52■魔の山にて (1)
エビルマウンテンに登って、お母さんに会う。


259■エビルマウンテンへ (ソル視点)
相変わらず、魔界の空はいつもどんよりした灰色で時間が良くわからない。
目が覚めても薄暗いから、何となくちゃんと眠った気がしないのが、ちょっと辛い。

一度、ぼくらはエビルマウンテンを目指して北に向かってみた。けどさすが魔界だけあって、行く手を遮る魔物の数も強さも、ぼくらが居た「オモテの世界」とは桁が違う。
金色の表皮を持ったドラゴンは群れでやってくるし、炎を吐く鳥型の魔物は飛んでくるし、一匹でもやばかったギガンテスも団体でやってくるし、ともかくなかなか旅は順調に進まない。
戦ってはジャハンナへ引き返す、ということが何度か続いた。

そうこうしてるうちに、ぼくらも流石に強くなるし、戦い方もわかってきて、漸く魔界でも何とかなりそうになってきた。
「そろそろ、本格的にエビルマウンテンを目指そうか」
魔界にやってきて半月くらい。
ジャハンナの宿でご飯を食べてるときにお父さんが唐突に言った。
「そうね、最近漸くちゃんと戦えるようになったし、余裕も出てきたもんね」
お母さんが頷く。
「本当ははもうちょっと早く何とかなる予定だったんだけどね」
お父さんは肩をすくめる。
「流石に魔王のお膝元だ」
「ぼく、最近すっごく強くなった気がする」
「わたしも」
「多分気のせいじゃないよ」
お父さんは笑ってぼくらの頭をくしゃっと撫でてくれた。
「じゃあ明日の朝、本気で一回エビルマウンテンを目指して出かけよう」
そういって、お父さんは北の方角をちょっとだけみた。
窓の無い壁だから、エビルマウンテンが見えるわけでもなかったけど、それでもお父さんは一瞬凄く鋭い目をした。
多分、魔王を見据えてるんだろう。

お父さんは、時々ああいう眼をする。
ちょっと恐い瞳。
あの瞳が向けられるのは、いつだって憎い敵がいるとき。
魔物に向けられる瞳。
でも、仲間の皆に向ける目はいつだって優しい。
ぼくだって、ゲマとか大嫌いな魔物はいるし、
仲間の皆は大好きだし、
きっとお父さんも同じ気分なんだろうけど、

お父さんは
本当のところ、魔物のこと、どう思ってるのかな。
お父さんと同じくらいの歳になったら、分かるのかな。

聞いてみたいけど、何となく聞けないで
ぼくは考えるのをやめてパンを口の中に入れる。
お父さんはいつもの顔でお母さんと笑いながら話をしてた。


次の朝、エビルマウンテンを目指して出発した。
相変わらず、やっぱり空は曇ってるし、風が冷たい。
「ねー、今って夏よね? 夏だったわよね?」
お母さんが口を尖らせるようにしながら言う。
「初夏だね」
答えるお父さんに、お母さんは叫ぶ。
「夏でコレって事は冬はどうなってるのよ!」
「……冬になるまでにはきっと全部終わるよ」
お父さんは困ったように笑って、それから空を見上げる。
「ボクとしては太陽が見れないのがキツイなあ」
「青空も」
マァルが付け足す。
「ソレを言ったら、お月様とかお星様だってそうだよ」
ぼくも付け足した。
その言葉で、皆が一斉にため息をついて空を見上げる。
どんよりと重い灰色と、きつい紫のモヤ。
いつも変わらない空がそこにある。
「お婆様、いつもこの空を見てるのよね?」
マァルがぽつりと呟いた。
「早く青い空見せてあげたいね」
「そうだね」
ぼくはもう一回空をみあげてみた。
上は風が強いのか、雲が流れていっている。
何だか、寂しい気分になってきた。
「さあ! 張り切って行きましょ! まだお婆様は大丈夫!」
お母さんが大きな明るい声で言って手を一回叩いた。
「暗い気分になったらそれだけで負けよ? きっと大丈夫!」
そのまま、拳を突き上げる。
「ビアンカちゃんがそういうなら、大丈夫だろうね」
お父さんが笑った。
「今までだってそうだったから」
お母さんが少し得意気に笑った。

きっと、ぼくが知らないお父さんとお母さんだけの秘密の話がいっぱいあるんだろう。
いつか聞かせてもらわなきゃ。

ぼくらは北へ進む。
あいかわらず空は灰色だし、敵の魔物は強いけど、もう憂鬱じゃなかった。
歩いて疲れると休んで、皆でわいわい話しながらご飯を食べて眠って、また出発する。
コレまで「オモテ」の世界でやってきたように、魔界でも旅が出来るようになった。
ぼくらは、そのくらい強くなったんだ。
だから、きっと平気。きっと大丈夫。

何回かの休憩を繰り返した。
正確には何日たったかは分からない。
けど、歩くたびにエビルマウンテンが大きくなってきてる。
そのうち、広い沼地が広がっている平地に出た。
その平地の奥にエビルマウンテンがそびえたっている。
山の周りを、真っ赤な溶岩が流れていく。

