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三重の巨樹・古木
三重の巨樹・古木(川北要始補著)
(注)取消線は、改訂により削除したもの及び台風により倒木したものです。
 も く じ
北勢地域
01 美鹿の神明杉

02 宇賀神社のナナミノキ
03 太夫の大楠
04 芳ヶ崎のクロガネモチ
05 長楽寺のモミ
06 誓願寺のイブキ
07 東藤原小学校のヒマラヤシーダ
08 石川・石神社のカゴノキ
09 飯倉・石神社のタブノキ
10 宝林寺のコウヨウザン
11 南中津原の寝カヤ 
12 笠間小学校のセンダン
13 演暢寺のイヌマキ
14 鳥取神社のイヌナシ
15 大樹寺のスダジイ
16 鵜森神社のサイカチ
17 堂ヶ山神明社の大楠
18 中山寺のモッコク
19 奥郷の寒椿
20 八重姫のカエデ
21 庄内小学校のユリノキ
22 鞠鹿野のユーカリ
23 長太の大クス
24 地蔵の大松
25 白子子安観音のトトロの木
26 亀山公園のアラカシ
27 宗英寺のイチョ
28 野村一里塚のムクノキ
29 関神社のウラジロガシ
30 関神社お旅所のトウカエデ
31 加太・川俣神社のサカキ
中勢地域
32 光月寺のクロガネモチ
33 椋本の大椋
34 三重大学のポンドサイプレス
35 県立博物館のセンペルセコイア
36 古河の大いちょう
37 櫛形小学校のダイオウショウ
38 射山神社のイチイガシ
39 香良洲公園のクロマツ
40 石橋のエノキ
41 成福寺のイスノキ
42 矢頭の大杉
43 南出・白山比咩神社のオガタマノキ
44 成願寺のネズ
45 長楽寺のカヤ

46 東平寺のシイ
47 正念寺のヤマザクラ

48 真福院のケヤキ
49 国津神社のケヤキ
50 下太郎生のヤナギ

51 日神不動院のオハツキイチョウ
52  善覚寺のヒヨクヒバ
53  松阪第一小学校のラクウショウ
54  蘭宇気白神社のモミ
55  来迎寺のツバキ
56  出鹿の魯桑
57  飯南高校のハナノキ
58  粥見の山茶花
59  春谷寺のエドヒガン
60 有間野神社のオオツクバネガシ
61 水屋神社の大クス
62 福本の大トチノキ
63 黒瀧神社のスギ
64 雲林寺のニッケイ
65 東漸寺のゴヨウマツ
66 青田の大ガシ
67 加波神社跡のモチノキ
68 西村広休植物園跡のフウ
69 千鳥ヶ瀬のムクノキ
70 津田神社のスギ
71 金剛座寺のホルトノキ
72 近長谷寺のボダイジュ
73 佐那神社の手力の大桧
74 前村の大楠
75 本楽寺のイチョウ
076 油田家のメタセコイア
077 柳原観音のモミ
078 荻原神社のイチイガシ
079 大杉谷の大杉
080 大淵寺のスダジイ
伊勢志摩地域
081 松井孫右衛門人柱堤のケヤキ
082 弥栄の松
083 神宮勾玉池のハナノキ
084 神宮勾玉池のアキニレ
085 外宮の台湾産樹木
086 新開の臥龍梅
087 堅神神社のウバメガシ
088 庫蔵寺のイスノキ
089 庫蔵寺のコツブガヤ
090 家建の茶屋跡のオオシマザクラ
091 立神・宇気比神社のヤマモモ
092 船越神社のホルトノキ
093 おりきさんの木
094 田丸城跡のハゼノキ
095 久具都比売神社のクスノキ
096 内瀬のハマボウ
097 穂原小学校ダイオウショウ
098 礫浦八幡神社のホルトノキ
099 河内・仙宮神社のバクチノキ
100 棚橋竈・長泉寺のナギ
101 多岐原神社のヒノキ
102 龍祥寺のシダレザクラ
103 大皇神社のスギ
104 旧紀勢町役場のシダレザクラ
105 錦海岸の大ウバメガシ
106 大内山・八柱神社のミズメ
107 大内山・八柱神社のツクバネガシ
伊賀地域
108 高倉神社一の鳥居のケヤキ
109 西山・春日神社のコウヤマキ
110 果号寺のシブナシガヤ
111 旧花之木小学校のナンキンハゼ
112 岡八幡宮のシリブカガシ
113 上野城跡のコナラ
114 常福寺のコウヨウザン
115 高徳寺のカゴノキ
116 正月堂のテーダマツ
117 西念寺のカヤ
118 薬師寺のムクロジ
119 河合小学校のセンダン
120 かえで橋の楓
121 林渓寺のトキワレンゲ
122 塚原のエノキ
123 兼好塚のオオツクバネガシ
124 天照寺のアスナロ
125 宝厳寺の紅梅
126 龍性院のコウヨウザン
127 無動寺のタラヨウ
128 丈六・八幡神社のケヤキ
129 延寿院のシダレザクラ
130 長瀬のヒダリマキガヤ
131 不動寺のカヤ
東紀州地域
132 尾鷲神社の大クス
133 九鬼町・真巌寺のナギ
134 三木里海岸のクロマツ
135 飛鳥神社のクスノキ
136 飛鳥神社のホルトノキ
137 長島神社クスノキ

138 豊浦神社のバクチノキ
139 引本幼稚園のタイサンボク
140 大馬神社のスギ
141 長全寺のナギ
142 小船・善費寺のイロハモミジ
143 原地神社のナギ
144 神木のイヌマキ
145 下市木のイブキ
146 引作の大クス
147 引作のシマクロキ
148 相野谷神社のイチイガシ
149 神内神社のホルトノキ
150 烏止野神社のオガタマノキ
 1 美鹿の神明杉
 (スギ科、スギ) 桑名市多度町美鹿 大杉神社
 山の斜面にある多度町美鹿地区の最も奥の高い位置には、大杉神社がある。この神社には昭和18年4月22日三重県指定天然記念物「美鹿の神明杉」といわれる神木のスギがある。このスギは幹周囲745cm、樹高32.5m。地上2.5mのところで二又。拝殿左脇にあり、竹の「すのこ」で幹は保護されている。

天然記念物名では神明杉というが、この神社の主祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)であり、天照大神を祭る神社は神明社というので、この名がついたのであろう。神社境内には古いスギが多い。このことから神社名も大杉神社であるが、昔の神社名も「大杉神明宮」でスギにこだわっているが、古くから境内にはスギが多かったのであろう。

桑名市教育委員会が最近設置した「美鹿の神明杉」の現地の説明版によると、推定樹齢860年とある。このスギは1本の木が二又になったのでなく、恐らく2本の木が癒合したと思われるので、樹齢はこれより若いものと思う。この木には「すのこ」が巻かれ、樹皮が保護されている。伊勢神宮の場合は、神木の杉皮を、部屋に吊るしたり、煎じて飲むと悪病が癒るという風評から、参拝者に杉皮を剥ぎ取られるのを防ぐのだという。この神明杉にもそういう威力があると、信じられたのかも知れない。

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 2 宇賀神社のナナミノキ
 (モチノキ科、ナナミノキ) 桑名市多度町柚井 宇賀神社
 神社入り口より右へ行く道沿いには、県内最大ではないかと思われる太いナナミノキがあり、幹周囲242cm、樹高18m。さらに7m離れて幹周囲190cmのナナミノキもある。 

ナナミノキの大きさは、林弥栄著『有用樹木図説林木編』昭和44年、誠文堂新光社刊によると、「通常樹高810m、胸高直径2030cmであるが、大きいものは樹高15m、胸高直径40cmに達する」とある。この神社のナナミノキを胸高直径になおすと77cmであるので、文献の最大とする記述よりはるかに大きい。ナナミノキは特に信仰に関係ないと思うが、伊賀市予野の花垣神社などでは目立つところにある。

ナナミノキは県内各地にあるが、個体数はきわめて少ない。ナナメノキはナナミノキといも言う。その語源は多く実を着けるので「七実」とか、赤い実がクロガネモチより「長実」からといわれる。

なお、この柚井地区はかつては柚比村(ゆいむら)といって、美濃国(岐阜県)に接し、美濃街道による伊勢への入り口。ここにある宇賀神社は延喜式内社とされる歴史のある神社。多度山の東の登山口にある。その森は、現地の説明版によると、カナメモチーコジイ群集の森で、シイの巨樹からなると解説されている。

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 3 太夫の大楠
 (クスノキ科、クスノキ) 桑名市太夫

「太夫の大楠」は昭和34年市指定天然記念物。古いクスノキで地際から2幹立ちで、地際幹の最も細いところの幹周囲は1207cm。南の幹の幹周囲は565cm、北の幹の幹周囲は515cm。樹高は28.5m。しめ縄は2幹をまとめて回す。南側の幹には大きなコブ状のふくらみがあり、その大きさは縦2.4m、横4.4mの大きなもの。

 かつての太夫村は津島神社の御師(おし・おんし)や太神楽(だいかぐら)の仕事をする人が住む小さな村だった。明治16年頃は30戸だった。伊勢太神楽は国重要文化財になっている。

この「太夫の大楠」はこの村の氏神の境内の木であった。古くは6本のクスノキがあったので、「六本楠」といわれていた。昔からこの地には大きなクスノキがあって、伝説もある。天正年間(1573-1592)、長島城主の滝川一益(かずます)に攻められた三河の武士が、ここのクスノキの巨樹の洞穴に隠れ、難をのがれたという。後に、この母親がお礼にこのクスノキを訪ねたが、この木は枯死していた。そこで、この場所に再びクスノキを植えて帰ったが、この木が今のクスノキだという。

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 4 芳ヶ崎のクロガネモチ
 (モチノキ科、クロガネモチ) 桑名市芳ヶ崎
 桑名市の天然記念物「芳ヶ崎のクロガネモチ」は、天王八幡社の神木。神社から、かなり離れて前方に一本だけ生育し、幹周囲344cm、樹高15m。枝が横に伸び、枝張りは24mもあって、この木は傘を広げたような形になっているが、高さより枝の広がりの方が長い。幹にはノキシノブが多く着く。昔から、この木を少しでも切ると祟りがあるといわれた。近くに建ったアパートは、この木の枝の先まで、避けて建った。送電用電線も迂回。かつて、この木の下を通る道の道路工事や、水道工事にかかる入札業者が無かったことがあったと、市役所の人から聞いた。

一方、クロガネモチは庭木として金持ちを連想するという縁起から、古くから旧家によく植えられた木である。この木も地元の名物であった。近くのアパート名は「くろがねハイツ」、自冶会の集まりは「くろがね会」と名付けられ、以前にこの木の近くにあった酒造会社の酒の銘柄も「くろがね正宗」であった。

 地名「芳ヶ崎」は「はがさき」と読むが、江戸時代は同じ読み方で「芳賀崎」と書いた。明治22年に発足した七和村の役場のあった所。この神木のクロガネモチのある神社は村社であり、古くから信仰された木であった。なお、古い村名の「七和」は、小学校名や三岐鉄道の駅名等にその名が残る。

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 5 長楽寺のモミ
 (マツ科、モミ) いなべ市藤原町篠立長楽寺
 三重県の最北端で、員弁川の源流に位置し、しかも人里離れた山中に長楽寺はある。本堂前の石段を登りつめた左脇には幹周囲437cm、樹高35mの太いモミがある。

古くは山門代わりとして右にも同じモミがあって、対になっていた。右側のモミは約30年前に枯れて、今は代わりにコウヤマキがある。この地に寺が開山した宝暦2年(1752)に植えられたという。このモミの枝にはヤドリギのマツグミが着く。

本堂の屋根は波型トタンであるので、本来は茅葺と思う。また境内には観音堂があり、本尊は秘仏馬頭観世音菩薩。養老6年(722)、泰澄大師(たいちょうだいし)が養老の滝においでになった時、七色の虹の先にカヤの古木があった。

この木は虫食いの木ではあったが、幹には仏の顔が浮かびあがっていたので、大師は大変感激して、その木で馬頭観世音菩薩を刻んだという。この菩薩の収まる観音堂からは、山門代わりのモミの巨木は、空に浮かびあがるように見える。

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 6 誓願寺のイブキ
 (ヒノキ科、イブキ) いなべ市藤原町大貝戸 誓願寺
 三岐鉄道三岐線の終点の藤原駅の下には誓願(せいがん)寺がある。この寺の庫裏裏側で、書院の庭には幹周囲362cm、樹高18.5mの太いイブキがある。幹は左巻き(旧表示では右巻き)にねじれ、枝には雌花を多く着ける。

平成5年刊の全国育樹祭記念誌『郷土の樹木』では、武田明正先生はこの木を見て「根元にたってみると、天空に向かってねじれ込んでいく巨大なドリルの刃先を連想させる」と書いている。

歴代の住職は、客を書院に通し、このイブキを眺めながらもてなしたといわれる。さらに、寺の表側山門の南側にも幹周囲220cmの古いイブキもある。イブキの庭木は、県内では稀にあり、旧家や古刹に古い木が残っている。

この書院の庭にはコバノミツバツツジやイロハモミジがある。この三岐鉄道は昭和6年に営業を開始したが、このときの鉄道唱歌に「もみじの誓願寺、さくらの正法寺」と歌われたが、当時、この誓願寺にはモミジの古木があったという。本堂前広場にはツゲの植栽があるが、近くの石灰岩地帯産のものを移植したものであろう。

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 7 東藤原小学校のヒマラヤシーダ
(マツ科、ヒマラヤシーダ) いなべ市藤原町石川 東藤原小学校 

 ヒマラヤシーダは北西部ヒマラヤやアフガニスタンが原産。樹形が美しいので、世界各地の庭園、公園や道路に植栽される。ナンヨウスギ、コウヤマキとともに、世界の三大庭園樹といわれることもある。わが国への渡来は、林弥栄著『有用樹木図説林木編』によると明治12年頃とある。新宿御苑に植えられたのが最初。ヒマラヤスギともいわれる。

東藤原小学校の運動場南端の緑地で、道路下の法面には幹周囲320cm、樹高26mのヒマラヤシーダがある。私の調査では、この木が県内最大の木である。この学校のこの木の育つ緑地には、ヒムロ、ニオイヒバ、モミ、サルスベリ、ヒヨクヒバ、キンモクセイ、メタセコイア等があって、学校樹木園のエリアとして造成されたかもしれない。

菰野町朝上小学校、津市の久居農林高校、松阪市の飯南高校、亀山市西野運動公園、津市玉置公園などにも、太いヒマラヤシーダがあるが、幹周囲は3mには達していない。この木は枝が水平によく張り、根は浅く横に伸びるので、風害を受けやすく倒壊することがある。 

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 8 石川・石神社のカゴノキ
 (クスノキ科、カゴノキ) いなべ市藤原町石川 石神社
 およそ南向きの石神社本殿の東側斜面には、幹周囲337cm、樹高19mの太いカゴノキがある。カゴノキは「鹿の子の樹」の意味で、この樹皮が円い薄片となって点々とはげ落ちて、そのあとが淡黄白色の鹿の子模様になるので、この名がある。

そのためカゴノキは鹿を意味し、特に春日信仰や鹿島信仰では鹿が登場し、それにちなんでカゴノキが植えられることが多い。

この神社のカゴノキは本殿に近いところに育つ。そのためこの神社でも、古い昔、樹皮の美しいカゴノキを、神の使いの樹として植栽されたのではなかろうか。ちなみにこの神社は、藤原町史によると、創立は仁和2年(886)で、品陀和気命(ほんだわけのみこと・応神天皇)を主祭神とし、延喜式内社で、員弁十社の一つという由緒ある神社。

この神社には古い木が多い。いずれもその大きさを幹周囲であらわして、ムクノキが280cm、タブノキが265cm、ケヤキが392cm、カヤが332cm、イチョウが341cm。とくに注目されるのは本殿前に太いケヤキが対になって植栽されている。

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 9 飯倉・石神社のタブノキ
 (クスノキ科、タブノキ) いなべ市北勢町飯倉 石神社
 この石神社には、高さ1mのところの幹周囲が445cm、樹高24.5mで、1.3mの高さで二又になった太いタブノキがある。この木は、昭和63年の当時の環境庁の「巨樹・巨木林調査」では、幹周囲568cmであるが、幹の二又部分のふくらみを測っているので、太さの表現としては、多少無理があると思って、ここでは最も細いところの幹周囲で表した。

タブノキはクスノキとともに巨木になるが、タブノキは樹皮が薄いせいか、そこに少しでも傷がつくと、そこから腐りが幹に進行して折れてしまい、巨木になるのは少ない。そのため太いタブノキは少ないなかで、この木は県下有数のタブノキの巨木と思う。ほかにこの神社の森には幹周囲285cmのツクバネガシや幹周囲343cmのスダジイもある。なお、この「石神社の社叢」は平成15年3月に市指定天然記念物になっている。

 石神社の御神体は石だという。石の神霊は尊んだのは奈良時代というから、この神社の創立は古いと思われる。また、この村里は飯倉(いぐら)と呼ばれたのは、天皇の直轄領地で、貢米を収納する倉庫があったという、由緒ある霊地であった。

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10 宝林寺のコウヨウザン
 (スギ科、コウヨウザン) いなべ市北勢町東貝野 宝林寺
 コウヨウザンは中国南部、台湾、インドシナが原産で、わが国へは江戸時代後期に渡来したとされる。昭和63年に当時の環境庁が行った「巨樹・巨木林調査」により、およそ100樹種の日本一の樹木が明らかになった。

それによると、三重県には全国一の樹木が一つあった。それはこの宝林寺のコウヨウザンで、本堂・庫裏前にあり、この木は今、幹周囲449cm、樹高37m。太い枝が弓なりに下がる。この木の下の庭園にはツバキが収集植栽され約50180本があり、クロツバキは30年生だという。

 このコウヨウザンの巨木は『北勢町風土記』によると、元禄年間(1688 1703に、檀家の片山幸右衛門という人が霊木として寺に寄進したとある。この記述は渡来の江戸時代後期にはあわないが、いずれにせよ日本一だから、渡来した最初の木に近いものと思う。

この木の下には、この子供苗の独り生えがよくできる。これを造林した人がいて、付近の山には太い木がある。また、大正5年には明治神宮造成にあわせ、当時の十社村名義で2本献木されている。

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11 南中津原の寝カヤ
 (イチイ科、カヤ) いなべ市北勢町南中津原
 カヤは真っ直ぐに伸びて大木になる。北勢町南中津原には、田畑の中の一区画に、地面を這った

異様なカヤの大木がある。地元では通称「寝ガヤ」と呼ぶ。

昭和63年、当時の環境庁の「緑の国勢調査「では、 調査者がイヌガヤと報告したが、見たこともない様相から、カヤとは信じ難く、イヌガヤと誤認したらしい。およそ2アールの所に、元は10株ほどのカヤが1本を除いて、すべて横たわって伸びている。最も太いと思われる木は幹周囲192cm

この「寝ガヤ」の森には、関ヶ原に敗れた落ち武者が隠れ住んだという伝説もある。カヤは古くから実が食糧や油採取用に栽培された。そのため、この「寝ガヤ」は果実の採取が容易であるため、大切に育てられたと思われる。今でもカヤの実は「日本のナッツ」と珍重される。

カヤの栽培の歴史は古く、それだけ色々な変種、品種ができているが、多雪地帯にはほふく状になって、途中に根をだすチャボガヤがあるが、この木はこのチャボガヤに近い変種と思われる。葉の長さも普通のカヤより葉は長く3cm

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12 笠間小学校のセンダン
 (センダン科、センダン) いなべ市大安町門前 笠間小学校
 笠間小学校の運動場の縁で、南門の両側には大きなセンダンがある。外側から見て、右側は幹周囲395cm、樹高14.5m。左側は幹周囲385cm。枕木柵で保護される。近くには古いトウカエデもある。このセンダンが育つところは、かつての笠間稲荷があったところ。センダンの樹幹は横に広がり、木の下からチラチラ空が覗けるほど、光が入りこんで、心地よい蔭を提供してくれる。

小学校によると、このセンダンは、この地出身で中国の大連で成功した人が、現地から持ち帰り、大正8年(1919)に、母校に寄贈したものという。この時、在校生が植えている。そのためこの木の樹齢は90年近くになる。“栴檀(せんだん)のように、大きく、やさしく、強くなれ”とこの木が「みえの樹木百選」になった時、木の下に書かれた。「せんだんの木」という笠間小学校の歌もあり“1 せんだんの木が 青空にゆらぐ 大きくなれよ さよならみんな  せんだんの枝を 風がくぐっていく やさしくなれよ さよならみんな 3せんだんの下で 手をつなぐ仲間たち 強くなれよ さよならみんな 4 せんだんのことを いつまでも忘れない 幸せになれよ さよならみんな”と歌われる。

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13 演暢寺のイヌマキ
 (マキ科、イヌマキ) いなべ市大安町石槫南 演暢寺
  演暢寺は、かつて円長(えんちょう寺といったが、文化8年(1811)に改称して今の名になっている。

本堂前広場で、山門を入った左側の鐘楼そばには、幹周囲439cm、樹高13.5mイヌマキの巨木がある。古いイヌマキは大きい葉のタイプが多いが、この寺の木は、葉は小さいタイプで、ラカンマキに近い高級品種だったかも知れない。昔、高さ4m付近で、一度剪定されたか、多幹になっている。古い木だけあって幹に皺が多い。

三重県内のイヌマキの大木は、私の調査では「御浜町神木西地の狩掛神社跡」、「松阪市魚見の魚見墓地」についで、県内三位の太さ。この寺は文政11年(1828)に火災にあって全焼。天保3年(1832)に再建されている。再建されて今年で175年経ったが、再建のときに樹齢25年の木を植えたとすれば、樹齢は200年になる。

イヌマキは古い時代から、庭木や生け垣として最もよく植栽されてきた。これは病虫害に強く、土壌環境を選ばず、特に風害につよく、成長が遅いので剪定などの管理が少ない特長があるためと思われる。

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14 鳥取神社のイヌナシ
 (マキ科、イヌナシ)東員町鳥取 鳥取神社隣公園

 平成19年4月15日に、東員町など後援で「北勢線の魅力を探る会」が、東員町にある三岐鉄道北勢線の「穴太駅)(あのうえき)」から「鳥取神社」までウォーキングするイベントをしている。

鳥取神社隣の公園に育つイヌナシの満開(4月上旬)の花を見るのが目的でもあった。この木はいま、幹周囲119cm、樹高14mあり、小枝密度の多い木で、しめ縄をつける神木。

イヌナシは、野生ナシの中でもっとも原始的な種で、4月白い花を開き、6月には約1cmの果実を結ぶ。マメナシとも言われている。

周伊勢湾地域に分布する希少種。明治35年(1902)、四日市小学校の教員であった植松栄次郎が同僚の今井久米蔵、寺岡嘉太郎とともに、四日市市東阿倉川で発見し、これを牧野富太郎が新種として、イヌナシと命名している。明治41()1908) 牧野富太郎は植物学雑誌第22巻にPyrus dimorphohylla Makinoなる学名をもって初めて記載している。 

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15 大樹寺のスダジイ
 (ブナ科、スダジイ)四日市市市場町 大樹寺 
 大樹寺は報徳年間(1449-1452)に、近くにあった市場城の城主朝倉氏の請により開山し、城主の菩提寺であった。

寺には「真源大澤禅師像」という絵画の指定有形文化財があるが真源大澤禅師とは諡号(しごう)された名で、この人はこの寺の開山に迎えられた桃隠玄朔(とういんげんさく)師で、京都の妙心寺で修行し、さらに讃岐で生活した後に大樹寺に入っている。かつては七堂伽藍を備えた禅寺であったが、天正年間の織田信長側の滝川一益の焼き討ちに遭うが、後に信者の寄進で堂宇を再建している。古く由緒ある寺だけに、県や市指定の文化財も5件ほどある。

本堂の左側には地上2mのところで二又に伸びる太いスダジイがあり、その幹周囲は580cm、樹高は20.5mで、その太い幹にはたてにしわ状にスジが入る。

今の堂宇は300年を経ているといわれるが、このスダジイも樹齢は300年前後と思われるので、本堂再建のときに植栽された庭園樹だったかもしれない。

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16 鵜森神社のサイカチ
 (マメ科、サイカチ)四日市市鵜の森一丁目 鵜森神社 
 かつての浜田城跡に鵜森神社があり、神社本殿の右側の城の土塁の遺構の上にサイカチが育つ。三重県内の古いサイカチは、私は当地と鳥羽小涌園植物園、神宮苗圃周囲で見たに過ぎないくらい少ない樹種であった。

