45■過去
たとえ、皆がボクを見捨てたとしても。


226■お父さんのこと(ソル視点)
お父さんが帰ってきた。
ラインハットに居たのは結局一日半くらい。言ってた期間より随分短くてぼくらはビックリしたけど、ちょっと嬉しかった。
けど、帰ってきてからお父さんはずっと難しい顔をしていて、なんだか近寄りがたかった。
結局、帰ってきた日は夕飯の時に顔を合わせたくらいで、お父さんがその日一日何をしていたのか、全然わからなかった。
 
 
次の日は朝からとても綺麗に晴れて、風が強かった。
中庭に出たら、雪の表面がキラキラ光っていて、端のほうから溶け始めていた。
春はもうすぐ。
ぼくが大きく伸びをしたら、お父さんの声が降ってきた。
「ソル」
ぼくは声をしたほうを見上げる。
ぼくらが普段は危ないからってのぼらせてもらえない、見張り台の上にお父さんは居た。
「なあに?」
ぼくは上を向いて聞く。
「のぼってこられる?」
「うん!」
ぼくは大きな声で返事をして頷いた。
のぼったら怒られるけど、ぼくは見張り台の上が大好きだった。景色がとってもきれいで、どこまでも遠くが見られる。
「すぐ行く!」
渡り廊下を抜けて、見張り台へのはしごをのぼる。
風が冷たくてちょっと手が痛かったけど、ぼくはへっちゃらだった。
のぼりきると、お父さんは西のほうの景色を見ていた。ぼくもその隣に立って西のほうを見る。
深い森が延々と続いていて、ずっと向こうで岩山が連なっているのがみえる。
その向こうに、ほんのちょっぴり青が広がっている。海だ。そして、霞んでほとんどみえないけど、小さく左手側にセントベレス山が見えた。

ちょっと寒い。ぼくがくしゃみをしたらお父さんはちょっと笑って、それからマントの中にぼくを入れてくれた。
「ぼくね、ここに来るの好きだったんだ。けど、危ないからっていつも怒られるんだよ」
「今日はボクが一緒だから大丈夫だよ。もし怒られるとしたら今日はボクだけだね」
お父さんはそういって、ぼくのことをぎゅっと抱きしめてくれた。
「でも、とりあえずここに来たのは二人の秘密にしよう」
「うん!」
お父さんと二人だけの秘密があるのが、とっても嬉しかった。

お父さんは見張り台からぐるっと辺りを見た。
「ここから見れるところは、ほとんどグランバニアの領地なんだって。ボクはここを守るだけで精一杯だ。ボクにとっては凄く広い。けど、ソルは生まれたときからこの世界を全部渡されちゃったんだよね」
お父さんはぼくを見つめた。
「……ごめんね」
ぼくはお父さんに笑いかける。
「何で謝るの? ぼく、一人じゃないよ? 世界はねえ、マァルやお父さんや、皆で助けるんだよ。ぼくねえ、一人だったらきっとお父さんだって見つけられなかったよ。一人じゃないから見つけられたの。それにね、自分が勇者ってのも、きっと知らないままだったよ。お父さんが居たから、ぼく、勇者になれたの」
「だから、その使命をテルパドールで教えちゃったのがボクで、知らないままにだってしておけたのに」
お父さんは顔を曇らせる。
「駄目だよ」
ぼくはお父さんの顔にぺたっと手をくっつけた。お父さんは随分長い事ここにいたみたいで、ちょっと顔が冷たかった。
「知ってて放っておくのは、ずるい事だよ」
ぼくがそういうと、お父さんははっとしたようにぼくを見た。
「ぼくね、今全然苦しくないの。お父さんが居ないときは苦しかったよ。ちょっと寂しいときもあるけど、苦しくないの。お父さんはおじい様と勇者を探してたんでしょ? ぼくね、お父さんの力になれて嬉しいんだ」
お父さんはちょっと泣きそうな顔をしてた。
「ソルは強いね」
「お父さんの子だもん」
ぼくはにかっと笑う。

