37■壊れてしまったもの、手に入れたもの
ボクは、許されますか?


188■秘密 (サンチョ視点)
坊っちゃん達が洞窟をでて来た時から、嫌な感じがしていたのだ。
マァル様は泣きじゃくっていたし、ソル様は黙りこくっていたし、なにより、坊っちゃんの表情が無かったから。
顔色は真っ青を通り越し、紙みたいに白かった。
洞窟の奥底で、私の知らないところで、何か途方も無く悪いことが起こったのだろう。
そのまま、何の説明もないままグランバニアに帰ってきて、何の説明もないまま坊っちゃんは城のなかへ消えていく。
泣いたままのマァル様を放ったらかして。
それを咎めようとしたら、当のマァル様に止められた。
「何があったのか、全部言います。だからサンチョ、お父さんを怒らないで」
と。
この時私は覚悟した。
たぶん、とても辛い話を聞くことになるのだろうと。


私はソル様とマァル様に手をひかれ、城の外にある自分の家に戻った。
「どこから話せばいいのかな?」
ソル様は少し困ったようなことを言う。
「とても辛くて淋しい話なの」
マァル様も顔を曇らせる。
暫らく二人はお互い小さな声で話し合って、それからぼつぼつ話しだす。
「ぼくらね、洞窟のなかで、プサンさんって天空人に会ったんだ」
「皆で水に沈んだ天空城に行ったの。とっても綺麗な所だったわ」
思い出しているのか、二人は少しうっとりしたような目をする。
「それなのに辛いんですか?」
私が聞くと、二人はうなずく。

「天空城ね、何で沈んだのかって言うとね、お城を浮かべてた力の源が無くなったからなの」
「ぼくら、何で無くなったのか、今どこにあるのか、プサンさんの力で調べたの」
「わたしたち、夢を見るみたいに不思議なものを見たの」
「ゴールドオーブがどうなったのか、ずっと見たんだよ」
「それで、わたしたち、お父さんの小さい頃を見たわ」

「ゴールドオーブはね、天空城から落ちて、雷の酷い中、どこかの建物に落ちるの。そこで小さい頃のお父さんと、女の子がオーブを拾うのよ。それでずっとお父さんはオーブを持ってた」
そういわれて思い出す。
「そういえば、坊っちゃんはなんだか随分奇麗な丸い宝石を持ってゲレゲレと遊んでましたねえ、アレでしょうか?」
「お父さんは、そのオーブをずっと持っていて、それでおじい様と何処かへ行ったみたい」
「……ラインハットでしょう」
私が言うと、二人はそこでしばらく黙った。

「ねえ、サンチョは、おじい様がどうやって亡くなったか、知ってる?」

唐突に言われ、私は面食らう。
それから、首を横に振った。
「存じません」
二人は、息を吐いた。
「ぼくらも知らなかった。多分、お父さんは、話したくなくて、これからも話すつもりも無かったんだと思う」
「凄く、辛かったと思う」

 
「どこか、暗い洞窟だったわ。お父さんは背の高い魔物に、ゲマって名前だったみたいだけど、その魔物に捕まってた」
「人質にされてたんだ、それで、おじい様は戦うことが出来なかった」
「おじい様は、お父さんの目の前で魔物たちに殺されてしまったの。しかも、背の高い魔物に、大きな火の玉で燃やされてしまった」
「何にも残らないくらいに」
辛そうに、二人はぼそぼそと呟くように言う。
「物凄い悲鳴だった……」

「な……んてこと……」
私は言葉を失う。
この小さな二人が、そんなものを見てきただなんて。
旦那様が、そんな最期を迎えただなんて。
坊っちゃんは「ボクを守って死んでしまった」としか教えてくれなかった。
坊っちゃんは。
この二人より小さかったはずで。
何をどういっていいのかわからなかった。
そして坊っちゃんがいるであろう、城の三階を見上げる。
「お二人とも、辛かったでしょうね……それで、お泣きに……」
私は何とか、搾り出すように言う。

