行事・イベント 募金 基金 協会の活動 緑の少年隊 森林ボランティア お問合せ リンク

三重の巨樹・古木
三重の巨樹・古木(川北要始補著)

 も く じ
北勢地域
01 美鹿の神明杉

02 宇賀神社のナナミノキ
03 太夫の大楠
04 芳ヶ崎のクロガネモチ
05 長楽寺のモミ
06 誓願寺のイブキ
07 東藤原小学校のヒマラヤシーダ
08 石川・石神社のカゴノキ
09 飯倉・石神社のタブノキ
10 宝林寺のコウヨウザン
11 南中津原の寝カヤ 
12 笠間小学校のセンダン
13 演暢寺のイヌマキ
14 鳥取神社のイヌナシ
15 大樹寺のスダジイ
16 鵜森神社のサイカチ
17 堂ヶ山神明社の大楠
18 中山寺のモッコク
19 奥郷の寒椿
20 八重姫のカエデ
21 庄内小学校のユリノキ
22 鞠鹿野のユーカリ
23 長太の大クス
24 地蔵の大松
25 白子子安観音のトトロの木
26 亀山公園のアラカシ
27 宗英寺のイチョ
28 野村一里塚のムクノキ
29 関神社のウラジロガシ
30 関神社お旅所のトウカエデ
31 加太・川俣神社のサカキ
中勢地域
32 光月寺のクロガネモチ
33 椋本の大椋
34 三重大学のポンドサイプレス
35 県立博物館のセンペルセコイア
36 古河の大いちょう
37 櫛形小学校のダイオウショウ
38 射山神社のイチイガシ
39 香良洲公園のクロマツ
40 石橋のエノキ
41 成福寺のイスノキ
42 矢頭の大杉
43 南出・白山比咩神社のオガタマノキ
44 成願寺のネズ
45 長楽寺のカヤ

46 東平寺のシイ
47 正念寺のヤマザクラ

48 真福院のケヤキ
49 国津神社のケヤキ
50 下太郎生のヤナギ

51 日神不動院のオハツキイチョウ
52  善覚寺のヒヨクヒバ
53  松阪第一小学校のラクウショウ
54  蘭宇気白神社のモミ
55  来迎寺のツバキ
56  出鹿の魯桑
57  飯南高校のハナノキ
58  粥見の山茶花
59  春谷寺のエドヒガン
60 有間野神社のオオツクバネガシ
61 水屋神社の大クス
62 福本の大トチノキ
63 黒瀧神社のスギ
64 雲林寺のニッケイ
65 東漸寺のゴヨウマツ
66 青田の大ガシ
67 加波神社跡のモチノキ
68 西村広休植物園跡のフウ
69 千鳥ヶ瀬のムクノキ
70 津田神社のスギ
71 金剛座寺のホルトノキ
72 近長谷寺のボダイジュ
73 佐那神社の手力の大桧
74 前村の大楠
75 本楽寺のイチョウ
076 油田家のメタセコイア
077 柳原観音のモミ
078 荻原神社のイチイガシ
079 大杉谷の大杉
080 大淵寺のスダジイ
伊勢志摩地域
081 松井孫右衛門人柱堤のケヤキ
082 弥栄の松
083 神宮勾玉池のハナノキ
084 神宮勾玉池のアキニレ
085 外宮の台湾産樹木
086 新開の臥龍梅
087 堅神神社のウバメガシ
088 庫蔵寺のイスノキ
089 庫蔵寺のコツブガヤ
090 家建の茶屋跡のオオシマザクラ
091 立神・宇気比神社のヤマモモ
092 船越神社のホルトノキ
093 おりきさんの木
094 田丸城跡のハゼノキ
095 久具都比売神社のクスノキ
096 内瀬のハマボウ
097 穂原小学校ダイオウショウ
098 礫浦八幡神社のホルトノキ
099 河内・仙宮神社のバクチノキ
100 棚橋竈・長泉寺のナギ
101 多岐原神社のヒノキ
102 龍祥寺のシダレザクラ
103 大皇神社のスギ
104 旧紀勢町役場のシダレザクラ
105 錦海岸の大ウバメガシ
106 大内山・八柱神社のミズメ
107 大内山・八柱神社のツクバネガシ
伊賀地域
108 高倉神社一の鳥居のケヤキ
109 西山・春日神社のコウヤマキ
110 果号寺のシブナシガヤ
111 旧花之木小学校のナンキンハゼ
112 岡八幡宮のシリブカガシ
113 上野城跡のコナラ
114 常福寺のコウヨウザン
115 高徳寺のカゴノキ
116 正月堂のテーダマツ
117 西念寺のカヤ
118 薬師寺のムクロジ
119 河合小学校のセンダン
120 かえで橋の楓
121 林渓寺のトキワレンゲ
122 塚原のエノキ
123 兼好塚のオオツクバネガシ
124 天照寺のアスナロ
125 宝厳寺の紅梅
126 龍性院のコウヨウザン
127 無動寺のタラヨウ
128 丈六・八幡神社のケヤキ
129 延寿院のシダレザクラ
130 長瀬のヒダリマキガヤ
131 不動寺のカヤ
東紀州地域
132 尾鷲神社の大クス
133 九鬼町・真巌寺のナギ
134 三木里海岸のクロマツ
135 飛鳥神社のクスノキ
136 飛鳥神社のホルトノキ
137 長島神社クスノキ

