富士の麓には、氏神様が鎮座、主祭神は国霊日女命、海上から眺めると同じ形の山が二つ並んで見える処から、
豊満な胸を上にした女性の寝姿に似ているので、「霊姫の寝たる姿や鮒田富士」と歌われ海上安全と豊漁祈願をしたと伝えられている。ふるさとの富士があり、「鮒田富士」尾子山はその1座です。
 和歌山県の紀伊本線新宮駅から熊野川に架かる新熊野大橋を渡ると三重県の紀宝町に入ります。熊野川を左手に見ながら西に進み鮒田水門を渡り熊野牛鼻神社の前を通って北に進み左側にコンクリートの階段の三メートル程上に大きな岩を屋根代ヲナヨ地蔵さんが見える民家があり、ここが登山口となっています。階段を上ると鮒田富士登山口の標識があります。約50分で尾子山の山頂に到着します。山頂からは熊野川河口から熊野灘にかけての展望が楽しめます。
2007/8/15現在は登山道は管理が行き届いておりません。
平成20年11月3日:県道から撮影
登山口マップはココ
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世界遺産 御船島

 御船島は、行政上は紀宝町に属しますが、熊野速玉大社の御船祭が行われるところで、世界遺産に登録されています。毎年10月16日に行われる祭は、熊野夫須美大神(くまのふす
み<むすびひ>のおおかみ)が御船島に旅をし、社殿に還(かえ)るという、この神様が熊野に来られた昔を再現する祭りで、勇壮な九艘の早舟競漕や諸手船(もろとぶね)の女装の演者の「ハリハリ踊り」は神様がリフレッシュして(生まれ変って)再び人々に恵みを与えてくださるように促(うなが)しているのだといいます。今からおよそ900年も前(平安時代)から京都でも話題になった祭りで、今も大勢の見物客を魅了しています。

◎早船競漕の歌
  三(み)熊野の浦(うら)わにみゆる御船島
               神のゆききに漕ぎめぐるなり

 (み熊野の海岸近くにある御船島に神様がおいでるお祭りに早船が競い合って漕ぎ回る)
 白河印(白河天皇)の女官の少将内侍(しょうしょうのないし)が作った歌で、今からおよそ900年前の平安時代に作られました。この歌で早舟競漕が京都で知られるようになりました。

 御船島が京都で知られるようになったのは、御船漕ぎが知られるようになる前で、今からおよそ千年も前(十世紀末)に京都から中辺路を通って、本宮に参り、御船島の側を通り、伊勢路から京都に帰った{いほ<お>ぬし}こと増基法師の歌によってだと考えられます。増基法師の歌を記しておきます。

◎御船島の歌
   山の尾に誰棹(たれさお)さして御船島
               神のとまりにことよさせけん

  (川でもない山の尾の伸びたようなところに、いったい誰が棹をさして神様の乗ったお舟を導き、この御船島を神様 の泊まりどころとして定めるようにご命令になったのだろうか)
 古い歌は、写し写しして(写本で)伝わったので、歌の文句の違うのがある。
主なものを記すと、
 ☆ そこのをに誰さをさしてみふねじま
     神のとまりにことよさせけむ(早稲田大学所蔵本)
 ☆ そこのせに誰さをさしてみふね島
     神のとまりにことよさせけれ(夫木和歌抄本)
早舟競漕 写真提供 田岡穂積 氏
丑 年 神 社



牛鼻神社(本殿  神明造)

当社は創建は昔からの言い伝えではも五千年以前ともいわれ、広い範囲の総氏神として尊崇され、約三千年位も前に熊野川の大洪水の際に、今の御船島の山続きだった所が切れて、現状になった。平成二年の十九号台風で斜木したので、伐採したが二五〇年輪だったので二代目と分かる。今わ三代目である。江戸時代ころから牛を役牛として耕作に利用するようになって、牛は高価ゆえに家族同様に大切にされて、牛鼻の名にちなんで牛体守護の守礼を牛小屋の柱などに貼るようになった。昔から祭典奉仕には、遠く十津川・大和・京からも祖先の墳墓の地であると参列者多かった。現在は牛を飼育する人は無くなり十一月三日の秋祭りのみ行事と成っている。
(紀宝誌より)
武蔵坊弁慶
弁慶の誕生地伝承は、熊野では鮒田だとする古い伝承資料は、寛永十九年の『紀伊新宮藩御領分村方角・家数道法書上』で、鮒田村 弁慶うぶや楠ともうし伝楠1本有り。廻り九尋・高さ十三間。弁慶のたま石(別名ひふみいし)と申伝、廻り五尋も湯の谷と申す所にあり、湯少し出 て弁慶塚の碑に現在も出ている。「弁慶産家之楠跡 寛政七年四月三日焼失」と刻まれている。
(紀宝誌より)
鮒田の庚申 宝永三年とある
庚申とは、盗難・失物等のときに左荒縄をなって縛っておくと、返ってきたり、見つかるというが、現在では効果は いかがとも思うが、ときには縛られていることもある。現在は瀬古家・矢花家・西地家が庚申の日に「のぼり」を立て管理をしている。
(紀宝誌より)

ヲナヨ地蔵 安政六年十二月とある
県道から三メートル程上に大きな岩を屋根代わりにして祀ってある。昔ヲナヨという女性がこの所で大きな石の下敷きになり、頭を打って亡くなったいわれ、首から上の病気にご利益があるとされて、いつも綺麗に木之下様の奥さんが掃除されて花が供えられている。又鮒田富士登山口として知られている。
(紀宝誌より)

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