この鵜森神社のサイカチは、市役所からはトゲが少ないタイプで、トゲナシサイカチと教えられたこともあった。この木は今、幹周囲282cm、樹高19mで、更に7m離れて幹周囲109cmのサイカチもある。サイカチは幹や枝に鋭いトゲがある。サイカチは鞘、実、トゲなどが漢方になり、石鹸の代用や山菜にもなったので、有用樹として神社に植えられたのではなかろうか。 

浜田城址は室町時代の文明2年(1470)、俵藤太秀郷(たわらのとうだひでさと、藤原秀郷)の末えいの田原孫太郎景信の三男忠秀が築城したと伝えられる。 忠秀から三代目の信綱の時、織田信長の伊勢侵攻に遭い、天正3年(1575)、その部将瀧川一益に攻め滅ぼされている。

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17 堂ヶ山神明社の大楠
 (クスノキ科、クスノキ)四日市市堂ヶ山町 堂ヶ山神明社 
 堂ヶ山神明社の本殿右前には幹周囲792cm、樹高28.5mのクスノキの巨木がある。幹は上部で二又になるが、北側の幹は落雷の被害に遇った。

この木は地際が急に太くなるので、測定位置が少しずれるだけで、太さに大きな違いが出る。四日市市内最大のクスノキであり、昭和34年には市指定の天然記念物になっている。なお、境内林には幹周囲365cmの太いタブノキもある。

 この神社では、正月には境内にある多くの祠前には対の門松が立ち、あわせて、境内にある多くの太い木は神木としてしめ縄で飾られる。きわめて丁寧な正月迎えの神社である。このクスノキの下の近くには“ドンド焼き”が行われる大きな堀込みもある。

 四日市市は戦後復興の緑化樹としてクスノキが多く用いられた。昭和47年にはクスノキを「市の木」に剪定した、また、中央通りの1.7kmのクスノキ並木は平成6年には「新みえ街路樹十景」になっている。

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18 中山寺のモッコク
 (ツバキ科、モッコク)四日市市南小松 中山寺 
 モッコクは「庭木の王様」といわれるほど、昔からよく用いられ、庭の目立つ所に植えられる。ところが、この中山寺(ちゅうざんじ)では、庫裏と本堂を結ぶ廊下の傍で、この建物のなぜか裏側にあって、寺に参拝した人には気がつかない位置に育つ。その幹周囲は366cm、樹高は12mで、地上1.5m付近から4幹立ちの木。

中山寺は法難にあって炎上後再建されるが、明応9年(1500)以前のこととされる。この再建の時に、モッコクは植えられたとされるので、樹齢500年を超える。

 私の調査では、この中山寺のモッコクを除いて、県内のモッコクは、植栽木と野生を含めて幹周囲210cm以下であった。また、全国の天然記念物のモッコクは幹周囲250cm以下であって、この中山寺のモッコクは全国最大ではないかと思われる。

なお、中山寺は寛正2(1461)、真慧上人(しんねしょうにん)創建という由緒ある寺。真宗田本山専修寺が栃木県二宮町()から、今の津市一身田町に移る数年間、この中山寺が布教の拠点だった。

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19 奥郷の寒椿
 (ツバキ科、カンツバキ)菰野町千草 馬嶋家

サザンカの品種にカンツバキがあり、更に園芸品種では「獅子頭」という名がある。この「獅子頭」は明治になって品種名として表れるが、菰野町千草の馬嶋家には、文化6年(1809)頃に植えれたとされる古い木がすでにあった。

今、この木は地際周囲が202cm、2幹立ちで高さ80cmの幹周囲が138cm64cm、樹高5mで、枝張り8m。馬嶋家の玄関を出た東側にある。

この地は、かつての千草村の支村で「奥郷」といったので、昭和51年に県の天然記念物に指定されたとき「奥郷のカンツバキ」となった。

馬嶋家の元は杉本姓であったが、かつての尾張、馬嶋村の名家・馬嶋眼科医の門人になり、医を学び、業を終えて、師の馬嶋姓を贈られて馬嶋を名乗った。後に伊勢の国千種村奥郷に移り住み、眼科医を開業するが、藩の御用医も命ぜられる。この地に移ったのは淳径で、入居を記念して、このカンツバキを植えたとされる。したがって、樹齢は200年になる。

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20 八重姫のカエデ
 (カエデ科、イロハモミジ)菰野町菰野 広幡神社
 広幡(ひろはた)神社は寛永7(1630)、菰野藩主・土方雄氏(ひじかたかつうじ)が石清水(いわしみず)八幡宮を勧請したのがこの神社の始まりという。そのため当初は「八幡宮」と呼ばれていた。明治4(1871)、合祀した折に広幡神社と改名。

広幡神社の長い参道の先には金渓川(かんだにがわ)がある。この堤防には幹周囲315cm、樹高8mのイロハモミジが育ち、幹には大きな空洞がある。樹幹はT字形になった珍しい形をしている。広幡神社の神木である。これまで私が県内で測定したイロハモミジの最大の太さの木である。

さて、このカエデの大木は、菰野藩初代藩主土方雄氏夫人の八重姫が、野良で働く農婦が日向(ひなた)の畦でえい児に授乳する姿を見て、憩う木陰をつくろうと、楓(かえで)と桜の木を植えた木という。土方雄氏が菰野藩の武家町と、城下町の原形を造ったのは、寛永12(1635)頃である。この木が、この頃植えられたとすれば、この木の樹齢は30年になる。この藩祖夫人の八重姫は信長の孫娘にあたる人で、92歳の長寿を保ち、藩の創立期に、大いに内助の功があったと伝えられる。

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21 庄内小学校のユリノキ
 (モクレン科、ユリノキ)鈴鹿市庄内町 庄内小学校 

昭和7年(1932)、県では アメリカ移民を記念して、北アメリカ産のユリノキの苗木をつくり、配布していた。庄内小学校では講堂建築が決まり、これを記念してこのユリノキを記念植樹した。この苗木を届けたのは地元選出の県議・佐藤邦則さんだった。早速、高等科の農業実習時間に 羽田征二先生の指導で、校舎の日よけを兼ねて7本植えられた。その後、昭和43年新校舎が建ち、この植栽地は運動場になったので、ユリノキは2本が残された。1本は運動場のど真中、もう1本は運動場の端。運動場の真ん中のユリノキは、野球世代にはなじまなかったが、風害で傾き今は移植された。運動場端に残った一本のユリノキは、今、幹周囲378cm、樹高21mの巨木になった。県内最大のユリノキである。

ユリノキはアメリカ中東部が原産。わが国への渡来は、明治6年(1873)。明治政府の求めで来日した、教育学者 ダビット・マレーが種子を持参して、東大の伊藤圭介博士に贈っている。また、明治9年にウイーン大博覧会から、田中芳男が持ち帰り、新宿御苑に蒔いている。別名はハンテンボク。

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22 鞠鹿野のユーカリ
 (フトモモ科、カマルドレンシスユーカリ)鈴鹿市石薬師町鞠鹿野 日蓮宗鞠鹿野協会

石薬師町内の鞠鹿野地区は、三重県の庭木生産の発祥の地でもあった。大正10年頃、ここに住んだ伊藤裕二郎さんのもとに、アメリカから郵便封筒で、トマトやセロリ-の種と共にユ-カリの種が送られてきた。送り主はロサンゼルスに住む奥さんの弟からだった。できたユ-カリ苗は近くに配ばられた。現在、この生き残りが2本ある。

日蓮宗鞠鹿野教会のユーカリは、幹周囲291cm樹高19mで、道路沿いにある。もう1本の木は信誠地区の戦前の農業塾「神風義塾」の塾頭宅跡で、その幹周囲幹周囲は358cm 。ユ-カリはオーストラリアを中心に約600 種あるとされ、種の特定は難しい。私はこのユ-カリを寒さに強いカマルドレンシスだと思っている。

信誠地区にあった戦前の農業塾「神風義塾」の創始者は山崎延吉先生。愛知県立農林学校(現・安城農林高校)の初代校長であった。この関係から愛知県の安城農林高校学校にも、多分この兄弟苗と思われるユーカリがあった。しかし、この木は昭和34年の伊勢湾台風で折れて、この材は山崎延吉先生の胸像の台座になっている。

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23 長太の大クス
 (クスノキ科、クスノキ)鈴鹿市南長太町
 「長太(なご)の大クス」は昭和38年三重県指定天然記念物。平成元年には「新みえ名木十選」にも選ばれた。今、その大きさは幹周囲932cm、樹高28m。古い昔、ここに延喜式内社の大木神社があった。今、この巨木は水田の中の平野に、一本だけそびえ立つ。この様を見た巨樹の写真を撮り続けた写真家八木下弘は「私が多年求めていた、遮蔽物のない、全景を撮影できる数少ない巨樹の一本であった」と『林業技術№534』に書いている。

また、八木下弘写真集『日本の巨樹』(昭和54年、中央公論社)では本のケースのそのカバーにこの木を「一の宮の大クス」として写真を載せ、その本文では「収穫直前の黄金に輝く田圃の真ん中一本すっくと立っているではないか。このような状態の巨木はまことに少ない。これからは四季折々にこの巨木に通いつめることになるだろう。」と述べている。

わが国の太い木のほとんどはクスノキ。台風に逢うと、枝を落として強風に耐え、決して倒れることはない。この「長太の大クス」は台風に遇うと強風を受けやすい。皆が心配するほど枝葉が少なくなるが、いつも数年で回復する。

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24 地蔵の大松 
 (マツ科、クロマツ)鈴鹿市南玉垣町
 仏教伝来のあと、崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)と排仏派の物部守屋(もののべもりや)の間でするどい対立があった。この争いは皇位継承まで巻き込んだが、この「蘇我・物部の決戦」は用命2年(587)、崇仏派 の蘇我氏が勝利して終わった。さてこの決戦のあと、蘇我氏は仏教以外の礼拝を禁止した。このため、この地の人達はこれまで地蔵菩薩を信仰していたので、この石像を土に埋め、この目印にマツをを植え、密かに信仰することになった。時は過ぎて、享保17(1732)の大旱ばつの時、この地を堀起こすと、地蔵菩薩が出土すると共に、そこから水が湧きだし、田を潤したという。以来感謝の念をこめて、この石像をここに祀り、このマツを地蔵大松と呼ぶようになったといわれる。

更に時は過ぎて戦時中のこと、近くにあった「三重海軍航空隊」基地では、飛行機の発着の邪魔になると、この大松は伐採が計画された。この直後、航空隊ではにわかに事故や病気が発生、この木の祟りだとして、この大松は残された。この松は幹周囲640cm、樹高15.5m、枝張りは30mもあり、大小31本の鉄の支柱で枝を支える。

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25 白子子安観音のトトロの木 
 (クスノキ科、タブノキ)鈴鹿市寺家 子安観音内 第一さくら幼稚園

 白子子安観音境内の中には第一さくら幼稚園がある。この幼稚園事務室と保育室の間の隙間には、幹が中空になった太いタブノキがある。幹周囲541cm、樹高11.5m、高さ2mのところで2幹になっている。このタブノキの幹は地際が太く、大きな穴が開いているので、この幼稚園の子供達はこの様を「もののけ」として「トトロの木」と呼ぶようになった。

1988年に公開された宮崎駿監督のアニメ映画『となりのトトロ』に起因する。かつて、寺の一部の敷地は太い木のある藪であった。そこに住職は幼稚園の建物を配置したが、多くの藪の木は残す配慮がなされた。そのためこの「トトロの木」は残された。他にも建物の隙間には幹直径40cm前後のムクノキが5本も残っている。

寺の縁起では、鼓ヶ浦の海中より鼓の音が聞こえたので、網を入れたところ、鼓にのって白衣の観音が現れ、この観音を堂に安置したとある。この白衣観音の信仰は平安末期に始まったという。安産、子育て、子授けに霊験ありとして、全国各地から参拝客が訪れる。境内の不断桜は国指定天然記念物。仁王門は県指定文化財である。また、この寺家一帯は伊勢型紙の生産地。この寺院の木の葉の虫食いから型紙が思いついたといわれる。

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26 亀山公園のアラカシ 
(ブナ科、アラカシ) 亀山市本丸町

 かつての亀山城本丸御殿北側の池向かい斜面には、三重県最大ではないかと思われる幹周囲240cm、樹高8.5mのアラカシがある。伊勢平野では、弥生時代に栄えたイチイガシを伐った後はアラカシが繁茂したという。今、県内でカシといえば、アラカシを指すほど多く生育するが、なぜかここには太い木は少ない。

この亀山城跡を含む亀山公園内でもアラカシが多い、しかし、なぜかイチイガシが17本も生育し、三重県北部で最大のイチイガシがあるところである。イチイガシが生育するところは、自然がよく保たれている指標でもある。

この亀山藩の藩主の居城は、かつて、江戸時代初頭には丹波亀山城の天守の解体と間違えられ、天守を取り壊されたり、明治6年(1873)の廃城令によって、殆どの構造物が取り壊された歴史の背景にあって、多分、緑地はよく保全されてきたと思われる。

また、城跡内に亀山神社の森があったことも、古い森林維持に効果があったと思う。

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 27 宗英寺のイチョウ
  (イチョウ科、イチョウ) 亀山市南野町 宗英寺
 宗英寺山門横のイチョウは昭和12(1937)に県指定天然記念物。県内最大のイチョウで、幹周囲805cm、樹高23m雌株このイチョウ(公孫樹)は古いだけあって、亀山城主 板倉勝澄の一代記の大塚雅春著『五重の塔』の“公孫樹の賦(ふ)”に登場する。

「新十郎(勝澄)は享保8年(172310月、8歳のときに、母於蓮(おれん)の方に死に別れをした。傷心の新十郎は、亀山城西之丸の石垣にかがみ込んで、城下に広がる家々に屋根を眺める。どの家からも、夕餉(ゆうげ)の支度をする、かまどの煙がのぼり、幸せな一家団欒(だんらん)の様子がうかがえた。西南の方角をぼんやりと眺めていると、宗英寺境内のイチョウの黄葉が、風にのってひらひらと乱舞しながら、まるで紅ひわの群れのように飛んでいくのを見て、目を見張った。」とある。

このイチョウから亀山城まで、1km。今から280年前の享保8年頃でも、遠くからも望むことができる大樹であった。また、この寺の奥様・久野陽子さんは児童文学作家。このイチョウは久野さんの創作童話『六平ちゃんと いちょうの木』の話にも登場する。

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28 野村一里塚のムクノキ 
 (ニレ科、ムクノキ) 亀山市野村町 野村一里塚
  一里塚とは江戸時代、幕府が江戸日本橋を起点として、旅人の道標・休憩所として街道筋の一里毎に直径約10m程の塚(小山)をつくり、塚の上には木を植えるなどして配置されたもの。この塚に何を植えるか、三代将軍家光に伺いをたてたところ、「余の木(余った木)を植えよ」とのことだった。これを、三代の将軍に仕え、老齢のため耳の遠かった家老・土井利勝が「エノキ」と聞き違え、各地にエノキが植えられたという。

ところが、亀山藩ではエノキによく似たムクノキとまた間違えて植えてしまった、いま、このムクノキは3.5mの塚の上で、幹周囲570cm、樹高11.5mになっている。このムクノキにくっ付いて、偶然にエノキが育つ。 かつて、南側の塚は大正三年(1914)に取り去られてしまったが、これは本物のエノキであった。

  文政9年(1826)、長崎に滞在したフォン・シ-ボルトは江戸参府の旅に同行し、『江戸参府紀行』を著し、この付近を通ったとき、一里塚の正確さに感嘆したと書いている。かつての東海道一里塚は、県内に12ヵ所あったが、昔のままの形を保つのはこれだけ。昭和9年に国指定の史跡になっている。
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29 関神社のウラジロガシ
 (ブナ科、ウラジロガシ) 亀山市関町木崎 関神社
  関神社入口石段右の石垣上には幹周囲325cm、樹高12.5mのウラジロガシがあり、前の広場に傾いて伸びる。よく似たシラカシは各地に太い木はあるが、ウラジロガシの巨木があるのは珍しく、人の生活圏では、関神社のウラジロガシが最大の木ではないかと思われる。

この反対側の左石垣上には太いがナギあるが、関神社は熊野権現から勧請されたのに因む。熊野三山造営奉行であった平重盛が、ナギは霊力のある木として、平治元年(1159)熊野権現の社殿落成の記念に植えている。平重盛の子・資盛(すけもり)は若い頃、神社の近くの「久我の庄」に流された。ここで生まれた孫の実忠(さねただ)は関氏の祖といわれる。その関係から、関神社の氏子が熊野権現に代参の折、記念にもち帰って植えた木かもしれない。

  7月下旬には関神社の祭礼が行われる。神輿や曳山が町内を練り歩く。曳山は絢爛豪華(けんらんごうか)な4台(古くは16台)の山車が町を練り歩く。よく「そこまでがせいいっぱい」という意味で使われる「関の山」という言葉は、この祭りの山車が語源。

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30 関神社お旅所のトウカエデ 
  (カエデ科、トウカエデ) 亀山市関町新所 関神社お旅所
この御旅所広場には2本の古いカエデがある。東側は幹周囲262cm、樹高18mのトウカエデと、西側には地上1mの幹周囲25cmのイロハモミジ。このトウカエデは、私の調査では県内1位の太さ。イロハモミジも県内有数の太さである。

三重県内にある古いトウカエデは旧家と、旧家のある学校や社寺に多い。このためか、この中国東南部原産のトウカエデは富の象徴の木でもあった。特に、明治末に東京の街路樹の10種に選ばれたことが、話題を呼んだと思われる。

 7月下旬には恒例の「関宿夏まつり」がおこなわれる。関神社の祭礼で、神輿や曳山が町内を練り歩く。関神社から御旅所へ、はっぴ姿の若衆が神輿を御渡しする勇壮な祭。一方、曳山は絢爛豪華(けんらんごうか)な四台の山車(江戸時代には十六台あった)が町を練り歩く。よく「そこまでがせいいっぱい」という意味で使われる「関の山」という言葉は、この祭りの山車が語源。町内の街道をふさぎ、これ以上は通るに通れない様子を表現したという。御旅所の近くには県指定史跡の「西の追分」があり、東海道から大和・伊賀街道が分岐している。 

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31 加太・川俣神社のサカキ 
 (ツバキ科、サカキ) 亀山市加太板屋 川俣神社
鈴鹿川流域には川俣(かわまた)神社が六社ある。最上流にある加太の川俣神社は、当初アマタノ川とトント川の合流地点にあったので川俣神社と呼んだといわれる。寛文8年(1668)に今の地に鎮座したが、ここも「川俣城」のあったところであった。

 この本殿裏には県内一の大きさと思われるサカキがあり、幹周囲163cm、樹高20m、地上約7mで二又の木。このサカキは本殿の真裏にあったので、古い昔はその枝が神事に使われた木だったかもしれない。

このサカキの近くには幹周囲181cmの太いイヌガシがあるが、この木も私の調査では、県内一の太さの木である。また、境内林には神木スギの巨木やシラカシの大木があり、この地方では珍しい低木のナガバジュズネノキが多く見られる。そのため境内社叢は平成16年に旧関町の町指定天然記念物になるが、この地はその以前の昭和53年に関町指定文化財(史跡)になっている。

この神社の境内には土俵がある。これは「加太三人相撲」の故事にならった相撲場。伊勢、伊賀、江州の国境の草刈り場は、三地区代表の相撲で草刈場の優先権を決めたという。 

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32 光月寺のクロガネモチ 
  (モチノキ科、クロガネモチ) 津市芸濃町椋本 光月寺
 かつての椋本村は伊勢別街道の椋本宿としてにぎわったところ。伊勢別街道は 東海道の関宿と伊勢街道の江戸橋を結ぶ約22kmの街道。江戸時代には東海道を通り京都方面からの参宮客で賑わった。常夜燈や古い家並みが残り、往時を偲ばせる。今、寺院は10ヵ寺もある。古くから有名な「椋本の大ムク」の近くに光月(こうげつ)寺があり、この寺の墓地南には、幹周囲388cm樹高17m、高さ11mのところで古い昔に主幹が折れたクロガネモチがある。根元の幹には空洞が見られ、太い幹は土手の石垣の代用になっている。多分、県内一の太さと思う。しかし、この木は自然木のようなところに育ち、地元でもあまり知られていないと思われる。

クロガネモチは「黒鉄(くろがね)」の強そうな名や、語感から「金持ち」に通じるとして、縁起の良い木として植えられ、古くは旧家や社寺に植栽されたが、野生にも太い木がある。

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33 椋本の大椋 
 (ニレ科、ムクノキ) 津市芸濃町椋本
 この大きなムクノキから、かつての椋本村の名ができた。昭和9年には、国指定の天然記念物。 昭和63年にかつての環境庁行った「緑の国勢調査」では ムクノキの全国2位の太さで、幹周囲9.5mだったが、今計ると。幹周囲809cm、樹高16m。石柱枠の中にあり、太いしめ縄をつける。幹には多くの治療跡がある。最近、鉄製の三脚支柱がつけられた。平成2年6月2日に「新日本名木百選」になる。樹齢千年以上といわれるだけあって、この木にまつわる伝説も多い、平安時代初期の武将・坂上田村麻呂の家来・野添大膳は都を追われ、息子とともに流浪の末、この木の下で暮らしたという。源平の動乱の世には、平家の落人・花木太右衛門と酉口織口もこの大樹の傍で安住の地を得た。また、滝川一益は織田信長に従って北伊勢を攻めたが、北畠の臣・野呂民部之輔はこの大ムクにかくれて、助かったという。巨樹研究家・牧野和春はこの「椋本の大ムク」について、一本の巨樹を中心に人間の営みが展開され、歴史が生まれたと。そして、これは村の発生の一類型を示し、日本人の抱くユートピア観の投影であるかも知れないと記している。
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34 三重大学三翠園のポンドサイプレス 
 (スギ科、ポンドサイプレス) 三重大学三翠園
 三重大学の同窓会館「三翠会館」の庭園は「三翠園」。ここには、県内唯一と思われる幹周囲125cm、樹高14mのポンドサイプレスがある。ポンドサイプレスはアメリカ南東部が原産で、沼沢地、湖沼地や河畔に好んで生育する。ヌマスギと同じ地域に生育し、葉はヌマスギのように羽状にならず、小枝に針先形で圧着する。

大正14年に、東京の目黒区にあった国立林業試験場から送られてきたものである。大正11年に三重高等農林学校が創立したが、3年後に正面前に、植物見本園がつくられた。この造成を担当したのは、当時林学科の馬岡隆清助教授。試験場から送られてきた苗木は約50種で、各5本程度あった。

ポンドサイプレスはなぜかラクウショウの中にあった。今は無いが、この学校が大学になるまでの校長官舎にも1本あったという。その後、三重高等農林学校の十周年には記念行事として、同窓会館が計画された。昭和11年には「三翠会館」として竣工したが、その付属庭園の設計、施工は園芸学の進武雄先生が担当した。

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35 県立博物館のセンペルセコイア 
 (スギ科、センペルセコイア) 津市広明町 県立博物館
 センペルセコイアはアメリカのオレゴン州南部からカリフォルニア州に分布し、太平洋側に近い山地の標高700mから1000mあたりに生育する。世界一高くなる木として有名で、高さ110m、幹周囲25m にもなる常緑樹。日本には明治中期に渡来したとされているが、江戸時代末に入ったとする文献もある。別名をセカイヤメスギ(世界爺雌杉)とかイチイモドキともいう。

わが国でも、生育が早く大木になる。 強風に遭うと幹が折れたり、倒れたりするので、県内ではあまり見ない。

県立博物館のセンペルセコイアは、平成19年3月に強剪定されて、幹周囲336cm、剪定樹高18m。博物館旧事務所の裏側に一本あり、イヌナシやトキワマンサクの稀少樹木と共に育つ。この入手については、戦後であるのにはっきりしない。

 なお、セコイアというのはアメリカ原住民のチェロキー族の酋長セクオイヤーを記念したもの。日本の鮮新世には、これに近い種の遺体が多く出土しており、本邦産の亜炭や褐炭は、この木が主要なものとなったとされる。有史前の森林を構成した大木は40種ほどあったとされ、今、地球上に生き残ったのが、このセンペルセコイアとセコイアオスギとされ、ともにアメリカに育つ。

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 36 古河の大イチョウ
 (イチョウ科、イチョウ) 津市西丸之内
 明治3年に藩制が改革され、旧藩士による軍隊は解散し、平民兵が優先して編成された。しかし、旧藩士隊は明治戊辰の役で東征し、戦功を挙げてした誇りがあった。だが、旧藩士は不遇であった。

これを不満とした彼等は集まって、建白書を大参事に提出し、藩庁の役人の辞職を勧告。ところが、この企ては失敗に終わり、旧藩士は謹慎の上、責任を取らされる事態となった。