138 豊浦神社のバクチノキ
139 引本幼稚園のタイサンボク
140 大馬神社のスギ
141 長全寺のナギ
142 小船・善費寺のイロハモミジ
143 原地神社のナギ
144 神木のイヌマキ
145 下市木のイブキ
146 引作の大クス
147 引作のシマクロキ
148 相野谷神社のイチイガシ
149 神内神社のホルトノキ
150 烏止野神社のオガタマノキ
 1 美鹿の神明杉
 (スギ科、スギ) 桑名市多度町美鹿 大杉神社
 山の斜面にある多度町美鹿地区の最も奥の高い位置には、大杉神社がある。この神社には昭和18年4月22日三重県指定天然記念物「美鹿の神明杉」といわれる神木のスギがある。このスギは幹周囲745cm、樹高32.5m。地上2.5mのところで二又。拝殿左脇にあり、竹の「すのこ」で幹は保護されている。

天然記念物名では神明杉というが、この神社の主祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)であり、天照大神を祭る神社は神明社というので、この名がついたのであろう。神社境内には古いスギが多い。このことから神社名も大杉神社であるが、昔の神社名も「大杉神明宮」でスギにこだわっているが、古くから境内にはスギが多かったのであろう。

桑名市教育委員会が最近設置した「美鹿の神明杉」の現地の説明版によると、推定樹齢860年とある。このスギは1本の木が二又になったのでなく、恐らく2本の木が癒合したと思われるので、樹齢はこれより若いものと思う。この木には「すのこ」が巻かれ、樹皮が保護されている。伊勢神宮の場合は、神木の杉皮を、部屋に吊るしたり、煎じて飲むと悪病が癒るという風評から、参拝者に杉皮を剥ぎ取られるのを防ぐのだという。この神明杉にもそういう威力があると、信じられたのかも知れない。

 もくじ
 2 宇賀神社のナナミノキ
 (モチノキ科、ナナミノキ) 桑名市多度町柚井 宇賀神社
 神社入り口より右へ行く道沿いには、県内最大ではないかと思われる太いナナミノキがあり、幹周囲242cm、樹高18m。さらに7m離れて幹周囲190cmのナナミノキもある。 

ナナミノキの大きさは、林弥栄著『有用樹木図説林木編』昭和44年、誠文堂新光社刊によると、「通常樹高810m、胸高直径2030cmであるが、大きいものは樹高15m、胸高直径40cmに達する」とある。この神社のナナミノキを胸高直径になおすと77cmであるので、文献の最大とする記述よりはるかに大きい。ナナミノキは特に信仰に関係ないと思うが、伊賀市予野の花垣神社などでは目立つところにある。

ナナミノキは県内各地にあるが、個体数はきわめて少ない。ナナメノキはナナミノキといも言う。その語源は多く実を着けるので「七実」とか、赤い実がクロガネモチより「長実」からといわれる。

なお、この柚井地区はかつては柚比村(ゆいむら)といって、美濃国(岐阜県)に接し、美濃街道による伊勢への入り口。ここにある宇賀神社は延喜式内社とされる歴史のある神社。多度山の東の登山口にある。その森は、現地の説明版によると、カナメモチーコジイ群集の森で、シイの巨樹からなると解説されている。

 もくじ
 3 太夫の大楠
 (クスノキ科、クスノキ) 桑名市太夫

「太夫の大楠」は昭和34年市指定天然記念物。古いクスノキで地際から2幹立ちで、地際幹の最も細いところの幹周囲は1207cm。南の幹の幹周囲は565cm、北の幹の幹周囲は515cm。樹高は28.5m。しめ縄は2幹をまとめて回す。南側の幹には大きなコブ状のふくらみがあり、その大きさは縦2.4m、横4.4mの大きなもの。

 かつての太夫村は津島神社の御師(おし・おんし)や太神楽(だいかぐら)の仕事をする人が住む小さな村だった。明治16年頃は30戸だった。伊勢太神楽は国重要文化財になっている。