 
「違うの」

  
「わたしは、お父さんの代わりに泣いたのよ」
マァル様はきっぱりとそういった。
「お父さんは、おじい様の最期を見て、一時的に子どもの気持ちに戻ってしまったの。とても辛くて、悔しくて、寂しくて、でもお父さんは泣けないの。本当は泣き叫びたいくらい辛いのよ。でもね」
マァル様も、坊っちゃんがいるであろう方角を見上げた。

「お父さんは、泣き方がわからないのよ」

  
「え?」
私は聞き返す。
「サンチョはお父さんが泣いたところを、見たことある?」
「ありません」
「お父さんはね、わたしたちよりずっと小さい時、おじい様を目の前で亡くしたわ。でもその時、泣けなかった。そのせいで、泣き方を忘れてしまったの」
マァル様はそういって大きく息を吐くと、そのまま机に突っ伏してしまった。
「お父さんは今、子どもの時の気持ちに戻ってる。でも、泣けない。だからわたしはかわりに泣いたの。あのままじゃ、お父さんの心はバラバラになってしまうところだったから。お父さんはわたしの泣き声を聞いて、何とかしなきゃって思って、それで踏みとどまってくれた」
私は、マァル様を見つめた。
ソル様も驚いたようにマァル様を見つめている。
「マァルって、それで泣いてなの?」
「そうよ。……うん、確かにおじい様が亡くなる時の話はとても悲しかったし怖かったから、それにも泣いたよ。けど」
そこで暫く言葉を探して、少し黙ってからマァル様は続ける。
「わたしに出来ることはそのくらいしかなかったから」

マァル様が私を見た。
「サンチョ。お願いよ。お父さんのところへ行ってあげて? それでお父さんを助けてあげて」
「私で務まるでしょうか?」
「サンチョだから出来るの。わたしたちでは無理だわ」
マァル様はそういって寂しそうに笑う。
「だって大人じゃないもの」

 
私は二人を家に残し、城の中に入る。
そのまま坊っちゃんの居室に向けてまっすぐ歩いた。
ノックすると、暫くして返事があった。

私は大きく息を吸って、部屋に足を踏み入れた。
189■吐露 (サンチョ視点)
「失礼します」
声をかけて部屋に入る。
部屋はカーテンが締め切られ、薄暗かった。
坊っちゃんは部屋の真ん中のソファに、膝を抱えて、その膝に顔を埋めてじっとしていた。
「坊っちゃん」
声をかけると、坊っちゃんはのろのろと顔をあげて、かすれた声で「ああ、サンチョ」と言った。
顔には生気がなく、目が濁って見える。
「ごめん、もう大丈夫。行かなきゃね、ダメだから。次に行くところは……」
「大丈夫じゃないです!」
立ち上がってぼそぼそ言う坊っちゃんの肩を押さえて、私はたまらず叫ぶ。
「大丈夫な人がそんな顔をするもんですか!」
私が言うと、坊っちゃんは何を言われているのかわからない、といった顔をした。
「大丈夫だよ」
そう言って、弱々しく笑う。
無理矢理。
表情のない顔で笑うから、とても痛々しい。
坊っちゃんは、たぶん、私の知らないところで、こうして無理に笑うことでいろんな事を諦めたり、やり過ごしてきたんだろう。
「大丈夫」そんな言葉で全部まとめて、心の奥にしまい込んで、無かったことにして。
そしてマァル様の言ったように泣き方を忘れていったのだろう。
マヒしてしまったのだ、いろんな所が。

私は、坊っちゃんの事をほとんど何も知らないのだと気付かされる。
いや。
坊っちゃんの事を知っている者など、ここには誰も居ない。

「サンチョ」
坊っちゃんは私の顔色をうかがうような、少し恐れを持った瞳で私を見た。
「あの洞窟の奥底で、ボクらが見たもの、聞いたんでしょ?」
擦れた声で。
絞りだす。
「はい」
私はうなずく。坊っちゃんは「そう」と小さな声で言うと、がくんと力が抜けたようにソファに座り、また膝を抱えてその膝に顔を埋めてしまった。
「ねえ」
そのまま、小さな声で続ける。
「今まで黙っててごめん」
膝を抱える手の、指が白んでいる。物凄い力で、足をつかんでいる。できるだけ小さくなってしまおう、そんな気持ちのあらわれのようだ。