「悪そうな山だねー」
お父さんがエビルマウンテンを見て苦笑いしながらそんな事を言った。
「悪そうなんじゃなくて悪いのよ」
お母さんが呆れたように言ってお父さんの顔を覗き込んだ。それから小さな声で何か言ったみたいだったけど、ぼくのところまでは聞こえてこなかった。
ただ、お父さんが嬉しそうな顔で笑ったから、きっといい事だったんだろうなって思う。

「それじゃ、行こう」

お父さんの声で、ぼくらはゆっくりエビルマウンテンに向かった。
260■エビルマウンテン 1 (テス視点)
沼地の広がる平野を、山の方角へ向けて歩く。
少しずつ平らだった地面が、緩やかに上り坂になってきていた。
エビルマウンテンから連なる険しい岩山が、少しずつ平野の出口を狭めていって、いつしか山道に変わっていった。
馬車が通って、多少余裕がある程度の山道を、ボクらはエビルマウンテンに向けてゆっくり進む。
道の両脇には深い谷があって、そこを真っ赤な溶岩が流れていくのが見える。

視界が開けた。

エビルマウンテンの正面。
細かった道はまた広くなっていた。地面は人工的に手をいれたのだろう、少し白っぽい硬い地面が平らに広がっている。
大きな篝火がいくつも並んで、道を作っていた。
その行き止まり。
エビルマウンテンには入り口があった。どうやら魔王の居城は山の中にあるらしい。
入り口は、中に広がるのが自然の洞窟ではないのを物語っていた。両脇には重厚な装飾がされた太い柱。松明が掲げられていて小さな光を放っている。その前に二対の大きな魔獣の像が並んでいた。今にも動き出しそうなくらい精巧に出来た代物で、もしかしたら元は本物だったのかもしれないな、と思った。
入り口には短い登り階段がついていて、その中の闇へと続いていた。

「お婆様、きっとこの先にいるね……。わかるんだ。なんとなくだけど」
ソルは入り口の奥に広がる闇を見据えて呟く。
「恐い?」
「ぼくは大丈夫。何にも恐くないよ。だってお父さんの子どもだもん」
ボクはソルの頭を軽くぽんぽんと叩いた。

いつの間に、こんなに強くなったんだろう。
いつの間に、こんなに成長したんだろう。
毎日一緒に居るはずなのに、
ボクの想像を軽く上回って、どんどん大人になっていく。
それが嬉しくて、
ちょっと寂しい。

「そっか」
ボクは漸く返事をすると、ソルは少し照れくさそうに笑った。
「わたしは……ちょっと恐い。……恐い魔物さんたちがあちこちからわたしを狙ってる……気がするの」
マァルは不安そうな瞳であたりを見回した。
今のところ、あたりは静かで何も変化は無い。
「そう。……実はボクもちょっと恐い。けど、皆が居るから頑張れる。きっと大丈夫だよ。マァルのことは、ちゃんと守るからね」
「うん」
マァルは気丈に頷いた。
「私も守るからね」
ビアンカちゃんはしゃがんで、マァルに目線をあわせてから微笑む。
「うん」
「で、私のことはテスが守ってね?」
しゃがんだままビアンカちゃんはボクを見上げてにっこり笑った。
「あ! ぼくも!」
ソルも笑って手をあげる。
「……君たち元気だから大丈夫だよ」
呆れて言い返すと、ビアンカちゃんは頬を膨らませる。
「何よ! 私は駄目って言うの!?」
「信頼してるって言ってよね」
ボクとビアンカちゃんの言い合いに、皆が笑った。
「お父さんお母さん、ありがとうね……わたし、元気出た」
「……あ、ソレはよかった」
あまり意図してなかったけど、マァルが笑ってくれたのは嬉しい。
「マァル、騙されんな? 今のは全然元気付けるつもりなんてなかったぞ!? テスもビアンカもいつもこんな感じだったんだからな!?」
馬車の中からスラリンがマァルに声をかける。
「こんな感じ?」
首を傾げるソルとマァルに、スラリンは続ける。
「そう。いつだってコイツ等バカップルなんだからな?」
ボクは思わず馬車に顔を突っ込む。
「スーラーリーンー」
「怖い顔したって無駄だぞ、本当のことなんだからな」
ボクは舌打ちして馬車から顔を引っ込める。
「言い負けしないでよね」
ボソリとビアンカちゃんが後ろで言ったけど、聞こえない振りをしておいた。
 
「こんなに騒いでも敵が来ないって不気味ですね」
ピエールが辺りを見回す。相変わらず静かなものだった。
「反省してます」
思わず謝るとピエールは笑った。
「いえ、いつもどおりリラックス出来て良かったです。緊張していては持てる力も発揮できません」
「そっか」
「中はどうなっているのでしょうね?」
「まあ、とりあえず総本山だ、敵は強いだろうね」
「勝てますか?」
「勝つんだよ」
ボクは答えながらランタンに火をつける。
「それじゃ、行こうか」

