7 ■それぞれの心の
もやもやもや。


33■アッサラーム 1
ロマリアから東のほうも、広い草原は続いていた。広い川をずっと右手に見ながら歩いていくと、やがてその川にかかった大きな橋が見えてくる。
「あの川を渡って暫く南下していくと、そのうちアッサラームだ。魔物の勢力分布が変わって結構厄介なのが出てくるようになるからちょいと気をつけるんだよ」
カッツェが橋を指差しながら言う。
「そんなに違うの?」
チッタが首をかしげると、カッツェは深刻な顔をしてうなずいた。
「ココから先を行けるかどうかで、一流かどうか決まるくらいだね」
「うわあ」
チッタが嫌そうな声をだす。確かに、ちょっとドッキリする言葉ではあった。

川は海が近いせいか、かなり川幅が広かった。そのおかげで橋も長くて広い、頑丈な石造りになっていた。川面はキラキラと光っていて、浅いところでは魚が見えた。暫くはそんな川の上で、川風を感じながらのんびりした様子で歩けていたけど、カッツェの言ったとおり川を渡ってからは随分様相が違っていた。
相変わらず、広い草原が広がっている。遠くには森だろうか、木々が密集しているのが見えないこともないけど、そちらの方面には用事がない。ただ、そっちのほうから迷い出てくるのか大型のサルみたいな魔物や、空を飛ぶ猫なんかが大群で出てくるようになってきた。サルは大きいだけあって一撃が下手すれば致命傷になりかねないし、空飛ぶ猫は魔法を使ってこっちの魔法を封じ込めてくる。厄介な魔物が増えてきた。
ただ、こちらも色々あって(カンダタ退治とかね)かなり強くなっている。いきなり襲われたりして慌てない限り、そんなに遅れをとる相手でもない。
そうこうしながら南下を続けると、やがて海沿いに街が見えてきた。
「アレがアッサラームですか?」
「そうだよ。皆いいかい? あの街で必要最低限以外のものは買うんじゃないよ。物欲しそうな顔だとかもするんじゃないよ」
「なんで?」
「行けば分かるけど、ろくでもない街なんだ」

アッサラームはあまり雨の降らない地域なのか、家の壁が土でできていて、地面は砂の固まったような感触だった。広場を中心に、大通りが南北に伸びていて、東西はこまごまとした通路が入り組んでいる。
「なるべく固まって移動しよう。それから、旅人が立ち入りを許可されている地域以外は入らないこと。ほとんど迷路だよ、この街は」
カッツェが言ったとおり、ちょっと覗いた細い路地はかなり複雑に入り組んでいそうな上に、両側に家が密集して連なっていて全部が同じに見えた。確かに、知らないで入っていくのはかなり危険かもしれない。結局、街の入り口にあるこざっぱりとした宿に部屋を取った。丁度街は夕方で、夜が近づいてくる時間帯だった。カッツェはこれからが一番危ない時間だといってぼやいている。
「そんなに危ないですか?」
「危険だね。特にアンタはぼんやりしてるから危なそうだ」
「カッツェ姉さん、忘れてるかも知れないけど、リュッセ君は腹黒疑惑だよ」
「疑惑って……」
リュッセの遠い目にチッタは気づかない振りをした。
「とはいえ、夕飯は食べにいかないとね。この宿でないし。近くに公営でベリーダンス見せる酒場があるから、そこに行くか」
「ベリーダンスって、何?」
「この街の名物さ。踊り子さんたちが踊る」
「んー、あんまり興味ないかも。女の子だし」
「文化に触れとくのもいいさ。それに、飯はうまい」
「じゃあ、そこにしよう。私おなかすいた」