この「太夫の大楠」はこの村の氏神の境内の木であった。古くは6本のクスノキがあったので、「六本楠」といわれていた。昔からこの地には大きなクスノキがあって、伝説もある。天正年間(1573-1592)、長島城主の滝川一益(かずます)に攻められた三河の武士が、ここのクスノキの巨樹の洞穴に隠れ、難をのがれたという。後に、この母親がお礼にこのクスノキを訪ねたが、この木は枯死していた。そこで、この場所に再びクスノキを植えて帰ったが、この木が今のクスノキだという。

 もくじ
 4 芳ヶ崎のクロガネモチ
 (モチノキ科、クロガネモチ) 桑名市芳ヶ崎
 桑名市の天然記念物「芳ヶ崎のクロガネモチ」は、天王八幡社の神木。神社から、かなり離れて前方に一本だけ生育し、幹周囲344cm、樹高15m。枝が横に伸び、枝張りは24mもあって、この木は傘を広げたような形になっているが、高さより枝の広がりの方が長い。幹にはノキシノブが多く着く。昔から、この木を少しでも切ると祟りがあるといわれた。近くに建ったアパートは、この木の枝の先まで、避けて建った。送電用電線も迂回。かつて、この木の下を通る道の道路工事や、水道工事にかかる入札業者が無かったことがあったと、市役所の人から聞いた。

一方、クロガネモチは庭木として金持ちを連想するという縁起から、古くから旧家によく植えられた木である。この木も地元の名物であった。近くのアパート名は「くろがねハイツ」、自冶会の集まりは「くろがね会」と名付けられ、以前にこの木の近くにあった酒造会社の酒の銘柄も「くろがね正宗」であった。

 地名「芳ヶ崎」は「はがさき」と読むが、江戸時代は同じ読み方で「芳賀崎」と書いた。明治22年に発足した七和村の役場のあった所。この神木のクロガネモチのある神社は村社であり、古くから信仰された木であった。なお、古い村名の「七和」は、小学校名や三岐鉄道の駅名等にその名が残る。

 もくじ
 5 長楽寺のモミ
 (マツ科、モミ) いなべ市藤原町篠立長楽寺
 三重県の最北端で、員弁川の源流に位置し、しかも人里離れた山中に長楽寺はある。本堂前の石段を登りつめた左脇には幹周囲437cm、樹高35mの太いモミがある。

古くは山門代わりとして右にも同じモミがあって、対になっていた。右側のモミは約30年前に枯れて、今は代わりにコウヤマキがある。この地に寺が開山した宝暦2年(1752)に植えられたという。このモミの枝にはヤドリギのマツグミが着く。

本堂の屋根は波型トタンであるので、本来は茅葺と思う。また境内には観音堂があり、本尊は秘仏馬頭観世音菩薩。養老6年(722)、泰澄大師(たいちょうだいし)が養老の滝においでになった時、七色の虹の先にカヤの古木があった。

この木は虫食いの木ではあったが、幹には仏の顔が浮かびあがっていたので、大師は大変感激して、その木で馬頭観世音菩薩を刻んだという。この菩薩の収まる観音堂からは、山門代わりのモミの巨木は、空に浮かびあがるように見える。

  もくじ
 6 誓願寺のイブキ
 (ヒノキ科、イブキ) いなべ市藤原町大貝戸 誓願寺
 三岐鉄道三岐線の終点の藤原駅の下には誓願(せいがん)寺がある。この寺の庫裏裏側で、書院の庭には幹周囲362cm、樹高18.5mの太いイブキがある。幹は左巻き(旧表示では右巻き)にねじれ、枝には雌花を多く着ける。

平成5年刊の全国育樹祭記念誌『郷土の樹木』では、武田明正先生はこの木を見て「根元にたってみると、天空に向かってねじれ込んでいく巨大なドリルの刃先を連想させる」と書いている。

歴代の住職は、客を書院に通し、このイブキを眺めながらもてなしたといわれる。さらに、寺の表側山門の南側にも幹周囲220cmの古いイブキもある。イブキの庭木は、県内では稀にあり、旧家や古刹に古い木が残っている。

この書院の庭にはコバノミツバツツジやイロハモミジがある。この三岐鉄道は昭和6年に営業を開始したが、このときの鉄道唱歌に「もみじの誓願寺、さくらの正法寺」と歌われたが、当時、この誓願寺にはモミジの古木があったという。本堂前広場にはツゲの植栽があるが、近くの石灰岩地帯産のものを移植したものであろう。