 
入り口にある禍々しい大きな魔獣の像の横を通り抜けて、内部に入り込む。いきなり魔獣の像が動き出す事もなく、何の問題もなくボクらは内部へ侵入できた。
もしかしたら、ある程度進入しても問題ないと考えられているのかもしれない。あるいは、侵入者がやってくる事自体を考えていないのかもしれない。
コレなら、馬車も一緒に行けそうだ。中で何があるか分からないし、怪我をしたときホイミンに直してもらえるのはありがたい。

内部はしっかりとした石造りの建物になっている。壁は深い青色。灰色の柱と入り口のものに良く似た魔獣の石像が壁際に並んでいる。
床はところどころにぬかるみがある。足をとられないように気をつけないといけなさそうだ。
少し遠いけど正面にのぼり階段が見えた。
「辺りを警戒しながらゆっくり行こう。ボクが前を行くから、ピエールは後ろをよろしく。ソルとマァルは左右」
「分かりました」
ピエールが頷く。ソルとマァルは話し合って、マァルが左側に行った。
「私は?」
ビアンカちゃんが不満そうにボクを見る。
「ビアンカちゃんは馬車で待機してて。いつ魔法がいるか分からないから、なるべくマァルとビアンカちゃんは別々に戦いに出てくれるほうが嬉しい」
「……わかったわ」
ちょっと口を尖らせてビアンカちゃんは頷く。
「ありがとう」

ボクは正面を向く。
とりあえず、目指すのはあの見えている階段。
多分、魔王は山の頂上に居るだろう。
「コレで全部終わるよ、皆」
皆がボクを見た。
「頑張ろう」
261■エビルマウンテン 2 (テス視点)
ぬかるみに気をつけながら、ボクらは階段を目指して歩く。辺りはしんとしていて、今のところ魔物の気配は無い。
「お父さん、ぼくトヘロス使うね」
ソルがそういって、トヘロスを唱える。一瞬で辺りに辺りに聖なる力が広がっていくのがわかる。コレで暫く魔物は近くによって来れないだろう。
「ありがとう。探索が楽になるね」
「うん」
「とはいっても、気は抜かないで行こう」

ボクらは階段をのぼる。
二階も深い青の壁に、白い床。周りには石像もなく、階段しかない。随分あっさりとした場所だった。
ここから道は真っ直ぐ伸びている。ほんのちょっと行ったところで腰の高さほどの壁が視界を遮っていた。ソコで道は右に曲がっていてここからは先が見えなかった。
「ともかく、もう真っ直ぐ進むしかないね」
「いけるところまで行っちゃう?」
「そのつもり。無理だと判断したらすぐ帰るけど」
ソルがボクを見上げて笑った。
「無理はしない?」
「しない」
「そっか」
そんな話を少しして、ボクらはまた前へ進む。
魔物の気配は、相変わらずトヘロスのおかげか全く感じない。
緊張感がいつまで持つか、というのが今のところ問題なのかもしれないな、と思った。
通路の突き当たり、腰の辺りまでの壁越しに向こう側を覗き込む。
向こう側は長く通路が伸びていて、登りの階段が見えた。
「とりあえず、見えるところから行ってみよう」
そう決めて、ボクらは階段のほうへ進んだ。

突き当たりには大きな魔物の像と柱が並んでいる。その前に登りの階段があった。
「あの大きな像がわたしたちのことじっと見てるみたい……」
マァルが像を見上げて眉を寄せる。
確かに、今にも動き出しそうなくらい精巧にできてる。
「確かにそんな感じはするね。でも大丈夫だよ」
ボクは石像を見上げた。
しっかりと台座にくっついている。
「うん」
マァルはまだ不安そうだったけど、頷いた。
「罠かしら?」
ビアンカちゃんは階段を見て首を傾げる。
「罠だったらすり抜けて、戻ってきたらいいんだよ」
苦笑して答える。
罠かも、と疑っていたら多分ここではどこへもいけないだろう。
「それもそうね」
ビアンカちゃんは大きく息を吐いてからそういった。
「きっと大丈夫」
 