酒場は、大通りをはさんで丁度宿屋の反対側、西側にあった。かなり広い建物で、舞台で踊りが披露されている。キレイな女の子ばかりで、腰を使った踊りなんだけど、全然いかがわしい感じではない。広いフロアにはいくつもテーブルがあって、舞台に近いところは男の人たちばかりが占拠している。私たちは入り口に近いテーブルで、適当に料理を注文した。
「ああいうの、興味ある?」
チッタがリュッセに聞くと、彼は暫く舞台を見つめた後
「まあ、文化的には。成立過程とか、意味合いとかは気になります。けど、芸術面は見る素養がないのでよくわかりません。好みとしては、もっと露出のないほうが好きです」
リュッセの言うとおり、舞台にいる女の子たちは上半身は胸だけが隠れていて、あとは腕輪やらネックレスがジャラジャラと飾られているばかり。足は長いスカートや足首で絞られた変わったデザインのパンツスタイルだったけど、布はつやつやとしていてかなり派手派手しい。
「まあ、文化面で感じ方が違うのは仕方ないことでしょしょう」
「でもちょっとあの衣装かわいいよね」
「うん、かわいい」
私も同意する。着るのは恥ずかしいかもしれないけど、結構デザインや色使いは可愛いと思う。舞台衣装だから派手だけど。
「……まあ、チッタやカッツェは似合うでしょうね」
リュッセは運ばれてきた料理を受け取りながら答えた。
どういう意味かは追求してやらないことにした。

食事が終わって、私たちは早々に酒場を出る。
カッツェいわく、アッサラームは夜でも早い時間は危なくないけど、遅くなると結構危険な街らしい。そして、ベリーダンスも夜遅い時間は色々サービスが過剰になるそうで、どういう方面で過剰なのかは聞かないことにしたけど、ともかく早く宿に戻るほうが賢明なのは間違いなさそうだった。

酒場を出ると、少し肌寒かった。
酒場の喧騒は外まで漏れ聞こえてきていて、少し離れたくらいではその音が聞こえなくなることはなさそうだった。歩いていくと、大通りにも広場にも人はまばらで時折人とすれ違う程度だった。
「あら、お嬢さん星のきれいな夜ね」
歩いていくと、踊り子さんがそういってにっこり微笑んだ。妖艶というのはこういう感じをいうんだろう、とぼんやり思う。言われたとおり空を見ると、真っ黒な空に、無数の星が瞬いていた。
「あ、ホントだ、キレイ」
思わず言うと、皆も星を見上げたのか賛同の声が上がる。
「まあ!」
踊り子さんの声がして、私は意識を地上に戻す。
「ステキなお兄さん。ねえ、あたしとパフパフしない?」

……。
パフパフって何??

呆然としている間に、踊り子さんは私たちの間をするりと抜けてリュッセの目の前に立っていた。
「え?」
リュッセも突然のことに呆然としているらしく、踊り子さんの顔をまじまじと見つめている。
なんか、すっごーく嫌な感じだ。
「だめよ、この人、私の彼なの」
チッタがそういうと、リュッセと腕を組んだ。しなっと寄りかかっている。
チッタ、胸、リュッセの腕に押し当てすぎ。
リュッセは次から次へとめまぐるしく変わる状況についていけないのか、今度はまじまじとチッタを見つめた。
ああ、何だろう凄く腹が立つ。
「あら、それは残念」
踊り子さんはふふ、と笑うとその場を立ち去った。
「……助かりました」
「あんなあからさまなのに捕まって思考停止しないでよねー」
チッタは呆れたように言いながら体を離す。
「ちょっとビックリしちゃって」
「ガキだねえ」
カッツェは呆れたように言うと肩をすくめた。
「ほら、行くよ。ああいうのがこれから増えるんだから」