結果、長谷部一(藤堂監物)と山下直左衛門の両名が責めを負って、自決する事件となった。世に言う「監物騒動」である。監物(けんもつ)はまだ27歳の若さであった。この切腹の場所が、彼の屋敷にあったイチョウの下だったという。新政府になって、「切腹まかりならぬ」時代であった。この騒動に県庁はウヤムヤに事を収めてしまった。

この後、このイチョウに監物の怨念だという不気味な噂が広まり、また、この木には霊魂があるといわれ、道路内ではあるが伐採されることなく、現在に到っている。

  なお、「古河の大いちょう」は上記のいきさつから「監物イチョウ」ともいわれる。古くは「古河」と「建部」の境界木だといわれる。いま、津中心部から津インターに向かう道の途中で、古河ガード東にあって、樹齢400年といわれる。今、幹周囲488cm、樹高20.5m。幹にかなり腐りが入る

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 37 櫛形小学校のダイオウショウ
 (マツ科、ダイオウショウ) 津市分部 櫛形小学校
 櫛形小学校正門前への登り道の脇には幹周囲329cm、樹高24.5mの県内最大のダイオウショウがある。球果を多くつける木である。櫛形小学校は通称「でんでん山」といわれる前田山の上にある。

大正14年に現在地へ新校舎を建てて移転したが、付近ははげ山だったので、上級の在校生が家からいろいろな苗木を持ち寄って学校に植えたという。この中にダイオウショウがあったといわれる。

しかし、ダイオウショウがアメリカから渡来したのは明治末年で、当時は珍しく高価と思われるので、在校の児童が持ち寄ったとは考えにくい。そのため、私は多くの人に聞いて調べたことがある。

 そのうち、この学校に昭和13年に入学した東尾さんの話によると、平泉神社前に前田という庄屋があって、昭和12年頃に学校の講堂を寄付したが、その記念にこの三葉松(ダイオウショウ)を寄付して記念植樹したという。その当時デンデン山へ上がる道は、今は無いが南側にもあって、ここにも三葉松があって、計2本あった。

当時、子供達はこの長い松葉を結んで、頭にかぶせて遊んだという。なお、デンデン山といわれるのは、昔、この山で時を告げるのに太鼓をたたいた音から言われたという。この山に下には軽便の安濃鉄道の支線が走った。

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 38 射山神社のイチイガシ
 (ブナ科、イチイガシ) 津市榊原町 射山神社
 射山神社の森には4本の古いイチイガシがある。うち一本はしめ縄を付けた神木で、「宮の湯」の由緒書の裏側の境内林にある。その幹周囲は358cm、樹高は22m。幹の先は折れたと思われる痕がある。イチイガシは縄文、弥生時代には伊勢平野には最も栄えた木とされるが、今、旧久居市では、当神社と七栗神社の2ヵ所にしかない貴重な木である。暖地のイチイガシのある林では、必ず地表に、最小の樹木ツルコウジがみられる。この神社でもツルコウジが見られる。

平安時代の王朝文学の才媛・清少納言は『枕草子』の一部の写本に「湯は、ななくりの湯。有馬の湯。玉造の湯。」と書いた。平安時代、宮中で話題にになった温泉であった。この「ななくりの湯」は榊原温泉のことで、室町時代までは七栗と呼ばれていた。

榊原温泉にある射山神社の射山は湯山のなまりと云われる。かつて境内には「宮の湯」と呼ばれた「湯所(湯元)」があった。今、神社前の手洗い場には「長命水」と云われる湧水がある。ここはかつて「榊の井」と呼ばれ、この付近に多くあったサカキは、この「長命水」に浸した後、伊勢の神宮に献上された。古代に栄えたイチイガシがある神社にふさわしく、この神社では温泉を使った湯立神事が古式ゆかしく行われる。

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 39 香良洲公園のクロマツ
 (マツ科、クロマツ) 津市香良洲町 香良洲公園
 三角州地帯の香良洲町の海岸には香良洲公園があり、ここは県内一とされるクロマツ純林。最大と思われるクロマツは幹周囲354cm、樹高17.5mの大きさ。ここは防風林、防砂林で、夏は海水浴の場。明治40年の「三重県案内」でも「風光絶好にして明石にゆずらず伊勢湾風景第一の地」と紹介された。戦時中は近くに「三重海軍航空隊」があった。

古い伝説もある。大同2年(807)東北に向かう途中の征夷大将軍・大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)は、戦勝を祈願して神宮に参拝するが、台風で一時香良洲浦に避難。この時、地元の香良媛が舞楽でもてなした。将軍はかぶら矢を立てて再会を約束して出発したが、矢を立てたところが、野原だったので、香良洲町の前の旧村名の矢野村になったという。更に将軍が馬をつないだマツがあり、これを「駒繫(こまつなぎ)松」といって海岸にあった。

しかし、この古松は宝永4年(1707)の富士山の噴火にともなう地震津波で根が洗われ、寛延4年(1751ころ枯死したという。その後、里人は復活すべく「大伴弟麻呂駒松」を指定している。

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40 石橋のエノキ 
 (ニレ科、エノキ) 津市一志町石橋
 昭和41年、朝倉書店から刊行された矢頭献一・岩田利治著の図説樹木学には「エノキの樹幹」として「石橋のエノキ」の写真が載っている。付近に木の無い雲出川堤防に、この木が一本だけそびえるので、古くからよく目立つ木であった。また、近鉄大阪線の電車からもよく見える木である。いま、この木は幹周囲496cm。樹高16m。およそ高さ3m付近で10幹立ち。

かつて、大正10年から昭和18年までの間、ここには「中勢軽便鉄道」の石橋駅があった。当時、この駅では乗客のほか貨物も運ばれた。養蚕の盛んな地帯でもあったで、桑畑用の魚カス肥料が、駅の引込み線を利用して多く降ろされた。地元ではこの木をヨノミと呼ぶ。夏には格好の木陰を提供してくれる。駅のあった頃も木陰用の木であったらしい。

この「中勢軽便鉄道」は最終的には岩田橋駅から伊勢川口駅まで路線距離20.6kmを走った。部分的には明治41年に営業を始めており、煙突が妙に細長い蒸気機関車「キ22号」に引かれた。この軽便鉄道は宮尾登美子著の『伽羅(きゃら)の香り』でも登場する。

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 41 成福寺のイスノキ
 (マンサク科、イスノキ) 津市一志町大仰 成福寺
天台真盛宗・成福寺の前に雲出川が流れる。これより約1kmあまり上流には「笠着地蔵」の巨岩がある。真盛上人(しんせいしょうにん)が宝珠丸(ほうじゅまる)といった子供の頃、川に投げ込まれ笠に乗って漂着したところ。

天台真盛宗の開祖「真盛上人」は、この「笠着地蔵」の近くの誕生寺が誕生の地であるが、この下流の成福寺には真盛上人慈父母菩提所があり、真盛上人の五輪塔、真盛上人の石碑、叔母の盛善比丘尼(せいぜんびくに)の石碑がある。

この三つの碑の真後ろには、半分石垣に埋まった大きなイスノキがある。その大きさは地上50cmの幹周囲が332cm、樹高10.5m。地上1m付近より5株立ち。多くの枝で枯れが目立ち弱っている。そのせいかフシアブラムシ類の虫こぶは少ない。地元では真盛上人が亡くなった頃にこの碑が造られ、イスノキも植えられたので、樹齢は500年としている。当時大変珍しい木であったので、入手には有力者がからんでいると思う。地元の人は、このイスノキをヒョンノキとかヒョウノキと呼ぶ。

この寺の前の川には江戸時代、「大仰の渡し」があったが、そこに「撫ぜ地蔵」があって人々はこの地蔵を撫で渡川の安全をねがった。この「撫ぜ地蔵」は、この寺のイスノキの下に移っている。 

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 42 矢頭の大杉
 (スギ科、スギ) 津市一志町波瀬 矢頭中宮公園
 古くから「中宮(ちゅうぐう)さん」といわれ、いま、矢頭中宮公園といわれる。ログハウス2棟、テント10張り分のスペースのあるキャンプ場で、矢頭山登山口。

また、明治の合祀までは矢頭神社であった。神社境内だったため、今も巨木が多く残る。「矢頭の大杉」といわれるスギは幹周囲944cm、樹高48mあり、幹の先は以前に落雷か風害で折れたと思われる。根元に巨大なコブがある。昭和28年に「県天然記念物」、平成元年には「みえ新名木10選」に選ばれた。旧境内には幹直径1m以上のスギは約30本あり、次に太いスギは幹周囲830cmの幹に空洞がある木で、かつて中が火災にあったことがある。この林床にはヤマブキ、ウリノキ、ホソバタブが多く見られる。

この旧矢頭神社の後ろにひかえる矢頭山は霊山であった。約1300年前の文武天皇の時代、修験道の祖・役小角が開いたといわれる。ある晴れた日、小角が天を眺めていると、白羽の矢が二本飛んできて、峰をかすめ麓の郷に下りたという。そこで、この山を「矢頭山」といい、矢の落ちたところを「矢下(やおろし)」といったが、この地名は両者とも現存する。
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43 南出・白山比咩神社のオガタマノキ 
 (モクレン科、オガタマノキ) 津市白山町南出 白山比咩神社
 白山比咩神社本殿の裏側の下がり法面に、オガタマノキが5本ある。最大の木は地上30cmの幹周囲が252cm。あとの4本の太さは幹周囲201cmで樹高14.5m181cm132cm150cm

オガタマノキは三重県南部には時々見られるが、この付近では植栽木以外の野生は見られない。この神社のオガタマノキはほぼ5本が近寄って生育する。

普通、オガタマノキは「招魂の木」といって神社によく植えられる。その植栽場所は神社参道の入口か本殿前のよく目立つ所である。

しかし、この神社の場合、あまり人目につきにくい社殿裏側で、自然植生の中に生育する。したがって野生とも考えられ、そうなると三重県の北限の木となる。オガタマノキはタネを多く着ける。推定ではあるが、かつて古い時代、社殿前にオガタマノキがあって、この親木は枯れ、そのタネが裏側で発芽したとも考えられる。今、本殿前側には古いネズは残る。

 この神社の森には付近にあまり見られない木が多い。イチイガシ、ヤマモガシ、ルリミノキ、ツルコウジ、タイミンタチバナ、ミミズバイ等があり、40年ほど前には、私は太いタマミズキも見た。

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44 成願寺のネズ 
 (ヒノキ科、ネズ) 津市白山町上ノ村 成願寺
 成願寺境内の塀の外側で、本堂裏側の出入り口下には古いネズがある。その大きさは幹周囲109cm、樹高6で、幹の多くの部分に腐りが入る。この木の下には3体の地蔵が祀られる。このネズと地蔵の前は広場になっているが、ここは祇園さんの行事の行われるところ。

 ネズはスギの葉に似ているが、手で持てないほど葉の先が尖っている。そのため、昔はこの葉をネズミの通路に置いて侵入を防いだ。このことから別名ネズミサシという。ネズは伊賀地方の里山には多いが、伊勢地方ではあまり見ない。従って伊勢地方での植栽は、神社仏閣や旧家の庭にのみ稀に見られるに過ぎない。この寺に、古い時代に何故植えられたかは判らないが、近くの南出・白山比咩(しらやまひめ)神社本殿前側にも古いネズがあるので、この地区共通の価値観のある木であることは間違いない。

なお成願寺は、明応3年(1494)に伊勢国司北畠材親の部将で小倭郷上ノ村の城主・新長門守が真盛上人に帰依、出家して真九法師と称し、戦乱によって失った長男と次男をはじめ一族の菩提を弔うために建立を発願し、城近くに開創したものである。

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45 長楽寺のカヤ 
 (イチイ科、カヤ) 津市美杉町八知 長楽寺
 長楽寺の前庭広場と西側の墓地との境付近に、幹周囲353cm、樹高19mの大きなカヤがある。老いた木のため幹の一部に腐りが入いる。この木には寺には珍しいしめ縄がある。このカヤの種子は約3cmで大きい。かつて、カヤの種子は重要な食糧や油原料であった。

この寺には大海人皇子にまつわる伝説がある。壬申の乱の前年の671年、大海人皇子が大津の宮で髪をおろし、吉野隠退に向かう。吉野に向う途中、神末(こうずえ 現 奈良県御杖村)で近江朝廷軍に襲われる。この時、居合わせた木こりの機転で、丸木で作っていた水槽に隠れて難を逃れる。ついで、大海人皇子は追手をあざむいて逆の伊勢に向かう。

この八知の地に来た時、空腹と疲れのため草むらの中で、倒れているところを東七という百姓に助けられ、介抱をうけ元気を取り戻す。のち、壬申の乱に勝利した大海人皇子は、天武天皇に即位するが、この助けられた論功行賞により、神末に薬師寺を贈り、八知には七堂伽藍をそなえた長楽寺を贈ったという。後、この寺は信長の兵火にあって消滅。この時の火事の焼け焦げた後遺症が、大正時代までこのカヤノキに残っていたと伝えられる。

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46 東平寺のシイ 
 (ブナ科、シイ) 津市美杉町八知比津 東平寺
 寺境内と墓地のあいだに列状にスダジイと思われる古い木が約7mピッチで6本ある。これらの木は昭和53年に「東平寺のシイノキ樹叢」として県の天然記念物になっている。 

最も太い木は南側の木で、斜面の下部の木。大きさは幹周囲485cm、樹高15m。この木は古い時代に谷側に倒れたが、多くの根に支えられて倒壊がまぬがれ、そのまま根が露出して生長してきた。また、根元には古い道祖神らしい石仏が祭られている。

なぜか、この木の下には立派な五輪塔が数基あるが、これは北畠の家臣の墓と教えてもらった。そういえばこの近くには、南北朝時代から戦国時代にかけて伊勢国で大きな勢力を持った国司北畠氏の本拠地がある。北畠居館跡(現北畠神社)・霧山城跡がその痕跡として残っている。その城下町は「小京都」とも言われ、伊勢の山間地に文化の華を咲かせたところであった。

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47 正念寺のヤマザクラ 
 (バラ科、ヤマザクラ) 津市美杉町奥津 正念寺
 念寺山門は鐘が備わった豪華なもの。その重厚な山門にふさわしい県内有数の太さのヤマザクラがある。山門を入った左隣にあり、幹周囲425cm、樹高16m

 ヤマザクラは江戸時代の桜の代名詞だった。明治の中頃ソメイヨシノが現れて主役を退いた。しかし、古いサクラの多くはヤマザクラで、寺院、神社、小学校跡、並木には今もヤマザクラの大木をみる。ヤマザクラは花が開く頃に葉も展開するので、花と若葉の絶妙のコントラストすばらしいといわれる。

寺は約350年前、和歌山から曹洞宗を広めにきた僧が人々に請われ、本堂を建立したという。本尊は聖観音、小堂には弥勒菩薩がまつられる。寺の前の道はかつての「伊勢本街道」が通った歴史の道。そのため、街道には常夜燈が残り、これは文久4年(1864)建立で、そこに「諸願成就」と刻まれる。

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 48 真福院のケヤキ
 (ニレ科、ケヤキ) 津市美杉町三多気 真福院
 急な参道の石段を登り終えると真福院山門あり、その手前は、昔の山門代わりではないかと思われる巨大なスギが両側に対にある。この近くには幹周囲646cm、樹高35mのケヤキの巨木があり、この木は「真福院のケヤキ」として昭和15(1940)に県の天然記念物になっている。

昭和55年に三重県で開かれた「全国植樹祭の手播き行事」で使われた皇后陛下のお手播き種子は、このケヤキ等から採取された。なお、上記の参道のスギの太い方は幹周囲67cmのこれも巨木。

国道368号から真福院の山門に至る1.5km余の道は「三多気のサクラ」として昭和17年に国の名勝に指定された桜の名所。「新日本街路樹100景」「日本さくら名所百選」などにも選ばれたところ。この寺は伊勢国司北畠氏に祈願所であったので、この威光にあやかろうと、各地から参詣の人が訪れたが、そのとき願掛けのしるしとして、各地からサクラ苗を持参したという。そのためこの並木のサクラはヤマザクラではあるが、各個体は微妙に違うという。このサクラの太い木は幹周囲360cm

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49 国津神社のケヤキ 
 (ニレ科、ケヤキ) 津市美杉町太郎生 国津神社
 太郎生・国津神社の本殿下広場には、昭和15年に県天然記念物になったケヤキがあり、2幹立ちで幹周囲は790cm396cmで、地際50cm上の幹周囲は13.5m、樹高28.5m。太い幹の方はかなり以前の台風で縦に亀裂ができたため、2カ所をワイヤーロープで縛っている。樹齢が1000年といわれるだけあって、この木にまつわる言い伝えも多い。

このケヤキの周りを、願い事を唱えて百遍まわると願い事かなうという。また、この幹に東側から、そっと耳を当てると、楽しい笑い声や歌声が聞こえてくるというが、これを聞いた人は、願い事がかなうという。

この境内にはケヤキが多く、他に直径1m以上の木が4本もある。また、本殿左前には空洞の目立つ幹周囲322cmのカゴノキの大木がある。なぜか境内裏山にもカゴノキは多い。

明治40(1907) に村内9社を合祀。このとき、日神(ひかわ)の山王権現も合祀したが、石造十三重塔一基も移建した。この十三重石塔は国の重要文化財に大正151926)年指定されている。鎌倉時代後期の石像美術を代表する十三重石塔で、高さ3.8m、この地方共通の大洞石で作られている。

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50 下太郎生のヤナギ 
 (ヤナギ科、コゴメヤナギ) 津市美杉町太郎生 
 名張川沿いの国道369号線に一本のコゴメヤナギの雌株が残る。この木は今、幹周囲350cm、樹高14m

かつて、この川沿いの土手には、ケヤキ、サクラ、カエデ等がある竹やぶで、ヤナギも23本あったという。昔は道から緩やかな斜面になっていたので、そこを通って川へ降りられた。

昭和34年にこの地を襲った伊勢湾台風で、この川縁は流され、近くの民家も一軒流される大被害に遇った。

この地は今、このヤナギ一本が残り、高さ5mの石積みの絶壁の上に育つ。伊勢湾台風の生き残りの記念の木でもある。このヤナギの下にはバス停があり、猿子橋の近くで、尼ヶ岳や大洞山へ上る倉骨林道がここから始まる。このヤナギより下流の川中には、シダレヤナギが一本育つが、この木はこの台風のとき流れ着いたものが育ったと、付近の人は言う。

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51 日神不動院のオハツキイチョウ
 (イチョウ科、イチョウ) 津市美杉町太郎生 日神不動院
 「日神」は平家の落人の隠れ里といわれる伝説がある。この里の南を流れる日神(ひかわ)川の向こうに日神山不動院がある。日神不動院前には幹周囲406cm、樹高30.5mの太いイチョウがあり、平成12年に三重県指定天然記念物。

このイチョウはオハツキイチョウで、葉に上方また葉に上に実のギンナンをつける。この木の葉が半分ほど落ち、地面が見えないほどの落葉が積もった時、オハツキイチョウタイプのぎんなんを探したところ、10個拾うのに約3分くらい要する密度で見つかった。多分、葉の1パーセントくらいがお葉付きになっているのではないかと思った。そのお葉付きの状況は写真のとおりであった。多くは葉の中央に、実の胚珠が一個付くがその多くは発育不良で、葉は小さく奇形になっている。

 オハツキイチョウは葉の上に実を付けるが、葉に胞子を付けるシダに近く、進化していない植物の証拠といわれる。

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 52 善覚寺のヒヨクヒバ
 (ヒノキ科、ヒヨクヒバ) 松阪市大黒田町 善覚寺
 松阪市内で 国道42号と国道166号の分岐点付近に、檀家が二千を超える善覚寺がある。この本堂前には対になってヒヨクヒバがあり、向かって右側の木は幹周囲272cm、樹高13.5m。県内最大のヒヨクヒバと思われる。幹の中心部が空洞であるため、幹折れを心配して、最近、檀家の造園業者が担当して、この木の頂部を一部切って、樹高を低くした。

寺の本堂が今の地に移ったのは寛保3年(1743)。その時ある程度の大きさの木を植えたとすると、この木の樹齢は300年近くになるかも知れない。

この木は方言でスイリュウヒバといわれるが、この寺でも同じように呼ばれる。ヒヨクヒバは古くは資産家の庭に好んで植えられ、富の象徴の庭木だと思う。また、この寺の鐘撞堂近くには幹周囲126cmのよく剪定されたイブキもあって、この木も富の象徴の庭木で、近くの松阪城跡にも見られる。寺の歴史も古いだけあって、古い木も多い。本堂と庫裏の裏側の庭園には、モミが幹周囲260cm、ヒノキが幹周囲247cmあり、古いカイナンサラサドウダンなどもある。

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53 松阪第一小学校のラクウショウ 
 (スギ科、ラクウショウ) 松阪市殿町 第一小学校
 北アメリカ原産のラクウショウが第一小学校に植えられたのは、明治38(1905)とされる。日露戦争の戦勝記念に、地元の豪商小津家が寄贈したといわれている。

したがって樹齢は100年を超える。今、この木は幹周囲447cm、樹高28m小津家は江戸時代から、伊勢商人として活躍した家柄。当時の当主は13代の小津清左衛門長幸で、紙問屋や小津銀行を経営していた。長男修太郎はこの小学校を卒業していた。

その後、昭和60年にこの小学校は建替えられたが、この学校のシンボルのこの木を保存するため、この木から離れて校舎の位置は逆算して決められた。なお、今は無いが、以前この木は小津家屋敷と山室山神社(旧本居神社)にもあった。これを裏付けるように、県立博物館の植物標本リストには、服部哲太郎が大正35月に採取したラクウショウがある。

なお、この木は冬になると、葉が短枝(たんし)についたまま落ちる様が、鳥の羽根が落ちるのに似ているので落羽松の名がある。また、沼地に育つので、ヌマスギともいわれる。

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 54 蘭宇気白神社のモミ
 (マツ科、モミ)松阪市柚原町(ゆのはらちょう)蘭宇気白神社(あららぎうけはくじんじゃ)
 「アララギさん」と地元で、信仰される蘭(あららぎ)神社は、正式には蘭宇気白(あららぎうけはく)神社。蘭、宇気比(うけひ)、白山の3社が、明治末年の神社の合祀でできた社名。

かつてのこの地は、北畠氏築城の多気御所へ続く街道の入口にあたり、柚原(ゆのはら)の地名も、北畠家臣の湯原(ゆのはら)半九郎に由来するという。

蘭川沿いには蘭神社の森があり、およそ直径1m以上のスギは20本ほどあって、この神社の森はスギの森。スギに混じって2本の太いモミがある。最大のモミは本殿正面の石段上り口で、川の傍にあり、幹周囲463cm、樹高41.5m。多分、県内最大のモミと思われる。

モミは大気汚染に弱い木とされる。それに材もそれほど優れていないので造林されることも無く、モミは減少の一途をたどる。しかし、数少ない天然林と、神社仏閣の境内林には時々残っている。

私は現地見学会で神社仏閣の目立つところにモミがあると、モミは臣(おみ)を意味し、「けらい」のことで、その神社や寺の守り神であろうと説明している。

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55 来迎寺のツバキ 
 (ツバキ科、ツバキ) 松阪市飯南町深野 来迎寺(らいこうじ)
 かつては「朝鮮ツバキ」といったが、平成12年に当時の飯南町指定天然記念物になった時、品種を詳しく調べられて「オランダ紅(こう)ツバキ」になった。このツバキは本堂南側の斜面にあり、三重県内有数の太いツバキで、幹周囲168cm、樹高8m。この寺に伝わっている話によると、このツバキは秀吉が朝鮮出兵した文禄元年(1592)、加藤清正が朝鮮から持ち帰ったものという。ただ、加藤清正とこの寺とのつながりはないから、珍しいものに「朝鮮」を頭につけて呼んだパターンだと思う。

このツバキの花は、この付近に見ない珍しい品種である。花は八重咲き、紅色でやや小輪、それに咲く時期が遅く、サクラと同じ頃の4月中旬頃。花びらはツバキには珍しく、一枚ずつ落ちる。

  かつて、江戸城表坊主などをつとめた碩学の名僧といわれた摂門(ふもん)上人が、寛政年間(1789-1801)に、この来迎寺で修行している。彼は13歳のとき突然出家し、江戸を出て神宮や長谷寺参拝の途上の寄留であった。また、上人は少年時代の見聞をもとに、文政5年(1822)に『南勢雑記』を著している。その記述の中で「深野の紙も名物のひとつなり」と記されているように、来迎寺のある深野地区は、紙すきが盛んで、最盛期には250戸の農家が、これに携わっていた。