「本当にごめん、話さなきゃ、とは思ってたんだけど、話したら、サンチョに嫌われるんじゃないかって、不安で、だって、サンチョはお父さんが大好きだったから、それに、ボクはサンチョの事大好きだから、離れたくなくて、我儘で、ずっと言えないでいて」
混乱してるのだろう、思いついた端から話をしているようで、声をだすたび、自分の言葉で傷ついて。

「このサンチョが、坊っちゃんを嫌いになる訳がないでしょう?」
私はできるだけゆっくり、できるかぎり優しい声で言う。

「ボクが、お父さんを殺したのに?」

坊っちゃんは擦れた声で言う。息を吐くように、消え入るような声で。
「何を言うんです。旦那様は、パパス様は魔物に殺されたのでしょう? 坊っちゃんを守るために。坊っちゃんが殺しただなんて、そんな……」
「ボクが」
坊っちゃんは顔を上げる。
「ボクがちゃんとあの時逃げることができたら。ちゃんと逃げていたら、お父さんはあんな奴らに負けるわけ無かった」
必死な顔で、
「ボクが、逃げられなかったから。お父さんの言うことが守れなかったから。お父さんは……」
自分を責め続ける。
「お父さんはまだまだやりたいことが一杯あったはずなのに。ボクなんかのせいで、全部終わって、絶望して」
いいながら、どんどん傷ついていく。

「ボクがお父さんの未来を断絶した」

頭を抱えて、そのまま大きく息を吐いた。
「何でお父さんはあの時何もしなかったんだろう」
「それは坊っちゃんの……」
「お父さんはやりたいことが一杯あったはずだよ、お母さんにあって抱きしめたかっただろうし、この国にも帰ってきたかっただろうし」
「坊っちゃん、ちょっと落ち着いてください」
今にも泣きそうな顔なのに、坊っちゃんの瞳には涙の気配が無い。
息が荒くなり、興奮してきているのはわかる。
いい意味ではなく、悪い意味での、興奮。
このままでは何を言い出すか解らない。
「国の人たちだって、大好きだったお父さんに帰ってきて欲しかったに違いないんだ、ボクより、ずっとお父さんのほうが強いし、人望だってあるし」
「坊っちゃんはちゃんとやってくれてるじゃないですか、そんな事考えなくてもいいんですよ。ちゃんと国王としてしっかり出来てます」
私は必死になって言葉を繋げる。
しかし、その声は坊っちゃんに届いているのか、怪しいものだった。

 
「お父さんは、何でボクなんか助けたんだろう」

呟くような声で、でも坊っちゃんははっきりそういった。
「だってそうでしょ? お父さんはお母さんに会いたくて、勇者様を探してて、勇者様はビアンカちゃんの子どもだったんだから、まあ、知らなかったけど、待てばいつか勇者様に会えたんだよ、命を落とす必要なんてなかった」
坊っちゃんは頭を力なく左右に振った。
「お母さんに会えば、ボクの代わりなんてまた生まれただろうに」
私は、体の血が逆流するのを感じた。
「ボクなんかのために命をかける必要なんてなかったのに」
体の奥のほうが、熱い。
怒りがふつふつ沸いてくる。

確かに、坊っちゃんは目の前で旦那様を殺されて、そのことに責任を感じているんだろう。
自分さえちゃんと、逃げていることが出来ていれば。
自分より、お父さんはずっと人望があった。
皆に愛されていた。
そう考えてしまって、その考えに凝り固まって。
そのまま足踏みをしてしまっていて。
それは、解らないでもない。
私だって、二人が帰ってこなかったとき、どうして一緒に行かなかったのか、坊っちゃんだけでも引き止めておけばとか、色んなことを考えて自分を責めた。
だから、解らないでもない。