小さい頃から考えてた。
お父さんってどんな人だろうって。
お父さんの事は皆が色々教えてくれた。
ぼくが想像してたお父さんとは、実はちょっと違ったんだけど。
ちょっとがっくりした時もあったんだけど。
けど、今のお父さんがぼくは大好き。
想像のお父さんより、ずっと好き。
だから、お父さんが一緒なら、勇者ってのも嫌じゃない。

 
「ねえ、ソル」
お父さんはぼくを抱き上げて、また西のほうを見る。
「なに?」
返事をしてお父さんの顔をみたら、お父さんは凄く遠いところを見つめていた。
「お願いがあるんだ」
お父さんの声はとっても真剣で、ぼくは無言で頷いた。
「冬の初めに約束した事、覚えてる?」
「うん、次に行くところを教えてくれるんだよね?」
「そう。漸く決心したし、準備も出来たから、話したいと思う。薄々感じてると思うけど、全然いい話じゃない」
ぼくはまた、頷いた。
いい話だったら、すぐしてくれるはずだから。
「今まで隠してきたことを、全部皆に話したいと思う。大好きな皆に。他の人には聞かれたくないんだ」
「うん」
ぼくはドキドキしてきた。
お父さんはぼくを抱き上げてるのに、一度もぼくの顔を見ない。
ちょっと鋭いまなざしで、ずっと遠くを見つめてる。
「マァルと、魔物の皆を、サンチョの家に集めておいて欲しい。サンチョの家なら人払いが簡単だし、そうそう立ち聞きできる場所でもないから」
「……わかった」
ぼくはお父さんにぎゅっと抱きついた。
「お父さん」
「ん?」
「大好き」
ぼくが言うと、お父さんはぼくの顔を見た。
そして嬉しそうに笑ってから、ぼくのおでこにキスしてくれた。
「ボクもソルが大好き。ここに戻ってこられて、本当によかった。……早くビアンカちゃんにも……お母さんにもソルやマァルに会わせてあげたい。ボクが独り占めしてばっかりじゃきっと怒るよね」
「お母さん、どこに居るのかな?」
ぼくの言葉に、お父さんは一瞬寂しそうな顔をした。
「うん、ホント、どこに居るんだろう。……助けに来るのが遅いって怒られなきゃいいんだけど」
「お母さん、怒りんぼなの?」
「全然。優しいよ」
「じゃあ何で、そんなに怒られる怒られるって言うの?」
お父さんは少し表情を固まらせて、それから大きくため息をついた。
「んー、まあ、ソルも大きくなったらそのうちわかるよ」

何だかわからなくてもいいんじゃないかなあって思った。

「じゃあぼく、皆を呼んでサンチョの家に行くね。お父さんはいつ頃から話をするの?」
「お昼食べてからにしよう、ちょっと長くなるから」
「わかった。じゃあ、そのくらいに集まるように言うね」
お父さんが頷いたのを見て、ぼくは先にはしごをおりた。
お父さんは、また西のほうを見てるみたいだった。
227■お父さんのこと (マァル視点)
お昼ごはんを食べ終わって、わたしたちはサンチョの家に集まる。
魔物の皆は、全員が家に入れないから代表してゲレゲレと、ピエールと、スラリンと、ホイミンと、それからマーリンお爺ちゃんがきていた。
皆、緊張してる。
わたしも緊張してた。
ソルはお昼前お父さんと何かお話したみたいで、私たちよりもっと緊張してるみたいだった。

「お父さんが、皆に話したいことがあるんだって。あんまりいい話じゃないけど、次に行くところに関係があるって言ってた。お昼を食べたら、サンチョの家に集まって欲しいって」

ソルはわたしにそういった。
「どんな話かな?」
って聞いたら、ソルは「わかんない」っていって首を横に振った。ただ、お父さんは凄く難しい顔をしてたって、そういってた。