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56 出鹿の魯桑
 (クワ科、クワ) 松阪市飯南町粥見
 字・出鹿(いずか)の大桑といわれる魯桑(ろそう)は地際周囲435cm、高さ1m付近から5幹になり、うち1本は折れるがつながっている、5幹のうち最大の幹は幹周囲183cm。樹高12m。この木の下は茶畑であったと思われるが、柿やシキミも植えてあって、今は荒れている。魯桑は栽培桑の品種。かつて、『広報いいなん』の昭和60年3月号で「出鹿地区の桑」として紹介され、その後、平成15年3月に服部保さんが『三重県蚕糸業史補遺・三重県における蚕糸関連の史跡』で「出鹿の大桑」と紹介された。出鹿の善龍寺の近くにあって、地元の坂口さんの所有。ところが、この木は地元の人や、役場で聞いても伐られてありませんといわれるほど、知られていない。多分、三重県最大のクワであるのに。

蚕糸業は明治中期から昭和初期まで外貨獲得の雄として、大きな役割を果たした。三重間の大正9年のマユの生産は全国7位。三重県の桑園面積は昭和5年がピークで、2.2ha.あった。この年の水田が7万haだったので、如何に桑畑が多かったか想像できる。今、クワの木に出くわすのは稀になった。

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57 飯南高校のハナノキ
 (カエデ科、ハナノキ) 松阪市飯南町粥見 飯南高等学校
 国道166号線に接した飯南高校の敷地は13ha大面積。校舎のあるところまでスギ、ヒノキ並木を150mも通らねばならない。

校歌でも「年老う杉の並木道の 緑に深くつつまれて・・・・」と歌われる。この入り口付近に大きいハナノキがあり、高さ1mの位置の幹周囲が374cm。3主幹立ちで、樹高は20m。近くに植栽されたヒマラヤシーダ、コウヨウザン、イヌツゲ、ハマオモトなどがあるので、古くは学校(研修所)の植物園の生き残りかもしれない。

 飯南高校は昭和23年に松阪北高校粥見分校として開校しているが、この地は、それ以前は農業後継者養成の県農業勧修所であり、このスギ、ヒノキ並木は昭和8年頃植えられたとされるので、この樹齢は75年。ハナノキもこの頃植えられたとすると樹齢75年になる。また、この木は昭和60年7月号の『広報いいなん』で紹介されたがその時の幹周囲は240cm

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58 粥見の山茶花
 (ツバキ科、サザンカ) 松阪市飯南町粥見
 「粥見の山茶花」は地際周囲169cm、樹高11mで地上40cmのところで二又にのびる。この木の近くの高瀬家所有の古いサザンカであり、旧飯南町時代の平成1010月に天然記念物に指定されている。

11月上旬から12月中旬にかけて、濃いピンク色の多弁花を大量に着けるので、この冬の花が散る時、下の道のアスファルトはピンク色に変わる。この木の所有者の話によると、3代前の人が植えたと思われ、樹齢は120150年生と推定している。このサザンカの育つ奥側の山手には小さな祠の紀伊神社があり、これは高瀬家一族の社。したがって、このサザンカは神社に付随して植えられた木と思う。かつて、この神社の4月の祭日には多くののぼりが立ち、当事者は白装束で正装して、祭りを執り行い、モチまきなどを行った。

このサザンカの近くには和歌山街道が通り、この旧家付近には古いヒメシャラ、ゲッケイジュ、サクラ、スモモ、イチョウ等のこの旧家が収集した古い木がある。

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59 春日寺のエドヒガン
 (バラ科、エドヒガン) 松阪市飯南町向粥見 春谷寺 
  櫛田川をはさんで、県立飯南高校の川向いには、波留(はる)と呼ばれる40戸ほどの集落がある。この地にある波留遺跡からは、石器や土器が多数出土し、古くから人が住んだ所でもある。この地の山すそには、ひなびた本堂をもつ春谷寺が建つ。寺の記録は焼失しているが、寺の本尊の厨子は、飯南町内では最も古く、寺の創立は明暦2年(1656)と推定されている

さて、この古刹の前の石垣上には、三重県有数の古いエドヒガンがあり、地元では「彼岸ザクラ」 と呼んでいる。幹周囲389cm、樹高10m。古木のわりに毎年ピンク色の美しい花をつける。平成8年、当時の町指定の天然記念物になり、花の時期は、地元保存会によりライトアップされ、夜桜見物もできる。

昔、この木が落雷にあって、幹に傷が入り、そこから幹の中が腐り、空洞になった。その穴にはムササビが住んだ。一時、この木には幽霊が住むと噂されたのは、この木に住むムササビの鳴き声だったという。

最近、幹は更に腐りが進み、心配した地元では、樹木医に外科手術を依頼した。幹の空洞の腐りを取り除き、ここに発泡ウレタンを注入、さらに施肥などの治療をおこなった。また、この地を桜の名所にすべく、この木と同じエドヒガンの植栽も行っている。

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 60 有間野神社のオオツクバネガシ 
 (ブナ科、オオツクバネガシ)松阪市飯南町有間野 有間野神社 
 有間野神社の森の裏側ではあるが、オオツクバネガシの太い木があって、幹周囲338cm、樹高24m。オオツクバネガシはアカガシとツクバネガシの雑種とされ、葉の形はツクバネガシの大型タイプで、葉柄はアカガシのように長い。各地にアカガシかツクバネガシか判らないタイプが多いが、このハイブリリットが雑種強勢の原理で、多く残ったのではなかろうか。

この境内はスギの森。直径1m以上のスギが約10本あり、最大は幹周囲530cm。現地で出会ったこの神社の宮世話の人は、このスギの巨木は樹齢350-360年といっていたので、オオツクバネガシも300年を超えているかもしれない。

境内林には太い木が多い。入り口の鳥居付幹周囲188cmのユズリハ、神木のクスノキは幹周囲380cm。本殿裏側には幹周囲26cmのタブノキもある。

古くは有間野村であった。明治2年(1869)には戸数は57戸。元暦元年(1184年)には、有間野の地で熾烈(しれつ)な源平合戦が展開され、その舞台となった場所。平信兼が義経に攻められ自刃した滝野城がある。有間野の地にある神社は、明治426月に合祀されて有間野神社と称したが、それまでは八王子神社、稲荷社、浅間神社、上出山神社の4社あり、八王子神社の地が有間野神社。

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 61 水屋神社の大クス
 (クスノキ科、クスノキ) 松阪市飯高町赤桶(あこう) 水屋神社 
水屋神社本殿裏にあるクスノキは神木で、県内の樹木のなかで太さが第2位の巨樹。幹周囲1380cm、樹高39.5m。昭和63年の「緑の国勢調査」でも、全国巨木リストの48位に入った。この木は、昭和42年に三重県指定天然記念物になっている。

神社が春日系だけあって、このクスノキの神木の両側には、神の使いの「鹿」に相当するカゴノキ(鹿子の木)の大木を従えている。本殿西の境内林にも幹周囲349cmのカゴノの巨木もある。更に「二号楠」というのが本殿左側にあり、その幹周囲も935cmの巨木。他にも腐りの入ったムクノキや「水屋の大杉」という巨木もある。

  「水屋の大クス」は地元では、「大楠さん」と敬称をつけて親しまれる。昭和43年にできた『赤桶音頭』では「楠は神の木 水屋の楠は おらが自慢の 日本で一よ わしの女房も こりゃえ 日本一こりゃえ」と歌われ、昭和47年につくられた『水屋小唄』では「水屋大楠 香りの葉から とった香りを あの娘(こ)がつけりゃ 虫もつかずと ソレ神だのみ  ほんに赤桶は つみなとこ」と歌われる。この水屋神社の裏を流れる櫛田川には、天照大神と天児屋根命(あめのこやねのみこと=春日の神)が国境をきめた礫石(つぶていし)伝説の大石がある。 

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62 福本の大トチノキ 
 (トチノキ科、トチノキ) 松阪市飯高町富永
 トチノキの果実は大きく、あく抜きすれば食用になる。このため縄文時代の遺跡からも出土する。県内最大と思われるトチノキは人里離れた山奥の富永区有林にあり、地上50cmの幹周囲が610cm、樹高25mでおよそ3幹に伸び、南北の枝張りは21m。古木のため樹皮には波紋がある。キズタがのぼりつく。西南向きの斜面のスギ林内にあり、くぼみ状にあって、かつて炭窯のため平坦に整地された千枚岩で、地際は少し埋まっていると思われる。

古木のため樹皮には波紋がある。キズタがのぼりつく。西南向きの斜面のスギ林内の残し木であり、くぼみ状にあって、かつて炭窯のため平坦に整地された千枚岩で、地際は少し埋まっていると思われる。平成9年の旧飯高町の時「福本の大トチノキ」として町天然記念物になっている。

 この福本一帯にはトチノキの古木が残る。トチノキ果実は食料になったので、山の木を伐採しても残す風習があった。特にこの地は紀州藩の土地であったので、この実を飢餓にそなえて採取するため、御留木として残された木と推定されている。現在でも山村では「とち餅」がつくられる。
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63 黒瀧神社のスギ 
 (スギ科、スギ) 松阪市飯高町森 黒瀧神社
 “黒瀧神社の夫婦スギ”は、平成9218日に当時の飯南郡飯高町の天然記念物指定を受けている。

この木の幹は途中で二本にわかれるので、夫婦スギといわれ、いつもしめ縄をつけた神社のご神木。幹周囲は880cm、高いほうの樹高が45mの巨木。地際の幹の隙間に小さな祠が祭られている。この木は本殿の左に約20m離れたヒノキ林の山側にあり、この木の下にはサカキが多い。

この境内にはスギの大木は他にも本殿前方に3本あり、その幹周囲は639cm611cm 472cm、といずれも巨木である。今から40年余前に、神社前に湿地があって、そこに珍しいシナノキ科のヘラノキがあったと思うが、今は見当たらない。

 櫛田川の上流の蓮川流域は明治8年に森村として発足するが、それまでは深野村、犬飼村、家野村、柏野村、久谷村、大俣村、塩ヶ瀬村、猿山(えてやま)村、蓮(はちす)村、青田(おうだ)村があった。それにあわせて各地に氏神もあったが、かつての深野村にあった天神社に、明治41年には合祀して黒瀧神社の呼称の許可をとっている。 

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64 雲林寺のニッケイ 
 (クスノキ科、ニッケイ) 松阪市飯高町森 雲林寺
 雲林寺のニッケイは庫裏前広場先の斜面にあり、幹周囲243cm、樹高14m。葉はよく茂っている。

ニッケイは、中国南部等が原産で日本には享保年間(17111736)に渡来。幹皮や根皮などから本来は生薬料を生産したが、一般には特有の芳香がある駄菓子として栽培された。最近はこの特有の芳香がアロマテラピー(芳香療法)として話題になっている。

三重県では「にっきの木」と呼ばれることが多く、寺、神社や旧家に植えられていることが多い。この寺の境内には、他に注目すべき木として幹周囲179cmのギンモクセイと幹周囲222cmのゴヨウマツの古い木がある。  

雲林寺は、かつての森村に統合される前の犬飼村にあった。明治2年(1869)には家数25戸、人口145人に過ぎなかった。最近、蓮(はちす)ダムによる水没の移住で戸数が増えた所である。この地には、天正5(1577)に北畠具親(きたばたけとものり)の挙兵の際築かれた「森城」があった。この地が「森ノ郷」とよばれたのに因むが、その後の「森村」の呼称はここが発祥かもしれない。
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 65 東漸寺のゴヨウマツ  
 (マツ科、ゴヨウマツ) 松阪市飯高町森 東漸寺
 東漸寺は約350年前の創建という古刹。寺の鐘つき堂のそばには、三重県内有数のゴヨウマツの大木があり、幹周囲319cm、樹高19m。高さ2m付近から太い2枝が出て、更に高さ4m付近から6幹に分かれる。

ゴヨウマツは庭木のなかでも、高級な木であった。古くは、清少納言の「枕草子」、吉田兼好の「徒然草」に植えたい木として「五葉」を取り上げている。この地でも当然、価値観のある木として、文化の中心地の寺に植えられたと想像される。

  東漸寺の過去帳記録によると、この地には木地師(木地屋)が多く住んだ。寛文12年(1672 から慶応2年(1866)の間に 211名を 数えた。木地師は、木材に「ろくろ」をかけて、椀や盆をつくる職人。第五十五代文徳(もんとく)天皇の第一皇子の惟喬(これたか)親王(844897)が、木地師の元祖とされ、木地師には小倉や小椋の姓が多かった。

この東漸寺のある森地内には、苗字帯刀を許された木地師の小倉吉右衛門(襲名)が、代々居を構えて、一帯を統括。山の木をよく知る木地師達が、この地の奥山から、ゴヨウマツを採取してきて、この寺に寄進しても不思議ではない。

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66 青田の大カシ 
  (ブナ科、アカガシ) 松阪市飯高町青田(おおだ)
 かつて、青田地区には小学校と中学校分校があったほど、人が住んでいた。しかし、蓮(はちす)ダムの建設にあわせて廃村になった。この青田地区でも最奥の字小井戸の山腹には4軒ほどが寄り添うように生活していた。奈良県境には6km。北畠氏にまつわる青田城跡も近くにあった。

この一軒の平野家の裏山には、県内一の太さのアカガシがあり、幹周囲733cm、樹高23m、南北の枝張りは27mカシの仲間では格段に大きい。

ちなみに県内2位の太さのカシは、私の調査では伊賀市坂下(さかげ)の酒解(さかとけ)神社のアカガシで、幹周囲は580cm。平野家の裏山の木は何度も炭焼き用に伐採されたが、この一本の巨木は山腹の強風から家をまもる木として、代々大切にされて残された。巨大になって神秘的になったこの木は、晩鳥(ばんどり=ムササビ)の棲んだが、今はアオゲラが棲む。

私は平成7年、(社)三重県緑化推進協会機関紙「緑の森」で紹介した時は「加杖坂のアカガシ」として記載した。その後の『みえの樹木百選』でも「加杖坂のアカガシ」。しかし、平成9年に飯高町指定天然記念物になった時の名称は「青田の大カシ」である。

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67 加波神社跡のモチノキ 
 (モチノキ科、モチノキ) 松阪市飯高町加波(かば)
 加波神社跡には唯一モチノキだけが残っている。幹周囲は412cm樹高14m。樹幹はモチノキとは信じられないほどコブ状のふくらみが多い。高さ5m付近で幹は二又で、古木のわりには葉は多い。県内最大のモチノキと思われる。幹の膨れるその隙間から、なぜかオモトが生える。旧社の小祠の裏側にこのモチノキはあり、斜面上部はスギ林。地表はシャガが多い。

加波神社とはこの地の地名から通称いわれるもので、本来は「作神社」「八雲神社」と思う。この加波神社はおそらく明治末年の合祀で、廃社になったところと思う。今、小さな祠はあるが、古い木で幹にこぶがある当時でも名木のモチノキ1本だけを、記念に残したものと思う。

地元の加波の伝説には、兄の源頼朝に追われた弟の蒲冠者(がまのかんじゃ)といわれた源範頼(みやもとののりより)を住まわせた、「二階平」という屋敷跡が川向かいにある。この加波の地には櫛田川の上流の波瀬川に沿って、かつての和歌山街道が通り、今は国道166号。また、この地には昭和51年までは小学校もあった。

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68 西村広休植物園跡のフウ 
 (マンサク科、フウ) 多気町相可 西村広休植物園跡
 西村廣休(ひろよし)植物園跡は多気町平成681多気町指定の史跡。ここには昭和121118日三重県指定天然記念物のフウがあり、この木は幹周囲319cm、樹高19m。また、多気郡農協相可支所前にあるタラヨウは平成681多気町指定天然記念物。

西村廣休(181689)は江戸時代の豪商相可大和屋の11代当主。江戸時代後期、全国に名を知れた本草学者でもあった。

彼は邸内に植物園を2ヶ所つくり、珍しい植物を2000種集めて栽培して研究した。大和屋はこの相可に本宅を構え初瀬街道に面し、その面積は2600坪もあった。江戸本石町四丁目に出店を置き、呉服屋、紙問屋、為替方を営んだ。なかでも大和屋の為替方の営業は紀州、藤堂、会津、桑名などの大名、諸侯の金を貸す、いわゆる大名貸しをおこない、莫大な御用金を調達していた。

この金額は江戸末期で75千両を超えたといわれる。その上明治新政府にも御用基金を上納。しかし、藩制の崩壊、明治維新の大変動で、貸し付けた御用金のほとんどが回収できず、倒産に見舞われた。この悲劇は明治20年から30年に起こった。

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69 千鳥ヶ瀬のムクノキ 
(ニレ科、ムクノキ) 多気町相可 相可高校前  
 平安時代末期の歌人西行は、伊勢詣で相可へたどり着いた。西行は従者が相可の宿を探しに行く間、この地の小川で休息した。この時、西行は千鳥の鳴き声を耳にして「つかれぬる われを友よぶ 千鳥ヶ瀬 越えて相可に 旅寝こそすれ」と詠んだ。以来この地を「千鳥ヶ瀬」といわれる。

いま、この地にムクノキの古木が一本あり、幹周囲514cm、樹高15mになる。幹枝には多くのキズタが登り着き、幹の中は空洞。かつての伊勢本街道の上を覆うように、このムクノキは伸びる。

この傍らには塞神社(さいのかみしゃ)が祠られる。この祠は、伊勢本街道の旅人の安全を祈願してつくられたという。ある時、この祠は他の神社に合祀されたが、その後、この地に災害が多発。これは合祀の祟りと噂され、昭和38年には、この塞神社は元の位置に再建された。

すると、わざわいは無くなり、隣接の相可高校は高校野球で甲子園出場というおまけつきの御利益があった。しかし、祠の傍の道にせり出したムクノキは、通行の邪魔になって伐採が望まれた。しかし、これにも祟りをおそれ人達は、この部分の延長80mの道幅は、平成5年に拡張され、古いムクノキは残った。

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70 津田神社のスギ 
 (スギ科、スギ) 多気町井内林(いのうちばやし) 津田神社
 津田神社の神木スギの巨木は本殿前にあり、幹周囲782cm、樹高38m。地際に枠を作り保護された神木。地際には「伊勢白龍大明神」の碑がある。

この津田地区出身の森本竹俊さんは大正7年第一次世界大戦争で西シベリアのバイカル湖に出兵した。母は息子の無事を祈願して、津田神社に日参。大正9年に本人は帰還するが、この母親の祈願に感激した彼は、幾度か寄進を繰り返した。昭和32年の津田神社遷宮祭には、ハナミズキ苗の紅白の花一対を奉納している。

さて、森本さんは観光株式会社を創立すべく、津田神社で昭和32年に祈願祭をおこなった。祈願が終了して帰り際、神社の神木スギの根元から、「白いヘビ」が登ろうとしているところを目撃。これは「登り竜」で吉兆として、更に「伊勢白龍大明神奉賛会」を開くことを決めた。

ところが、地元の人はこの「白いヘビ」のことは信用せず、冷ややかであった。翌年、神社の玉垣の修理で地元の各区長、氏子総代に動員がかかった。この時石垣を破ったところ、その中から「白いヘビ」が現れ大騒ぎとなる。そこで、伊勢白龍大明鎮座祭は昭和33329日に盛大に行われた。

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71 金剛座寺のホルトノキ 
 (ホルトノキ科、ホルトノキ)多気町神坂(こうざか) 金剛座寺 
 金剛座寺は山腹にあって、そこを平地にならして、本堂や庫裏が山側にあり、ならした先の盛土の天端位置には、この付近にはない2本のホルトノキがある。太い方は寺の客殿の南側で崖の上にあり、幹周囲379cm、樹高13.5m。境内のこのような天端位置には地主桜、ナギ、ツゲ、ホルトノキ、ニッコウヒバ、イチョウ、ツバキの品種“玉の浦”などがある。したがってホルトノキは植栽されたものと思われる。

この寺の住職による『金剛座寺略縁起』解読によると、ホルトノキはポルトガルノキとして、ほかにスパイスのサンバチョウジ等の記述があり、また、この寺の本堂は、近くの相可の西村家の寄進でつくられているので、当主の本草学者でもあった西村広休が寄進したとのではないか思われる。

金剛座寺の古い寺名は穴師(子)寺。開山は、白鳳2(680)に藤原鎌足説と、白鳳9年藤原不等説があるほど古い歴史がある。当寺は平安時代末に活躍した歌人・西行法師が訪れたという伝説があり、法師の祖先の藤原家に縁のあるこの寺に植えられてあった桜を詠んだという歌「昔より菩提の樹(うえき)それながら 出(いで)し佛の影(けい)ぞ残れる」が、この寺の御詠歌になっている。 

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72 近長谷寺のボダイジュ 
 (シナノキ科、ボダイジュ)多気町長谷 近長谷寺
 近長谷寺本堂前に幹周囲101cm、樹高7.5m仏教伝来にちなむ木のボダイジュがある。太さはないが、この木の地際の広がりは170Χ140cmもあるので、県内有数の古い木と思われる。

奈良県桜井市にある真言宗豊山派の総本山長谷寺は長谷詣といわれ、『源氏物語』や『枕草子』にも記される古い歴史がある寺。この長谷寺観音への信仰は、平安時代以降は特に盛んになり、鎌倉時代にはいると、長谷寺本尊像を摸して、長谷寺式と呼ばれる十一面観音像が各地で造られた

この多気町長谷の近長谷寺も、この長谷寺信仰から創建され、高さ6メートル余りの巨大な長谷寺式「十一面観音立像」が安置されている。もちろんこの像は大正2年国指定重要文化財。

なお、この近長谷寺の開創は仁和元年(885)。現在の本堂は、元禄3(1694)に再建されたもの。伊勢の皇大神宮に近いということで、近の一字を加え、「近長谷寺」といれる。近長谷寺の十一面観音像は日本三大長谷観音の一つとされる大きな像。この寺を、地域の人は親しみを込めて「近長さん」と呼ぶ。この長谷地区では「御田植祭り」が行われるが、十一面観音にちなんで、半径11メートルの車田がある。

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73 佐那神社の手力の大ヒノキ  
 (ヒノキ科、ヒノキ) 多気町仁田(にた) 佐那神社 
佐那神社本殿前に幹周囲353cm、樹高24.5mの「手力の大桧」というヒノキの大木がある。地際はゴロタ石が敷き詰められ小さな鳥居があり、賽銭が上がる。佐那神社の主祭神は「天手力男命(あめのたぢからおのみこと)」である。この神は天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩屋に隠れた時、戸を開いて大神を連れ出す役目で活躍した力の神。そのため、手の力すなわち腕力の象徴、つまり人間の筋力に宿る霊を神格化した神とされる。「手力の大桧」はこの神になぞらえた木と思う。

ヒノキは昔から日本の木の文化を支えた材で、『日本書紀の中では、「スギとクスノキは船に、ヒノキは宮殿に、マキ(槙)は棺にせよ」とある。ヒノキが宮殿建築用として使われて、最適最高の材であり、本殿前にあるこの手力の大桧の意義は大きい。

佐那神社境内林奥にはスギ神木があり幹周囲957センチ。地上1.5メートルで、2本立ちになっている。またイチイガシが11本もある。イチイガシの育つ森には、共通的に地表にツルコウジとアリドオシが多いが、この森でもツルコウジとアリドオシが多い。 

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74 前村の大楠 
 (クスノキ科、クスノキ) 多気町前村
 幹周囲811cm、樹高29.5mの「前村の大楠」の北側下には、かつての熊野街道が通り、道をはさんで大楠組集会所があり、南側にはJR紀勢本線が通る。この大楠にはしめ縄があり、地際付近の空洞は治療された痕がある。下には祠が祭られる。この大楠に隣接して、太い幹周囲360cmのカゴノキが生育する。このカゴノキは地際は大きな空洞になり、その中には掃除道具一式が収納されている。

かつての南北朝時代、この地は北畠氏と南朝派の隠れ里だった。一族はこの地で王朝の復興を願った。帰農した遺臣たちは、この地にクスノキを記念に植えたが、これは忠臣・楠木正成の名にちなんだものだった。

その後、ここの里人はこの遺蹟を後世に伝えるため、クスノキを神木として仰ぎ、木の下に祠をつくり祭った。このクスノキは熊野街道の熊野詣や参宮客の名物にもなった。

江戸時代から明治時代中期にかけて、このクスノキの近くには、楠本屋と大楠屋という旅篭もあった。昭和54年には、この町内一の巨木がきっかけになり、「町の木」はクスノキになった。また、このクスノキは「大楠」として、平成元年、多気町指定天然記念物になった。

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75 本楽寺のイチョウ 
(イチョウ科、イチョウ) 多気町丹生 本楽寺 