だけど。

坊っちゃんは大きく間違っている。

「本気でそういってるんですか?」
私は尋ねる。出来れば否定して欲しいと。
「そうだよ。ボクなんかのよりお父さんの命のほうが、ずっと大事だ。お父さんが、生き延びるべきだった。ボクなんかのために、命を落とす必要はなかった」
坊っちゃんは顔を上げて、きっぱりと言い切った。
「っ!」
かっとした。
そしてそのまま、坊っちゃんの頬を平手打ちしていた。
かなり大きな音が、部屋に響く。
坊っちゃんは無表情で私を見上げていた。
それから静かに言う。

「ね、ボクの事、憎らしいでしょ」
190■涙 (サンチョ視点)
「違います! 違います! 何を言っているんですか!」
私はありったけの力をこめて坊っちゃんの肩を揺さぶり、大声をあげた。
がくがくと、されるがまま首を前後にふり、坊っちゃんはぼんやりと私を見る。
私はもう一度繰り返す。
「違います、憎いんじゃありません、悲しいんです」
私は坊っちゃんを見つめる。ますますわからないような、不思議そうな顔をして。
「どうしてそんなことを言うんです」
私はじっと坊っちゃんの瞳を見つめた。
「ねえ、考えてみて下さい、坊っちゃん、例えば、例えばですよ? ソル様やマァル様が、魔物に人質にされたら、坊っちゃんはソル様やマァル様を見捨てますか?」
「……そんな事、しない。ボクの命で二人が助かるなら、ボクは……」
「でしょう? ソル様やマァル様が、居なくなったとして、ビアンカちゃんがいれば、替わりのお子さまが生まれるとでも?」
「そんな事、ないよ。ソルもマァルも、替わりなんて居ないよ」
私は坊っちゃんにほほえむ。
「でしょう? どうしてそれが判るのに、だんな様にとっての坊っちゃんが、同じだとは思えないんですか?」
坊っちゃんはじっと私を見返し、やがて口をひらく。
「同じじゃな……」
なお否定しようとする坊っちゃんを遮って、私は続ける。
「同じじゃないとは言わせません。だんな様にとって、坊っちゃんは何よりも大切な宝物でした。いつだってお側に連れて、離そうとしなかったでしょう?」
「でも」
「確かに、グランバニアの民は、パパス様のお帰りをずっと待っておりました。だんな様は皆に愛されていました。けど、そんなだんな様が、唯一命をかけていい、そう思った存在が坊っちゃんなんですよ? だから、だんな様はためらいなく坊っちゃんを守ったんです。命をかけて。惜しくなかったんです、坊っちゃんの命の前では、自分の命は惜しくなかったんですよ」
坊っちゃんの眼が、見開かれる。驚いたように。
「だから、だんな様の愛した坊っちゃん自身を、もう許してあげてください。好きになってあげてください。ご自分を、これ以上傷つけないでください。だんな様だって、こんなに苦しむ坊っちゃんを、きっと辛い思いで見ておいでです」
坊っちゃんは何か言いたそうに口を開きかけ、でも言葉にならなかったのか、すぐに口を閉じた。
「だんな様は、愛する者のために命をかける事が出来る方だった。そして、坊っちゃんはそうさせるだけの価値がある人なんです」
坊っちゃんの、見開いた瞳に涙が溜まりはじめる。
まるで子どものように。
透明な、涙。
「お父さんは」
擦れた小さな声。
坊っちゃんは呟くように私に尋ねた。

「お父さんは、ボクの事、恨んでないのかな?」

「当然です」

私はすぐさま大きくうなずく。
そして同時に理解する。
これが。
「自分を恨んでいるんじゃないのか」という思いが、坊っちゃんの不安の、悲しみの、苦しみの根源だ。
だんな様に嫌われたという思いが、ずっと心の奥に染み付いてしまっていたのだ。

坊っちゃんは、この冷たい感覚と、ずっと一人で付き合ってきた。
誰にも言わず。

ビアンカちゃんと結婚して漸く癒えかけていた心は、彼女がさらわれた事で再び傷つき、ソル様やマァル様と居ることで立ち直りかけていた心は、だんな様の死を突き付けられる事でまた傷ついて。
『大切な人を守れない』
その思いだけが、積もっていって。
もしかしたら、坊っちゃんは、誰かと居るときもずっと孤独だったんじゃないだろうか?

