飛鳥時代の欽明天皇の代(500年代)に香良洲の浜に夜ごと御神火が現れ、住民がたたりだと恐れを成し、祈りを捧げ、神の御心を問うたところ、稚日女命(わかひるめのみこと)のお告げがあり 今の神戸市の生田神社から勧請して創建された。 矢野の里の由来ともいわれる話もある。・大同2年(807年)、大伴文守(あやもり)が平定のために伊勢国に赴き、 平定後に香良洲神社へ参詣し、和平の誓約としてかぶら矢を奉納したとも言われる ・大伴文守が征夷大将軍として東北地方の征伐に伊勢から向かう途中、台風にあい一時香良洲に停泊し 風が止むのをまった。その時土地の役人の娘である香良媛(ひめ)が舞で将軍を慰め、将軍は喜び かぶら矢を立てて香良媛との再会を約束した。この矢を立てた野原と言うことでその地を「矢野」 と呼ぶようになったとも言われる(宮踊りの一踊りの「由来踊り」にも歌われている) 鴨長明が文治2(1186)年に記したとされる「伊勢記」の中で、雲出川の河口付近の塩の美田を見て詠んだとされる句が刻まれた歌碑が香良洲公園入り口に建てられている。 (鎌倉時代藤方から香良洲地域にかけての海岸では塩が盛んに生産されており、伊勢への旅の道中、 焼出(現在の藤方)から雲出の浜を過ぎた辺りで、沖の浜・松原のあちこちから立ちのぼる煙などが目 の前に現れ、その絵に描いたような眺望を詠んだとされ、香良洲公園の歌碑にこの歌が詠まれている) 雲出川は米など兵糧輸送等の重要拠点であり矢野崎はにぎわった 雲出川は南北朝時代(南朝と北朝の境)から戦国時代 たびたび合戦が行われている 室町時代後期(1498年)に発生した明応大地震によって、新川が雲出川の本流となり雲出古川(北川)と新川(前川)と伊勢湾に囲まれた日本一?きれいな三角形の三角州ができあがった 矢野の里の広い漁場 の伝説・吉宗さんの恩返し 江戸時代の中頃、矢野の漁師が漁の帰り、浜に藤堂家に向かう紀州家の3人の若侍らに 津へ送ってほしいと頼まれ、なんぎをみかね岩田川の岸まで送ったところ、 一番若い侍からお礼をしたいと言われたが、一度は断ったが「なんなりと所望せよ」との事で、 なるならんは別にして「矢野の漁場が広いと良いのにと思っている」と申し出たところ、 なんと藤堂家の殿様に話をしてもらえ、 のちにに漁場が広がったとの知らせが届いたとのこと! 若い侍は紀州徳川家の殿さまで、後に8代将軍となった吉宗公であった! とのこと !? ・戦国時代、伊勢の九鬼水軍に矢野村の男衆が加わって活躍したことも との言い伝えもある 昔、雲出川の春の堤防は、桜のトンネルができるほど華やかで、寛政9(1797)年には本居宣長が門人たちと香良洲で花見を行い、香良洲神社を参拝した一行は、浜辺に出て海を眺め、松の木陰で 酒を飲み、歌を詠み交わし、宮司や津の門人たちも加わって花見の宴を満喫したとあり、この花見で 一行が詠んだ歌は60首を超えたとか! 「からす崎 なみ木の桜 きのふ来て見てまし物を 盛り過けり」(少し散りかけていた模様) 1889年(明治22年)4月1日町村制の施行により、一志郡矢野村 1929年(昭和4年)には町制施行と同時に香良洲町に 1930年(昭和5年)伊勢線が引かれ、国道23号線の西に香良洲駅ができたが、昭和36年に廃線 梨栽培は、明治時代から始まったが、本格的に梨栽培が活発化したのは第二次世界大戦戦後 (昭和初期は養蚕が盛んとなったが桑畑から戦後果樹園に重点が移ってきた) 歴史資料館 資料より
「東の霞ヶ浦・西の三重」と言われた 戦後、ノリ養殖・大阪京都方面への魚の行商が盛んとなったが、近年減少している しらすウナギ漁とウナギ養殖が盛んとなり、養鰻池がいくつも掘られた 1953年(昭和28年)に香良洲浦は県立公園伊勢の海に指定され本格的に観光地となった 1970年(昭和45年)2月25日「香良洲町の宮踊」として三重県指定無形民俗文化財となった 1986年(昭和61年)頃より食品および鉄工業関連の工業団地が作られている 2006年(平成18年)1月1日、津市など9市町村と合併し、新しい津市の一部となった |
![]() 香良洲道の常夜灯と道標 香良洲道(からすみち)に建てら れていたもの等を、香良洲大橋の たもとの交差点下(堤防の下)に 集められた物 |
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しらすウナギ ![]() 昭和の中ごろには、小学生でも雲出川 の堤防沿いに行き、しらす鰻を獲り、 仲買に売れるほど雲出川でも獲れ、 仲買人は養殖業者に売り、ウナギの 養殖も盛んであった。 今でも、雲出大橋と香良洲大橋の間 当たりでは しらす獲りの灯りが、 2月〜4月頃にいくつか輝いている (昔に比べて少なくなりました 今も獲 れるのかな) |
飛鳥時代の欽明天皇の代(500年代)に香良洲の浜に夜ごと御神火が現れ、住民がたたりだと