 
お昼を過ぎて、皆でサンチョの作ってくれたりんごジュースを飲んでるときに、お父さんがやってきた。
「あ、いいな。ボクにも頂戴」
わたしたちのジュースを指差してお父さんは言うと、あいていた椅子に足を組んで座る。
別に変わったところはなくて、いつもどおりだった。
「坊っちゃん、お行儀が悪いですよ」
サンチョが呆れた顔をしながら、お父さんにりんごジュースを出す。お父さんは「ごめんごめん」って軽い口調で言うと、組んでいた足を戻して、きちんと座りなおした。
それからゆっくりりんごジュースを飲む。
わたしたちは、思わずお父さんの動きをじっと見つめてしまった。
「そんなにじーっと見られると飲み辛いんだけど」
お父さんはコップをテーブルに置いて苦笑する。
しばらくそのコップを見つめていて、それから顔を上げた。
周りに居るみんなの顔、わたしやソルの顔をゆっくりと一人ずつじっと見つめて、お父さんはにっこり笑った。
凄く優しい顔で。

「皆、薄々感じてるんだね。……いい話じゃないよ」

お父さんはそういうと、椅子の背もたれにもたれかかって足を組んだ。サンチョがちょっと顔をしかめたけど、お父さんはそのまま目をそっと閉じて話を始める。
「ボクは、今まで皆に隠してきたことがある。本当は、誰にも言わないでずっと秘密にしておくつもりだった」
誰も何にも言わないで、じっと話を聞く。
「思い出すのも嫌だし、知られるのも嫌だ」
お父さんは目を開ける。
わたしたちの顔は見ないで、またテーブルのコップをじっと見つめた。
「出来れば、聞いたらすぐに忘れて欲しい」

そんな事できない。
聞いて、それで忘れて欲しいって、そんなの無理だ。
小さい頃から、ずっとお父さんのことが知りたくて、わたしもソルも周りの人にいっぱい話をせがんで、困らせてきた。
ようやくお父さんに会えて、話で聞いていたよりずっと素敵なお父さんで嬉しかった。
今だってもっと、沢山お父さんのことを知りたいのに。
わたしはもうすぐ10歳だけど、1年半しか一緒にいないから、信用してもらえてないのかな。

なんだか寂しい。

「話を聞いてそのうえ忘れろって、無理にきまってんじゃん」

スラリンがボソッと言う。わたしも思わず頷いた。
「……そうだね。でも忘れて」
お父さんは小さい声で言う。
「聞いた上で忘れろという事は、その事について知っておいて欲しいが、その後は一切その事を誰かに喋ったり、テス自身に尋ねたりするな、という事じゃ」
マーリンお爺ちゃんがスラリンに言ったあと、「そういう事じゃろう?」ってお父さんに聞いた。
お父さんは頷く。
「そもそもは言うつもりもなかったんだから。ただ、言わないと誰にも納得して貰えないと思うから言うだけ。本当に言いたくないし、今だってここから逃げ出して言わないで終われないか考えてるくらい」
「そ、そんなに酷い話なんですか?」
サンチョが青い顔をする。
お父さんは頷いた。
「サンチョは……倒れるかも」
「えええ!」
お父さんの言葉に、当のサンチョだけじゃなく、皆が驚きの声を上げた。
「そ、そそそ、そんなに悪い話ですか!?」
お父さんはまた頷く。
「ボク自身、思い出すだけで吐きそうなくらい。悪いし、酷いし、気分悪いし、腹が立つし、嫌だし、痛い」
「……お、脅しだろ? 実はたいしたことないだろ?」
スラリンがいつもより青い体をして尋ねると、お父さんは首を横に振った。
「一応あっさり目に話すつもりではいるけどね。……ちゃんと言ったらボク自身が今の精神状態に戻るのに時間がかかるし」
お父さんはゆっくりと私たち一人一人の顔を見た。
「だから、あらかじめ覚悟だけはしてから聞いて」