  もくじ
 7 東藤原小学校のヒマラヤシーダ
(マツ科、ヒマラヤシーダ) いなべ市藤原町石川 東藤原小学校 

 ヒマラヤシーダは北西部ヒマラヤやアフガニスタンが原産。樹形が美しいので、世界各地の庭園、公園や道路に植栽される。ナンヨウスギ、コウヤマキとともに、世界の三大庭園樹といわれることもある。わが国への渡来は、林弥栄著『有用樹木図説林木編』によると明治12年頃とある。新宿御苑に植えられたのが最初。ヒマラヤスギともいわれる。

東藤原小学校の運動場南端の緑地で、道路下の法面には幹周囲320cm、樹高26mのヒマラヤシーダがある。私の調査では、この木が県内最大の木である。この学校のこの木の育つ緑地には、ヒムロ、ニオイヒバ、モミ、サルスベリ、ヒヨクヒバ、キンモクセイ、メタセコイア等があって、学校樹木園のエリアとして造成されたかもしれない。

菰野町朝上小学校、津市の久居農林高校、松阪市の飯南高校、亀山市西野運動公園、津市玉置公園などにも、太いヒマラヤシーダがあるが、幹周囲は3mには達していない。この木は枝が水平によく張り、根は浅く横に伸びるので、風害を受けやすく倒壊することがある。 

  もくじ
 8 石川・石神社のカゴノキ
 (クスノキ科、カゴノキ) いなべ市藤原町石川 石神社
 およそ南向きの石神社本殿の東側斜面には、幹周囲337cm、樹高19mの太いカゴノキがある。カゴノキは「鹿の子の樹」の意味で、この樹皮が円い薄片となって点々とはげ落ちて、そのあとが淡黄白色の鹿の子模様になるので、この名がある。

そのためカゴノキは鹿を意味し、特に春日信仰や鹿島信仰では鹿が登場し、それにちなんでカゴノキが植えられることが多い。

この神社のカゴノキは本殿に近いところに育つ。そのためこの神社でも、古い昔、樹皮の美しいカゴノキを、神の使いの樹として植栽されたのではなかろうか。ちなみにこの神社は、藤原町史によると、創立は仁和2年(886)で、品陀和気命(ほんだわけのみこと・応神天皇)を主祭神とし、延喜式内社で、員弁十社の一つという由緒ある神社。

この神社には古い木が多い。いずれもその大きさを幹周囲であらわして、ムクノキが280cm、タブノキが265cm、ケヤキが392cm、カヤが332cm、イチョウが341cm。とくに注目されるのは本殿前に太いケヤキが対になって植栽されている。

  もくじ
 9 飯倉・石神社のタブノキ
 (クスノキ科、タブノキ) いなべ市北勢町飯倉 石神社
 この石神社には、高さ1mのところの幹周囲が445cm、樹高24.5mで、1.3mの高さで二又になった太いタブノキがある。この木は、昭和63年の当時の環境庁の「巨樹・巨木林調査」では、幹周囲568cmであるが、幹の二又部分のふくらみを測っているので、太さの表現としては、多少無理があると思って、ここでは最も細いところの幹周囲で表した。

タブノキはクスノキとともに巨木になるが、タブノキは樹皮が薄いせいか、そこに少しでも傷がつくと、そこから腐りが幹に進行して折れてしまい、巨木になるのは少ない。そのため太いタブノキは少ないなかで、この木は県下有数のタブノキの巨木と思う。ほかにこの神社の森には幹周囲285cmのツクバネガシや幹周囲343cmのスダジイもある。なお、この「石神社の社叢」は平成15年3月に市指定天然記念物になっている。

 石神社の御神体は石だという。石の神霊は尊んだのは奈良時代というから、この神社の創立は古いと思われる。また、この村里は飯倉(いぐら)と呼ばれたのは、天皇の直轄領地で、貢米を収納する倉庫があったという、由緒ある霊地であった。

  もくじ
10 宝林寺のコウヨウザン
 (スギ科、コウヨウザン) いなべ市北勢町東貝野 宝林寺
 コウヨウザンは中国南部、台湾、インドシナが原産で、わが国へは江戸時代後期に渡来したとされる。昭和63年に当時の環境庁が行った「巨樹・巨木林調査」により、およそ100樹種の日本一の樹木が明らかになった。

それによると、三重県には全国一の樹木が一つあった。それはこの宝林寺のコウヨウザンで、本堂・庫裏前にあり、この木は今、幹周囲449cm、樹高37m。太い枝が弓なりに下がる。この木の下の庭園にはツバキが収集植栽され約50180本があり、クロツバキは30年生だという。

 このコウヨウザンの巨木は『北勢町風土記』によると、元禄年間(1688 1703に、檀家の片山幸右衛門という人が霊木として寺に寄進したとある。この記述は渡来の江戸時代後期にはあわないが、いずれにせよ日本一だから、渡来した最初の木に近いものと思う。