坊っちゃんは涙が溜まった瞳で、私をじっと見る。
「お父さんは、怒ってないの? ボクの事……憎んでないの?」
「勿論です。憎んだり、怒ったり、嫌ったりしません。それどころか、ソル様とマァル様をしっかり守って、ビアンカちゃんを探す旅をして、家族を元に戻そうと必死に戦ってる坊っちゃんを誇りに思っているに違いありません。きっと天国で、坊っちゃんの事自慢してまわってます」
坊っちゃんの瞳から、大粒の涙が落ちた。
息を吐くたび次々と涙が零れていく。
「……お父さん……」
あとはつづかなかった。
大きな声で、子どものように泣く。わんわんと、大きく口を開け、上を向いて。私がここに居る事すら、忘れたような大きな泣き声。
私は坊っちゃんを抱き締める。頭を撫で、背中を軽く、あやすようにたたく。
「坊っちゃん、もう、いいんですよ。泣いてもいいんです」
坊っちゃんは泣きながら、私の背に腕を回した。すがるように服をつかみ、ただひたすら泣き続ける。
幼い頃泣けなくなり、それ以来涙を忘れていた坊っちゃんが、今日までの涙を一気に流している。
必死に。

泣く。

泣いて、泣いて、その涙で心の奥に溜まった辛さや、痛みや、淋しさや、苦しみで出来た、澱みのようなものを。全部洗い流してしまえばいい。
乾き切った心に水をあげて、今まで以上に、強く、やさしく。
無理や我慢をしないで。

坊っちゃんはずっと泣き続けた。
子どものような泣き声はいつしかおさまり、声をおさえるようになったが、それでも泣き続けた。

随分長い時間、ひたすら涙を流し続け、漸く泣き止む。
眼や鼻が赤く、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、坊っちゃんが私を見る。
呆然としたような、顔。
息を長く吐く。
「ごめん」
「何故謝るんですか? 謝る事なんて何もないでしょう?」
私は坊っちゃんの頭を撫でる。
「泣いてお疲れになったでしょう? 少しお眠りになったほうがいいですよ」
声を掛けると、坊っちゃんは頷いてふらふらとベッドに近寄っていく。
「何か飲み物をお持ちしましょうか?」
坊っちゃんは横になりながら、首を左右に振った。

「いいから、ここにいて」

坊っちゃんは私の手をしっかり握って、そのまま眼を閉じる。
すぐに寝息を立て始める。
私はあいている手で坊っちゃんの頭をそっと撫でる。
「ゆっくりおやすみなさいね」
191■新しい世界 (サンチョ視点)
しっかりと私の手を握って坊っちゃんは眠る。
最初のうちは眉を寄せて辛そうだった表情も、少し和らいできた。
私は坊っちゃんの頭をそっと撫でる。とても懐かしい気分だった。まだ坊っちゃんが小さかったとき、一人で眠れないと言ってよく隣に座らされたものだった。
今、ここで眠る坊っちゃんは、もう大人で、立派に父親なのに、あの頃と同じ子どものようだ。
いつまで坊っちゃんが、私を必要としてくれるかは分からないが、必要とされる間はずっとお側にいよう。

私は坊っちゃんの頭を撫で続け、そして少しため息をつく。
「だんな様……坊っちゃんは随分苦しまれましたよ」
ソル様やマァル様に聞いただんな様の最期の言葉は「自分のかわりにマーサ様を探してほしい」という内容だった。
この言葉が坊っちゃんを前に前に進ませた。
マーサ様を探して、旅をして、ビアンカちゃんと再会した。
この国に戻ってきてくれた。

でも。

たぶんこの言葉は、坊っちゃんにとっては、呪いの言葉だった。
前に進むことだけで、足踏みを許さなかった。
がむしゃらに前へ進み、多くの事を後回しにさせた。傷を癒す暇もなく、ただ前へ。