みんなの後ろを歩きながら、私は暫く口を尖らせていた。わけはわからないけど、何か凄く嫌な感じで気分が悪い。
宿に帰っても暫くもやもやして、なかなか寝付けなかった。
34■アッサラーム 2
何となく寝不足の目をこすりながら起きて、皆と合流する。
宿でもそもそと朝ごはんを食べる間中、どうして昨日はあんなに腹が立ったのか考えてみたけど、よく分からなかった。
「とりあえず、昼間は物さえ買わなきゃいい街だから、バザールを覗いたりして昼過ぎに出発するか。そんなに長居するほどの街じゃない」
カッツェの言葉に私は大きく頷いた。何で腹が立ったのかはよくわからないけど、この街はあまり好きになれそうに無い。
「でも、これからどうするの?」
「とりあえずノアニールで、お父さんが魔法の鍵を探しにアッサラームへ行くって話をしてたって、言ってたじゃない?」
「あー、言ってたね」
チッタがうなずく。
「でも、このごちゃごちゃした街でおじ様と話した人を探すのはちょっと無理だよ」
それには私もうなずいた。
「でも、鍵のほうは誰かが手がかりを知ってるかもしれない。お父さんは鍵を探してたんだから、その場所へ行けば話が見えてくるかも」
「でも、そもそもアンタの旅は魔王を倒すことが目的であって、親父さんの後を追いかけることじゃないだろう?」
「そうなんだけど」
カッツェの言葉に私は口を尖らせて背もたれにぐったりともたれかかる。
何だかいろんなことがうまく行っていない気がしてきた。
「どの道、魔王の居場所にたどり着くためには、世界のあちこちを歩くことになるでしょう。勇者オルテガも目的は同じだったわけですから、足跡をたどることは無駄にはなりませんよ」
リュッセが私とカッツェの顔をかわるがわる見ながらそう言った。
「そうよねー。どうせこの先どこへ行こうっていう当座の目的もないし、おじ様の後を追うのもいいかもしれないね」
「それじゃ、鍵のことを知ってそうなヤツを探すか」
カッツェはふう、と息を吐いてからうなずいた。

街を歩いてみて、カッツェがココで買い物をするなといった理由がよく分かった。
ともかく、ぼったくりなんだ。
知ってるものの値段だけで考えても、ものすごーく高い値段を言ってくる。何がずるいって、値段を書いてないところ。「コレっていくらなの?」なんて聞こうものなら調子のいい言葉で、もともとの値段の倍以上の値段を平気な顔して言ってくる。
見たこともないモノの値段も、きっと元値の何倍もの値段で吹っかけてきてるんだろう。
「いやあ、商魂たくましいですね」
お店を出たところでリュッセが乾いた声で笑った。どちらかというと引きつっている、ともいえる。
「だろ? だから、よほどの必需品以外ココで買い物するヤツは馬鹿だ」
カッツェも肩をすくめる。
「せいぜい、水や食糧だけだね、買うとしたら。こんなところで買い物してたら、いくらあっても足りないよ」
買い物好きなチッタは、ちょっと不満そうな声で言うと口を尖らせた。
「いつか大金持ちとかになったら、言い値で買ってみたい」
「そんな野望は捨ててしまえ」
チッタの後頭部をこつんと叩きながらカッツェはため息をついた。

「砂漠を南に行き、山づたいを歩くと沼地にほこらがある。そこの老人が魔法のカギのことを知っているらしいのだ」
意外とあっさり、私たちは目当ての情報を聞き出すことができた。
その人は道具屋さんの軒先を借りて仕事をしている冴えない感じの占い師さんだったけど、コレは占いではなくて噂話だ、と本人は主張していた。占い師なんだったら、もっと占いで分かったように勿体つけてそれらしく言えばいいのに、とチッタが指摘すると、占い師さんは「あ」と初めて気づいたような声を出した。多分、冴えない感じというのは本当に間違いなさそうだ。
他に手に入れた情報といえば、お父さんのこと。まあ、ノアニールでこの街を目指したって言っていたんだから、話を聞くのは当然かも知れない。お父さんは鍵を探して南に出たという話しだった。会うことは絶対にないのに、こうして足跡が分かるのはちょっと不思議な気分だった。いつか、何処かで追い抜いてしまって、どこでも噂を聞けなくなる街にたどり着くんだろう。そのときがきたら、私はどうなるんだろう。