この木の下には、この子供苗の独り生えがよくできる。これを造林した人がいて、付近の山には太い木がある。また、大正5年には明治神宮造成にあわせ、当時の十社村名義で2本献木されている。

  もくじ
11 南中津原の寝カヤ
 (イチイ科、カヤ) いなべ市北勢町南中津原
 カヤは真っ直ぐに伸びて大木になる。北勢町南中津原には、田畑の中の一区画に、地面を這った

異様なカヤの大木がある。地元では通称「寝ガヤ」と呼ぶ。

昭和63年、当時の環境庁の「緑の国勢調査「では、 調査者がイヌガヤと報告したが、見たこともない様相から、カヤとは信じ難く、イヌガヤと誤認したらしい。およそ2アールの所に、元は10株ほどのカヤが1本を除いて、すべて横たわって伸びている。最も太いと思われる木は幹周囲192cm

この「寝ガヤ」の森には、関ヶ原に敗れた落ち武者が隠れ住んだという伝説もある。カヤは古くから実が食糧や油採取用に栽培された。そのため、この「寝ガヤ」は果実の採取が容易であるため、大切に育てられたと思われる。今でもカヤの実は「日本のナッツ」と珍重される。

カヤの栽培の歴史は古く、それだけ色々な変種、品種ができているが、多雪地帯にはほふく状になって、途中に根をだすチャボガヤがあるが、この木はこのチャボガヤに近い変種と思われる。葉の長さも普通のカヤより葉は長く3cm

  もくじ
12 笠間小学校のセンダン
 (センダン科、センダン) いなべ市大安町門前 笠間小学校
 笠間小学校の運動場の縁で、南門の両側には大きなセンダンがある。外側から見て、右側は幹周囲395cm、樹高14.5m。左側は幹周囲385cm。枕木柵で保護される。近くには古いトウカエデもある。このセンダンが育つところは、かつての笠間稲荷があったところ。センダンの樹幹は横に広がり、木の下からチラチラ空が覗けるほど、光が入りこんで、心地よい蔭を提供してくれる。

小学校によると、このセンダンは、この地出身で中国の大連で成功した人が、現地から持ち帰り、大正8年(1919)に、母校に寄贈したものという。この時、在校生が植えている。そのためこの木の樹齢は90年近くになる。“栴檀(せんだん)のように、大きく、やさしく、強くなれ”とこの木が「みえの樹木百選」になった時、木の下に書かれた。「せんだんの木」という笠間小学校の歌もあり“1 せんだんの木が 青空にゆらぐ 大きくなれよ さよならみんな  せんだんの枝を 風がくぐっていく やさしくなれよ さよならみんな 3せんだんの下で 手をつなぐ仲間たち 強くなれよ さよならみんな 4 せんだんのことを いつまでも忘れない 幸せになれよ さよならみんな”と歌われる。

  もくじ
13 演暢寺のイヌマキ
 (マキ科、イヌマキ) いなべ市大安町石槫南 演暢寺
  演暢寺は、かつて円長(えんちょう寺といったが、文化8年(1811)に改称して今の名になっている。

本堂前広場で、山門を入った左側の鐘楼そばには、幹周囲439cm、樹高13.5mイヌマキの巨木がある。古いイヌマキは大きい葉のタイプが多いが、この寺の木は、葉は小さいタイプで、ラカンマキに近い高級品種だったかも知れない。昔、高さ4m付近で、一度剪定されたか、多幹になっている。古い木だけあって幹に皺が多い。

三重県内のイヌマキの大木は、私の調査では「御浜町神木西地の狩掛神社跡」、「松阪市魚見の魚見墓地」についで、県内三位の太さ。この寺は文政11年(1828)に火災にあって全焼。天保3年(1832)に再建されている。再建されて今年で175年経ったが、再建のときに樹齢25年の木を植えたとすれば、樹齢は200年になる。

イヌマキは古い時代から、庭木や生け垣として最もよく植栽されてきた。これは病虫害に強く、土壌環境を選ばず、特に風害につよく、成長が遅いので剪定などの管理が少ない特長があるためと思われる。

  もくじ
14 鳥取神社のイヌナシ
 (マキ科、イヌナシ)東員町鳥取 鳥取神社隣公園

 平成19年4月15日に、東員町など後援で「北勢線の魅力を探る会」が、東員町にある三岐鉄道北勢線の「穴太駅)(あのうえき)」から「鳥取神社」までウォーキングするイベントをしている。

鳥取神社隣の公園に育つイヌナシの満開(4月上旬)の花を見るのが目的でもあった。この木はいま、幹周囲119cm、樹高14mあり、小枝密度の多い木で、しめ縄をつける神木。

