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牛鼻神社(本殿 神明造) 当社は創建は昔からの言い伝えではも五千年以前ともいわれ、広い範囲の総氏神として尊崇され、約三千年位も前に熊野川の大洪水の際に、今の御船島の山続きだった所が切れて、現状になった。平成二年の十九号台風で斜木したので、伐採したが二五〇年輪だったので二代目と分かる。今わ三代目である。江戸時代ころから牛を役牛として耕作に利用するようになって、牛は高価ゆえに家族同様に大切にされて、牛鼻の名にちなんで牛体守護の守礼を牛小屋の柱などに貼るようになった。昔から祭典奉仕には、遠く十津川・大和・京からも祖先の墳墓の地であると参列者多かった。現在は牛を飼育する人は無くなり十一月三日の秋祭りのみ行事と成っている。 (紀宝誌より) |
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武蔵坊弁慶 弁慶の誕生地伝承は、熊野では鮒田だとする古い伝承資料は、寛永十九年の『紀伊新宮藩御領分村方角・家数道法書上』で、鮒田村 弁慶うぶや楠ともうし伝楠1本有り。廻り九尋・高さ十三間。弁慶のたま石(別名ひふみいし)と申伝、廻り五尋も湯の谷と申す所にあり、湯少し出 て弁慶塚の碑に現在も出ている。「弁慶産家之楠跡 寛政七年四月三日焼失」と刻まれている。 (紀宝誌より) |
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鮒田の庚申 宝永三年とある 庚申とは、盗難・失物等のときに左荒縄をなって縛っておくと、返ってきたり、見つかるというが、現在では効果は いかがとも思うが、ときには縛られていることもある。現在は瀬古家・矢花家・西地家が庚申の日に「のぼり」を立て管理をしている。 (紀宝誌より) |
ヲナヨ地蔵 安政六年十二月とある 県道から三メートル程上に大きな岩を屋根代わりにして祀ってある。昔ヲナヨという女性がこの所で大きな石の下敷きになり、頭を打って亡くなったいわれ、首から上の病気にご利益があるとされて、いつも綺麗に木之下様の奥さんが掃除されて花が供えられている。又鮒田富士登山口として知られている。 (紀宝誌より) |