だんな様の言葉を守ることだけを第一に考えて。
だんな様の夢を叶えようと。

少しだけ、だんな様が憎い。

だんな様だって苦しかっただろう。辛く悔しかっただろう。
それでも。
坊っちゃんに「愛している」と。
最期に言うべきだった。
どうして、言ってくれなかったのか。

それが、少し残念で、少し悲しい。

最期の言葉が愛しているだったら、たぶん、坊っちゃんはここまで傷つかなかった。ここまで自分を追い詰めなかった。
「一度夢ででも坊っちゃんを誉めてあげてくださいね」
私は坊っちゃんの頬を撫で天井にむかって呟く。
坊っちゃんは、もっと報われるべきだ。もうこれ以上、辛い目にあう必要などない。

これからは。
ビアンカちゃんが戻ってきて、マーサ様を見つけて助けだし、ソル様とマァル様と、家族揃って幸せになるはずなのだ。
明るい未来だけが、開かれているはず。

坊っちゃんが目を覚ましたら、きっと今までと違う、明るい世界が坊っちゃんを迎え入れる。

眠り込んだ坊っちゃんの手が、私から離れる。私は立ち上がると、飲み物を取りに歩きだす。いつ目を覚ますか分からないから、なるべく早くかえってこなければ。
部屋を出ると、部屋前の幅の広い廊下にソル様とマァル様が居た。その後ろには魔物の皆が並んでいる。ここに入れる者は全員出てきたらしかった。
坊っちゃんはこんなに皆に愛されている。
「お父さん、大丈夫?」
マァル様が不安そうな瞳を向ける。
「大丈夫ですよ。今は落ち着かれてお眠りになっています。随分お疲れですから、皆さん喧しくしたりしないようにお願いしますね」
私が言うと皆があわてて頷く。
「私は飲み物を取って参りますね」
「お父さん、元気になる?」
ソル様が心配そうにドアを見つめて呟く。
「大丈夫です。もう、坊っちゃんは大丈夫ですよ」
私はソル様の頭を撫で笑いかける。
「きっとこれまでよりずっと、強くやさしく、元気になりますよ」

私はビンに入った水を持って部屋に戻る。
物音で目を覚ましたのか、坊っちゃんは薄く瞳をあけ、私を確認すると手をのばす。握り返したら安心したように微笑みまた目を閉じる。
「大丈夫ですよ。ずっとお側に居ますから、安心してお眠り下さいね」
声をかけると、ゆっくり頷いて、また寝息をたてはじめた。

私は坊っちゃんの体をあやすように軽く叩くと、窓の外を見た。
春が過ぎかけ、深緑が目に眩しい。
新しい季節に坊っちゃんは過去を見据えて立ち直る。
これからは、きっと、明るい世界が坊っちゃんを待ってる。
192■澄み切る(テス視点)
「……お腹すいた」
目が覚めて、ベッドに座る。隣にはサンチョ。ボクの手をしっかり握ったまま、ベッドに突っ伏して眠っている。
心の奥のほうが、何だか軽い。
「サンチョ、ありがとう」
ボクは掛け布団を一枚引き剥がすとサンチョにかぶせる。手をつないだままだったから、なかなかうまくいかなかったけど、何とかすることが出来た。
カーテンを締め忘れた窓の外が随分明るい。いったい今、何時なんだろう?
なんだか随分長い時間眠った気がするし、でも体がだるくてそんなに長い時間眠った訳でもないような、なんだか変な感覚。
お腹が随分派手になった。
反射的にお腹を押さえていたら、その音でサンチョが目を覚ましたのかこちらを見た。目が合って、かなり恥ずかしい。
「あぁ、坊っちゃんおはようございます。気分はどうですか?」
サンチョは随分心配そうに、ボクの顔を覗き込む。
「なんだか気持ちが軽くなった。ありがとうね、サンチョ」
笑いかけると、サンチョは少し涙ぐんだ。
「それはようございました」
「ご心配おかけしました」
ボクはサンチョに頭を下げて、それからサンチョの涙を拭いた。
サンチョは嬉しそうに笑うと立ち上がる。
「お食事の用意をしてきますね。あと、水を用意してありますから、飲んでおいてください」
ベッド脇のテーブルを指差して、サンチョはいそいそと部屋を出ていく。
入れ代わりにソルとマァルが走ってやってくる。そのまま勢い付けて、ベッドに飛び乗ってくる。
勢いに負けて、ボクはベッドに倒れこんだ。
二人はそんな事は気にしないでボクに抱きついてくる。力一杯、ぎゅっと。
「お父さんおはよう!」
「もう大丈夫なの?」
「二日も寝たままだから心配だったよ!」
「……え? ボク二日も寝てたの?」
「そーだよ! ねぇもう大丈夫なの?」
ボクは二人を抱き締める。こんなにやさしい子ども達が、ボクには居る。お父さんみたいなサンチョが居る。なんだかすごく、幸せだ。
「もう、大丈夫」
ボクは二人に笑いかける。
「大丈夫。もう平気」
ボクはドアのほうを見る。開け放たれたドアの向こうで、皆が心配そうな顔をしてこっちを見ていた。
そうだ、やさしい仲間が、ボクには沢山居る。