 本堂の向かって右前、庫裡前には幹が8本に分かれて伸びるイチョウがある。地際周囲855cm、樹高14.5m。地際より8幹に杯状に斜いて分かれる。うち8本の太い幹の長さは5-6mで、かなり腐りも目立つ。8幹の幹周囲は最大が280cmで、最小が180cm。それぞれの太い幹先には、多くの萌芽枝が見られる。

住職の話しでは、このギンナンはオハツキイチョウという。この木は、近くの多気町下出江の竹内家から、江戸時代に寄贈があったと古文書にあるという。木の幹をすべて斜めに伸ばす技術は只者ではない。

この地は丹生水銀生産で多い時は1800人が住んだという。この中に、庭木を杯状に伸ばす技術者が流れ住んでいたかもしれない。

境内広場には古いボダイジュもあり、幹周囲は106cmだが、地際周囲は300cmもある。この寺の本堂裏には、回遊式庭園があり、池の中心部には茶室もある。ここは快楽園(けらくえん)と呼ばれ、文化13年(1816)に、本堂再建にあわせて造られた。平成15年3月には町の文化財に指定される。 

75 本楽寺のイチョウ
 (イチョウ科、イチョウ) 多気町丹生 本楽寺

 本堂の向かって右前、庫裡前には幹が8本に分かれて伸びるイチョウがある。地際周囲855cm、樹高14.5m。地際より8幹に杯状に斜いて分かれる。うち8本の太い幹の長さは5-6mで、かなり腐りも目立つ。8幹の幹周囲は最大が280cmで、最小が180cm。それぞれの太い幹先には、多くの萌芽枝が見られる。

住職の話しでは、このギンナンはオハツキイチョウという。この木は、近くの多気町下出江の竹内家から、江戸時代に寄贈があったと古文書にあるという。木の幹をすべて斜めに伸ばす技術は只者ではない。

この地は丹生水銀生産で多い時は1800人が住んだという。この中に、庭木を杯状に伸ばす技術者が流れ住んでいたかもしれない。

境内広場には古いボダイジュもあり、幹周囲は106cmだが、地際周囲は300cmもある。この寺の本堂裏には、回遊式庭園があり、池の中心部には茶室もある。ここは快楽園(けらくえん)と呼ばれ、文化13年(1816)に、本堂再建にあわせて造られた。平成15年3月には町の文化財に指定される。 

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76 油田家のメタセコイア 
 (スギ科、メタセコイア) 多気町車川
 かつて造り酒屋であった油田家の屋敷跡には太いメタセコイアがあり、幹周囲393cm、樹高30m私の調査では、三重県一の太さのメタセコイアである。おそらく、この苗はこの車川の山林に木原造林(株)が昭和33年ころ植えていた一本であろう。当時、この苗は東大から入ったと聞いた。木原造林(株)の社長はこの地を訪れると、よくこの造り酒屋の油田家に寄っていたというから、木原造林(株)の社長から直接プレゼントされたものかもしれない。この木は屋敷内ではあるが、川の縁で水に恵まれ、付近に邪魔物がなかったので、大きく育ったと思う。

メタセコイアは日本では化石でしか見つかっておらず、絶滅した木としてアケボノスギと命名されていた。ところが、昭和20年に中国湖北省で見つかり、昭和 24年にアメリカからわが国に入っている。その後、この木は挿し木で増やされ、各地に植えられた。 

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77 柳原観音のモミ 
 (マツ科、モミ) 大台町柳原(やなぎはら) 千福寺 
 柳原(やないばら)観音は「柳原手引観音・千福寺」という真言宗の寺。かつて、巡礼者達が旅先の安全を祈願したお寺という。また境内から眺望すると、下を流れる宮川の流れは美しく、旅する人々や近在の人々に親しまれてきた。

ちなみに本堂の十一面観音像は聖徳太子の作と伝えられるご本尊である。毎年2月と8月の大祭には火渡りの行事が行なわれる。寺の別名に手引観音と呼ばれるのは、花山法皇のご詠歌「あらとうと手引き賜える観世音貴きいやしき人をえらばず」と詠まれたのに由来する。

境内には幹周囲324cm、樹高20.5mの太いモミがある。昔、落雷の被害に遭い、今は幹の途中から3本の幹になる。神社や寺院のモミは、臣(オミ)と読みかえて、その施設の守り役の木とされる。この木は建物の裏側にあるので、その由緒で植えられたものでないと思われる。

しかし、古い昔は寺に隣接してこの木の近くに神社があったので、やはり、このモミは臣(オミ)であったかも知れない。この木は南側を流れる、宮川を見下ろして育つ。この寺の庭園には、なぜか古いシキミが5本もある。 

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78 荻原神社のイチイガシ  
 (ブナ科、イチイガシ) 大台町江馬(えま) 荻原神社
 県内2位の太さと思われるイチイガシは大台町江馬の荻原神社にある。本殿真裏にあり、しめ縄を付けた神木で、幹周囲406cm、樹高45mである。この境内にはイチイガシが他に2本あり、いずれも神木扱いで幹周囲は291cm241cm。境内のスギも巨木で幹周囲450cm.

 かつて、近畿地方のの平野部はイチイガシを主とする原生林に覆われていた。ところが弥生時代から古墳時代にかけ、人口増にともなって開発が進んだ。特に真直ぐに伸びるイチガシの伐採が進み、多くの原生林は失われた。その後には、環境に適応性の高いアラカシがとってかわった。こんな背景にあって、イチイガシの古木の多い森は、森林がよく保全されてきた指標と思われる。

 さて、荻原神社の創建は天正年間(1573-)以前とされる。古くは榎村神社、八王子神社といい、明治3年には八柱神社に改称。明治40年には、当時の荻原村の多く点在した神社を合祀して、村名と同じ神社名になった。戦前この地から多く満州開拓団に渡ったが、昭和61年には、旧開拓団の双龍神社の霊の返還を果たし、この神社に合祀している。 

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79 大杉神社の大杉 
 (スギ科、スギ) 大台町大杉 大杉神社 
 宮川ダムで廃村になった集落より更に高い位置に大杉神社はある。この大杉神社の神木「大杉谷の大杉」は幹周囲755cm、樹高48mの巨木。ミニ拝殿の奥の本殿に相当するところにこのスギはある。昭和30年に県指定天然記念物、平成元年に「みえ新名木十選」になった。樹齢は現地の説明版によると約1200年とある。この神木に宿る神は、大変気の荒い神という。参詣に不敬があると、直ちに嵐をおこすといわれた。また、古くから紀州の漁師から海上の安全と大漁を祈願して、遠くから参詣があった。

大正14年(1925)には、5日間も燃え続けた山火事は、このご神木の手前で消えたが、これもこの神木の霊力だといわれた。今、境内林には古いモミ、ツガ、ミズメ、ヒメシャラなどがある。

 南北朝の頃からこの地は「大杉の里」と呼ばれたが、昭和34年までは「大杉谷村」だった。往古の昔、この地は宮川を利用して神宮の御用材を伐り出した「御仙山(みそまやま)」であり、大スギなどの巨木が多くあった。

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80 大淵寺のスダジイ  
 (ブナ科、スダジイ) 大台町久豆 大淵寺

 宮川ダムの少し下流で、宮川流域の最も奥の集落の寺は大淵寺で、しかも斜面にある集落の最上部に寺はある。この大淵寺は、昔は下を流れる宮川の川縁にあった。ここには大きな淵があったので、寺の名の起こりとなった。

この地で、水害と火災に遭って、高い山腹に移転したが、今度は台風時に大木が倒れて、本堂を壊し、再び移転した。現在の地に落ち着いたのは、享保4年(1719)であった。この地も大木が多かった。その中で、形の良いシイノキが一本墓地に残された。この木はいま、幹周囲690cm、樹高20.5mのスダジイで、寺の西側の墓地脇にある。県内最大のスダジイと思われる。

 シイノキにはツブラジイとスダジイがある。ツブラジイのドングリは長さ1cm前後で球形に近く、スダジイのドングリは長さ1.5cm前後で細長い。内陸のシイノキはツブラジイとされるが、調べてみてもほとんどツブラジイである。ところが天然記念物になるようなシイノキはすべてスダジイである。巨木のドングリは、同じ木でも年により長さが違うのを観察したので、私は豊作年にはツブラジイ型ドングリ、凶作年にはスダジイ型ドングリが成るように思う。 

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81 松井孫右衛門人柱堤のケヤキ  
(ニレ科、ケヤキ) 伊勢市中島2 
 宮川堤公園の最上流部に松井孫右衛門人柱堤があり、延長約200mほどある。この堤防の両方の法面(のりめん)のほぼ中間部には、高木の落葉広葉樹のケヤキ、ムクノキ、エノキ、カラスザンショウの太い木が育つ。幹周囲200cmの太い木は30本はある。このうち最大の木は幹周囲560cm、樹高28mのケヤキ。堤防上の天端幅(てんばはば)は今の車走れる幅はないが、昔の人の人力ででは大工事であったと思われる。また、堤防の法面に高木を植えるのが常識だったかもしれない。かつて薩摩藩が造った木曽三川工事の油島でも千本松原が残っている。

さて、この松井孫右衛門人柱堤は、寛永10年(1633)、度重なる洪水の被害を見かねた宮川ほとりの庄屋・松井孫右衛門は、自ら人柱 となって宮川を鎮めようと思い立ち、生きながら堤防の下に埋められたという。

人々は、川の猛威から田畑や家を守ろうと何度も堤防を築いたが、洪水のたびに壊された。この庄屋が人柱となって以来、中島側の堤が決壊したことはないという。掃守社跡地には「松井孫右衛門人柱堤の碑」があり、8月25日にはその遺徳を偲ぶ命日祭が行われる。俳人・山口誓子は「孫右衛門西向き花のここ浄土」と詠んでいる。

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82 弥栄の松 
 (マツ科、クロマツ) 伊勢市大湊町
 日保見山八幡宮前の「弥栄(いやさか)の松」は樹齢四百年余古木といわれる。この木は幹周囲353cm、樹高11m、南北の枝張りは18m。地際には、踏圧を防ぐため、直径6mの円内部分が枠で守られ、その中はゴロタ石のマルチングが施されている。神社のうら側の堤防のむこうは伊勢の海である。クロマツは海岸地方で防風林、防潮林などの 保安林として植栽されてきた。

なお、伊勢の大湊は古い造船の歴史のある町である。大湊は伊勢湾に面し、宮川、五十鈴川の下流三角州にできた自然の良港。背後にある大台ヶ原、大杉谷には大原始林があって、スギ、ヒノキ、ケヤキなどの造船用材は宮川を筏で河口の大湊に運ばれた。

平安時代には、神宮領荘園神税米の輸送のため、諸国から神役船が大湊に入港。南北朝時代、南朝の元勲・北畠親房は、熊野水軍と連合して、船艦20余艘を建造している。

文禄元年(1592)、鳥羽城主九鬼嘉隆は秀吉の大陸進攻の命を受けて兵船300余艘を建造、旗船は「鬼宿丸」は長さ33.8m、幅11.8mもあり、この船は後に「日本丸」と改名されている。寛永7(1630)には、幕府の命により、伊能忠敬の測量船も大湊で造られた。
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 83 神宮勾玉池のハナノキ
 (カエデ科、ハナノキ) 伊勢市豊川町 神宮外宮
 ハナノキは昭和2年5月、岐阜県付知町(当時)の崇敬家牧野彦太郎さんが、木曾川流域に生えていたものを献納。当初は3本あったが今に残ったのは一本で、雄の木。今の大きさは幹周囲288cm、樹高22m。勾玉池(まがたまいけ)周辺にあり、地際の根の一部が異様に盛り上がる。

ハナノキはカエデの仲間。葉に先立って美しい真っ赤な花を多くつける。特に雄の木の花が美しく、むかし、この雄の木を眺めていた人が、花は咲くが、実がならないのでハナノキと呼んだという。

ハナノキの分布は、岐阜・愛知・長野三県の接点付近のみに限られ、北アメリカ産のアメリカハナノキと同様、“第三紀植物”の遺存種といわれる。勾玉池のハナノキは池の縁に育ち、秋の紅葉した落ち葉が水面を赤く染めるのも、また美しい。

また、この近くにはヒトツバタゴもある。昭和5年、同じ牧野彦太郎さんが献木。5月後半に真っ白い花が咲き、甘い香りをふりまいて咲き、珍木ナンジャモンジャの木として毎年新聞に紹介される。

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 84 神宮勾玉池のアキニレ
 (ニレ科、アキニレ) 伊勢市豊川町 神宮外宮
  外宮勾玉池の奥の池縁には幹周囲208cm、樹高18mのアキニレがあり、県内最大の大きさと思われる。外宮神苑にある勾玉池は、池の形が勾玉の形をしていのでこの名がある。この池は明治22年(1889)9月に造られたので、その頃池の造成にあわせて植えられたとすれば、樹齢120年近くになる。

アキニレは本州中部以西の暖地に分布するが、県内では野生のものをあまり見たことがないので、この木は庭木として入手したものを植栽したものと思う。県内のアキニレは学校、公園に稀に古い木があり、最近は街路樹として植栽される。

 さて、勾玉池は最近、「伊勢志摩きらり千選」に紹介される。この池の一部では6月にはハナショウブで彩られ、北側の池畔には舞楽の舞台が常設されていて、神宮観月会が仲秋の名月の宵に行われ、また一隅には「あこねさん」と呼ばれて親しまれている茜(あこね)神社もある。

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85 外宮の台湾産樹木
 (ツバキ科、タイワンツバキ モクレン科、タイワンオガタマ マツ科、ユサン  ヒノキ科、ショウナンボク)伊勢市豊川町 神宮外宮
  外宮(豊受大神宮)の北御門の北西方向には、以前木材置場があったが、最近新しく駐車場に整備された。この土地には台湾産の珍しい樹木が生育していた。

今に残るこの木は縁石で区画された中で保護されている。これ等の木は、明治42年3月29日、時の逓信大臣・後藤新平が献木した台湾産の木であった。

日本が台湾を領有した時、彼は明治31(1898)から台湾総督府民生局長(のち民生長官)をしていた関係で、台湾産の木を献木したと思われる。当時の献木のリストはベニヒ、タイワンスギ、ユサン、ナギ、ショウナンボク、コノテガシワ、タイワンアカマツ、コウヨウザン、タイワンオガタマ、アカガシ(校讃)、イチイガシ、シイノキ(柯仔)、アベマキ、モモタマナ、クスノキ、フウ、アカギ、ゲッキツ、タイワンツバキ、テンニンカ、の20種、130 本であった。

いまこの駐車場に残っている注目すべき木は次のものがある。幹周囲354cmのフウ。ショウナンボクが5本あり最大は幹周囲197cm。幹周囲201cmのユサンがあり、これはわが国に渡来の最初の木と思われる。

地際周囲173cm201cmの2本のタイワンオガタマ。タイワンツバキは日本にないタイワンツバキ属で、ここには1本あり、2幹立ちで幹周囲は97cmと73cm。コウヨウザンは幹周囲115cm.。ほかにクスノキとアベマキも生育する。また、神宮徴古館庭園や神宮美術館庭園にもこの仲間と思われる木がある。
 
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  左ショウナンボク、右上タイワンオガタマ、右下左タイワンツバキ、右下右ユサン 
86 新開の臥龍梅 
 (バラ科、ウメ 伊勢市御園町新開(しんがい) 新開臥龍梅公園 
 新開臥龍梅公園には臥龍タイプの梅は5本あり、枝張り約4m。昭和46年8月1日に当時の御園村の天然記念物。菅原道真ゆかりの梅を、伊勢の地に奉納したものであるという。「八つ房」ともいうタイプもある。この園内には多くの梅があり、菅原神社もある。

道真は平安前期の公家、学者であった。宇多(うだ)、醍醐(だいご)天皇に信任されて右大臣にまでになるが、藤原時平(ふじわらのときひら)の中傷により失脚し、九州大宰府(だざいふ)に権師(ごんのそつ)として左遷される。醍醐天皇の廃位を謀ったという無実の罪きせられた道真は、延喜元年(901)2月、京都の自邸を去るとき「東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花、あるじなしとて春な忘れそ」と詠んでいる。

またこの際、道真の傍に仕えていた、妻の続きの今村刑部師親(いまむらぎょうぶもろちか)に、伊勢の神宮祈願の印として、梅のタネ二個を託したという。この冤罪(えんざい)の晴れるのを祈願したものであった。当所のこの梅林は荒廃状態となるが、応安元年(1368)、この地に小庵を開いた裕善和尚が、境内に梅園を再建したという。

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87 堅神神社のウバメガシ 

(ブナ科、ウバメガシ) 鳥羽市堅神町 堅神神社 

 堅神神社は近鉄鳥羽線の「池の浦駅」前にある。神社下側の斜面には、前池に覆いかぶさるように伸びるウバメガシの巨木がある。腐朽の入ったその幹周囲は309cm、傾いた幹長は10mこの境内林には幹周囲79cmのシャシャンポ、幹周囲268cmのヤマモモの古い木もある。

この神社のウバメガシは私の調査では、県内最大の太さである。これに次ぐ木として、同じ様な単幹状の木は伊勢市二見町松下の「松下社の大クス」横に地上1mの幹周囲が297cmのウバメガシ、大紀町錦の錦福羅公園の町天然記念物の幹周囲244cmのウバメガシがあった

ウバメガシの古い木の多くは、地際から多幹状に育つことが多く、例えば尾鷲市南浦・リュウノタニの伐採天然林には地際周囲312cm14本株立ちのウバメガシを見た。南伊勢市内瀬のウバメガシは地際から広がって幹周囲100cm前後の木が7本も株立状に生育する。また、ウバメガシは昔から価値観のある庭木であったと思う。旧家の目立つところや茶室のにじり口等に用いられている。 

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88 庫蔵寺のイスノキ 
(マンサク科、イスノキ) 鳥羽市河内町(こうちちょう) 庫蔵寺 

丸興山庫蔵寺山門前斜面の境内林には幹周囲381cm、樹高13.5mの太いイスノキがある。現地の説明版によると、庫蔵寺の約5haの境内林には、幹周囲1m以上のイスノキが21本あるとある。またそれ以下の小さい木は多数とあり、昭和53年2月7日には「庫蔵寺のイスノキ樹叢」として県天然記念物の指定をうけている。

なお、丸興山庫蔵寺は天長2年(825)に、弘法大師が朝熊山金剛証寺の奥の院として建立され、弘法大師の作とされる虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)が本尊。室町時代には、雲海上人(うんかいしょうにん)により国土鎮護のため護摩求聞持法を修めた霊場として中興された。また、戦国時代に九鬼水軍の武将・九鬼義隆(くきよしたか)が鳥羽城築城の地鎮と安全の祈願を命じ、祈願寺となる。文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)に際し、九鬼が水軍を率いた巨船の旗艦に、丸興山の丸をとり「日本丸」と名付けている。それ以後、日本の船舶には「丸」をつけるならわしになったとされる。

本堂は永禄4(1561)建立。内部の格天井には、極彩色で花や天女、仏像が描かれている。平成6年には平成の大修復が完了。この本堂は、大正9年に国指定重要文化財。また本堂裏側に、慶長10年建立の鎮守堂があるが、これも昭和31年に国指定重要文化財になっている。 

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89 庫蔵寺のコツブガヤ 
(イチイ科、コツブガヤ) 鳥羽市河内町(こうちちょう) 庫蔵寺 

国の天然記念物「庫蔵寺のコツブガヤ」は本堂右前広場の端にあり、平成5年1月20日に指定をうけている。いま幹周囲431cm、樹高25m推定樹齢400年といわれる。コツブガヤはカヤの変種。

その種子が普通のカヤは長さが平均25mm位に対し、このコツブガヤは長さが15mm以下で、球形に近いかたちをしている。この木は平成3年(1991)、岡与一先生が調べて分かったもの。

コツブガヤは昭和初期に、今の名張市長瀬の大矢宅裏庭で、国津村布生(現・名張市布生)出身で九州大教授の森川均一博士が発見。昭和3年(1928)に学会に発表してコツブガヤと命名された。

この木は昭和11(1936)県の天然記念物に指定されたが、昭和34年の暴風雨で倒木し、指定が解除されている。ところが、この木の近くに幼苗があったので、大矢さんが近くの山林に移植。平成15年、名張市制五十周年記念誌で樹木の調査をしていた葛山博次先生が、これをコツブガヤであることを確認している。 

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90 家建の茶屋跡にオオシマザクラ 
(バラ科、オオシマザクラ) 志摩市磯部町恵利原 

 旧磯部から宇治へ越える旧道は「逢坂越え」。この旧道の「天の岩戸」の手前で、山道に入る所に、明治末期まで「家建(やたて)茶屋」というがあった。昔、志摩から伊勢に向かう旅人が休息した所である。

この跡地には古いオオシマザクラがあり、平成11年に当時の磯部町の天然記念物になっている。その大きさは地際から株立ち状になって、地際周囲304cm、樹高10.5m、枝張り22m。近くの「天の岩戸」は神宮林の近くにあって、天照大御神が隠れ住まわれたという伝説の場所。この水穴から湧き出る岩清水は「日本の名水100選」に選ばれている。

このオオシマザクラの満開になる4月上旬には花見の会が開かれ、この名水を使って野点(のだて)や、地元名物の「さわ餅」が振舞われる。

 オオシマザクラの花は白く大きいが、葉も同時に開く。この木の本来の分布は伊豆半島や房総半島であるので、この「家建の茶屋跡のオオシマザクラ」は他から入手して植栽された木と思われる。場所が茶屋であるので、葉は桜餅を包む目的に植えたかもしれない。オオシマザクラの葉は、江戸の向島の長命寺で、桜餅として享保2(1717)、最初に売り出している。 

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91 立神・宇気比神社のヤマモモ  
 (ヤマモモ科、ヤマモモ) 志摩市阿児町立神 宇気比神社

 神社境内の裏側で人目につきにくい所に、県内最大ではないかと思われるヤマモモがあり、幹は中空で幹周囲366cm、樹高14m。この神社の境内には古い木が多く、幹周囲293cmのケヤキ、幹周囲332cmのホルトノキ、幹周囲120cmのモッコク、幹周囲263cmのイヌマキ等もある。境内林にはタイミンタチバナ、ツルコウジ、ミミズバイ、イヌガシ、カクレミノ、アリドオシ、カゴノキ、バリバリノキ、サカキ等もある。

 ヤマモモは、痩せ地や植栽直後でも葉が良く茂る。これは根に空中窒素を固定できる根粒菌が共生するためである。そのためヤマモモは志摩地方の乾燥した山地で、特に目立って葉を茂らせている。合併前の阿児町ではヤマモモが「町の木」であった。

  宇気比神社では、延宝年間(1673-)から行われる恒例の「ヒッポロ神事」がある。1月には烏帽子(えぼし)や裃(かみしも)をつけた人が、神事を長時間かけて行われる。このうち獅子舞神事の歌譜(うたふが「ヒッポリョーリョ」など口伝えで習うことから、「ヒッポロ神事」と地元の人はいう。この獅子舞は 県下でも最も古いしきたりを伝えるといわれ、市の無形文化財 
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92 船越神社のホルトノキ 
(ホルトノキ科、ホルトノキ) 志摩市大王町船越 船越神社 

船越神社下の船越保育所運動場の一角に、枠で囲まれた中にホルトノキがあり、3幹立ちで、地上50cm上で幹周囲322cm、樹高15m。神社の木と聞いたが、神社はその地域の文化の中心。独り生えでなく植栽されたところにあるので、古くからホルトノキが価値観のある木であったと思われる。本殿前側には太いモチノキもある。神社裏山は津波災害時の避難場所として、最近整備された。

 「船越」の地名は英虞湾から伊勢湾側まで、船を運べるほどの陸地しかないということ。その距離は500m。その中央が船越神社である。

境内で、今の船越保育所のあるところは、かつて「船越座」という回り舞台を備えた芝居小屋があった。この芝居小屋は、安政4年(1857)から戦後まで続いた。毎年、夏の天王祭には歌舞伎が演じられ、広場には桟敷が組まれ、多くの人で賑った。

その後、建物の老朽化が進み、地元で維持できなくなり、神奈川県川崎市多摩区枡形に移築され保存された。この建物は、「旧船越の舞台」として、昭和51年に、国指定重要有形民俗文化財になっている。 

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93 おりきさんの木 

(ナンヨウスギ科、ニューカレドニアマツ) 志摩市志摩町和具 旧志摩町役場 

  志摩町役場は平成6年に新しい役場に移ったが、この旧役場下の駐車場には、幹周囲274cm、樹高20mのニュ-カレドニアマツがある。地際は新しく鉄線枠で保護された。この木は最近植えられた幼苗を除けば、 三重県内唯一のものと思う。平成元年に「新みえ名木十選」になった。別名をクックアロウカリアといい、ニューカレドニアやポリネシアに自生する。