 
「ビアンカちゃんやお母さんの消息もわからないときに、自分のわがままだけでこういう事をするのはよくないと思うんだけど、どうしても……寄り道したいところがあるんだ。もう間に合わないかも知れないけど……」
お父さんはテーブルの上に地図を広げた。
それから、真ん中の大きな島の世界で一番高い山を指差す。
「セントベレス山の頂上に、神殿があるのを知ってるよね?」
わたしたちは頷いた。
マスタードラゴン様の背中からみた、神殿。
あの神殿を見たとき、お父さんが少し変だった。
「主殿とポートセルミに初めて行ったとき、双眼鏡で見たときはまだ建設中だったところですね」
「うん。覚えてたんだ」
「主殿の様子が……おかしかったので」
「そうだね、あの時も『今は話せない』って言ったね」
「……ええ」
ピエールが頷いた。そんな話を聞くのは初めてだった。

「コレ、何の神殿だか、わかる?」

お父さんは椅子に座りなおしながら、わたしたちに聞いた。
皆が首を横に振った。

「じゃあ、光の教団は知ってる?」

次のお父さんの質問に、わたしたちは頷いた。
最近、急に広まってきてる教団。世界に終わりが来て世界に魔物が溢れても、その教団に入っていたら無事助かるって、そういう話だったと思う。
わたしは、ちょっと嘘だと思ってる。

「あの神殿はね、光の教団の聖地になるんだよ」

スラリンが不思議そうな顔をする。
「何でそんなに詳しいんだ? ……信者なのか?」
「やめてよ!」
お父さんが悲鳴をあげて立ち上がった。
「信者なんかなるわけないだろ!」
いきなり怒られて、スラリンが体を縮める。ソレを見て、お父さんはテーブルをドンっと叩いてから椅子に座りなおした。
「ごめん……」
何とか怒りを静めるみたいにつぶやくように謝って、お父さんは大きく息を吐いた。
それから頭を抱えるみたいにして、机に寄りかかる。

「ボクね、あそこに居た事があるんだ」
ぼそりと、小さい声でお父さんは言う。
それから、いつも着けてる左手首のバングルをはずした。
そこには光の教団の紋章が、焼き付けられてた。
誰かが息を飲んだ。

お父さんは腕だけ私たちに向けて、机に突っ伏す。

「ボクは、教団の……ドレイだったんだ」
本当に小さい声で、そういった。
228■坊っちゃんのこと (サンチョ視点)
息が、出来なかった。
テーブルの上に投げ出せれている坊っちゃんの腕の、痛々しい焼印。
焼けた鉄を押し当ててつけられる、罪人の証。

坊っちゃんは、テーブルに顔を伏せたまま、こちらを見ようとはしなかった。
眩暈がした。息は未だにちゃんと出来てない気がする。
「い、いつから、ですか?」
たったそれだけ聞くだけなのに、中々舌が動かない。口の中がカラカラに乾いている。
「前、天空城でボクの過去を見たでしょう?」
ソル様とマァル様が頷いた。二人の目には涙がたまり始めている。
私は見ていないが、その話は聞いた。
ソル様やマァル様の話だけでは信じきれず、ピエールにも話を聞いた。
辛い辛い、坊っちゃんの過去。旦那様の最期。
「ゲマが、この子は……お父さんはドレイにとして一生幸せに暮らすって……」
ソル様が震える声で言う。
「うん、ボクとヘンリー君はゲマにつかまって、まだほとんど何にも無かったセントベレス山に連れて行かれた。他にも大人も子どもも、老人も、男も女も関係なく沢山の人たちが連れてこられてた。全員、ドレイだった」
坊っちゃんは顔を伏せたまま、淡々と喋った。
「じゃ、じゃあ、坊っちゃんは、あの後すぐってことは、まだ7つでしょう!?」
たまらず声をあげる。信じられなかった。
たった7歳。
しかも目の前で父親が惨殺された直後。
「うん、7歳だった。何が何だか、さっぱりわからなかった。わからないまま焼印をつけられた。わけもわからないまま怒鳴られて、殴ったり蹴られたり、鞭でひっぱたかれた」

