まんだら第四篇〜虚空のスキャット16
そっとそっと静かに、聞こえてくるはずの気配まで消し去ってしまうほどに、耳を澄ましてみても孝博には何も聞こえてくるものがなかった。
書き記されたもの、断片的でもいいからどうにか、何かを示唆するようなもの。
「主人は読書の割合からしても、不思議なくらい文筆をとることはありませんでした」
四十九日にして再び遠藤家を訪問するまでの間、孝博の胸裏に去来していたのはあまりの出来事に動転し発生した気泡と呼ぶべきような、目に見えない騒乱であった。見えないうえに聞こえてこないのだから神経ばかりが荒ぶれるのかと云えばそうでもない、持ち前の分野も手伝い久道の教訓よろしく「学術的」に見極める精神だけは従容として、確定とはされていない故人の死因を追求しようと躍起になっているのだった。
突然の悲報はやはり三好の家から送られた。帰京の日、遠藤を尋ねたことをさり気なく話しておいたのがせめてもの救いとなり、日頃からこまめで気のまわる性格な三好は案の定、先日のペナントにからまった綿ぼこりのような軽やかな記憶から何らの直感を得たのか、死体が確認された翌日に連絡を寄越したのである。
「孝博さん、確か帰りの日にあそこへ寄っていったでしょう。歳も近いし懇意だったら知らせといたほうがよいと思ってね。急だったし、それにあんた死んだ原因がどうもよくわかってなくて、事故死か自殺かって近所でももっぱらの噂でさ」
目耳に水とはまさにこう云った事態を指すのだろうが、新聞報道では誤って堤防から落下し水死と書かれており、今のところ三好にも事実の判断はつけ難い様子で、動揺あらわなまま、咄嗟に事の真意がわかったら是非とももう一度電話して欲しい、実は遠藤とは小さい頃の遊び友達で数年まえから帰省したのは知っていたけれど、中々顔を会わせる機会もなかったものでと言いつくろい静かに受話器を置いたのだった。
鼓動が高まるまでどれくらいの時間を要したのか憶えていない。先日の帰省がつい今しがたの光景となって眼前に押し寄せては来るのだが、ほとんど現実感のない久道の悲報はそのまま、次々と宙に浮かんでは消えてゆくシャボン玉みたいで実体がなく、あるいは意味をはらまない字句が、それはちょうど幼い時分目した漢字に何の意義を認めなかった有り様を想起させた。
寝床に就く頃になってようやく想いが姿となり始めだし、胸騒ぎになだれこむと感じられたのだったけれど、不気味なほど沈着な悪鬼が先に顔を覗かせひたすら呪文のごとくに「自殺ならば遺書がある」と、心音を鼓舞する勢いで一種の統制を司るのであった。翌日からは更に呪文は長文と成り果て、「遺書は必ずここに送られてくる、送られてこないのは何かの手違いによるもの、そこにはすべてが書き示されている」こう狂わし気に唱えられた。
孝博はこんな脅迫観念めいた意識が発生している自分を見直す力が微かに残っている感覚を保持し続けていた。裏返しにみれば、悪鬼を前座として胸の裡に登場させてから、つまり悪夢に席を譲ったのち落ち着いて窓枠を見つめられる勘案であった。三好に対してもあちらからの知らせばかりを待つだけでなく、こちらからそれとなく動静を窺う、これが三日も続けくとさすがに、
「そんなに気になさるんなら、少しでも情報あり次第ってことでどうぞ安心して下さいな。変なふうにとらないで、、、もしや孝博さん、あの日何かあったんですか」
と、いよいよ勘ぐられる始末だったが、「いえ、少しばかり悩んでいる様子だったんで気にかかりましてね」如何にもまっとうな返事はすぐ様に三好の曇りを払い退け、同時に孝博自身にも陽光がきらめいて悪鬼の類いは陰りを求め消えて去ってしまった。
それからは無音の世界を彷徨うまでだった。三好からの報告がない限りは、孝博の心持ちはひたすら滝に打たれ続ける修験道者のごとく無心であった。ならば邪念こそは、久道の事故死の可能性に結びついてしまい清められた精神を蝕む。過失にしろ高波にしろ、彼は決して不慮の死などで命を断たれることなどあり得ない、ただただ明徴に記された遺書とともにこの世をあとにしたのだ。そうでなければ、すべての辻褄が合わなくなり、そう、何より美代にまみえることも出来ない、自分は宗教学者として久道が開いてみせた超越の秘密を探求しなければいけない、、、続編も予告編もすべてはこの手で編み出さなくては、、、残さるべき遺書を唯一の教本として。
孝博の日常をよく知るものらにとっては彼の顔色や表情に別段変化を認めることもなかった。だが、本人が何より一番よく理解していた。すでに久道のもとへ臨んだときから確実に憑かれてしまっている。いやもう少し前からとも云えよう。何ものが憑依しているのかはまだ判然とはしなけれど、いつか目にした夜の河川には存在していない特別なものだとは言い切れる。
日々は流れるが、未だ孝博には情報がもたらせらない。四十九日の法事が最期のよりどころであるのは瞭然、差し迫ってきた以上は、腹づもりは出来あがっているのだろう。遠藤夫人とは面識ないが、どうしても差し向かいで話したく、出来るなら久道の日記や研究書など拝借したいものだ。ここまで来たからには恥は承知のうえで事の次第を説明してみてもかまわない。そんな久道のよき理解者がひとりだけいた。
表面的には健常者を演じているつもりでも「僕にだけは見えてしまうんだよ」そう、あのまちで悲運を起こしたけど、今では隻眼の勇者と呼びならわれている一人息子の晃一だった。
「まだ、学校夏休みだからさあ、その日は用事があって無理だけど追って帰省するよ。いいだろ、もう女にうつつなんか抜かせないから、ついでにつきあってる彼女も一緒に連れてっていい。大丈夫、邪魔にはならないから、約束するからさあ」
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