さて、この木は明治27年、片田出身の伊東りきがアメリカから里帰りの土産にもってきたもので、 叔父で医者をしていた伊藤雲碩(うんせき)に送ったものである。

この苗木は10cmほどで、トランクの中に入れて来たという。伊東りきは慶應元年(1865)当時の片田村の漢方医伊東雲鱗(うんりん)の二女として生まれた。兄の医者の修行に同行して東京へ出るが、当時横浜に来ていたレンガ製造技師のアメリカ人家族の家に、メイドとして入り込む。

この家族は2年後に帰国するが、りきはこの家族になりすましてアメリカに渡る。

明治22年、りき24歳の時であった。明治27(1894)、アメリカで財をなした彼女は生涯一度の里帰りをするが、この時この苗を持ってくる。 翌年の明治28年、彼女は志摩地方の移民をつれて再びアメリカへ渡る。 その後、アメリカ移民の面倒をよく見る。

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94 田丸城跡のハゼノキ  

(ウルシ科、ハゼノキ) 玉城町田丸 田丸城跡 

田丸城跡の本丸と二の丸の間の裏側土手には、幹周囲343cm、樹高14mの巨大なハゼノキがある。かつて、誰にも知られていなかった県内最大のこのハゼノキは、平成5年の「第17回全国育樹祭」の記念誌『郷土の樹木』ではじめて紹介された。

この木について、三重大学の武田明正先生は、鳥類などによって自然に散布された種から発芽したか、あるいは、勧業に熱心だった紀州藩が植栽を勧めたハゼノキの子孫かと記した。ハゼノキは蝋(ろう)を採取するため、栽培されたものが野生化したとされる。

かつての田丸城は、東側に初瀬街道、南側に熊野街道が、神宮に入るところで合流する交通の要衝にある。この地は古くは玉丸山といって、延元元年(1336)、南朝側の北畠親房、顕信父子がこの地に砦を構えたのに始まる。永禄11(1568)、 織田信長の伊勢侵攻では、北畠氏と和睦して、信長の二男信雄が北畠の養子になり、田丸城主となる。のち、裏切って北畠国司を滅ぼしてしまう。元和5年(1619)には和歌山藩領となり、明治維新まで続いた。明治4年(1871)城内の建物は取り払われている。昭和28年に県指定の史跡になった。 

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95 久具都比売神社のクスノキ   

(クスノキ科、クスノキ) 度会町上久具(かみくぐ) 久具都比売神社

 久具都比売(くぐつひめ)神社は、県道38号線から久具都比売橋を南へ渡った宮川の岸辺の森にある。伊勢の神宮の摂社。この神社の森周辺にはスギ、ヒノキ、イチイガシ、オガタマノキ、カゴノキ、カヤなどの古い木が生育し、地表にはツルコウジも多い。森の中央には幹周囲797cm樹高23mのクスノキの巨木がある。伊勢志摩地方では有数の大きさのクスノキである。

 久具都比売神社は「延喜式」の「神名帳」にも記された神社。その祭神は「皇太神宮儀式帳」によれば、「久具都比売命(くぐつひめのみこと)」と「久具都比古命(くぐつひこのみこと)」とあり、ヒメ・ヒコという男女の対偶神になっている。

この神社の森に隣接して、宮川の「上久具(かみくぐ)の渡し跡」がある。近くに久具都比売橋ができるまでは、明治から平成6年3月までの約90年間、両岸の人々を運び続けた大切なルートであった。特に、学童の通学路として、子供たちはこの渡し場をわたって学校へ通った。ここが県内で最後となった渡し場であった。
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96 内瀬のハマボウ
(アオイ科、ハマボウ) 南伊勢町内瀬(ないぜ) 伊勢路川河口 

 伊勢路川河口には本州最大級のハマボウの群落があり、手元の資料では面積2haとなっている。この群落で太い木と思われる木は、地上20cm上で幹周囲60cm、樹高3m以下である。現地の説明板には、この内瀬出身の元京都大学の赤井龍男先生は「夏、美しい黄色の一日花を咲かせるハマボウは、地元では昔からイソツバキと呼んだ。半マングローブといわれる珍しい木は、根元から多くの枝をだして、タコの足のように根を張りめぐらして、洪水時に川岸を護り、海の堆砂を防ぎ、津波の被害を少なくする役目あった。それに生物多様性維持のビオトープでもある。」と書いている。

以前、これだけのハマボウの群生地があるのだから、町に天然記念物として指定して保護してはと、申し入れたが、その頃、この河川改修が予定されていたので、見送りたいという話だった。今、この河口の河川はビオトープを配慮した県内では最初と思われる工事ができている。

三重県内では、ハマボウは海岸部に点々と生育し、津市河芸町の田中川河口が北限とされる。ハマボウは海岸で船をつなげる唯一の木として、植えられたとも言われるので、本来の天然分布かどうか判らない。

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97 穂原小学校のダイオウショウ 
 (マツ科、ダイオウショウ) 南伊勢町伊勢路 穂原小学校

穂原小学校の正門近くには、北アメリカ産の古いダイオウショウがあり、幹周囲255cm、樹高18.5m津市櫛形小学校のダイオウショウに次いで、県内二位の太さと思う。

かって、穂原小学校の旧校舎のときは、このダイオウショウ付近には、小学校では県内で最も多く樹木が収集されていたと思われる庭があった。今もトキワマンサク、オリーブ、サルスベリ、ハマボウ、モチノキ、ウバメガシ、モミ、シノブヒバ、クロマツ、イヌマキの古い木が残っている。

このダイオウショウは昭和の始め頃植えられたと推定されるので、誰かこれらの樹木の収集について、熱心な人がいたにちがいないと思う。私の推定ではあるが、小学校からそれほど遠くない押淵地区の広出泰助さんは、昭和11年に天然記念物保護で文部大臣表彰をうけた人であり、現地の植物調査の案内人であったので、この人がかかわっていたのではないかと思う。

この小学校の校舎の南側の運動場側には幹周囲415cm、樹高16mのオハツキイチョウの大木もあり、乳イチョウの木でもある。この木は、この校舎ができる前にあった久昌寺の木であった。学校のブランコで遊ぶ子供達はこの木を「大イチョウ」と呼ぶ。 

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98 礫浦八幡神社のホルトノキ 

(ホルトノキ科、ホルトノキ)南伊勢町礫浦 礫浦八幡神社

境内林には太いホルトノキが3本あり、最大の木は幹周囲353cm、樹高27m。他に幹周囲325cm302cmのホルトノキもある。この境内林には幹周囲377cmのスギ、幹周囲227cmクロガネモチ、幹周囲205cmのオガタマノキの太い木も混じる。地表にはツルコウジが多い。

 この地には天照大神の「礫石(さざらいし)」という7寸四方ほどの円石があった。この石に五本の指の形の付いていたので、一名「五手の石」ともいわれた。この石にお祈りすると、天候が悪いときでも魚が捕れるといわれたので、昔から船乗りの信仰が厚つかった。今、礫浦八幡神社に御神体として祀られている。この礫石から、この地を礫浦と呼ばれたと思われる。

 この神社周辺には古墳が点在し、磯浦古墳群といわれ、神社の上方の宮山古墳の横穴式石室からは多くの葬具品に混じって、海産の副葬品のアワビやカキも出土した。6世紀後半の地位の高い人の古墳とされる。古い歴史のある土地だけあって、この神社には「こじめ祭り」とか「みこねぎ式」という神事が残っている。なかでも、漁村ならではの「塩切り」行事は、神様にお供えした塩漬けのます、鯛、伊勢えび、鰹を四人が揃って、まな板の上で裁き、切り身にする儀式。

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99 河内・仙宮神社のバクチノキ 

(バラ科、バクチノキ)南伊勢町町河内(こうち) 仙宮神社 

仙宮神社本殿は津波を避けて、小山の山頂にあり、長い参道の石段がある。登り口には幹周囲203cm、樹高17.5mのバクチノキがあり、更に10m離れてもう一本あり、太さは幹周囲137cm。下に多くのバクチノキの子供苗も見る。また、この近くには地上30cm上の幹周囲が349cmの太い二幹立ちイロハモミもある。これらの木は参道に沿ってあるので、植栽されたものと思われる。

この古いバクチノキには説明板がついている。社伝によると、天竺(てんじく)僧・佛哲和尚が植え付けたとある。また、大正7年に苗木を明治神宮に献木したとある。ところが、仙宮神社のホームページの御創立由来によると「境内には、天竺僧佛哲和尚が植え付けた多羅樹の木がありその苗木を、大正七年に明治神宮へ献木している。」とある。この多羅樹とはモチノキ科のタラヨウを指すのが普通であり、留学僧が植えたとすればタラヨウは佛教ゆかりの木で、記念樹にふさわしい木である。

したがって、バクチノキはタラヨウと間違って植えられたとも思われる。また植栽当時、この地では恐らくタラヨウの苗は入手が難しく、バクチノキの苗は野生のものから容易に確保できたと思われる。 

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100 棚橋竈・長泉寺のナギ 
 (マキ科、ナギ) 南伊勢町棚橋竈(たなはしがま) 長泉寺
 長泉寺本堂前広場西側には幹周囲300cm、樹高16mのナギがあり、地際は根の盛り上がった異様な様相をしている。本堂東前石垣の外には幹周囲506cm319cmの雌雄のイチョウが目立つ。

温渓山長泉寺は禅宗曹洞宗の寺。永正6(1508)、平維盛三世の末裔にあたる察道和尚がこの地に小さな寺を建立したのが開基とされる。ナギは平家ゆかりの木で、この寺でも目立つところに植栽されたと思われる。

この南伊勢町にある竃のつく「竃方集落」は八竃あって平家流寓(りゅうぐう)の地。平家が壇の浦の戦に敗れて、一門はほとんど海に消えた。

平維盛の子岸上幸弘はひそかに逃れて、新宮の奥の河合村に身を隠した。幸弘より3代後の子孫は、この南島の海岸に住み着いたが、漁業権は無いので、山で薪をきり、塩を焼いた。国司北畠氏からも能見坂より南10里の地を保障された。この棚橋竃地区でもザサ山には崩壊した竃跡が見つかっている。

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101 多岐原神社のヒノキ  
(ヒノキ科、ヒノキ) 大紀町三瀬川(みせがわ) 多岐原神社 
多岐原(たきはら)神社は皇大神宮摂社で御瀬社(みせのやしろ)とか真奈胡(まなご)神社の別の呼び名もある。

2000年前、倭姫命(やまとひめのみこと)は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の鎮座する地を求めて旅に出る。都のあった大和を出発して伊賀、近江、美濃経て伊勢の国へ。相鹿瀬(多気町)より宮川を遡(さかのぼ)っていたところ、この川は、砂も流れる早瀬で、難渋していた。

この時、出迎えて川を渡るのをお助けしたのが土地の神・真奈胡の神。その時、真奈胡の神の案内で無事通過できたという。宮川右岸にひっそりと鎮まる多岐原神社の祭神は真奈胡の神。ここは熊野街道の「三瀬の渡し」のあった所でもある。

多岐原神社本殿向かって左前に幹周囲488cm、樹高34.5mの巨大なヒノキがある。本殿前に、ヒノキが対か一方にあるパターンは時々見るが、この神社のヒノキが本殿前の県内最大と思う。境内林にはイチイガシやカゴノキもある。境内林は北側で宮川に接する。

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102 龍祥寺のシダレザクラ 
 (バラ科、シダレザクラ) 大紀町阿曽 龍祥寺

かつて、江戸末期から明治初期にかけて起こった廃仏運動で、龍祥寺は衰え、いったん廃寺となる。その後、20年かけて再興されたという。

このシダレザクラは、再興に力を注いだ龍祥寺12世・法参玄契和尚が植えたという。またの名を「不盡桜(ふじんざくら)」とも云われ、白味の強い花を咲かせ、その姿は山の中の滝のようといわれる。この木は今、幹周囲259cm、樹高19mで、樹齢は130年になるという。高さ5mから出た枝先は地面に着く。5本の支柱が枝を支える。毎年、花の季節にはライトアップされるほど名物になった。

寺の境内には幾種類かの樹木が収集されている。イヌマキとカヤは大木である。ナツツバキ、ハウチワカエデの品種、リキュウバイ、ハクモクレン、プラタナスなどがある。裏山には稲荷大明神が祭られる。
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103 大皇神社のスギ
(スギ科、スギ) 大紀町崎(さき) 大皇神社 

参道石段を上がった右側にはしめ縄をつけた神木の大スギがあり、脇に小さな祠がある。この木の大きさは幹周囲663cm、樹高35.5m。太い枝を出し、その枝はなぜか南向きに全て曲がって伸びる。

かつて、県主催の大内山川流域の巨木見学バスツアーで、参加者のアンケートで最も印象に残った木に選ばれた。特にこの木の曲がった太い枝に迫力を感じたのだろう。また本殿を囲むようにスギ巨木群があり、一部は神木である。15年ほど前に、先が枯れてきた幹周囲450cmのスギを伐採したが、年輪を数えると樹齢400年だったと聞いた。

神社の下には、かつての熊野街道が通る。神社は鎌倉時代の1220年頃の創建といわれる。神社本殿には菊の紋章が着く。これは文徳天皇の第一皇子・惟喬(これたか)親王が祭られているため。惟喬親王ご座石もある。惟喬親王は時の摂政藤原良房(よしふさ)の孫・惟仁親王(清和天皇)との皇位争いに敗れ、今の滋賀県小椋谷に隠棲した。

そこで人々に「ろくろ」を使って、木の椀や盆をつくる技術を教えたといわれる。この職人を木地師(木地屋)とよばれ、小倉や小椋姓の人が多い。江戸時代、この地は伊勢木地師の中心で、この神社の近くには小倉姓を主に木地師集落もある。

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104 旧紀勢町役場のシダレザクラ 
(バラ科、シダレザクラ) 大紀町崎 大紀町柏崎出張所 
  以前は紀勢町役場があったが、平成5年2月14日に合併しで大紀町になって、この地は大紀町柏崎出張所。ここには古いシダレザクラがあり、前を通る旧熊野街道に覆いかぶさるように伸び、枝は地面に着くほど垂れ下がる。太い枝が折れる心配もあったので、平成18年4月には丈夫な鉄骨の三脚支柱で、上手く受け止められた。

このシダレザクラは、いま幹周囲218cm、樹高10m3月下旬の花の時期には多くと人が訪れる。この木から接木で増やした、この木の子供苗は近くの“笠木渓谷”などにも植栽されている。

かつては小学校の木であったが、ここへ移転した役場に引き継がれて育てられ、およそ110年生といわれる。平成3年には当時の紀勢町指定天然記念物になった。この大紀町を通るかつての「熊野街道」沿いにはシダレザクラの古木が多い。早春を彩るこの目立つ花をつけるサクラは、各地で古くから競って植えられたと思われる。

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105 錦海岸の大ウバメガシ 
 (ブナ科、ウバメガシ) 大紀町錦 
  通称“向井ヶ浜”の観光施設「遊パーク・トロピカルガーデン」の下で、海の近くには、平成4年に当時の紀勢町の天然記念物になった太い一本のウバメガシがある。その幹周囲は244cm、樹高は7m。枯れ枝も多いが、下部から出た枝は旺盛な生長をしている。平成13年刊行の『紀勢町史自然編』では、「向井のウバメガシ」として紹介されている。

この大ウバメガシの前には小さい鳥居があって、このウバメガシの木が神体として祭られる。鳥居の横には「海上安全」と「大漁満足」ののぼりが、対に立つ漁港のミニ社(やしろ)でもある。

 この地は錦神社の古宮の跡地。この木のある地は、錦湾の砂浜であり、熊野灘に面しているので、大きな津波の被害を受けた。安政元年(1854)の安政東海地震の大津波にも、このウバメガシは耐え、大正4年(1915)までは、この地は神社として維持された。昭和19年(1944)の東南海地震と昭和21年の南海地震の大津波に遭った後には、このウバメガシが唯一残り、この幹の上部は折れて今は無い。古木だけに、伝説も伝わり、この木には白いヘビが棲み、この枝を切ると体がふるえて病気になると恐れられた。

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106 大内山・八柱神社のミズメ 
(カバノキ科、ミズメ) 大紀町大内山 八柱神社 

 かつて、紀州藩主がこの地で「牟婁越えて鶯きくや梅ヶ谷」と詠んだが、JRの駅名も「梅ヶ谷」。このJR梅ヶ谷駅に隣接して八柱(やはしら)神社がある。周囲を大内山川が流れる。八柱神社本殿神域は柵の中にあり、向かって左側には境内林の間の空地がある。

ここに幹周囲186cm、樹高26.5mのミズメがある。この空間地には幹周囲88cmのコウヤマキもあるので、ともに植栽されたものと思う。三重県内の神社にミズメが植栽されるのはきわめて稀なことである。この木の植栽の動機について、神社に梓弓(あずさゆみ)にちなんで植えたとか、サクラの苗と間違えて植えられたともいわれる。

ミズメはアズサとかヨグソミネバリともいわれる。カバノキ科の落葉高木。多分この地方のやや奥地の山地に自生していたものと思う。樹皮はサロメチールの匂いがし、材は堅く、器具・家具材とし、古くは弓や板木に利用された。

 さて、八柱神社は桓武天皇延歴14(795) が創立という説もあるが、創立の棟札は文安5年(1448)。古くは二天八王子社と呼ばれたが、明治4年の“諸神社御調”の時、他の7社を合祀して、八柱神社として登録された。祭神のなかに、地元で神のように敬われた領主の大内山但馬守もある。 

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107 大内山・八柱神社のツクバネガシ 
 (ブナ科、ツクバネガシ) 大紀町大内山 八柱神社
  八柱神社境内林で大内山川沿いに、県内最大と思われるツクバネガシがある。その大きさは幹周囲381cm、樹高16m。ツクバネガシとアカガシはよく似ていて、現地では葉の形と葉柄で判断しているが、何パーセントがツクバネガシで何パーセントがアカガシと表現することがある。この木もハイブリットと思われるが、アカガシに比べ葉柄が短く、葉身が細く、わずかに鋸歯があるのでツクバネガシとした。

 このツクバネガシの近くには、この地方最大と思われるスギがある。その大きさは幹周囲733cm、樹高43.5mあり、国道42号からも、JR梅ヶ谷駅越しに、境内林からとび出したスギの先を見ることができる。かつては更に古い木があった。

昭和34年の伊勢湾台風で、倒壊したこの境内のスギの巨木の材幹の一部は、津市白山町にある県科学技術振興センター林業研究部に保存展示されている。また、神社の入り口は八柱公園となっているが、ここには幹周囲43cmの太いゴマギがあり、秋には赤い実を多くつける。

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108 高倉神社一の鳥居のケヤキ 
 (ヌレ科、ケヤキ) 伊賀市西高倉 高倉神社

高倉神社本殿から谷川をはさんで東側には、「高倉大神」の額のかかる赤い「一の鳥居」がある。この鳥居の傍に一本の古いケヤキがあり、幹周囲620cm、樹高20m。幹にはキズタが高くのぼりつく。このケヤキは大きくなりすぎたせいか、枝先は剪定され、その切り口付近から、多く萌芽する。この鳥居の前には古い道の「和銅の道」が通る。この神社では「高倉5名木」というのがあり、それはスギ、シイノキ、カゴノキ、シブナシガヤと、このケヤキ。

 かつての新居庄と思われる地内の高倉神社、西山・春日神社、岩倉・春日神社があり、共通的に春日大社の末社であった。明治時代の初め、この3社が会合を持った時、同じ村内で同じ神を信仰する共通点から、「春日の神」の使いのシンボル「鹿」にちなむ「カゴ(鹿子)の木」を境内に植えようと決めたという。

今、このカゴノキは、高倉神社では本殿前の石段を上り詰めた左に幹周囲232cm、西山・春日神社では境内林の参道入り口付近に幹周囲181cm、岩倉・春日神社では本殿左側の境内林に幹周囲175cmになっている。高倉神社殿背後の林中には県指定天然記念物のスズタケの仲間の「アヤマスズ」が自生する 

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109 西山・春日神社のコウヤマキ 
(コウヤマキ科、コウヤマキ) 伊賀市西山 春日神社 
 神社本殿前に幹周囲255cm、樹高21mのコウヤマキがある。伊賀地方に隣接する滋賀県や奈良県では神社仏閣にコウヤマキが多い。三重県の神社仏閣には古いコウヤマキはほとんどないが、伊賀北部地帯の神社ではコウヤマキが所どころにあり、古い時代に近江や大和の文化の影響を受けた証拠の植栽と思われる。

この神社のコウヤマキには勧請縄(かじょうなわ)と思われる「しめ縄」の一方が結ばれる。アラカシの枝が多く架かっているが、毎年、1月7日の「山の口」に、男子の氏子はこの縄にミカン、イワシ、モチなどを袋に詰めて吊るし、拝んだあと下げるという。この神社の本殿とその付近の建物は、なぜか建屋の棟は、拝む側から見て縦方向にある珍しい神社である。

この神社の境内には古い木が多い。殿左側に幹周囲616cmの神木のスギがあるが、伊賀地方2位の太さといわれる。また、拝殿前左に幹周囲282cmのツガがあるが、三重県内の人の生活圏にあるツガとしては最大ではないかと思われる。伊賀地方の里山にはモミも多いが、本殿右の山中には幹周囲421cmのモミの巨木もある。

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110 果号寺のシブナシガヤ
 (イチイ科、カヤ) 伊賀市西山 果号寺
 果号寺裏側の石垣の上にはシブナシガヤがあり、50cm上の幹周囲が370cm、樹高11m。地上90cm付近で3幹立ちになり、そのうち最大の幹周囲は281cm。この果実の大きさは、春に拾った10個の果実の平均長さは30.7mmあり、ヒダリマキガヤのように果実は大きい。したがって、果実の油を絞る目的等で栽培していたものと思う。

近くの西高倉の高倉神社にもシブナシガヤがあり、ともに昭和7725日に国指定の天然記念物になっている。なお、果号寺本堂西の墓地には幹周囲323cmの太いヤマザクラがある。

カヤの果実の食用になるところを胚乳といい、その外側に渋皮がある。シブナシガヤは渋皮が薄く、外側の殻に渋皮がくっ付く状態の品種。林弥栄博士はその著書『有用樹木図説林木編』(S44)で岐阜県上石津村(当時)下山の唯願寺、同村宮街道高木貞勝所有林内、三重県上野市西山の果号寺、同市西高倉の高倉神社の木をあげている。

 また、嘉永2年(1849)に刊行された当時の代表的な博物学書である小野蘭山の『本草綱目啓蒙』にも記載されており、伊賀地方にこの珍しい特徴を持ったカヤがあることは、江戸時代にはすでに知られていたようである。
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111 旧花之木小学校のナンキンハゼ 

(トウダイグサ科、ナンキンハゼ)伊賀市大野木(おおのぎ) 旧花之木小学校 

 花之木小学校の道向いは、今、「養護老人ホーム・伊賀市恒風寮」であるが、昭和4年まではここにこの小学校があった。この旧小学校の運動場東端で、忠魂碑のそばに、古いナンキンハゼがあり、幹周囲260cm、樹高18.5mで、県内で最大と思われる。他に3本寄り添って生育する。

明治43年に、この小学校に入学した地元の郷土史研究家に聞いたことがあるが、その時、この運動場にあったように思うと話していたので、この木は明治時代に植えられた古い木かもしれない。

ナンキンハゼは最近、緑化樹として、好んで各地に植栽される。この葉が濃く紅葉するためである。ナンキンハゼは中国産の木という意味で、南京ハゼといい、その果実からロウを採ることから、ウルシ科のハゼノキにたとえて名付けられた。江戸時代中期に渡来している。

  明治23年、法花(ほっけ)村、下之庄(しものしょう)村、大野木(おおのぎ)村が合併して花之木村になったが、この村名は、この三村の名から一字ずつ取って命名された。小学校も当然、花之木小学校と呼ばれた。同じ名のカエデ科の樹木ハナノキが、大正10年頃岐阜県からこの小学校に入っている。
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112 岡八幡宮のシリブカガシ
(ブナ科、シリブカガシ) 伊賀市白樫 岡八幡宮 

 岡八幡宮境内には、伊賀地方では唯一の分布と思われるシリブカガシが数本ある。最も太い木は境内西端に地際付近の幹周囲220cm、樹高18.5mの3株立ちの木。シリブカガシのどんぐりの底は、皿形に凹むので尻深といわれる。

この境内には市指定天然記念物で神木のイチイガシや、本殿前広場にはスギの大木がある。かつて本殿横には太いコウヨウザンがあったが、石垣とともに倒壊し、その子供苗が残る。                     

