ねずみのチューザー19 八畳ほどの殺風景な座敷に通された僕らは、といっても僕とねずみには適度な広さで、ちょっとした旅情が障子越しにすきま風となって運ばれてきた。玄関からして簡素な佇まいだったので、庭先の景色をうかがう意欲もかすれてしまい、縁側に沿って踏めば軋るような廊下を進んでいく心持ちを意識するまでもなく、そのときは実をいうと久しぶりに靴を脱いで歩いている感触のほうが勝ってしまったのか、あれこれ家の造りに目をやることも忘れていたんだ。 しかし、いざ絵柄なしの少々黄ばんだ白いふすまが向き合い、これまたくすんだ畳に足の裏が触れた途端に、調度品も床の間も掛け軸もないがらんとした空間に視線が泳ぎはじめたのさ。指先にぬめりを与えたかとさえ思わせる飴色をたたえたふすまの木枠は相当時代を偲ばせ、その幅はまるで畳の縁を床から浮かびあがらせるように同じ位置に接しながら、奥の間と隣の間を区切って水平垂直に不思議な整合性を配し、左手の土壁の素っ気なさに臆することなく雅な味わいを感じさせてくれている。奥の間も同じ間取りであるのが知れると、それ以上深追いしない狩人の気性などほのかに胸を去来させ、おもむろに姿勢を変え縁側の障子をぼんやりと見つめた。「まずはおくつろぎを」と、ねぎらいを含んだ柔らかな言葉の余韻がまだ耳に残っている。もげもげ太はおそらくここのあるじなのだろう、すっと閉められた障子がすべりゆく残像にも毅然とした風格がそれとなく尾を引いているようで、僕の胸中には安堵やら期待が混じり合い、律儀な線状を見せる座敷もさることながら、すでに夕日が差し込んでいる情景に陶然としてしまったんだよ。 真っ白であったのか、煤けていたのか、もはや夕映えを仰ぎ見る気分に同調したままじっと、橙色に染まりゆく障子紙をなにか怖いものでも目にするようにしていたのはきっと、妙な出来事に飛び込んでしまっている不安が解消され、反対に郷愁の成分を譲り受けたからではないだろうか。 まなざしは定まったままの状態だったが、なぜか掌で畳をこする仕草は続けていた。それをあえて子供じみた、いや動物じみたかな、反応で示してくれたチューザーのせわしない無言の動きが加わり、互いの心模様があらわになっていたように思う。やっぱりねずみって凄くすばしっこいんだね。何度かあのひげ先が指にあたったんだけど、その感触を覚えたときにはもう座敷の隅っこに駆けているんだ。さながら隠しきれない気持ちのように。遠くへ逃げ出したいくらいのはにかみを振り捨てながら、、、 「失礼します」日暮れであることに没頭していた趣きが一層深まった。チューザーは読みとってくれていたんだ、きっと。 僕は橙色した色合いのうしろに積雲の動きをゆっくり見届けた。不意な陰りではない、予期したごとくの明確な挙措であり、それはしなやかな身体を映しだす、いわば僕の幻灯機であった。 「お茶をお持ちしました。お風呂のほうは少しお待ちください」 腰まである黒髪が揺れる様は影絵のまま、開かれた障子のなかに持ち込まれる。苔子は僕の動揺に勘づいているのか、決して目線を合わせようとしない。だが、僕の動揺は浴槽からあふれてしまう湯水みたいに、その放恣は案外と大胆な意気込みを育んでしまう。そう、苔子の姿かたちをこの目に焼きつけんばかりの勢いで観察したんだ。時間にしたらわずかだったけど、動体視力を駆使しつつ、しっかりと観るべきものは脳裏に保存する覚悟だったから、彼女は増々気おくれしてしまったかも知れないな。そんな有様だったわけなので、苔子の容貌はしっかりと想起出来る。 濃い緑をしたお茶をすすった。この香り、舌へと残るまろやかさに拮抗する品のある苦み、どこかで味わったようにも思えるのだが、それより先は踏み込めない。えっ、ねずみもお茶をすすったかって。ああ、チューザーはリポビタンだって飲むんだよ、それより茶の香りは、別の香りをこの殺風景な部屋に放った。律儀なふすまの木枠と畳の縁はお決まりの端正であることから解き放たれ、縦横無尽にその直線を組み替え、限りない線路のように山を越え、谷を越え、地を這い続ける。 少女は少女であることを自分で認めていながら、雨後のたけのこが驚異的な成長を見せる様態をあくまで両の目でうかがっている。長く伸びた髪に対する時間とは異なる意想を宿しはじめ、すでにその根はこころの奥深へ浸透しているのだが、うまくたぐり寄せることも、つき放してみることも覚束なくて、つい投げやりな視線に流してしまうのだけども、傍からすればそんな面持ちこそ十全な成育のあかしに他ならず、丸みを帯びていた手がどことなく引き締まった反面、からだ全体はふくよかな張りに充たされだし、着物のうえからも察することが無理ではない色香を漂わせだす。例えば首筋に備わり始めている溌剌とした皮膚の艶は、姿勢の加減や些細な仕草のうちに一瞬あらわになるし、元来細面であったのか、こめかみのあたりからあごにかけての鋭角さも理知的な冷たさで損なわれてしまっているというより、気品ある乙女だけが持つ厳粛さで逆に強い引力を生み出して、まわりの空気を浄化し、魅惑の距離感を定めてくれる。そんな輪郭は静止している場合だけにとどまらず、様々な角度から眺めることで小気味よい踊りのように、あるいは愛嬌ある動物の骨格のように、表面上の、そして内面の若さゆえの清純を強調させてやまない。少女が内包している爆弾に匹敵する清楚な球根に罪はない。そもそも女体自体なんの罪もあるはずがない、清らかに淫らにと査定をくだしているのはすすんで罰を受けるために存在している輩だけだ。もっともそういう輩がこの世からいなくなってしまえば、相当寂しい世界になるだろうが、、、 苔子の瞳をのぞきこむのが難しかったので、僕は横顔を通しなぞっている。とはいえ、彼女の目が若干つり上がり気味であるのも、細面に合わせて調節したみたいな鼻筋がこれからまだ屹立してくる予兆があるのも、それから以外と唇が凡庸であって印象が薄いのも、すべては苔子の笑みをまだ目の当たりにしていなかったからなんだ。 |
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