結局大きな魔物の像が動く事もなく、ボクらは階段をのぼった。
その先にも、また同じ石像が壁際にあってボクらを見下ろしていた。
「……どうやら、この石像を飾るのが流行りみたいだね」
「沢山飾っておいてどれか一つだけが気を抜いた頃動き出して襲ってくるのかもよ?」
ボクの感想にビアンカちゃんが言う。
「そうかもね」
「でしょ? 気を抜いちゃ駄目よ」
「気を抜いてるつもりはないけど」
「うん、わかってる」
相変わらず、壁は深い青。所々に松明が掲げられていたけど、今回通路は少々狭くて、壁の色とあいまって薄暗く感じられた。
道自体は少し折れ曲がったりしているけど、基本的には一本道。迷う事も悩む事も出来ないまま、ボクはその道を進んだ。
時折マァルが大きく息を吐く。深呼吸をしているようだった。
暫く行くと、視界が少し開けた。
通路の突き当たりは少し広い空間になっていて、右側に続く通路と、この空間から次の階へつながる階段とがあった。
壁には相変わらずあの大きな魔物の石像があって、何本か焚かれた松明のおかげで少し明るい。
「右に行って通路を確かめるか、それともすぐ階段をのぼっちゃうか?」
ボクらは暫く話し合って、とりあえず階段をのぼってみることにする。結局この階段の先は何も無い部屋に繋がっているだけで行き止まりだった。
仕方なく戻って、通路を進む。
暫く長く薄暗い通路が続いていて、やっぱり突き当たりに魔物の像と階段があった。
「流石に見慣れてきた……」
マァルが魔物の像を見上げる。
「そういえば、見たこと無い魔物だよね。……何の魔物なのかな?」
ソルが首を傾げる。
「もしかしたら、魔王なのかな? わざわざいっぱい飾ってあるし」
言われて、ボクは魔物の像をしっかりと見てみた。
「んー、魔王にしては威厳が無い」
角と角ばった体をした結構がっしりとした魔物で、確かに強そうではあるけど、どう考えても魔王として多くの魔物を率いてるかんじが無い。
「コレって魔王?」
ソルは馬車の中の皆に尋ねる。
皆は首を横に振った。
「わかんない。だってオイラたち、オモテ生まれだから」
「あ、そうか」
「まあ、魔王だとしたら心の準備が出来るわけだし、魔王じゃないなら、襲ってこないだけで十分だよ」
ボクはそういってソルを見る。
「ん、そうだよね」
結局、正体は分からないままではあるけど、とりあえず納得したのかソルは頷いた。
 
 
階段の先はまた通路だった。
今度はのぼった階段のすぐのところに隣の部屋への入り口。それとは反対側に続く通路、この二つの選択になった。
すぐの部屋を覗くと、小さな部屋に繋がっているだけで、何も無い。
「こっちはハズレ」
そのまま通路を進む。相変わらず一本道で、少し拍子抜けする。
「……ずっと一本道だと不安だよね。どっかに落とし穴があるんじゃないかな」
ボクが言うと、馬車の中でビアンカちゃんが笑う。
「なんか、久しぶりにその言葉を聞いたわ」
「でも、ここが魔王のお膝元なんだよ? ちょっと単純すぎない?」
「絶対的な自信があるのよ、きっと。でも、ソレは私たちが行くまでよ」
「そうだね」

通路は広い部屋に行き着いた。
階段が中央に一つだけある殺風景な部屋で、何度も見た魔物像すらない。仕方が無いからボクらは階段をのぼる。
次は狭い部屋で、すぐのところに出口があった。出口の向こうに見慣れた重苦しい灰色と紫の空が見える。
山肌に出るらしい。
「この先になんだか凄く嫌な気配を感じるの……」
マァルが少し頭を押さえて呟く。
ボクはマァルの顔を覗き込んだ。
「大丈夫? ビアンカちゃんとかわってもらう?」
「ううん、今はまだ平気……それに優しい感じもまじってるから」
「?」
不思議に思っていると、ビアンカちゃんが頷いた。
「もうすぐねテス。きっともうすぐお母さまのいる場所にたどり着けるはずよ……何だか、そんな気がするの」
二人ともボクよりずっと魔力だとか気配に敏感だ。
だから、きっとこの先に何かがあるのは間違いないんだろう。
「じゃあ、気をつけていこう」
ボクらはお互い頷きあうと、出口から外に出た。
262■お母さん (テス視点)
どうやら、ここは頂上らしかった。
空の色は相変わらずで、吹き抜けていく風が冷たい。
ごつごつと黒っぽい茶色の石で出来た山肌。地面は歩くためなのか平らにされている。平らな地面、とはいえ後は断崖絶壁。勿論手すりなどないし、道幅も言うほど広くは無い。
気を抜いたら……考えるのも嫌になるような目に遭うだろう。
崖と崖は粗末なつり橋でつながれている。
マァルが憂鬱そうにため息をついた。
「ここが山のてっぺんかな?思ったより広いね」
ソルが辺りをキョロキョロと見て言う。
ボクは頷いた。
「それに何だか変な形。遠くから見たときはもっと尖って見えたのにね」
そんな事を話し合っていたら、ビアンカちゃんがボクのマントを少し引いた。
「ねえテス! 聞こえない? ほら……どこからか祈るような声……」
ビアンカちゃんは人差し指を口元に持って行った後、小さな音も聞き逃さないようにするみたいに、両手を耳に持っていった。
ボクも倣って耳に手を当ててみたけど、風の音が聞こえるばかりで分からなかった。
「ごめん、分からない」
「うん、私ももう聞こえなくなっちゃった」
ビアンカちゃんも首を傾げる。
「ただ、急いだほうがよさそうだね」

