ねずみのチューザー18 甲賀までどのくらいバスは山路を抜けてゆくのだろう。まどろみに誘われ、夢の里がぼんやり霞がかった向こうに届きかけた心地は消え入りそうな水彩画へにじむ一筆だった。どこまでも淡白である情緒に従うことを至上と心得る、かたくなな居眠りとなって。 そうさ、うたた寝をしてる間に、空模様の加減をうかがうこともないままに、まるで時代劇の撮影用にでも建てられたかの古めかしい門構えが窓のそとに静止した。草庵と呼ぶには気骨あり気なたたずみの、風雪に対峙し続けてきた木目の質朴は、武家屋敷の趣きを醸しながらもそれらしく山深き民家であることが観てとれたんだ。門のさきには畑が耕されていて、柿の木や南天が寡黙にのびた様子も、その上空をゆるやかに舞っている鴉も無聊を慈しんでいるような気配だったから、なおさら紋切り型の印象を受けたのかもね。 「ここが里の入り口なのかい」なんとも間の抜けた台詞を僕は吐いてしまった。 「左様でございます。二角堂と申しましてかの玄妖斎翁が晩年に住まわれた家屋なのです」 もげもげ太が颯爽とした声色でそう答える。ああ、いよいよ得体の知れなかったものが本格的に立ち現われようとしいる。眠気が飛んでしまうというより、もっと深い夢の彼方に連れ去られてしまいそうな気がして、ふらふらとした足取りでバスを降りたんだ。車内も清浄な空気を保っていたけど、外気は手足がしびれてしまうくらい澄みきっていた。長旅かどうかはわからないが、とにかくチューザーの講談に引かれるまま山中を揺られてきた身にとってみれば、名所や旧跡を訪ねたときの新鮮な感覚に見舞われるのと同じで、しかもこれは古きものが威厳をただしているだけの日向にくっきりと浮かぶ濃い影とは異なる、逆に陽光のなかにぽっかり開いた穴ぼこをしらしめる、さながら墓所を掘り返してみたようなおののきにひんやりと僕は包みこまれていた。すべてが幻想に浸食される瞬間っていうのはこうした冷気をともなうものなのか、汚れを知らない山の精も無論この環境を造りだしているのだろうけど、僕には架空の人物としか思われなかった甲賀玄妖斎がこの門内に漂っているふうに感じられて仕方なく、鳥肌を立てることも忘れているほど外界に射抜かれたのさ。つまりは透視された。だからとてつもなく澄んでいたんだろう。 チューザーもなにやら話しかけていたようだったが、どうにもその場のことが思いだせない。なぜなら僕らを待ち受けていた人影が、宙を浮いた足もとへ近づいてくる様をじっと見つめていたし、面をあげるのも気恥ずかしく、鴉は変わらずゆったりと飛翔を続けているのか、果たして何羽が空から見下ろしているのやら、歓迎の挨拶は門前の人影よりひと足早く鳥影のすがたでこころの隙間に歩み寄ったからなんだ。上空の羽ばたきがここまで聞こえてきそうなくらいのせわしなさで。それでいて、悠然とした素振りがこの二角堂という寺社みたいな名前の由来を告げているようなのは、どうしたわけなのか。秋風がさっと吹きこんだのもいい案配で幻想は宿無し子をなだめ、萎縮と羞恥のはざまに生き生きとした光線を照らしたんだ。紅顔に染まる思いが自然であることを願い、ようやくたどりつけた人里に血のぬくもりを覚えたことを祝し、あの揺籃から導こうと努めた回路が不徹底となる甘い憂いに失する予感が、しみじみ愛おしく感じる。 老夫婦の笑みにはすでに鳥影から離れた親しみのあるしわが刻まれており、油が抜けた皮膚に一層濃い影を生みだしていた。でも、僕が身震いしたのは彼らの後ろに隠れるようにして立ちすくんでいる、ひとりの少女であって、その容姿の清楚な雰囲気にのみ込まれたのはもっともだったが、なによりその頬が紅葉の反射を受けて朱に染まっているかの光景だった。僕の羞恥は多分この少女がもたらしたんだよ。 「この家の留守居のじいとばあの夫婦です。それからこの娘はわたくしの姪にあたる苔子、斯様な山奥のこと故なんのおかまいも出来ませぬが、まずはおくつろぎ下され」 もげもげ太はそう言うと門のなかへと案内してくれた。おおよそ山のなかにはありそうな老夫婦だと違和感はなかったけど、まさかこんな少女がいるなんて考えもなかったので、人影のなかに見いだしたことをわずかだけど引き延ばしたんだろうな。「こけこ」って言われみて最初はにわとりを想像して一体どういう名前なんだって首を傾げた通り、これだけ風貌と名がそぐわないのも珍しいよ。 バスの窓に映った畑は左右に案外ひろく、その真ん中を一直線に進んでゆくとやはり映画のセットみたいな建物が迫ってきた。それでも草葺きの風趣に感心していたから、細やかに普請の情景を伝えたいところなんだけれどもげもげ太が家のまえあたりで急に、「闇姫さまは所用にてこちらにまいるまで三日ほどかかりそうでございます。いかがいたしましょう」と、チューザーにか僕にか、それともどっちにもか、半ば薄笑いをつくりながら問いかけてきたんだ。どうもこうもない、僕に権限などないのは百も承知だったので黙っていたところ、チューザーはいかにも物憂にこう言った。 「それなら骨休めといたしましょうぞ。御両人には鋭気を養いまするのがよい機会、また車両での密談などより、この様な由緒ある屋敷にて、懐かしい畳部屋にて、休息をかねてですな、、、」 僕は内心喜んでいたんだ。温泉場にでもくつろぐ安穏でもう胸のなかには湯煙が立ちこめていたからね。雨降りはあまり好きじゃないけど、小雨や霧に霞む山間はとても静寂でしかも見通しが良くなる。君にはわかるだろう僕の言ってることが。 |
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