  岡八幡宮は、 源頼朝(11471199)の直命で鎌倉につくられた「鶴が岡八幡宮」の末社で、その社名も「鶴が」を除いたもの。当初、この「鶴が岡八幡宮」の末社は全国に配置する計画であり、この伊賀の岡八幡宮が第一号であったが、頼朝の死亡とともに中止になって、この神社が最初で最後になったという。

神社の歴史も古いだけ「流鏑馬神事(やぶさけしんじ)」、「獅子神楽(ししかぐら)奉納」、「山神大注連(やまのかみおおしめなわ)」、「弓始め祭」、「探湯神事(くがたちしんじ)」、「茅輪(ちのわ)くぐり」等がおこなわれる。また宝蔵院流高田派槍術の祖「高田又兵衛」はこの地の白樫に生まれ、岡八幡宮の大木を相手に技を磨いたと語り継がれている。 
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113 上野城跡のコナラ 
(ブナ科、コナラ) 伊賀市上野丸之内 上野城跡 

 上野城跡は、明治19年(1886)に公園となった。今の天守閣は、昭和10年に木造三層として復興されたもので、別名「白鳳(はくほう)城」と呼ばれる。かつて、上野城が近世城郭として築いたのは天正13年(1585)に羽柴秀吉が、大和郡山から移封した筒井定次。この時の城の完成は文禄年間(1592-1596) 。関ヶ原の戦い後、家康の信任厚い藤堂高虎が、伊賀、伊勢などの大名として移封されるや、大阪の豊臣方との戦いにそなえた根城として、慶長16年(1611)に大改修をはじめている。

 高虎は伏見城、江戸城、大阪城などの重要な築城に参画した築城の名手だけあって、今の内堀の石垣の高さは約30mあって、日本一といわれる。

  さて、天守閣の南西方向には、幹周囲325cm、樹高20mコナラの古木があり、コナラの県内一の大木と思われる。コナラの太い木は城内にときどきあり、天守閣北側にも幹周囲314cmのコナラもある。

コナラは方言でホソとかホウソといって、里山の主要な木であった。この上野城のコナラであるが、ひとり生えの木が残ったとも考え難いところにあり、植栽されたとも考えにくい。ただ、上野市役所裏にもコナラがあるので、この地でコナラは何かいわくのある木かも知れない。 

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114 常福寺のコウヨウザン
 (スギ科、コウヨウザン) 伊賀市古郡(ふるこおり) 常福寺

 常福寺は集落より高いところにある。そのため本堂とその庫裏前の間の庭にあるコウヨウザンの巨木は遠くからもよく目立つ。30年ほど前に、幹先と枝先を落とす大剪定を行ったが、今も巨木の容姿は保たれて見える。今、幹周囲398cm、樹高33mである。

コウヨウザンは生長が良い反面、幹は風で折れやすい。そのため、この寺のような剪定方法がコウヨウザンを維持するうえで、参考になるパターンかもしれない。

  『日本書紀』の天武元年(673)、「壬申の乱」に際し大海人皇子らが「伊賀の郡に到りて、伊賀駅家(うまや)を焚く。伊賀の中山に逮(いた)りて当国の郡司等数百の衆を率て帰りまつる。」と記述さ

れる。この「伊賀駅家」は、いまの古郡にあったと推定されている。それはこの地が、奈良時代の郡役所が所在地であったのに由来。この地にあった寺も歴史は古い。

常福寺は、養老6年(722)に聖武天皇勅願寺として、徳道上人が開創。大同2年(807)には願安大師により中興。天正伊賀乱のあとは、紀州根来より宥俊法印が来て、元和元年(1615)に復興している。常福寺は真言宗豊山派。 

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115 高徳寺のカゴノキ 
 (クスノキ科、カゴノキ) 伊賀市高山(たかやま) 高徳寺
   上野市の東端に「高山」という集落がある。高い位置にあるので、この地名があるというが、鷹が住む山という意味もかけているという。この山の斜面にある集落の中でも、最も高い所に高徳寺がある。国土地理院の5万分の1の地図にも、この寺の名がでているので、古くからの古刹であろう。

 本堂の左横で、高い法面の張りブロック積みの上に大きなカゴノキがある。幹周囲399cm、樹高17.5mの巨木。人の生活圏にあるカゴノキでは県内最大と思われる。

カゴノキの樹皮は円形になってはげ落ち、後が淡褐色になる。この様が鹿の子の斑紋に似るとして「鹿子」の名がついたという。 カゴノキは神社に植えられていることが多い。これは春日神社などで神の使いとしての鹿に因んで植えられる。旧上野市内でも北部の高倉神社、西山春日神社、岩倉春日神社では、かなりの太さのカゴノキが1本ずつ植えられている。

ところが、ここでは寺に植えられている。ある見学会で、寺のカゴノキはなぜ植えられているのか、よく判らないと説明したところ、ある人が、「カゴノキは火護の字をあて、本堂を火から護るという縁起から植えられる」と教えてくれた人がいた。

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116 正月堂のテーダマツ 
(マツ科、テーダマツ) 伊賀市島ヶ原 正月堂 

この寺は、古くは東大寺伊賀荘園の地。農業予祝神事「修正会」が、奈良東大寺十二大会の一環の一つとして、旧正月に行われるので、正月堂と呼ばれるが、正しくは観菩提寺。本尊は33年目ごとに開帳される秘仏十一面観世音。この立像をはじめ多くの文化財がある。

寺の歴史は古く、開祖は天武天皇の皇女で、斎王を勤めた多紀皇女(たきのひめみこ)。父帝と生母の穀媛妃(かじひめのいらつめ)の菩提を弔って建てたといわれる。この時は神亀2年(725)で、観音寺といった。天平勝宝4年(752)、東大寺の渡来僧の実忠和尚がこの地に観音堂を建立し、上記の本尊を安置している。

戦後は、復興に向けて木材需要が逼迫するなか、国では木材増産の政策が多くとられた。なかでも、早く大きくなる早生樹に脚光をあびた。その樹種にアメリカ産のテーダマツがあった。旧島ヶ原村の村有林の造林でもテーダマツが一部採用された。この生長のよい、三葉松の珍しい苗は、まず地元の正月堂境内にも1本寄贈され、鐘つき堂近くに植えられた。昭和33年頃であった。

今、この木は幹周囲313cm、樹高21.5mで、県内最大の木。テーダマツは生長がよすぎて、幹が傾いたり、幹が折れたりする欠点があるが、しかし、マツクイムシには強い性質もある。

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117 西念寺のカヤ
(イチイ科、カヤ) 伊賀市島ヶ原 西念寺 
 西念寺のカヤは、山門を入った左側にあり、県内一の太さと思われる。幹周囲は640cm、樹高は16m。古い木だけあって、幹のあちこちに腐りも入る。

ほかに、本堂前には幹周囲228cmの大きなツガがあり、前庭には80cm上で幹周囲79cmの古いイヌガヤもある。

このカヤの樹齢は500年と推定されている。この地に、この寺が再建されたのは約200年前の、享和元年(1801)であるから、寺が再建された時、すでに、当時300年生のカヤノキがあって、その傍にこの寺が建ったことになる。

  古くから、このカヤの大木は、よく知られた木であった。この巨木の近くには墓が多くあるせいか、「生命ながらえた末は、カヤの下で眠りたい」と地元で言われてきた。つまり、カヤノキの巨木の下は極楽浄土であった。

 伊賀地方では、とくにカヤの大木が多い。カヤの実は、米の不作に備えた、救荒食糧でもあった。そのため、神社、寺院、庄屋の屋敷等にカヤが植えられた。この西念寺のカヤは、以前は実を多くつけた。近年、めっきり実の量が少なくなったが、この地を襲った昭和28815日の山津波の影響で、樹勢が弱ったせいといわれる。

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118 薬師寺のムクロジ
(ムクロジ科、ムクロジ) 伊賀市馬田956 薬師寺 
 馬田の薬師寺の境内広場に石段を登りつめた左に県内最大と思われるムクロジがある。その幹周囲は359cm、樹高は12.5m。幹は上まで空洞で、幹も穴だらけの異様な様相の木。かつて、地上5m付近で幹は折れたと思われる。この木の近くにはカリンやイヌツゲの古い木もある。

  昔、ムクロジの果実の皮は石鹸の代用に、種子は羽根つきの玉や数珠にも使われた。そのためか、この有用樹は神社、寺院、旧家に古い木を見る。木の根元に文化4年(1807) 奉納の石塔があって、この頃植えられたといわれる。そうなると、樹齢は200年近くになる。

伊賀地方にはムクロジの大木が多い。幹周囲2メートルを越える木は上野市比自岐の比自岐神社、 名張市薦原の善福寺、名張市葛尾の蔵福寺等にあったが、とてもこの薬師寺の木には及ばない。

  この薬師寺は明治初年頃、廃寺となった。 今は、地区の集会所であるが、薬師さん、愛染さん、弘法さんが集めて祀られ、その祭り行事は残っている。かつて、天正9年(1581)の「天正伊賀の乱」の兵火にこの寺も遭ったが、寺の本尊薬師如来だけは、住職が山中に隠したため、無事だったという。

 なお、この木の樹勢回復のため、平成18年に、樹木医が地元の上野農業高校を指導して土壌改良工事を行っている。

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119 河合小学校のセンダン 
(スンダン科、センダン) 伊賀市馬場 河合小学校 

明治22年(1889)に8村が合併して、河合村が発足した。小学校の名はこの時の村名。今の地に小学校が移ったのは明治41年だった。この時、校庭には色々な木が記念植樹された。近くの金台寺からは、2本のセンダンが、青年団の出会い作業で移植された。

昭和27年、中学校が隣接してできたが、運動場は共用するため、拡張されることになった。そのため、これまであった植栽木は伐採されることになったが、この中で、1本の大きなセンダンは、運動場の中ではあるが、これまで、ここで学んだ卒業生の「想い出の木」として残されることになった。今、このセンダンは幹周囲474cm、樹高11.5m。地上2-4mで多幹になり、枝をよこに広げる。センダンの県内一の太さである。昭和61年には町の天然記念物になっている。

  西行法師の『選集抄』から始まったとされる「栴檀(せんだん)は双葉より芳しく梅花はつぼめるに香りあり」の諺がある。実は、この栴檀の中国名はビャクダン科のビャクダンであって、わが国ではこの字をセンダンにあて間違えたため、このセンダンには香りはない。

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120 かえで橋の楓
(カエデ科、イロハモミジ) 伊賀市上阿波 
 関町から旧大山田村へ越える峠は蝙蝠(こうもり)峠という。この峠より大山田村側に1kmほど下がると、子延川に「かえで橋」が架かる。旧道でも「かえで橋」といった。それほどこの橋の近くには、橋の名になる名物のイロハモミジがある。およそ直径5メートルの巨岩の上に乗った状態で、約10本の幹が株立ち状に育つ。根はすべて山側に伸びるが、この木の広がった根と広がった幹の間の地際周囲は 570cmの大木。  この名物のイロハモミジから、この近くの橋は「かえで橋」と名づけられた。秋の紅葉はスギ林をバックに見事な美しさがある。この場所はあまり知られていないと思ったが、最近、このカエデの付近は観光名所として整備された。イロハモミジを乗せる巨岩は「かえで岩」と地元では呼ぶ。戦前、この付近から石灰岩を掘って、農家の人はこれを焼いて肥料用の自家製石灰をつくった。この山の所有者はこのカエデを、山の守り神とし、正月にはお餅を供えてお祭りするという。
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121 林渓寺のトキワレンゲ 
 (モクレン科、トキワレン) 伊賀市奥馬野(おくばの) 林渓寺
  レンゲは中国南部原産。花に芳香があって、茶、薬用あるいはかんざしに用い、東南アジアで広く栽培される。樹高3m前後の常緑低木。九州以北では温室に栽培するとある。

このトキワレンゲが奥馬野の露地で、およそ90年も越冬してきた。古くはススキ一本分のわらをつかって保護。最近はこもやビニールシートが使われる。今のこのトキワレンゲは樹高2.5m程で約10本の株立ち状。

  この木は先代の住職味岡一さんが入手した。明治28年、日本が台湾を領有した時、小隊長として台北に駐屯した。あるとき日本軍の幹部達が、台湾の大地主の家に招待されたとき、彼はその屋敷に咲き誇り、芳香あふれたトキワレンゲに接したとき、この木にとりつかれたたという。その後、日露戦争で転戦するため、一時日本に帰ることになる。小さなトキワレンゲの苗を、軍用行李 に忍ばせた。軍用行李ではフリ-パスで持ちこめた。

この苗は林渓寺の庭園の中央に植えられた。この寺ではこの木を「玉蘭(ギョクラン)」と呼ばれてきたが、恐らく台湾で教えられた名だったと思われる。この木に愛情を注ぎ、守り続けた先代住職は、昭和25年に亡くなる。亡くなる時、息子の現住職に「この木を大切にせよ」と言い残した。
 
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122 塚原のエノキ
 (ニレ科、エノキ) 伊賀市青山羽根(あおやまはね) 塚原古墳
 塚原古墳のあったところに太いエノキがあり、幹周囲512cm、樹高14m、枝張り25m。地際より多幹になった木である。この木の根元の石碑には南無法連華と彫られる。

エノキは赤褐色の実を秋に多くつける。これは鳥の好物で、食べられて各地に運ばれて発芽する。この木はすぐに大木になるが、落葉樹のため冬の日照の妨げにあまり影響なかったか、独り生えがそのまま大きくなったのが各地にある。

なお、塚原古墳は羽根地区の西端で、木津川が屈曲する河岸段丘上には円墳があった。この古墳は昭和56(1981)に道路施設に伴い発掘調査された。

かつての畑地開墾で古墳はかなり失われていたが、径12mの円墳で、人頭大の角礫を雑然と積み上げた外護列石が墳丘裾を巡っていた。築造年代は6世紀後半から末頃と推定されている。この地は、古代の天皇伊勢行幸、斎王の群行をはじめ、大和から伊勢へぬける交通の要衝であった。

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123 兼好塚のオオツクバネガシ

(ブナ科、オオツクバネガシ) 伊賀市種生(たなお) 草蒿寺跡 

 吉田兼好(よしだ けんこう)は、鎌倉時代から南北朝時代の随筆家・歌人、兼好法師(けんこうほうし)とも呼ばれる。本名は卜部兼好(うらべ かねよし)。兼好の父は京都の吉田神社の神職であった。後宇多上皇の北面の武士として仕えるが、上皇の死後、出家して兼好(けんこう)を名乗った。彼の随筆『徒然草』は自然の風物などが散文として書かれ、日本の三大随筆に数えられる。また歌人としても活躍し、二条家和歌四天王の一人にも数えられている。諸国遍歴ののち京都双ヶ岡(ならびがおか)に閑居し、ここで亡くなったとされる。

ところが、伊賀の郷土史研究家・中義貫さんによると伊賀市種生(たなお)の国見山で亡くなり、草蒿寺跡に墓塚が現存するという。この「草蒿寺跡・吉田兼好ゆかりの地」は昭和47年当時の青山町指定史跡。この兼好法師伊賀終焉説を裏付けるように、種生の常楽寺には草蒿寺から伝わったとされる、藤原光成筆の「吉田兼好像」がある。

この史跡兼好塚で草蒿寺跡の森林には、オオツクバネガシの幹周囲353cm、樹高16.5mの巨木がある。この地のカシの多くは、ツクバネガシのように葉柄が短く、葉身部分はアカガシのような葉のオオツクバネガシが多い。

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124 天照寺のアスナロ
(ヒノキ科、アスナロ) 伊賀市霧生(きりゅう) 天照寺 
  天照寺本堂から裏の墓地への上り小道にはアスナロの並木道。私が昭和56年3月号の林業PR誌『三重の林業』で紹介したときは8本あったが、今は4本になった。今、最大のアスナロは幹周囲212cm、樹高15m5年前に伐採された切り株の年輪235年を数えた。

この寺のご住職の話では、このアスナロは防風木として植えられたと推定している。この地方ではアスナロのことをシュウノキとかヒバと呼び、古くから屋敷に防風樹、防火樹、生垣用に植栽し、お祝いに使う生魚の下に敷く慣わしがあった。

ところがこのアスナロは、茂り過ぎると葉が多くなって暗くなるので、枝を落とすと枯死することがあり、いつの間にか、民家ではほとんど無くなってしまい、寺に生き残ったが、ここでも30年で半分になってしまった。

 さて、この寺は南北朝時代には天正寺と称し、後醍醐天皇勅願所という七堂伽藍を備える名刹であった。その後、火災で廃寺になったが、復興して天照寺と改名した。

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125 宝厳寺の紅梅 
(バラ科、ウメ) 伊賀市寺脇 宝厳寺(ほうごんじ) 
  宝厳寺の本堂前広場で、庫裏玄関前には樹齢300年と地元でいわれる紅梅がある。その大きさは地上20cmの位置の幹周囲が202cm、樹高5.5m。濃い赤いウメの花をつける。

ウメは神社や寺で、菅原道真にかかる縁起のほか、高貴な庭園樹として、よく目立つところに植えられる。特に伊賀地方には古いウメが多いが、その中でも、この寺のウメは有数の古木と思う。今5本の支柱で、このウメの枝は支えられる。なお、この紅梅と対になって地際周囲155cmの立派なサザンカがある。

 寺伝によると、文永4年(1267)亀山天皇の勅により創建され、能作障の玉をここに蔵された。このことが寺名の宝厳寺の由来になったとされる。本尊の子安地蔵菩薩はたけが一寸八分(5.5)の秘仏。

古い時代、この寺は弘法大師の伊勢参宮時の宿坊であったといわれる。それ故、大師(空海)作のとされる仏像や仏画が多く残されている。往時は七堂伽藍を備えたの寺で、寺領も七百石、六子院を有する大寺であったが、天正の兵火で一部を除いて殆どが焼失。本堂横の観音堂は昭和34(1959)に新築された。ここに安置の十一面観音立像は、平安前期の優作として国の重要文化財に指定されている。

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126 龍性院のコウヨウザン 
(スギ科、コウヨウザン) 名張市滝之原(たきのはら) 龍性院 

伊賀地方南部にはコウヨウザンが多く植えられている。真言宗豊山派の寺には特に太い木があるが、本山の長谷寺にはこの木はないので、単に佛教伝来にちなむ中国産の木として植えられているのかもしれない。龍性院のコウヨウザンは本堂前で、境内の塀の中側にあり、幹周囲438cm、樹高30.5mで、コウヨウザンの伊賀地方最大の木。かつて、樹高5m付近で幹がおれ、そこから萌芽して多幹になっている。なぜかこの木は球果を多く着ける。この木には、いつもしめ縄が付いている。

『なばりの昔話』の中に、「昔な、村を治めている庄屋や由緒ある家には、世にも珍しい木があったそうやわ。その木はな、こうようざんと言うてな、ここらの伊賀には、十本しかないんやわ。滝之原にも、その木があるんやけども、家の高さを超えたらげんが悪いといって切るんやわ。

寺(龍性院)にあるその木は、お堂をとっくに越えて、空に高く伸びているんやけど、住職さんが高さなんか気にしないのを知ってか、今も伸び続けているんやわ。」と語られるが、この寺の近くの庄屋屋敷にも、古いコウヨウザンがあった。この寺の木はこの地区の庄屋さんが寄進したのかもしれない。 

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127 無動寺のタラヨウ
(モチノキ科、タラヨウ) 名張市黒田 無動寺 
 名張川流域には、東大寺領の黒田庄があった。この荘園きっての古刹は、茶臼山山麓にある無動寺。無動寺は弘法大師創建とされ、鎌倉時代初期の建保2年(1214)の東大寺文書に出てくる庄内の有力寺院であった。本尊の「木造不動明王立像」は重文の秘仏。

また、寺の絵画「両界曼荼羅」と「阿弥陀如来来迎図」は昭和32年に名張市指定の文化財。本堂前には文明7年(1574)銘の高さ4m余の石造十三塔がある。

無動寺の本堂前ではあるが、庫裏側の土塀の中に、三重県最大のタラヨウがあり、幹周囲272cm、強剪定で樹高11m。昭和54年に、当寺の杉本智龍大僧正(明治24年生)に話しを伺ったことがある。この木は50年前の写真と比べ同じ形だという。

この木は地元ではエカキバ、テンノハ、トリモチノキという。葉が大きいので、庫裏の下から水分を取ってくれるなどの話を聞いた。タラヨウはインドで貝多羅樹(バイタラジュ)に経文を書いた故事から、わが国では葉に字の書ける多羅葉(タラヨウ)を充てて、佛教ゆかりの木として寺にはよく植えられる。

本堂前境内広場で、閻魔堂(えんまどう)の近くに、幹周囲482cmのカヤノキの大木もある。

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128 丈六・八幡神社のケヤキ 
(ニレ科、ケヤキ)名張市赤目町丈六(じょうろく) 八幡神社 
 八幡神社は、かつての丈六村の氏神であった。『神社明細帳』によると、正和3年(1314)に京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の神興(しんよ)を買求め、観応元年(1350)に鎮座したという。

天正伊賀乱の放火に遭うが、その翌年、字「中辻の森」の欅(ケヤキ)の大木の元に再び鎮座したという。なお、丈六の地名は、この地の寺に丈六尺(約48m)の大きな釈迦佛が置かれてあったので、丈六という地名になったという。近鉄赤目駅裏側にこの神社はある。

この境内林は落葉広葉樹の大木が多い森である。拝殿脇向かって左脇にあり、幹周囲625cm、樹高31mの巨大なケヤキがある。

他にも幹周囲448cmのケヤキ、幹周囲250cmのウラジロガシ、幹周囲455cmのムクノキ、幹周囲331cmのエノキもある。神社の森のほとんどは常緑樹で覆われるが、ここでは落葉樹の大きくなる三大木のケヤキ、ムクノキ、エノキがそろって見られる。

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129 延寿院のシダレザクラ 
(バラ科、シダレザクラ) 名張市赤目町長坂 延寿院 
 境内入り口付近に、昭和37年に名張市の天然記念物になった「延寿院のシダレザクラ」がある。幹周囲370cm、樹高6m、地元では樹齢350年としてる。

最近樹勢回復の土壌改良工事やの樹幹手術が行われ、焼杭と紐で柵が設けられた。枝は南側だけに偏って伸び、8本の支柱で枝は支えられる。延寿院に隣接して津島神社があるが、この前には幹周囲510cmの太いクスノキがある。

延寿院の奥の赤目渓谷は修験道の行場という秘境であった。役行者が滝で行法中、不動明王が赤い目の牛に乗って現れ、その霊示により寺が開基し、赤目の地名ができたという。

また、寛永13年(1636)、津藩藤堂家の祈願所となり、藩主から寺領を寄進されて、「観音堂」と「不動院」があり、国の名勝「赤目滝」一帯の山林も、「延寿院」の所有。この「不動院」の本尊「不動明王」は、目が赤いので「赤目不動」と云われる。

昭和2年に、この地を訪れた後藤新平は、この桜の見事な様をみてが「菩提桜」と命名している。
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130 長瀬のヒダリマキガヤ
 (イチイ科、カヤ) 名張市長瀬
  名張市長瀬の県指定天然記念物「長瀬のヒダリマキガヤ」は昭和11(1936)に指定された。水路の上側の法面に太いカヤが3本あり、所有者の大矢家の話では全てヒダリマキガヤだという。

最大の木は地上50cmの幹周囲が314cmいずれも地際から二又状に傾いてのび、枝先は地際の位置より更に低く5mも下に伸びる。ヒダリマキガヤは実が大型で3cm以上あり、殻の表面には左巻きまたは右巻きの溝がある。

この近くの奈良県曽爾村葛(かずら)にも奈良県天然記念物指定「ヒダリマキガヤ群生地」があり、ここでは今12本も群生。また、この近くでも数カ所生育するので、古くは大きな実を目的に栽培が普及したものと思う。

この「長瀬のヒダリマキガヤ」は、当初、地元の長瀬小学校の森川誠之先生が発見。その弟で樺太敷香野大学の森川均一助教授が、昭和3年9月の『植物学雑誌№503』で発表したもの。

また、同時にコツブガヤもこの地にあって発表され、この木は植物学上同種の基準となる木であったが、昭和34年の大風で折れた。しかし、タネで子供苗ができ、このヒダリマキガヤの西側に直径約15cmのカヤに生長、この木は「長瀬のコツブガヤ」として平成17名張市指定天然記念物。  