足元が不安定なつり橋があるから、スライムにまたがっているピエールはちょっと危なそうだった。
頂上を歩くときだけ、ピエールには馬車に入ってもらって、代わりにビアンカちゃんが外を歩く。
「やっぱり歩くほうが性に合ってるわ」
ビアンカちゃんは大きく伸びをしてから言うと、マァルの手を握った。
「つり橋の間は目をつぶっていていいわよ。私が手を引いていくからね」
「うん」
きしんだ音を立ててたわむつり橋を慎重に渡る。
途中で下を一度だけ除いてみたら、空と同じ重苦しい灰色と紫の何かが広がっているのが見えた。
道はだらだらとした長い登り坂になっていた。
元々あった崖に沿って道を作ったんだろう、少し蛇行しながら道は続く。二度つり橋を渡ったところで、目の前に洞窟へ続く入り口が見えた。
ざっと見た限り、他にルートはなさそうだ。
ボクらはそのまま真っ直ぐ入り口をくぐる。
中はコレまで歩いてきたのと同じ、深い青色の壁と白い床の人工的な建物に繋がっていた。
「あら、また建物ね」
ビアンカちゃんは辺りを見てため息をつく。
「なんか、正しい道を歩いてるのかどうか、わかんなくなってきたね」
「……魔王に会えたら正解ルートだよ」
「うーん、なんかそう言っちゃうと微妙ね」
ボクらは軽く笑いあってから歩き出す。
道は一つしかない。ただの通路なんだろう。
行き止まりにのぼり階段が一つあるだけで、随分シンプルなつくりだった。
「お婆様待っててね。もうすぐみんなで助けに行くから……」
マァルが階段をあがるときに深呼吸した。
 
 
階段をあがると、また山の頂上へ出たようだった。
一気に視界が広がる。
目の前には紫が濃くなった灰色の空。
そして、
その空をバックに、真っ白な石を積み上げてつくった祭壇が見えた。
その祭壇だけ、本当に真っ白で魔界にそぐわない。
気分の悪い色の空に、ぽっかりと浮かぶように見えた。
祭壇の上には誰か髪の長い女の人が立っているのが見える。
そしてその祭壇に登るための階段のところに、ダークシャーマンが二人居るのが見えた。
「……っ」
ボクは暫く立ち尽くす。
何か、今まで感じた事の無いような感覚が、背中の辺りを駆け抜けていくのが分かった。
左腕に重みを感じてみてみると、ビアンカちゃんがボクの左腕をギュッと握っていた。
目が合うと、ビアンカちゃんは無言で頷く。

言葉は要らない。

あれは。

お母さんだ。

ボクらは足早に階段を目指す。
ボクらに気づいたダークシャーマンが、その蛇になっている腕を戦いに備えて振りかざしながら口々に叫んだ。
「何だお前たちはっ!?」
「今マーサ様は我らが魔王ミルドラース様のために祈りをささげているのだ。ジャマするやつはこうしてくれるわっ!」
「煩いお前等こそ邪魔だ!」
言い返すと、途端に彼等はボクらに襲い掛かった。
コレまでソルのおかげで魔物と戦っていなかった事と、もともとそれほどダークシャーマンが敵ではなくなってきていることもあって、ボクらはすぐに彼等を振り払う。
それから、階段をのぼろうと祭壇を見上げる。

その時、声がした。

「テス……テス……」

ボクを呼ぶ声。
小さいけど、優しい声。
声と一緒に、ボクらをやさしい光が包みこむ。
さっきの戦闘でつくった怪我が治っていく。
疲れがなくなっていく。

ボクは祭壇を見つめる。

ゆっくりと階段のほうへ向かいながら、
その髪の長い女の人は。
お母さんは、
ボクを見てにこりと微笑んだ。

どうしてだろう。
初めて会ったのに、お母さんだって分かる。

「ああ……テス……テスですね……」

ボクは何も言えずに、ただコクコクと頷いた。

「母はどんなにかあなたに会いたかったことでしょう……。私がさらわれたあの日以来、あなたのことを考えぬ日はありませんでした。テス……。なんと逞しく成長したことでしょう……。今こうしてあなたに会っていることが、まるで夢のようです……」

お母さんはそういって、自分で自分を抱きしめるような仕草をした。
もし、幸せに形があって見えるものだったら、それを抱きしめているのが見えただろう。

「もうこの母はなにも思いのこすことはありません」

ボクは耳を疑った。
何を言ってるんだろう。
お母さんは、これからボクらと一緒にグランバニアに戻って、
ずっと幸せにすごすんでしょう?

お母さんは両腕を解いて、ボクを見てもう一度微笑む

「テス……。大魔王ミルドラースの魔力はあまりに強力です。せめて……せめてこの私が、この命にかえてもその魔力を封じてみせましょう」

お母さんはボクらに背を向けて、あの空に向かって両腕を広げた。

「全知全能の神よわが願いを……
お母さんは最後まで言葉を続けられなかった。

突然
大きな火球が空に現れて
そのままお母さんを

何も聞こえなかった。



忘れるもんか

あのときとおなじ



あのときとおなじ


あの火球を。


すーっと音もなく、空からおりてくる
あのときとおなじ
その姿を。

ヤツはまだ、こちらを見ない。
倒れたお母さんを見て、肩をすくめているのが見えた。

「ほっほっほ。いけませんね。あなたの役目は大魔王様のためにトビラを開くこと……。……でもまあよいでしょう。親が子を想う気持ちというのは……いつ見てもよいものですからねぇ」