イヌナシは、野生ナシの中でもっとも原始的な種で、4月白い花を開き、6月には約1cmの果実を結ぶ。マメナシとも言われている。

周伊勢湾地域に分布する希少種。明治35年(1902)、四日市小学校の教員であった植松栄次郎が同僚の今井久米蔵、寺岡嘉太郎とともに、四日市市東阿倉川で発見し、これを牧野富太郎が新種として、イヌナシと命名している。明治41()1908) 牧野富太郎は植物学雑誌第22巻にPyrus dimorphohylla Makinoなる学名をもって初めて記載している。 

  もくじ
15 大樹寺のスダジイ
 (ブナ科、スダジイ)四日市市市場町 大樹寺 
 大樹寺は報徳年間(1449-1452)に、近くにあった市場城の城主朝倉氏の請により開山し、城主の菩提寺であった。

寺には「真源大澤禅師像」という絵画の指定有形文化財があるが真源大澤禅師とは諡号(しごう)された名で、この人はこの寺の開山に迎えられた桃隠玄朔(とういんげんさく)師で、京都の妙心寺で修行し、さらに讃岐で生活した後に大樹寺に入っている。かつては七堂伽藍を備えた禅寺であったが、天正年間の織田信長側の滝川一益の焼き討ちに遭うが、後に信者の寄進で堂宇を再建している。古く由緒ある寺だけに、県や市指定の文化財も5件ほどある。

本堂の左側には地上2mのところで二又に伸びる太いスダジイがあり、その幹周囲は580cm、樹高は20.5mで、その太い幹にはたてにしわ状にスジが入る。

今の堂宇は300年を経ているといわれるが、このスダジイも樹齢は300年前後と思われるので、本堂再建のときに植栽された庭園樹だったかもしれない。

  もくじ
16 鵜森神社のサイカチ
 (マメ科、サイカチ)四日市市鵜の森一丁目 鵜森神社 
 かつての浜田城跡に鵜森神社があり、神社本殿の右側の城の土塁の遺構の上にサイカチが育つ。三重県内の古いサイカチは、私は当地と鳥羽小涌園植物園、神宮苗圃周囲で見たに過ぎないくらい少ない樹種であった。

この鵜森神社のサイカチは、市役所からはトゲが少ないタイプで、トゲナシサイカチと教えられたこともあった。この木は今、幹周囲282cm、樹高19mで、更に7m離れて幹周囲109cmのサイカチもある。サイカチは幹や枝に鋭いトゲがある。サイカチは鞘、実、トゲなどが漢方になり、石鹸の代用や山菜にもなったので、有用樹として神社に植えられたのではなかろうか。 

浜田城址は室町時代の文明2年(1470)、俵藤太秀郷(たわらのとうだひでさと、藤原秀郷)の末えいの田原孫太郎景信の三男忠秀が築城したと伝えられる。 忠秀から三代目の信綱の時、織田信長の伊勢侵攻に遭い、天正3年(1575)、その部将瀧川一益に攻め滅ぼされている。

  もくじ
17 堂ヶ山神明社の大楠
 (クスノキ科、クスノキ)四日市市堂ヶ山町 堂ヶ山神明社 
 堂ヶ山神明社の本殿右前には幹周囲792cm、樹高28.5mのクスノキの巨木がある。幹は上部で二又になるが、北側の幹は落雷の被害に遇った。

この木は地際が急に太くなるので、測定位置が少しずれるだけで、太さに大きな違いが出る。四日市市内最大のクスノキであり、昭和34年には市指定の天然記念物になっている。なお、境内林には幹周囲365cmの太いタブノキもある。

 この神社では、正月には境内にある多くの祠前には対の門松が立ち、あわせて、境内にある多くの太い木は神木としてしめ縄で飾られる。きわめて丁寧な正月迎えの神社である。このクスノキの下の近くには“ドンド焼き”が行われる大きな堀込みもある。

 四日市市は戦後復興の緑化樹としてクスノキが多く用いられた。昭和47年にはクスノキを「市の木」に剪定した、また、中央通りの1.7kmのクスノキ並木は平成6年には「新みえ街路樹十景」になっている。

  もくじ
18 中山寺のモッコク
 (ツバキ科、モッコク)四日市市南小松 中山寺 
 モッコクは「庭木の王様」といわれるほど、昔からよく用いられ、庭の目立つ所に植えられる。ところが、この中山寺(ちゅうざんじ)では、庫裏と本堂を結ぶ廊下の傍で、この建物のなぜか裏側にあって、寺に参拝した人には気がつかない位置に育つ。その幹周囲は366cm、樹高は12mで、地上1.5m付近から4幹立ちの木。