想像する。
まだ父親の死も癒えない小さな子どもが、わけもわからず焼印を押し付けられる。
その恐怖と痛みと、絶望。

「恐かった。何が何だか本当にわからなかった。ただ、いう事を聞かないとひっぱたかれるって、それだけしかわからなかった。目の前にある土や岩を運ばなきゃいけないんだって事だって、中々理解できなかった。爪はすぐはがれてなくなったし、怪我をしても誰も助けてくれなかった。魔法が使えるのがばれると、使えないように喉をつぶされるから、怪我を治す事もできなかった。ご飯はろくに与えられなかったから、いつも飢えてた。眠るところは狭くて寒くて、凄く汚かった。毎日誰かが死んでいったし、見張りの憂さ晴らしに殺された。毎日、次は自分かもしれないって思ってた。死んだらどんなに楽だろうかって、でも死にたくないって。毎朝目が覚めるたび呆然とするんだ。まだ生きてる、逃げられる。まだ生きてる、あの地獄で働かなきゃならない」

全員が呆然としていた。
ソル様は必死に涙をこらえていた。マァル様は少し泣き始めている。二人で手をつなぎ、それでも坊っちゃんの言葉をじっと聴いていて、痛々しかった。
坊っちゃんは淡々と話す。
ただ、事実を述べていくだけ。何の感情もうかがい知れない。
坊っちゃんは、涙を忘れ、心も体もぼろぼろにして、生きてきた。
生きる事に執着し、絶望し。
その間、私がしていたのは何だ?
ただ悲嘆にくれていただけ。何もしていなかった。

「なあ、右手、右手は何にも無いんだろ?」
スラリンが、救いを求めるように尋ねる。
坊っちゃんは力なく首を左右に振った。そして右手首のバングルをはずす。
そちらにも、焼印。5桁の数字。
「な、何の数?」
スラリンが引きつった声で尋ねる。
「ボクの番号。ボクらは生き物以下だったから、物だったから、名前なんて人間らしいものを持ってるのは許されなかった」
坊っちゃんは暫く左右の焼印を見つめた。
ため息をついたあと、バングルを腕に嵌めなおす。
幅広のソレは、過去をすっぽりと覆い隠した。
「毎日鞭に追い掛け回されて体力以上に働いて、憂さ晴らしに意味なく蹴り飛ばされて、逃げようとしてはつかまって拷問されて、それでもボクもヘンリー君も生き続けた。小さかったボクらを助けようとして死んだ大人も居た。ボクらが小さかったばっかりに、助けられなかったおじいさんが居た。何を信じて、何を疑っていいのか、わからなかった」
坊っちゃんが顔をあげる。
顔色が悪い。気分が悪いのか、胃の辺りをさすっている。
「十年、地獄に居た」

十年。
その気の遠くなるような長さ。
恐ろしい長さ。
絶望と、痛みと苦しみと、ともに生きていた。

「ヘンリー君が居て、まだボクはマシだった。今生きてるのは、ヘンリー君のおかげ」
「……そもそもヘンリー様がわがままを言わなきゃそんな目には遭わなかったでしょう!?」
思わず私は声を荒げる。
坊っちゃんが捕まったのは、旦那様が亡くなったのは、元はといえば。

「サンチョ、そもそも悪かったのは、なんていうのは意味がないよ。本当のところ、多分誰も悪くなかったんだと思う。ラインハットは、皆すれ違ってた。誰もが誰かに愛されたくて、でもうまくいかなかった。不運が重なっただけだったんだよ。今ボクはそう思ってる。確かに元凶を作った人はいる。ボクだってその人を恨んだ事もあった。……けどそれはヘンリー君じゃない」