あっさりと情報は手に入ったものの、水だとか食糧だとか、旅に必要なものをなるべく値切りながら買い物していたら、気づいたら夕方になっていた。結局、その日の出発は諦めてもう一泊することにして、私たちは宿に戻った。

なるべく早くこの街は出て行きたいのに。

アッサラームを出て進路を西に取る。
相変わらず広い草原が広がっていて、遠くに森が見えた。地図から考えると、目指す砂漠は正確には南西方面にあるようだった。遠くに見える森は通り抜けなくてもよさそうだ。
どんどんと西に向かって歩いていくと、足元の草に分かりやすい変化が現れてくる。最初は背が高かったけど、どんどん短くまばらになり、風に乗って砂が運ばれるようになってくると、草は地面にへばりつくような短いものだけになっていた。その頃には、視界の先に広い砂漠が見えてくる。遠目でも砂漠は広そうだった。何せ視界の端から端まで一面黄色い。吹いてくる風も随分砂っぽく、そして熱い。
「砂漠は北の海まで広がってるのね。丁度ロマリアの対岸。南側は険しい山脈が続いていて、人の足で越えるのは無理みたいよ。アッサラームで聞いた、山沿いっていうのはこの山脈のことだと思う」
チッタが地図を指し示しながら言う。
「砂漠で目標物もなく歩くのは無謀だろう。山沿いに行ってその鍵を知ってる人の家ってのを先に見つけたほうがよさそうだ」
「そうだね、じゃあ、ちょっと南下して山脈が見える範囲で歩いていこうか」
険しい山脈を左手に見ながら、私たちは砂漠を行く。けど、砂漠は予想以上につらい場所だった。
太陽は容赦なく照り付けてくるし、砂に足をとられて歩きにくい。マントのフードをかぶっていても、その太陽の光の凶悪な熱さはがんがん私たちの体力を奪っていった。
いつもと同じだけの時間を歩いても、距離はいつもの半分にも満たない気がする。そのくせ、疲れはいつもの倍以上感じるのだから、本当にたちが悪い。随分旅には慣れた気でいたけど、もしかしたらそれは錯覚だったのかもしれない。
「暑い」だの「つらい」だの、お互い口々に言いながらそれでも進む。止まったって暑いんだから、進まないのは馬鹿らしい。そんな気分だった。
だからこそ、険しい山を背景に、ぽつんと小さな家があるのを発見したときは心底嬉しくて、重かったはずの体を軽く感じながら私たちはその家に半ば駆け寄るようにたどり着く。
ドアをノックすると、中からおじいさんが顔をだした。おじいさんは私たちを見て暫く驚いていたようだったけど、快く中に招き入れてくれた。久しぶりの日陰は、とても気持ちがいい。

「そうか、鍵を探しているのか」
おじいさんはそういうと、なぜか満足そうにうなずいて
「鍵はピラミッドに眠ると聞いている」
と答えた。
「ピラミッド?」
「王の墓だよ。太古の昔のな」
「王様のお墓……それ、ドロボウ?」
「遺跡にあるモノはすべからく冒険者のための宝だ」
王様のお墓という言葉に私が眉を寄せると、カッツェはそう力説した。おじいさんはそんな私たちを見てひとしきり笑う。
「まあ、ドロボウなのかそうではないのかは、君たちが話し合って決めるといい。ワシはあくまで、聞いた話を言うたまでだ。ただ、ピラミッドを目指すのなら、先にイシスに向かったほうがいいだろう。ココから山脈に沿ってずっと西に行くと、オアシスがある。そこに発展した城下町だ。砂漠のたびには重要な場所だな」
おじいさんはそういうと、西の方角に目をやった。少し遠いまなざしだった。
「じゃあ、実際宝かドロボウなのかは後でゆっくり話し合うとして、イシスには行ってみます」