中山寺は法難にあって炎上後再建されるが、明応9年(1500)以前のこととされる。この再建の時に、モッコクは植えられたとされるので、樹齢500年を超える。

 私の調査では、この中山寺のモッコクを除いて、県内のモッコクは、植栽木と野生を含めて幹周囲210cm以下であった。また、全国の天然記念物のモッコクは幹周囲250cm以下であって、この中山寺のモッコクは全国最大ではないかと思われる。

なお、中山寺は寛正2(1461)、真慧上人(しんねしょうにん)創建という由緒ある寺。真宗田本山専修寺が栃木県二宮町()から、今の津市一身田町に移る数年間、この中山寺が布教の拠点だった。

  もくじ
19 奥郷の寒椿
 (ツバキ科、カンツバキ)菰野町千草 馬嶋家

サザンカの品種にカンツバキがあり、更に園芸品種では「獅子頭」という名がある。この「獅子頭」は明治になって品種名として表れるが、菰野町千草の馬嶋家には、文化6年(1809)頃に植えれたとされる古い木がすでにあった。

今、この木は地際周囲が202cm、2幹立ちで高さ80cmの幹周囲が138cm64cm、樹高5mで、枝張り8m。馬嶋家の玄関を出た東側にある。

この地は、かつての千草村の支村で「奥郷」といったので、昭和51年に県の天然記念物に指定されたとき「奥郷のカンツバキ」となった。

馬嶋家の元は杉本姓であったが、かつての尾張、馬嶋村の名家・馬嶋眼科医の門人になり、医を学び、業を終えて、師の馬嶋姓を贈られて馬嶋を名乗った。後に伊勢の国千種村奥郷に移り住み、眼科医を開業するが、藩の御用医も命ぜられる。この地に移ったのは淳径で、入居を記念して、このカンツバキを植えたとされる。したがって、樹齢は200年になる。

  もくじ
20 八重姫のカエデ
 (カエデ科、イロハモミジ)菰野町菰野 広幡神社
 広幡(ひろはた)神社は寛永7(1630)、菰野藩主・土方雄氏(ひじかたかつうじ)が石清水(いわしみず)八幡宮を勧請したのがこの神社の始まりという。そのため当初は「八幡宮」と呼ばれていた。明治4(1871)、合祀した折に広幡神社と改名。

広幡神社の長い参道の先には金渓川(かんだにがわ)がある。この堤防には幹周囲315cm、樹高8mのイロハモミジが育ち、幹には大きな空洞がある。樹幹はT字形になった珍しい形をしている。広幡神社の神木である。これまで私が県内で測定したイロハモミジの最大の太さの木である。

さて、このカエデの大木は、菰野藩初代藩主土方雄氏夫人の八重姫が、野良で働く農婦が日向(ひなた)の畦でえい児に授乳する姿を見て、憩う木陰をつくろうと、楓(かえで)と桜の木を植えた木という。土方雄氏が菰野藩の武家町と、城下町の原形を造ったのは、寛永12(1635)頃である。この木が、この頃植えられたとすれば、この木の樹齢は30年になる。この藩祖夫人の八重姫は信長の孫娘にあたる人で、92歳の長寿を保ち、藩の創立期に、大いに内助の功があったと伝えられる。

  もくじ
21 庄内小学校のユリノキ
 (モクレン科、ユリノキ)鈴鹿市庄内町 庄内小学校 

昭和7年(1932)、県では アメリカ移民を記念して、北アメリカ産のユリノキの苗木をつくり、配布していた。庄内小学校では講堂建築が決まり、これを記念してこのユリノキを記念植樹した。この苗木を届けたのは地元選出の県議・佐藤邦則さんだった。早速、高等科の農業実習時間に 羽田征二先生の指導で、校舎の日よけを兼ねて7本植えられた。その後、昭和43年新校舎が建ち、この植栽地は運動場になったので、ユリノキは2本が残された。1本は運動場のど真中、もう1本は運動場の端。運動場の真ん中のユリノキは、野球世代にはなじまなかったが、風害で傾き今は移植された。運動場端に残った一本のユリノキは、今、幹周囲378cm、樹高21mの巨木になった。県内最大のユリノキである。

ユリノキはアメリカ中東部が原産。わが国への渡来は、明治6年(1873)。明治政府の求めで来日した、教育学者 ダビット・マレーが種子を持参して、東大の伊藤圭介博士に贈っている。また、明治9年にウイーン大博覧会から、田中芳男が持ち帰り、新宿御苑に蒔いている。別名はハンテンボク。