そこまで言って、ヤツは
ゲマは振り返る。

にたり、嫌な笑いを顔に貼り付けて。

全身の血が、逆流してるんじゃないかと思う。
体が熱い。
息が苦しい。

お母さんは大丈夫だろうか。

ヤツが憎い。

「さて……。ついにここまで来てしまいましたね。テスとその仲間たちよ」
ゲマはじっとりとボクらを見た。
「それに伝説の勇者までのこのこやって来るとは」
ヤツは軽く鼻で笑う。
「……しかし全てはこの地で夢と消えるのです。もはやミルドラース様にお前の母の魔力などいりません」
ゲマはちらりとお母さんを見てから、ボクらに視線を戻す。
「今ここで私が、お前たち親子を永遠の闇へお送りしましょう」
そういって、ゲマは圧倒的勝者の顔で笑った。

自分の中で、何かが弾け飛んで行くのが分かる。
この感情は何だろう。
ゲマが憎い。

憎い。

憎い。

「うああああああああああああああああっ」

ボクは叫ぶ。
もう、感情は言葉にならなかった。
263■お母さん 2 (テス視点)
ボクは剣を抜いてゲマに走り寄る。

ゲマはまだ余裕の笑みを顔に浮かべ、とくに身構える事もなくボクを見下ろしていた。
あの時に比べて随分背は高くなったけど、やっぱりまだボクは見下ろされている。
その余裕の表情を浮かべる青い肌の顔も
金色の縁どりの紫色のローブも
みんなあのときのままで

憎い。

ボクが走り寄る間に、マァルがボクにバイキルトをかけてくれた。
ビアンカちゃんはソルに同じくバイキルトを唱える。
ソルは先にスクルトを唱えてから、ゲマのほうへ走ってきた。

そうだ
あの時とはもう違う。

ボクは随分強くなった。
それに、
ボクには一緒に戦ってくれる大切な家族がいる。

祭壇の階段を駆け上がって、その勢いと一緒に下から上に斬りつける。
ゲマが剣を左腕で止めた。
ガキンと金属のような音がした。
びりびりと振動が腕に伝わってくる。もしかしたら、あのローブの下にそれなりに鎧を着込んでいるのかも知れない。

目が合った。

ゲマはニヤリと笑うと、大きく息を吸い込んだ。
嫌な予感がして、ボクはとっさにゲマから飛び退る。
そしてゲマは息を吐き出す。
その息は炎を伴い、ボクの体をかすめ、そのままソルやマァルやビアンカちゃんにも襲い掛かる。
「あぶなっ!」
ソルも何とか直撃は免れたらしい。ほっとしたように大きな息を短く吐いた。
「なるべくバラバラに!」
「その程度で私から逃れられるとでも?」
ボクの声にゲマが笑う。
ボクが舌打ちしている間に、ソルが素早くフバーハを唱えた。これでかなり炎の威力は落ちるだろう。
マァルが賢者の石を取り出して天にかざす。
暖かい光がボクらに降り注ぎ、傷がふさがっていった。

まだ、戦える。

「賢者の石とは……」
ゲマが少し眉を寄せるのが分かった。
賢者の石はお母さんからの贈り物だった。ゲマはお母さんがソレを持っていたことを多分知っていたんだろう。
だからこそ、ソレをボクが持っていることが意外だったのかも知れない。
「母さんからの贈り物だ!」
ボクは叫んでまたゲマに斬りかかる。
バイキルトのおかげで力が上がっているせいか、いつもより剣が軽い。思いっきり振り下ろせばその勢いはかなりのもので、もともとの剣の重さと勢いと、上がった力とでかなりの攻撃が出来ているはずだった。
悔しい事にゲマが全く表情を変えないから、イマイチ効いているのかどうか分からない。
でも、ボブルの塔で戦ったとき、本当に追い詰めたとき、流石にゲマも顔をゆがめていた。
いつかこの表情が変わったら、今度は逃がさない。
ここで絶対仇を討つんだ。

ゲマがまた息を吸う。
今度は辺りの空気を一気に冷やす冷たい息が吐き出された。
空気が凍ってキラキラと輝く。
その様子は綺麗だけど、まともに食らったら痛いじゃ済まない。
立て続けに、今度はさっきと同じ激しい炎の息。
「二回も攻撃するなんてずるいわよ!」
ビアンカちゃんの叫び声にゲマはふふんと鼻で笑う。
「コレが私の普通です。あなた方がどんくさいだけでしょう」
「むかつくー!!」
言いながら、ビアンカちゃんは左手を拳にした。
それから魔力をこめて解き放つ。
メラゾーマの火球がゲマに向けて一直線に飛んでいく。
炎を吐くゲマでも、さすがにメラゾーマは痛いらしかった。少し顔をしかめて短く息を吐く。