坊っちゃんは私をじっと見た。

「ヘンリー君が居てくれたから、生きてるのは本当なんだ。いつだってボクをかばってくれたし、助けてくれたし、支えてくれた。ヘンリー君は自分の事を後回しにして、ボクを助けてくれた。サンチョが言ったように、自分のせいだっていって」
「当たり前です」
「そうかな? 自分のせいで不幸にした人が目の前に居て、十年も助け続けられる? 最初は罪の意識かもしれないけど、そういうの、そのうちわずらわしくなるんじゃない? いつまでも自分の罪を突きつけられてるってことだよ? それに、ヘンリー君だって、同じ目に遭ってるんだよ? 本当は自分の面倒見るだけで精一杯なんだよ。ソレは、周りの大人の様子を見てたらわかる。誰もが自分だけで精一杯で、助け合うなんてほとんどしなかった」
「それは……」
「ボクはヘンリー君に感謝してるし、サンチョがヘンリー君のことを悪く言うのはとても嫌だ。気持ちはわかるけど、もう、許してあげて」
私は不承不承頷いた。
坊っちゃんがここに無事で居る事が、本当にヘンリー様のおかげなら、これ以上責めてはいけないのも、納得しよう。

「ともかく、十年だった。長かった」
坊っちゃんはそういって、目を伏せた。
229■主殿の事 (ピエール視点)
主殿は目を伏せ、暫く押し黙った。
何か重い塊が頭の上から体を押しつぶしそうとしているように感じる。
沈黙、という見えない何か。
誰もが何も言えなかった。

ポートセルミの灯台であの神殿を見たとき、我々はいつか主殿が話してくれるまで待とうと思った。
「ジャミ」という名前を聞いたときの主殿の豹変の理由を、ゲレゲレだけが知っていた。
離れ離れになり、主殿が帰ってくるまで、我々はただひたすら待った。
水の奥の城で、主殿の過去を知ったとき、私は少なからず衝撃を受けた。こんなに優しく、こんなに心の広い主殿に起こっていた、目を覆いたくなるような不幸。
過去を知ってから、ゲレゲレに事の正否を確かめた。
彼はただ一言ソレが正しいことを認めただけだった。
それ以来、ジャミもゴンズもゲマも、我々の共通の敵だった。
主殿は何も言わなかったが、我々はその魔物が憎かった。
同じ魔物であることが、酷く嫌だった。

我々には、いつも知らされなかった。
そして、いつか知れる日を待っていた。

知らないことは辛かったが、
知ることはもっと辛いことだった。

「十年たったとき」
主殿がかすれた声を出す。
これを全部話し終わったとき、主殿はどうなってしまうのだろう。

「マリアさんが新しいドレイとして連れてこられた」
「あの方も!」
サンチョ殿が驚きの声をあげる。
マリア殿と一緒に旅をしたのは短い間だったが、彼女の慈悲深さや優しさをまだ覚えている。
ヘンリー殿も居て、あの頃は今とは違った楽しさがあった。

「最初は、教団の信者だったらしい。けど、教祖の皿を割ったとかで、ドレイにされた」
「たったそれだけで!?」
「やり口だったんだろう。そういう人は沢山居た。教団に対して悪いことをしたとか、入信しなかったとか、そういう理由でドレイにされちゃう人が」

主殿は手を見つめる。
そこには綺麗な、赤い石の嵌った指輪が輝いている。
ビアンカ殿との、小さな、けど、確かなつながり。
ずっと、支えにしてきたもの。

「マリアさんのお兄さんは、ボクらを監視する兵士だった。……彼の機転で、ボクとヘンリーくんと、マリアさんはあの地獄から逃げ出したんだ」
主殿は両腕で耳を塞ぐようにして、頭を抱え込んだ。
彼らは確かに何か強いつながりを持っているように感じていたが、まさかそのようなつながりがあったとは。

「ヨシュアさんが言ってた。神殿が完成したら、ドレイは皆殺しにされるって。マリアさんをそんな目に合わせたくないって」

小さな声で、でもそこにいる誰もが聞こえる声で、主殿は言った。
皆殺しという単語の意味が、一瞬わからなかった。
それは静かな衝撃だった。
じわりと意味がわかったときには、ただ絶句するだけだった。