私たちはおじいさんのご好意で一晩家に泊めてもらってから、西を目指して歩き出した。
35■オアシスのそばで 1
おじいさんに言われたとおり、山脈を左手に見ながらどんどんと進む。
相変わらず太陽は凶悪に私たちを焦がすつもりなのか、熱い光を照らしつけてくる。マント越しでも、その日差しを痛いと感じることさえあるくらいだ。足元の砂も、やっぱり足をとられることがあって歩きにくい。
そういう中でもたくましく生きている魔物たちは、私たちを見かけると襲い掛かってくる。生まれたときから砂漠に居るだけあって、魔物たちは足をとられるようなことにならない。それが何だかとてもずるい気がする。
それでも人間何とかなるもので、戦いを重ねていくと流石に戦い方も分かってくる。目の前にオアシスが見えるようになってきた頃には、歩き方もマスターしていたし、戦いでも遅れをとることはほぼなくなっていた。相変わらず太陽の光だけはどうしようもなかったけど。

オアシスは大きな湖を中心に、足元には久しぶりに見る草が地面にへばりつくように生えている。随分広いオアシスなんだろう、私たちがたどり着いた東側には、草木が生えているだけで、建物は全くなかった。遠く湖の対岸に建物が見える。大きな建物はお城かもしれない。
「水があるのは助かるよね、なんかそれだけで涼しく感じちゃうよ」
チッタがふう、と大きく息を吐きながら言う。
「ココからはオアシス沿いにあっち側に行けばいいんだよね? あっちに見える建物がイシスだよね? 私だけに見える幻じゃないよね?」
私の言葉に、全員が大きくうなずいた。
「アレが目指すイシスでしょう。大きな街のようですね」
リュッセは木陰に座って、暫く目を閉じていた。
「あ、ちょっと水遊びしていこうよ」
チッタは言うと靴を脱いで、湖に足を浸ける。
「あ、冷たい。予想外!」
その言葉につられて、私とカッツェも足を湖に入れる。透明な水は、湖の底が見えるほどで、結構冷たかった。
「ねー、リュッセ君も来たらー?」
「僕はいいです」
チッタの誘いに、思いがけないほど硬い声の返事が返ってきた。
「なんでー? 気持ちいいよー? 別にわたしたち、裸なわけでもないんだしー」
「いいです、遠慮します」
リュッセは膝を抱えて、その膝に額を乗せた。見た目結構ぐったりとしている。私は一度湖からでてリュッセの方へ近寄った。隣にしゃがんで、顔を覗き込みながら尋ねる。
「大丈夫?」
「ええ、まあ」
そうは答えながらも、リュッセの顔は結構赤い。かなり暑さにやられているみたいに見えた。
「でも、ちょっと辛そうだよ」
「まあ、暑いのは暑いです」
「チッタも言ったけど、別に恥ずかしい格好でもないし」
「遠慮します」
「じゃあ、タオルをぬらしてきてあげるよ。首に当てるだけでも違うから」
そういって立ち上がろうとしたときだった。不意に「おすそわけー」というちょっと楽しげなチッタの声が頭の上で響いて、次の瞬間には水がリュッセの頭にパシャっとかけられた。
「!!!!!」
リュッセの息を呑む音が聞こえた。
それは恐怖に引きつったような息。
びくりと体を震わせて、凍りついたような表情でリュッセはチッタを見上げる。さっきまで赤かった顔が、今や蒼白といってもいい。
「こ、こ、殺すつもりですか!?」
引きつった声で言うとリュッセは後ずさる。
「ちょっとした……お茶目のつもりだったんだけど……」
チッタも流石にリュッセの反応に驚いて、あいまいな笑顔を見せた。
「そんなお茶目がありますか!」
チッタは取り乱すリュッセを暫く見ていて、首をかしげる。
「あ、もしかして、リュッセ君、水が怖かったり、する?」
リュッセは無言で頷いた。
「ガキの頃におぼれたとか、そんなのか?」
尋常でないリュッセの反応に、流石に心配になったのかカッツェもやってくる。
「ええ、まあ、そんなところです」
リュッセは答えると、漸くカバンからタオルを取り出して髪を乱雑に拭いた。
「へえ、ちょっと意外」
チッタは呟いてからしゃがみこみ、リュッセの顔を覗き込む。
「あの、ね。知らなかったとはいえ、ごめんね」
「……ええ」
なんとなく許してはいない声で、それでもリュッセは頷いた。
「でも、とんでもない怖がり方だったよね。普段お風呂とか困らないの?」
反省をしたのかしてないのか、チッタは首をかしげる。好奇心が先にたつと、いろんなことが後回しになるのは、チッタの悪い癖だと思う。
「お風呂はまあ、自分の意思で入るものですし、足がつくの分かってますしね。平気になりました」
「平気じゃない頃もあったんだ」
「ええ、まあ」
「ちょっと詳しく聞かせてよ。考えてみたらリュッセ君のこと、あんまり知らないし」
そういえば、確かにそうだ。カッツェがカンダタがらみで色々あったのは皆が知ってるし、私の高所恐怖症も皆が知ってる。チッタはお喋り好きだから、皆でご飯を食べるとき色々昔話やら夢やら語るから皆わりと色々知っている。
けど、リュッセは大体聞き役で、あまり自分のことは話さない。考えてみれば、エルフの村で言った「人間にはとうの昔に絶望している」っていうのも、原因は知らないままだった。