戦いは一進一退といったところだった。
ボクらも勿論怪我をしたし、ゲマも少しずつだけど痛みに顔をゆがめる事が多くなった。
ただ、少しずつ差が開き始める。
ボクらは賢者の石やソルのベホマラーで傷を治すことが出来るのに対して、ゲマは傷の回復方法を持っていなかった。
じりじりと確実に、ゲマは追い詰められていく。

もう何回ゲマに斬りかかったのか分からない。
ただ、初めてはっきりとゲマが苦しげな息を吐いた。
それに続いて、ビアンカちゃんのメラゾーマがゲマにぶつけられる。

それが、最後だった。

所々紫色のローブを燃やしたまま、ゲマの体が後ろに大きくバランスを崩す。
ソレと共に、ゲマの体に向けて柔らかい光の筋が降り注いだ。
ゲマが悲鳴を上げる。
「あ……熱いぃ〜っ! なんですかこの光はっ!? こっこの私がこんな光に焼かれるなどと……そんな……そんな事があっては……」
ゲマは光を振り払うように何度か腕をばたつかせる。
光は一層白く輝き、ゲマは醜い悲鳴をあげて倒れ、そのまま光に焼き尽くされた。
何度も火球で人を殺してきたゲマは、結局ビアンカちゃんのメラゾーマの炎に焼かれ、さらに光に晒されて死んでいった。

ボクは呆然と祭壇を見上げる。

光は、ボクらにとってはむしろ優しい光に見えた。
それはつまり。

「テス……」
お母さんが苦しげな息を吐きながら
本当に小さな声で話し始める。
「本当にあなたは驚くほど成長しましたね……。今まで母はあなたに何もしてあげられなかったというのに……」
両腕に力をこめて、よろよろとお母さんはその上体を起こす。
まだふらつく足取りで、でもしっかりと立ち上がった。
それからボクを見て微笑む。

どこか、悲壮な笑顔。

「でもせめて……最期だけはあなたの助けになりましょう。さあさがりなさい……」

その声はどこまでも凛としていて、ボクはそれ以上お母さんに近づけなかった。

お母さんは全く変わることの無い魔界の空に向かって、再び腕を広げる。
「全知全能の神よ! わが願いを聞きたまえ……。我は偉大なる神の子にしてエルヘブンの民なり……」
最初の声は低く囁くような祈りの声。
「神よ!」
祈りの声はどんどん大きくなる。
その声はこの世界には居ない神に向けて本当に届いていくだろう。
「この命にかえて邪悪なる魔界の王ミルドラースの……」

そこまで祈り終わったとき、異変は起きた。
今までどんよりとした、動きのなかった空が急にざわめき始める。
雷の音がどんどん近付いてきていた。

「ミルド……ラースの… ま 魔力……を……」

光った。

その稲妻は物凄い勢いで空を走り、
空間を切り裂いて

お母さんを打ち付けた。

「……っ!!!」

声も出なかった。

お母さんが、ゆっくりと倒れていく。
体が折れて、膝が地面につく。
それからゆらりと右に腰から地面に落ちていく。
体の動きについていけなかった長い髪が、あとから音を立てないで地面に広がっていった。

目の前でおこっている出来事なのに
何だか遠くで起こってるようにも見えて
現実感もなくて
ただ呆然と

何が起こっているのか、理解が出来なかった。
264■お母さん 3 (テス視点)
お母さんは倒れたまま、暫く荒い息を吐いていた。
その息遣いがここまで聞こえる。
走りよって助けたいのに、どうしても足が動かない。
確かめるのが恐い。
結局ボクは全然変わってないわけだ。
お父さんの時も、結局何も出来なかった。
そして今、お母さんに対しても何も出来ない。

「こ こんなはずは……」
お母さんが呟くのが聞こえる。
小さな声。
泣きそうな、声。
「そ それほどまでに ミルドラースの魔力が……」
お母さんは起き上がろうと必死に腕に力をこめているようだった。けど、もう、腕は体を支えられない。
「神よ……。私の可愛いテスのため今一度私にチカラを……」
倒れた体のまま、お母さんは両手を組み合わせる。

その時、一度もこれまで晴れることのなかった空が、ぱぁっと明るくなった。
白と金色の間みたいな、輝かしい光。
優しい光が空に広がる。
それはお母さんのいる祭壇の上空の一帯だけで、周りはあの不穏な空のまま。
灰色の雲はその明るい光を中心に渦を作って、どんどんと光の中に吸収されていくみたいだ。

その空から、声がした。
忘れる事なんて無い、優しい声。

――マーサ……。
マーサもうよい。おまえは十分によくやった。

光の中からすーっとおりてくる。
その姿はボクの知っているものとは違って、綺麗な赤いマントとゆったりとした立派な青い服だったけど。
黒い少し長い髪も
立派な口ひげも
日焼けしたたくましい体も
本当に記憶のままの