かつて、この家にはコツブガヤもあり、この子供苗も近くに育つ。

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131 不動寺のカヤ
(イチイ科、カヤ) 名張市長瀬 不動寺 
  本堂前広場に古いカヤがあり、幹周囲540cm、樹高16.5m。このカヤの地際は根が盛り上がり露出している。寺の言い伝えによると、かつて本堂を建てる時、このカヤは埋め立てたというので、この露出した根はその後に幹から発根したことになる。

この果実は隔年によく着けるという。寺裏側の稲荷さんの左前の石垣上には幹周囲179cmのユズリハの大木があり、右前には幹周囲96cmの古いツバキもある。

カヤは県内の山間地で古い木が主に見られる。神社、寺院、元庄屋屋敷にあり、その地域の文化や生活の中心である所に生育する。カヤの実は食料になり、油を絞った。カヤの多くは、水田が少ない地方にあるので、生活の知恵から、飢餓にそなえた食料の木であったと思える。

しかし、一部にはカヤ山といわれる所もあるが、多くは一本だけが生育し、しの境内の目立つところにあるので、修景用だったかも知れない。

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132 尾鷲神社の大クス
 (クスノキ科、クスノキ) 尾鷲市北浦町 尾鷲神社
  尾鷲神社前に昭和12年に県指定天然記念物になった2本の「尾鷲神社の大クス」があり、太い方は幹周囲 930cm、樹高27m。一部道にはみだして保存。この2本の大木は5mほどの間隔で立ち、枝はお互いに重なりあって一つの樹幹のように見える。本殿裏側のも数本の太いクスノキがある。この地方では昔、クスノキはサカキと同じ様に玉串に使用したので大切にされてきた。

寛永13(1636)、紀州藩は山林を保護するため、『奥熊野山林御定書』を公布して、クスノキ、カシワ、ケヤキは伐採禁止、スギ、ヒノキ、マツの大木は留木(許可があれば伐採できる木)とした。同時に大木の現地調査も行っているが、当時すでに尾鷲神社のクスノキは、最大のもので幹周囲 570cmの木があった。また、大正2年刊の「大日本老樹名木誌」には幹周囲 840cmとある。

この木は災害にもよく耐えた。宝永 4(1707)には大津波に遭い、付近は壊滅的被害を受けた。昭和41年には、腐朽してできた幹の中の空洞に火が入り、三日間も燃え続けた。平成2年の台風19号では、スギの大木がこのクスノキの上に倒れ、多くの枝が折れた。 また、最近は道路の拡張にも耐えている。

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133 九鬼町・真厳寺のナギ
(マキ科、ナギ) 尾鷲市九鬼町 真巌寺 
 漁村特有の狭い通路を登った高い位置に真巌寺がある。この寺の本堂と墓地の間には幹周囲324cm、樹高15.5mの大きいナギがあり、高さ5m付近から一度折れたか3幹になっている。熊野灘沿岸地方には神社や寺院にはナギがよく植えられている。

その場所が目立つところに一本あるので、霊力のある木として植栽されたものであろう。特に漁村地帯では「海が凪(な)ぐ」の縁起から植えられることが多い。

この九鬼の地は熊野水軍発祥の地。佐倉の中将藤原隆信が正平元年(1346)家臣の反逆で九鬼に落ち延び、地名の九鬼から九鬼氏が誕生した。平安から戦国時代にかけて、熊野灘から伊勢湾一帯、遠くは海外にまでその名を轟かせた熊野水軍。その統率者が九鬼氏であった。九鬼城から居城を鳥羽へ移し鳥羽城主になった九鬼大隅守嘉隆(くきおおすみのかみよしたか)は、最大の戦艦「日本丸」を操っている。

いま「九鬼」は漁港のまち。野口雨情の九鬼新小唄では「九鬼の港は八鬼山下の忘れられよか鰤(ぶり)どころ」と唄われる。

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134 三木里海岸のクロマツ 
 (マツ科、クロマツ) 尾鷲市三木里町 三木里海岸
 三木里海岸にはクロマツ林があり、この中には古い木も混じる。かつて、この地は紀州藩に属したため、紀州5代藩主徳川吉宗が、海岸の防風・防潮林として、正徳2年(1712)に植えさせたと伝えられる。

昭和48年には「三木里海岸の松原」として尾鷲市指定天然記念物になる。最大の太さと思われるクロマツは幹周囲460cm、樹高4m付近から折れて主幹は無く、枝が横に広がってのびるが、この高さは14m。

平成5年、この「三木里海岸のクロマツ」は全国育樹祭記念誌『郷土の樹木、三重県の樹木誌』で紹介された。この執筆者の元三重大学の武田明正先生は、松枯れで伐採した切り株の年齢を調べ、約270年を数えたので、このマツが正徳年間に植えられたことが実証されたと記している。今、この松原のある海岸は海水浴場として整備されている。

 なお、徳川吉宗は江戸幕府8代将軍であるが、紀州藩2代藩主・徳川光貞の4男で、宝永2年(170522歳で、紀州藩第5代藩主に就任し、その後享保元年(1716)に8代将軍になっている。
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135 飛鳥神社のクスノキ 
 (クスノキ科、クスノキ) 尾鷲市曽根町 飛鳥神社
 飛鳥神社樹叢はクスノキ、スギの巨木やイチイガシ、ハマセンダン、ホルトノキ、バクチノキ、オガタマノキ、イヌマキ、コバンモチ等の亜熱帯性と温帯性の植物が混生しており、樹齢も千年以上と推定されるものも多く、昭和42年三重県の天然記念物に指定された。

特にクスノキは県下第3位で、幹周囲1260m、樹高42m。神社の裏側にある。クスノキはこの他に幹周囲5mを越すものが7本もある。スギも幹周囲5m以上のものが4本あり、最大の木は幹周囲685cm。ハマセンダン(シマクロキ)は北限分布とされ、上記のクスノキの巨木近くには幹周囲233cmの太い木がある。この付近の地表にはツルコウジが多い。

飛鳥神社は江戸時代までは「阿須賀大明神」と呼ばれ、新宮の徐福(じょふく)伝説のある阿須賀神社(あすかじんじゃ)の末社であった。寛永15年(1638)の神社に残る棟札には「此宮仁無歴代々校見来者七百余古宮也」とあるので、これを通算すると千年以上の歴史のある神社とされる。また、この神社周辺からは縄文土器が大量に出土しているので、古くから人が生活した土地である。 

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136 飛鳥神社のホルトノキ 
 (ホルトノキ科、ホルトノキ) 尾鷲市曽根町 飛鳥神社
 港の海に面したところには、県内一と思われるホルトノキがあって、幹周囲475cm、幹は海に向かって斜めに伸び、その幹長は約18m。この境内には他にも太いホルトノキが数本ある。

ルトノキは、ヤマモモの葉によく似ているので間違えることがある。ところが、ホルトノキの葉の中にはオールシーズン必ず真っ赤な葉が混じる特徴があるが、これは落葉寸前の葉に赤く紅葉する性質があるためである。なお、赤い葉が無い時の見分け方は、葉を透かしてみると、ヤマモモの網脈は細かいが、ホルトノキの網脈は粗い。

 ホルトノキは本来ズクノキというわが国古来の名があった。このズクノキの実はヨーロッパのオリーブに似ていたので、長崎へ来ていたオランダ人に訪ねたところ、そうだということだった。このオリーブとの誤認のため、オリーブすなわちポルトガルノキを略してホルトノキになった。オリーブ油をポルトガル油といっていたのによる。この誤認は当時の植物学者、野呂元丈、平賀源内、小野蘭山たちも、オリーブと信じていたという。 
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137 長島神社のクスノキ
 (クスノキ科、クスノキ) 紀北町紀伊長島区長島 長島神社
 長島神社の本殿にのぼる急な石段の脇には、幹周囲96cm樹高38mのクスノキの巨木がある。しめ縄のついた幹は、樹齢が過ぎた証拠の縦のしわが入る。このクスノキの地際にあったイヌマキやヤブツバキは、クスノキの幹に巻き込んで旺盛に生長している。

この神社の境内の森は昭和38年に県指定の天然記念物になっている。境内林には他に太いクスノキが数本あり、海岸林特有のイヌマキも多いが、太いイヌマキは幹周囲355cmもある。参道石段脇にあるこの神社の参籠殿の建物前にはなぜか寺院に植えられるタラヨウの古木があり、幹周囲172cmもある。

 長島神社の祭礼は、海の町だけあって、古くから漁師主導で行われる。祭礼に先立つ「弓の祷(とう)」では漁師の子供が的射を担当。

「船だんじり」は古式通りの和船で、漁業関係者の小中学生と漁協役員が乗り込み、1時間ほどかけて長島神社に練り込む。これには「チョイサー、チョイサー」の掛け声に、布製のカツオを釣る。このまき餌はあめ玉で、今年の1月13日の例祭では、65万円相当のあめ玉がまかれた。

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138 豊浦神社のバクチノキ
(バラ科、バクチノキ) 紀北町紀伊長島区三浦 豊浦神社 
 豊浦神社の森は暖地性海岸林として、昭和38年に、県の天然記念物に指定されている。この境内林の注目すべき木として次のものがある。

幹周囲319cm樹高25mのバクチノキ、幹周囲160cmのオガタマノキ、幹周囲212cmのカゴノキ、幹周囲269cmのタブノキ、地上80cmの幹周囲が197cmのバリバリノキ、幹周囲900cmのクスノキ、幹周囲93cmのイイギリ、地上30cmの幹周囲が60cmのヤマトタチバナ等がある。平成4年には台風の被害を受け、大木がかなり折れた。

 この神社のバクチノキは恐らく県内一の大きさであろう。バクチノキは、大きくなると樹皮がはげ落ち、あとが赤茶けた美しい幹になる。 この様を博徒が博打に負けて、次第に裸になる様にたとえてこの名がある。そのためお守りにしたのか、この木には樹皮を四角に切り取った小さな痕が数カ所ある。別名ビランとかビランジュと言うが、インドの毘蘭樹を誤認したものである。

昭和54年頃、豊浦神社前の海岸に土蔵が乱立した。ここはパナマウント映画『将軍』のロケ地であった。ここは慶長5年(1600)頃の風雲急なる関ヶ原前夜の大阪堺港。ロケのあった当時は、この付近は珍しい自然のままの環境の保たれた地であった。

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139 引本幼稚園のタイサンボク
 モクレン科、タイサンボク)紀北町引本浦 引本幼稚園

 引本幼稚園の運動場のほぼ中央には幹周囲260cm樹高12.5m のタイサンボクの大木がある。この木は断トツでタイサンボクの県内最大の木。元は速水家の別邸の木であったが、引本小学校に隣接していたため、ここに幼稚園が計画され、土地が分譲されて、昭和53年3月に完成した。この土地の分譲に当たって、このタイサンボクを残すのが条件だった。

明治時代この地は紀北商業銀行頭取の速水熊太郎の屋敷。タイサンボクは熊太郎が東京の夜店で買った。明治12年8月、東京上野公園でグラント将軍夫人がタイサンボクを記念植樹したことが熊太郎の購入の動機であろう。これ以来この木を「グラント玉蘭」とも呼ばれる。なお将軍はローソンヒノキを記念植樹したが、後にアメリカ大統領になる人である。

 熊太郎は引本町議、県議などを歴任し、衆議院議員に第八、九回の選挙で当選。在任中の明治37年に亡くなっている。漁業の大敷網の考案や、小柄な割に太っ腹だったことは、今に語り継がれている。彼が県議だった明治34年、県立高等女学校は仮校舎で津市丸之内に創立。新校舎を同市内柳山に建設すべく、入札を行ったが応札する業者がなかった。そこで彼はにわか建築業者になり、地元で木材と大工を調達して完成させたという。県立高等女学校は明治36年7月に、新校舎に移っている。
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140 大馬神社のスギ 
(スギ科、スギ) 熊野市井戸町 大馬神社 
 大馬神社参道には太いスギが多い。入り口付近のしめ縄を付けた神木のスギは幹周囲771cm、樹高34m

大馬神社由緒について、現地の説明板によると、「桓武天皇(737~806)の頃、坂上田村麻呂がこの地方を荒らす賊を討ち、賊の頭の首を地中に埋め、その上に社殿を造ったのが始まりといわれる。

その後、智興和尚という人がこの話を伝え聞いて参詣しようとしたところ、田村麻呂の霊が現われ、和尚を案内した。霊は大きな馬に乗っていたことから大馬神社と呼ばれるようになったという。」とある。

 この神社の創始について、平安時代から祀られているとされ、市内で最も古い文明10年(1479)の棟札(むなふだ)もある。

また、神社では100年以上続くという「弓引き神事」が行われる。毎年7月の例祭には、烏帽子装束の二人が24本の矢を放つ。これも坂上田村麻呂がこの地方の賊を平定したのに因むよいう。
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141 長全寺のナギ
 (マキ科、ナギ) 熊野市紀和町長尾(ながお) 長全寺

長全寺本堂前の石垣枠の上に県内一と思われるナギがあり、幹周囲349cm、樹高13m。幹の中は空洞になっているが、奇妙なことにこの空洞の幹の中に、もう一本ナギがありその幹周囲38cmで、更に上へ突き抜ける。地際は石の地蔵を抱え込む。幹の下部の樹皮は赤みが強い色をしている。成長は旺盛で葉はよく茂るためか、その重力で枝は下垂状になっている。

 この木は、昭和41年に当時の紀和町の天然記念物になっている。この木の根元には「鎮守様」が祭られ、毎年7月15日に、人々は野菜を持ってお参りする。この鎮守様は、明治4年に京都の八坂神社から遷されたという。この地の人達は平家の末裔と信じており、このナギも、平重盛が熊野権現に献植したのと同じように、平重盛が植えたと語られる。

 なお、慶長19(1614)、の大阪冬の陣と呼応して起こった北山一揆で、長全寺は焼け落ちた。その時、本尊は黒こげになったが、いまこの本尊は体内仏として残る。近くの田平子峠には一揆殉難者供養之塔がある。 
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142 小船・禅燈寺のイロハモミジ

(カエデ科、イロハモミジ)熊野市紀和町小船(こぶね) 禅燈寺

 禅燈寺は下に北山川(熊野川)と小船梅林を見下ろす位置にある。この寺の境内に幹周囲376cm、樹高10.5mの古いイロハモミジがある。幹の中は腐りで空洞になり、高さ3m付近で約6幹になる。なぜかこの木には、常緑樹に寄生するオオバヤドリギが落葉樹のイロハモミジに多く着く。このオオバヤドリギは生長が旺盛なため、重量がかかってイロハモミジの枝を一部折っている。

イロハモミジは、江戸時代から明治時代にかけて、修景用に植栽される庭木に最も用いられた樹種と思われる。この古い時代には、寺院の参道、神社仏閣境内の庭木、街道の並木、旧家庭園の庭木、学校運動場等に古いいろはモミジが残っている。

 寺の下の北山川の河岸には小船梅林があり、梅の生産を目的に2haに約700本が植栽されている。この花の時期には「小船梅まつり」がおこなわれ、3月上旬前後の日曜日に北山川河原の特設会場で開かれる。

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143 原地神社のナギ
 (マキ科、)ナギ 御浜町神木(こうのぎ) 原地神社
 原地(はらじ)神社入り口前の道をはさんで前側のスギ林内には、御浜町の天然記念物のナギは幹周囲327cm、樹高17m。地元では樹齢400年といわれる。地被植物にツルコウジ、イモデ、フウトウカズラが茂る。

ナギは熊野速玉神社で、平治元年(1159)に社殿の落成を記念し、その造営奉行の平重盛が霊力のある木として植えた故事にならって、神社仏閣でよく植えられる。この原地神社は熊野速玉神社に近く、この故事から植えられたと推定されるが、植栽位置が本殿から離れ、今は目立たない位置にあるので、この故事とは断定しにくい。

原地神社境内の北側に沿って神木川が流れる。本殿前広場にはスギの大木が多く、最大は幹周囲540cm。ほかに境内林には幹周囲144cmのヒメユズリハ、腐りの入った幹周囲405cmのイスノキの巨木、幹周囲44cmのミサオノキ、幹周囲256cmのホルトノキなどがある。

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144 神木のイヌマキ
 (マキ科、ナギ) 御浜町神木(こうのぎ)
 昔、神木字西地の西地川沿いには、この地区の氏神様の狩掛神社が祭られていた。明治末年の「神

社合祀令」で、この神社は他へ引き上げ、その境内林はつぶされた。

この神社にあった大きなイヌマキ一本だけが、記念のご神木としてここに残された。この木を引き継いだこの土地の所有者は、このイヌマキのご神木に、毎年、正月のしめ縄飾りや、門松を立てて祭っている。廃止される前の神社には森があり、そこには地元名でコスノキが多くあったと言う。このコスノキとはホルトノキのことであるらしい。

 この木は県内最大のイヌマキである。今、御浜町の天然記念物になり、大字名をとって“神木のイヌマキ”と言われる。その大きさは幹周囲581cm、樹高21.0mの巨大なもの。現地にある表示は“西地のイヌマキ”になっているが、これは小字名や河川名を名乗っている。太い幹は縦に多くのしわが入り、神秘的な様相をしている。高さ4m付近から多幹になり、約7本に分かれているが、古い昔に一度ここで幹が折れたと思われる。この木はミカン畑内にあるが、このイヌマキの周りは6m四方の石垣内に保護される。

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145 下市木のイブキ
 (ヒノキ科、イブキ) 御浜町下市木(しもいちぎ)
   寛文年間(16611673 )の頃、当時の下市木村で庄屋をつとめた大久保宗悟(俗称 善兵)は造り酒屋であった。当時、彼はこの地区を開墾すべく、海からの潮水の侵入を防せぎ、灌漑用の水路をつけるなど、水田造成に功績があった人である。

この彼の屋敷にはイブキが植えてあった。この木は今、幹周囲563cm、樹高12mになり、「市木のイブキ」として県指定の天然記念物。平成元年には 「みえ新・名木十選」にも選ばれた。

なお、この庄屋の屋敷はその後、下市木小学校になり、更に近畿大学附属御浜幼稚園になり、今は空地。

イブキの葉には鱗状葉と針状葉の2型がある。鱗状葉は交互対性し菱状、針状葉は交互対生または3個輪生する。この変種のカイズカイブキは全部鱗状葉である。イブキの野性は現在ほとんど無いが、いま大紀町の奥地に数本の野生があるので、昔はこの付近でも野生していたと思われる。一方、イブキは盆栽ではシンパクといって、重宝されたので、乱獲された。

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146 引作の大クス
 (クスノキ科、クスノキ) 御浜町引作(ひきつくり) 引作神社
 “引作の大クス”は幹の半分は高さ3mの石垣にかくれる。そのため、大きさの測定が調べるごとに異なり、今回の測定では幹周囲15m07cm 、樹高29.5m

県内のクスノキの最大の太さはもちろん、全ての樹種の中でも太さが最大の木である。昭和11年には県指定の天然記念物に、平成元年には新日本名木百選に選ばれた。30年ほど前迄は、「阿田和の大楠」といわれていた。

  昭和54年12月、私は「引作の大楠」の現地で、この楠守の宮本久雄さんに次のようなことを聞いた。「この楠は1500年生。かつての引作神社な「明治の神社合祀令」で阿田和神社に合祀されることにった。神社にあった直径2m程の太いスギを全部伐られることになった。この大杉の切り株の年輪を父が数えると997年まで数えられたが、中心はウトになって、500年はあると思われた。

 この杉を伐った人は祟りか、2年後に亡くなったので、今はこの楠の枝を払うことも嫌う。この楠も伐られる運命にあったが、南方熊楠先生が保存に尽力された。この楠には昔、オオタニワタリが着いていたが今は無い。オオタニワタリが着いていると、雷が落ちないといわれた。」

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147 引作のシマクロキ
 (ミカン科、シマクロキ) 御浜町引作(ひきつくり) 引作神社
   古い昔の正月、弘法大師が乞食姿で引作に現れたが、この地の誰一人餅をあげなかったと言う伝説がある。このことがあって以来、引作では正月用の餅つきを遠慮して、1月13日まで餅をつかないと言う話を、隣に育つ「引作の大楠」の楠守の宮本久雄さんに聞いた。この地区の氏神の旧引作神社にはクスノキの他にハマセンダンの大木も残っている。

  このハマセンダンは幹周囲388cm、樹高22.5mあり、県内最大のハマセンダンと思われる。三重県の北限は尾鷲市曽根の飛鳥神社とされる。戦前の文献には県内での分布に記載されていない。御浜町の神志山小学校の裏山には町指定の天然記念物がある。なお、全国の分布は本州では三重県、広島県、山口県と四国、九州、琉球で、台湾、中国にも分布する。

  海岸近くに生え樹皮が灰黒色のため別名をシマクロキとも言う。この引作では単にセンダンと言っていた。海岸に生育するだけあって、この樹は耐風性があるに違いないと思う。この引作のハマセンダンも地際は盛り上がって板根状になり、幹は如何にも強風に耐えるように見える。
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148 相野谷神社のイチイガシ 
(ブナ科、イチイガシ) 紀宝町大里(おおざと) 相野谷神社 
  相野谷(おのだに)神社の神木イチイガシは、幹周囲448cm、樹高32mで、県内最大の太さのイチイガシ。本殿前に向かって左脇にあり、地際には石造りの祠がある。イチイガシの幹は、広葉樹の中ではきわめて通直であるが、この木も真っ直ぐに伸びる。

平成5年の全国育樹祭の記念誌『郷土の樹木』で、この木を見た三重大学の武田明正先生は「アカガシからは、どっしりと地から湧き出たような印象を受けるのに対して、のびやかに立っているイチイガシには、地というものからはなれて天空を意識させる何かがある。

この点で、広葉樹でありながら、イチイガシからは、スギやヒノキと同じ針葉樹的な印象をうける。」と記している。

この相野谷神社のイチイガシは、以前は森の中にあって、写真が撮りにくかったが、今は前方のスギが伐られ大変明るくなっている。直径1m以上のスギの切株が6株残る。ほかに、幹周囲194cmのナギ、幹周囲76cmのモッコクもある。
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149 神内神社のホルトノキ

(ホルトノキ科、ホルトノキ)紀宝町神内(こうのうち)神内神社

神内(こうのうち)神社入口には幹周囲455cm、樹高26.5mの太いホルトノキがある。この木を「子安の宮の子安の木」というが、このホルトノキは根元にある大きさの石を抱えこむように入れ込む様が、子供を抱きかかえたように見えるので、子安の木と呼ぶのかもしれない。神社の別名を「子安神社」というが、安産の神様でもある。ご神体は岩。それは「琴引(ことひ)き岩」と呼ばれる石英粗面岩の岩壁である。

このホルトノキ大木は長い参道の入り口にある一本の木で、これに続く並木は直径80cm前後のスギ。この境内には古い木が多い。

モッコクは幹周囲85cm、イスノキは180cm、オガタマノキは幹周囲225cm、スギは幹周囲437cm、ヒメユズリハは幹周囲127cm、ミサオノキは幹周囲34cmイヌマキは幹周囲240cm、シキミは幹周囲86cm、クスノキは直径約130cmなど。神内神社樹叢は、この地方の代表的な平地林として、また、暖地性シダが繁茂するとして昭和16(1941)に県の天然記念物に指定されている。 

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150 烏止神内神社のオガタマノキ

(モクレン科、オガタマノキ) 紀宝町鵜殿(うどの)烏止野神社

 烏止野(うどの)神社本殿前広場に木の柵内に太い神木のオガタマノキがあり、幹周囲257cm、樹高17.5m、さらに近くに192cmのオガタマノキもある。境内には太いイスノキもあり最大は幹周囲294cm

この社叢は暖地性照葉樹林の代表として、また、オガタマノキの葉を食べる南方系の蝶ミカドアゲハが多数発生するので、旧鵜殿村当時の昭和49年に村の天然記念物に指定されている。オガタマノキは「招霊の木」と書くので、神社にはよく植栽される。この神社の木は県内一の大きさ。

 このかつての鵜殿村の地は、平成16年に合併するまでは、面積2.88平方kmという「港のある日本一小さい村」であった。明治27年に発足し、111年続いた。

それより昔、海運が発達したのは、熊野三山に寄進された荘園の年貢輸送や警護と熊野詣の水路利用客があったためとされる。それには鵜殿氏があたり、後の熊野水軍の発祥といわれる。熊野速玉大社の祭りに「御船祭」がある。これには鵜殿の水主衆が諸手船の乗り込みかかわる。

これは古事記や日本書紀の「天の鳥船」や「天鳩船(あめのはとぶね)の再現とされる。今この祭の時、諸手船の上では「ハリハリ踊り」が古式ゆかしく行われる。

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「三重の巨樹・古木」の冊子は、県内の150本の巨樹・古木のガイドブックとして刊行したものです。
只今、緑の募金に500円以上ご協力いただいた方にご希望があれば当冊子を贈呈させていただいております。

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