誰も「聞かなくてもいいじゃないか」といった助け舟を出さなかったから、リュッセは暫くしてから
「聞いても全然楽しい話じゃないですよ」
とだけぼそりといった。
「聞いてみなきゃ面白いかどうかは分からないよ?」
チッタの返事に、リュッセは迷惑そうな顔をする。
「待ちな、チッタ」
話を促すチッタを、カッツェが止める。そのままリュッセの顔を見て続けた。
「リュッセ、アンタはそれを喋りたくないみたいだね。チッタは聞きたそうだけど。……喋ったとして、アンタは平静で居られる話かい?」
「……分かりません。コレまで人に話したことないですから。僕は乗り切ったつもりで居ますけど、実際そうなのかは分からないです。そして」
リュッセはそこで言葉を切って、私たちの顔をゆっくりとみた。
「皆さんが、聞いてからどういう気持ちになるかも、あまりよくわかりません。気分のいい話ではないのは保証しますけど」
「只おぼれたってだけじゃないみたいだね」
「ええ、まあ」
答えて、リュッセは湖を見る。
「殺されかけた、んですよ」
36■オアシスのそばで 2
リュッセの答えに私たちはぎょっとする。
予想外の言葉だった。
「え、誰に?」
「聞くんですか?」
チッタは多分、反射的に聞いただけだろうと思う。チッタが言わなかったら、多分私かカッツェも、反射的に聞いていたかも知れない。聞き返したリュッセは、ちょっと驚いた顔をしていた。
「うーん、聞きたいような聞かないほうがいいような」
「父です」
チッタがあいまいに答えている間に、リュッセはあっさりと相手を告げた。もしかしたら、もうどうでも良くなったのかもしれない。
「父、父、って、父だよね? お父さん?」
自分でも間抜けな会話だと思ったけど、思わず聞いてしまう。
「え。だって、リュッセって、教会の……神父様って優しそうな仮面の下でそんな!?」
「違いますよ。リッシュが言っているのは、今の父です。世間的に言えば養父ですね。僕は今の父だけが父親だと思ってますから、養父という呼び方は心外ですけど」
リュッセは眉を寄せてそういう答え方をした。
「どうも断片的に話していくと、誤解がとても生じそうな気がしてきたので、簡単に順を追って説明しますね。もう、いいです知られても」
リュッセはそういうと、自分の過去を話し始めた。