けど、向こうが透けて見えてしまう、

お父さん。

「あなた!」

お母さんが空を見て声を上げる。
ほっとしたような顔をして、嬉しそうな声で。

――どうやら私たちの子は、私たちをこえたようだ。
子どもたちの未来は子どもたちにたくそうではないか。
さあマーサ、こっちへおいで。

光の中で微笑んで、お父さんが右手をお母さんに差し出す。

「はいあなた…」
お母さんが頷く。

え、
待って。
待ってよ。
ボクはまだ
お母さんと

「お父さん! お母さん!」

ボクはとっさに叫んだけど、もう遅いみたいだ。
お父さんはお母さんの側に舞い降りる。
お父さんがお母さんを見て笑った。
お母さんが、笑い返す。

そして

すっと、お母さんの体から
お母さんが出て行く。
お父さんが、お母さんを連れて行く。

二人はそのまま手をしっかりと握り合って、
あの明るい光の中へ戻っていく。
ゆっくりと
ふたりでのぼっていく。

二人は、一度立ち止まってボクを見た。

――テスよ。私たちはいつでもおまえたちを見守っている。
がんばるのだぞテス。
私たちの息子よ……。

お父さんがそういって、
そして二人は光と共に消えてしまった。

空は再び憂鬱な色に戻った。
あたりは、とても静かだった。

「パパスさん……いえお義父様……お義母様……。ひと目だけでも最期に会えてよかった……。見守っていてください。おふたりの想いはテスと私たちで必ず果たします」
ビアンカちゃんが空を見上げて呟く。
それが引き金になった。
「おじいちゃん……! おばあちゃん! ……うわーん! やっと会えたのに! こんなのってないよーー!!」
ソルが泣き叫ぶ。
マァルはもう言葉もなく、ただひたすら泣きじゃくった。
ボクは暫くその二人の泣き声を聞きながら、呆然と立ち尽くす。
ビアンカちゃんや皆が、二人を慰める声がどこか遠くから聞こえている。

ボクはゆっくりと祭壇の階段をのぼる。
お母さんは、髪を広げて倒れていた。
その顔はとても穏やかで、
火球や雷に打たれたとはとても思えないくらい綺麗で
想像していたよりずっとずっと小柄で
まるで少女みたいだった。

声をかけたら、目を開けそうなのに。

言いたいことや
言ってほしいことや
やりたい事や
やって欲しい事が
いっぱいあったのに。

ボクはお母さんの体を抱きしめる。
軽くて華奢で、
この体のどこに、魔界の扉を開けるような力や
魔界でこうして一人きりで戦う力があったんだろうって思った。

「テス……」
座ってお母さんを抱きしめたまま、呆然としているボクの隣にビアンカちゃんがやってきて声をかけてくれた。
ボクはのろのろとビアンカちゃんを見上げる。
「ビアンカちゃん……あのね、ボク、変なんだ。お母さんが死んでしまって、物凄く寂しくて悔しくて、なのに涙が出ないんだ」

全然涙が出てこない。
ボクはもう、泣けるはずなのに。

ビアンカちゃんがボクを背中から抱きしめる。

「……いいのよ。私もお母さんが死んだときそうだった。あんまり突然で驚いて頭が真っ白になって……。きっとね、凄く悲しいときってすぐには泣けないのよ。そのうちゆっくり心の中にじわじわ悲しみが広がって、そして漸く涙が出るの」
「……」

優しい声が、耳から体に広がっていく。
この人が、
ビアンカちゃんが側に居てくれて本当に良かった。

きっと、
お母さんもお父さんが側に舞い降りたとき
同じ事を想っただろう。

涙が出た。

ビアンカちゃんが、ボクを抱きしめる腕に力を入れる。
「いいよ、泣いて」
ボクは頷いて、お母さんを抱きしめたまま泣き続けた。
 
 
 
どのくらい泣いていたんだろう。
鼻の奥が痛い。
頭もぼーっとした鈍い痛みがある。
喉がからからだ。
その間も、ビアンカちゃんは何も言わないでずっと側にいてくれた。
ソルもマァルもいつの間にか側に来ていて、お母さんの、お婆様の手を握って泣いていた。
「……」
ボクは大きく息を吐く。
ビアンカちゃんがボクを見つめた。
ビアンカちゃんも、目と鼻が赤かった。
「……」
でも、そのまま何も言わないで微笑んで、ボクの頬に触れてから、その手で涙をぬぐってくれた。
「グランバニアに、戻ろう」
ボクは掠れた声で言う。
「このままお母さんをここへ置いていくわけにはいかないし、かといって、魔王の元へ連れて行くわけにもいかない。……グランバニアに帰ろう。お母さんを、ゆっくり眠らせてあげなきゃ」
「そうね。それがいい」
ビアンカちゃんは言うと、ソルとマァルの頭をそっと撫でる。
二人は無言のままこくりと頷いた。
「お婆様とちゃんとお別れしないとね」
「うん。寂しいけど……ちゃんとお別れしなきゃ」

ボクはお母さんを抱いたままゆっくりと立ち上がる。
それから、空を見上げた。
お父さんが迎えに来た空は、とても綺麗だった。
きっと、奇跡だったんだろう。
だから、お母さんはこんなに安らかな顔をしてるんだ。
「帰ろう。グランバニアに……」
そういって、ボクはルーラを唱える。

こうして見送れるだけ
ボクは多分

幸せだ。

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