まんだら第三篇〜異名5
男子のなかでも目立った存在であるわけでもなく、その反対の雰囲気、つまりは病弱な体質と聞き及んでいたところもあり、児童らしからぬ頬のこけ具合からは何故か淀んだ水たまりを連想してしまう見るからに陰湿な風貌を醸し出しているのだったが、細面に不似合いな張りのあるつぶらな瞳はときおりため息をもらした加減と相違をあらわにすることを望むのか、高森を包み込むんでいる全体的な印象はどこかしら健気な居住まいへと移りゆきながら、殊更てらうわけでもなくただそうやって静かに編み方に専念している様は、穏やかな流れをもつ水域へとたなびいていくようであった。
やはり彼が腺病質であることをまわりの者らも理解していたのだろう、誰ひとりとして女子のお株を奪う芸当をあからさまに非難してみたりからかう調子も表に出ない。美代へ留意を促した子の語気には、どちらかと云えば感嘆に類する新鮮なためらいが込められているようであり、その先へは意見を発しないままにそっと見守っている表情がすべてを物語っていた。
美代は意外性と感じる間のなく妙な関心をおぼえたことを憶い出す。のどかな春日和の陽光を待ちわびているこころが、こんな記憶のかけらを蘇らせたのも不思議なことだけれど、しかし門戸が開かれるためのきっかけとして情景的にもっとも叶ったこの霧が晴れゆき、新たなに回想が紡ぎ出されようとしているとりとめもなさそうな、そよ風にも似た心持ちは深い谷底に目を落とす、あの瑞々しさとめまいが同居した感覚を呼びさます。
あれだけ熱心に編み上げられ、可愛らしくもあざやかに腰元を飾って揺らいだリリアン作りも季節が変わるころには一過性の流行を同じくもうもてはやされることもなくなっていた。それがどのくらいの期間であったのか、結局美代自身もうら覚えに誰かのおさがりを身につけていたようなにも思えるのだが、それより先の光景はひろがっては来ない。
「浅井さん、どうですか今日は。外は風が冷たいですけど、こうして窓から眺めると暖かな感じがしますね」
個室を割り当てられた美代のこじんまりとした室内には確かに暖かな日差しがとりこまれ、白壁を背にして佇んでいる自分よりもひとまわりほど年の差がありそうな看護士が見せる、はにかみを思わせる遠慮勝ちの微笑みは窓の外の寒風にたったいま顔をさらして来たふうで、白衣に身を包まれたすがたもまた冷たさをより引き立たせている。
「この看護婦さんの笑顔をもう何度目にしたのだろうか、、、」
まばゆい満面の笑みを決しておもてにさせることのない毎日の挨拶が繰り返されるなか、美代のこころの底に沈みこんでいく懸念はこうやって空洞をくぐり抜ける不確かさに寄り添いながら、いつかは訪れることだろう先行きへの淡い期待となり、ぼんやりとした意識の裡に雪洞のように灯される。
検温を済まし、あたりさわりのない会話の余韻を少しだけ残して再び閑静な部屋にひとりとなった美代は、不意に胸騒ぎみたいなものに突き動かされるようにして思考を集中し、かたちになりかけようとしている記憶の断片を寄せ集めはじめた。
「随分とまえだけど高森くんの夢を見たことがあるわ。短い夢だったけど確かに、、、あのあと中学でも同じクラスになったのよ。やっぱり学校も休みがちだったし、ほとんど口も聞いたことないはずなのにどうしてかしら」
ものごとを成就させるためにはいつだって歩み寄りが不可欠だ。たとえそれが前向きな姿勢ではないとしても情念を奮い立たせるには、そこに近づいていかなくてはならない。夢のなかであったとしても、、、
意識の黎明を知らせる予兆はすでにその萌芽を含んでいる。中学生に成長した美代自身の影がすっと足音もなく胸のなかに忍びこんだ感触が符号になったのか、高森のすがたもにきび面の容貌へうつろいながら、ところが校内での対面ではなく、林間学校での集合場所になった国道沿いの駐車場へと意識は影絵の如く映し出された。あれは真夏の早朝、薄明を通り越したばかりの気配が山々から降りてくる冷気とともに運ばれ、鳴きはじめて間もない蝉の声がまばらながら遠くから聞こえていた。
普段はまだ寝床にいる自分がこうして他の生徒たちと、山裾から香りたつ草いきれを早くも一緒になって感じとっていることが、日盛りの熱気が失われてしまった時刻に立ち会っているようで、どこか謎めいた微行にも思われ、明らかにいつもとは違った寂然とした空気感にまどわされて、なかば夢見の心持ちに支配されている。
高森がすぐ近くで数人と喋りあっている。そしていつかの小言を思わせるように美代の隣にいた男子生徒が、ぶっきらぼうにとは云え悪態をつく口調におちることなく、
「なんか、森やんのジーパンすがたはじめてみるよなあ。おそろしく似合わないなあ」
そう一言彼がつぶやいてみせたのは美代に同意を求めると云うより、本心がごく自然に口をついたまでのことであるようで思わず笑みがこぼれだしたことが、いま憶い返されるのであった。
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