リュッセは、小さい頃そんなに裕福ではない状態で、お母さんと二人で暮らしていたらしい。家には父という人が時折やってきては、一晩だけ泊まっていくことがあったらしい。それがいつものことだったから、リュッセは家庭というのはそういうものだと思っていたそうだ。父が来る日はどうやら父がお金を出すらしく、食事が豪華になるのがリュッセは単純に嬉しかったらしい。
その日も父という人がいつもどおりにやってきた。いつもどおり食事をした。父と母が話していたから、邪魔をしないように先に寝た。いつもどおりだった。いつもと違うのは、いつもよりただ眠かったくらいだった。
気づいたら、自分の体が揺れていることに気づいて目が覚めた。でも、身動きが取れなかった。自分の手足が縛られていることに気がついた。目の前に、同じ格好をした母がいて、床に寝転がらされていた。
何事かと思った。
揺れているのは、自分が馬車に乗せられていたからだと知ったのは、馬車から降ろされてからだった。
あとはあっという間で。
橋の上から母親もろとも川に投げ入れられた。
父は馬車の中から、その作業を黙ってみていただけだった。

「と、まあ、そういう話ですよ」
「いやいやいや、『そういう話』でまとめられない話だろう」
カッツェが青い顔でリュッセに言う。
「今の父は、おぼれている僕を発見して助けてくれたわけです。その後も育ててくれて、感謝してもしたりません。……母は助かりませんでした」
「その、リュッセを殺そうとした、お父さんって捕まったの?」
私はリュッセの顔を見る。いたっていつもどおりで、特にショックだとか言う顔はしていなかった。
「捕まりませんよ」
「どうして?」
「そもそも居なかった人間を、殺せるわけがないでしょう?」
「え?」
「つまり、僕は、もともと生まれてないことになってるんですよ。母も、そんな人は居なかったことになってるんです。だから、居ないものは殺せないでしょ? そういうことですよ」
「殺人犯が捕まってないなんて変だよ!」
「いや、まあ、そうなんですけどね」
泣きそうな私の頭を撫でながら、リュッセは苦笑する。
そんな目にあってれば、そりゃ、とうの昔に人間に幻滅するだろう。子どもだったリュッセが感じた絶望はどれだけ深かっただろう。

「それにしてもだ、アンタや母親をそういう扱いしておいて、逃げおおせてるって、父親ってのは何者だったんだい?」
「さあ? 僕子どもでしたから、よく知らないんですよ。ただ、母はあの男の愛人だったんでしょうね。決まった時期にやってきてましたから、生活費はあれから出てたんでしょう。結構社会的地位はありますし。恐妻家らしいですけど。まあ、あちらも焦ったんでしょうね。愛人の子は男で、家に居るのは娘ですから」
「それって、相手が誰だか分かってるってこと、だよね?」
「知りませんよ。そういうことにしておいて下さい」
リュッセはそういうと、私の頭をぽんぽん、と軽く触ってから立ち上がった。そのまま湖のほうへあるいていって、そっと水に手を入れる。
「言っておきますけど、不意打ちでなければ、別にもう怖くはないんですよ」
珍しく話をずっと黙って聞いていたチッタが、不意に口を開く。
「それなりに地位があって、娘さんがいて、奥さんが怖くて、リュッセ君の年齢が19でしょ? ……お父さんって、ウィード卿?」
リュッセは暫く無表情でチッタを見た後、ふう、と息を吐いてから、「さあ? 父のことは忘れました」とだけ答えた。

多分。
チッタの質問は正解だったんだろうと思う。
でも、リュッセが忘れたという以上、ずっとその質問に答えはない。

「聞かなきゃ良かったでしょ?」
リュッセは私の顔を見た。
「うん。でも、これでリュッセが人間に幻滅するのは当然だと思ったし、これから何かリュッセが乾いた死生観を語っても驚かないで済むようになったと思うことにする」
「前向きですね、でもそれがいいと思います。嘆いたってどうせ過去は変わりませんからね、嘆く暇があったら前を向くほうがいいですよ。コレは父の受け売りですけどね」
「神父様はステキなお父さんだね」
「ええ、もちろん。……もうこの話はやめにしてイシスへ向かいましょう。何だか疲れました」
その言葉で、私たちはもうそれ以上リュッセに何か聞くことはやめることにして、歩き始める。

イシスはもうすぐそこだ。

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