「ボクは、皆が殺されるのを知ってて逃げ出した卑怯者だ。あそこに居た人たち、全員を見捨ててきた。見殺しにした。助けてくれたヨシュアさんですら、ボクは捨ててきた」
主殿は真っ直ぐ我々を見た。
「ボクは、本当はここでこんな風に幸せな生活を送る権利なんて無いんだと思う。多くの命を知ってて見捨てた、罪深い人間だ。そして今日まで、ずっと知らない振りを続けてきた。卑怯で、汚い奴だ」
主殿は我々から目をそらすことなく、真っ直ぐ前を見つめて続ける。
「この罪は消えることはないと思うし、許されることもないだろう。誰かがボクをそしるなら、甘んじて受ける。皆がボクに失望しても仕方ないと思う」
主殿はゴクリと唾を飲み込んだ。
泣くわけには行かないのだ。

「今更かもしれない。もう遅いかもしれない。けど、神殿は秋の終わり、まだ未完成みたいだった。まだ、間に合うかもしれない。沢山の人が、殺される寸前なんだ。……今度は見捨てたくない。助けたい」

主殿は椅子から降りると、我々に土下座する。

「神殿に、行かせて下さい」

暫く、誰も動けなかった。
勿論、主殿が憎かったわけではない。
そしったり、軽蔑する理由は無かった。
過酷な状況を十年も乗り切り、それでも優しい心と強い意志を持ち続けた主殿を、どうして責めることができようか?

ただ、どうしていいのかわからなかった。

「お父さん」
マァル殿は主殿に近寄ってしゃがむと、その肩に手を置く。
「ねえ、そんな風にしないで。お願いだから、こっちを見て」
主殿が顔を上げる。ちょうどマァル殿と視線が合う高さだった。
「あのね、お父さん。わたしはお父さんが好きよ。嫌いになったりしないよ。お父さん、ずっと言えなくて辛かったよね?」
「マァル……」
マァル殿が主殿を抱きしめる。
「もし、どこかでお父さんのことを責める人が居たら、わたし、絶対言い返す。お父さんだって辛かったんだもん。今からちゃんと助けに行くんだもん。遅いとか言う人が居たら、絶対わたし許さない」
「ぼくだって!」
ソル殿が叫ぶ。
「ぼくだってそんなの言う奴がいたら、一緒に怒る! お父さんずっと今日まで辛かったんだもん! 知らないで何か言う奴がいたら絶対に許すもんか!」
「そうですよ! 私だって断固抗議します!」
「オイラも!」
「ホイミンも!」
全員が全員、口々に言う。
主殿はしばらく呆然とした様子で我々をみて、それからとても嬉しそうに笑った。

「皆優しいね……。ありがとう」

「お前さんはワシらを対等に扱ってくれた。優しく接してくれた。お前さんがそうだったから、ワシらは同じように返す。お前さんが卑怯だった事があるとしたら、それはほんの一瞬だけじゃ。ワシは、そんなお前さんは居なかったと思う」
マーリンの言葉に私は頷いた。
「そうですよ。主殿がもし、卑怯なのだとしたら、今我々はここに居ません」
「……」
主殿はぼんやりと我々を見て、それから静かに涙を流す。
「ありがとう」
漸くそれだけ搾り出して、主殿はひざを抱えて床にうずくまると、本格的に泣き出した。
マァル殿が、そんな主殿の頭を撫でている。

「みんな、本当にありがとう。ビアンカちゃんを探すのがまた遅くなっちゃうけど……」
「お母さん、きっとわかってくれるよ! お父さんの大事なことだもん!」
ソル殿の言葉に、主殿が頷いた。
「うん、きっと……わかってくれるよね」
我々も頷いた。

「わがままを聞いてくれてありがとう」
主殿はそういって、ソル殿とマァル殿を抱きしめる。

春は、きっと良い季節になる。

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