断章11


夕暮れの深まりが季節のなかで加速して行く秋の日、営業部と掲げられた社内の入り口付近、かすかに染込んでくる肌寒さに微妙な安息を覚えた風情で外まわりから戻ったばかりの大橋性也は、後ろから自分を名を呼び止めるのを耳にした。
控えめな声量だったのが一瞬以外にも思えたが、その声の持ち主がY子だと云う確信が、先ほどまでの暮れなずむ秋空が瞬く間に暗幕をおろしかけた街並の景色も、精一杯足を棒にした割には仕事の成果が上がらなかった疲労も、いっぺんに疾風で吹き飛ばしてしまったのように感じて、振り向くと同時に、綿密に描写すれば背後を見やる移動の刹那に於いてすでに気分は高揚しているのだった。
恋する自分は恋をしているのだと、いつかの夜更けY子の豊かな胸の谷間に最終的には頬を埋めながら、心の中に再び緩やか情熱が大きく振幅を示したのだ。それから季節がひとまわりしてゆくなか、幾度となくY子と逢ってからだを交わし合ううちに、分割を余儀なくさせようとして、純然とした現象のみ切り取ろうと努める内裏に頑迷に潜む魔の観念は幾らかは制圧されたかにみえて、生来自分はものごとに対し書割りを作ってしまうことが働く性分なのだと、開き直ってみたら以外にも女性関係だけに限らず交友に於いても人間関係、ひいては人生観に到るまで区画整理の如く何事も明瞭に双眼に映りこむように神経をすり減らそうとしている几帳面なたちである実感が了承され、芝居道具を駆使してまで、張りぼてで粉飾された戸板や敷居を創作してまで、どうにかまとまりをつけたかったのかと我ながらの意地らしさに親近感を抱くのであった。
もちろん自己と他者との隔たりを埋め尽くすというより、隔絶したままの状態で最良の区域識別を計りたいのは今も望むところであるが。
更にことY子との関係では、包み隠しようないあの暗然たる事実が不吉で汚わらしい阻害物としてとぐろを巻いているからには、どうあっても例え臭いものにふたをする姑息なすべを講じても、しっかりと目隠しさせる必要があった、彼自身にとってもY子にとっても。
それ故にY子に向かっては社長との経緯を問いただす権限を持たない代わりに、彼女の口からも何の情報も成り行きも報せを欲しないことがお互いの暗黙となった。その代償として性也はY子の肌に触れる度にすべてを忘却の彼方へと放逐し、双方の肉体の摩擦によって発火する快楽を至高のものと崇め、次第に汗ばんでくる腋下をすかさず見定め
こそばゆげに身をよじらせるのも強引に、その陰の間に沸々とあふれ出してくる体液を舌先で啜りあげ嘗めまわすのだった。下半身の大切な秘所にわき出される欲情のしたたりを味わう前菜として、当然の如く性也はY子を飲み尽くそうとした、そうした営為は如何にもY子の背後に見え隠れする社長の影を払拭するのに欠かせない強欲の仕業ともいえる。女体より一番最初に分泌されるもの、それを賞味できるものこそ、登攀者の誇りであり悦びであったから。
Y子のすべてが独占不可能であり、その摂理を甘受してしまっている以上、これが性也にとって強奪に他ならいことも女はよく理解していた。それが男の出来うる最高の愛情表現に違わないことだと云うことも、、、

「やあ、お疲れさん、少し片付けをすましたらもう終わりなんだ、君は残業ないのかい、どうしたの、そんなにじっと見つめたりしてさあ」
「さっきから、あなたのこと待っていたのよ、実はお話があるの」
会社内では性也に対していつもわざとらしく明るく振る舞う普段の様子と異なる、こわばったようなふうにも見えるY子の口調と表情が気になった。おのずと性也の顔も固くなる。
「じゃ、飯でも食べに行こう。食べながらでもいいし、食べ終わってからでもいい。話の濃度の問題だよね、君が決めれば」
営業部と秘書室との役職の違いもあって、同じ建物の社内とはいえ毎日、お互いが顔を合わせているわけではなかった。それに毎夜、ふたりが抱き合っているわけでもなかった。今日の顔合せは3日ぶりのこと。
確かに毎日毎夜、Y子と過ごせれば、それに勝る喜びはあり得なかったであろう、が、性也はそれでも決して不服な感情を抱いたりはしなかった。この恋の行方がどんな場所へとはこばれていくのか、如何なる仕掛けがこの先備えられており、思いもよらぬどんでん返しが、はたまた非常に現実味を帯びた結末が安泰と用意されているのか窺い知れない謎ときゲームとして、そのものであればよかった。
陰りのふすまから顔を覗かせたよう溌剌さが隠蔽されたY子に、何か不穏な足音が近づいている予感は以前よりも増して今現在の光輝、それだけを心の底から切望した。それが未来への馥郁たる夢見を三角巾にして絞り出したはかない終決に拮抗するものだと深読みしてみせるほど、性也は心中は安閑ではなかったから。