世界はまだ、ボクにやさしい。

ボクは皆に手招きする。
「入ってきていいよ」
声をかけると、皆がゆっくり部屋に入ってきた。
「皆心配かけたね、もう大丈夫だからね」
「本当に?」
スラリンが枕元に飛び乗って尋ねる。ボクはスラリンの体をつついた。
「本当に大丈夫だよ」
「なら、いいけどさ」
ボクは漸く起き上がる。マァルとソルはまだボクの体にしがみついていた。
「水飲みたいんだけど」
言うと、水を汲んで渡してくれる手。
「ありがとう」
「ご無事で何よりです」
ピエールが笑ってた。
ゲレゲレはボクの手に鼻先を押しつける。それをゆっくり撫でた。
皆やさしい。
ボクはまだ、生きていける。まだ、大丈夫だ。

「何事だー? コレ」
ドアの向こうでドリスちゃんの声がした。
「坊っちゃんが目を覚まされたんですよ」
「漸く?」
サンチョの答えにドリスちゃんの呆れたような声。
「サンチョー! お腹すいたー!」
ボクがドアに向かって叫ぶのをみて、皆がきょとんとする。確かに、これまでボクは我儘をこんなにストレートに言ったことがなかったから、びっくりさせたかも。
「今持っていきますよ!」
サンチョの呆れたような声の返事。
ボクは笑う。
何だかとても楽しい気分。
当たり前のいろんな事が、何だかとても新しく感じる。新鮮な気分。
用意してもらった食事をとりながら、ボクは皆をゆっくり見た。
ずっと一緒だったのに、なんだかずっと顔を見ていなかった気がした。
「これからもよろしくね」
笑いかけたら、皆が困ったように顔を見合わせた。
「本当に大丈夫なのか?」
不安そうに顔をのぞかれて、ボクはいよいよ声をたてて笑った。

目が覚めてから一週間がたった。
その間にしっかり食事をして、しっかり睡眠をとって、ずいぶん元気になった。
なんだか心も体も軽くなった気がする。
もちろん、お父さんの事を忘れたわけじゃない。今だって、耳の奥にあの声はこびりついてる。
たぶん、忘れることは一生無いと思うけど。
それでも、前ほど苦しくない。
許されるって、こういうことなのかも。

ボクは空を見上げる。
明るい青い空はどこまでも澄んでいた。

「次に行くところだけどね、サラボナの近くに不思議な森があるって船の人たちが言ってたよ?」
マァルがボクを見上げていう。
「え?」
「お父さんが大変だったから、わたし、出来ることをしなきゃって思ったの。お父さん、前に言ったよね? 周りで調べてから動かなきゃって。サラボナのほうは、船の人たちの出身だって言ってたから」
「マァルは賢いねえ」
マァルは照れたように笑う。
「じゃあ、明日には皆で相談して、なるべく早く出発しようね」
答えると、マァルは暫くボクをじっと見つめていた。
そしてなんだか嬉しそうに笑うと、そのまま部屋を出て行く。

「……なんだろう、今の」
ボクはマァルが出て行ったドアを暫く呆然と見つめて、それ以上考えるのをやめることにした。

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