  もくじ
22 鞠鹿野のユーカリ
 (フトモモ科、カマルドレンシスユーカリ)鈴鹿市石薬師町鞠鹿野 日蓮宗鞠鹿野協会

石薬師町内の鞠鹿野地区は、三重県の庭木生産の発祥の地でもあった。大正10年頃、ここに住んだ伊藤裕二郎さんのもとに、アメリカから郵便封筒で、トマトやセロリ-の種と共にユ-カリの種が送られてきた。送り主はロサンゼルスに住む奥さんの弟からだった。できたユ-カリ苗は近くに配ばられた。現在、この生き残りが2本ある。

日蓮宗鞠鹿野教会のユーカリは、幹周囲291cm樹高19mで、道路沿いにある。もう1本の木は信誠地区の戦前の農業塾「神風義塾」の塾頭宅跡で、その幹周囲幹周囲は358cm 。ユ-カリはオーストラリアを中心に約600 種あるとされ、種の特定は難しい。私はこのユ-カリを寒さに強いカマルドレンシスだと思っている。

信誠地区にあった戦前の農業塾「神風義塾」の創始者は山崎延吉先生。愛知県立農林学校(現・安城農林高校)の初代校長であった。この関係から愛知県の安城農林高校学校にも、多分この兄弟苗と思われるユーカリがあった。しかし、この木は昭和34年の伊勢湾台風で折れて、この材は山崎延吉先生の胸像の台座になっている。

  もくじ
23 長太の大クス
 (クスノキ科、クスノキ)鈴鹿市南長太町
 「長太(なご)の大クス」は昭和38年三重県指定天然記念物。平成元年には「新みえ名木十選」にも選ばれた。今、その大きさは幹周囲932cm、樹高28m。古い昔、ここに延喜式内社の大木神社があった。今、この巨木は水田の中の平野に、一本だけそびえ立つ。この様を見た巨樹の写真を撮り続けた写真家八木下弘は「私が多年求めていた、遮蔽物のない、全景を撮影できる数少ない巨樹の一本であった」と『林業技術№534』に書いている。

また、八木下弘写真集『日本の巨樹』(昭和54年、中央公論社)では本のケースのそのカバーにこの木を「一の宮の大クス」として写真を載せ、その本文では「収穫直前の黄金に輝く田圃の真ん中一本すっくと立っているではないか。このような状態の巨木はまことに少ない。これからは四季折々にこの巨木に通いつめることになるだろう。」と述べている。

わが国の太い木のほとんどはクスノキ。台風に逢うと、枝を落として強風に耐え、決して倒れることはない。この「長太の大クス」は台風に遇うと強風を受けやすい。皆が心配するほど枝葉が少なくなるが、いつも数年で回復する。

  もくじ
24 地蔵の大松 
 (マツ科、クロマツ)鈴鹿市南玉垣町
 仏教伝来のあと、崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)と排仏派の物部守屋(もののべもりや)の間でするどい対立があった。この争いは皇位継承まで巻き込んだが、この「蘇我・物部の決戦」は用命2年(587)、崇仏派 の蘇我氏が勝利して終わった。さてこの決戦のあと、蘇我氏は仏教以外の礼拝を禁止した。このため、この地の人達はこれまで地蔵菩薩を信仰していたので、この石像を土に埋め、この目印にマツをを植え、密かに信仰することになった。時は過ぎて、享保17(1732)の大旱ばつの時、この地を堀起こすと、地蔵菩薩が出土すると共に、そこから水が湧きだし、田を潤したという。以来感謝の念をこめて、この石像をここに祀り、このマツを地蔵大松と呼ぶようになったといわれる。

更に時は過ぎて戦時中のこと、近くにあった「三重海軍航空隊」基地では、飛行機の発着の邪魔になると、この大松は伐採が計画された。この直後、航空隊ではにわかに事故や病気が発生、この木の祟りだとして、この大松は残された。この松は幹周囲640cm、樹高15.5m、枝張りは30mもあり、大小31本の鉄の支柱で枝を支える。

  もくじ
25 白子子安観音のトトロの木 
 (クスノキ科、タブノキ)鈴鹿市寺家 子安観音内 第一さくら幼稚園

 白子子安観音境内の中には第一さくら幼稚園がある。この幼稚園事務室と保育室の間の隙間には、幹が中空になった太いタブノキがある。幹周囲541cm、樹高11.5m、高さ2mのところで2幹になっている。このタブノキの幹は地際が太く、大きな穴が開いているので、この幼稚園の子供達はこの様を「もののけ」として「トトロの木」と呼ぶようになった。

1988年に公開された宮崎駿監督のアニメ映画『となりのトトロ』に起因する。かつて、寺の一部の敷地は太い木のある藪であった。そこに住職は幼稚園の建物を配置したが、多くの藪の木は残す配慮がなされた。そのためこの「トトロの木」は残された。他にも建物の隙間には幹直径40cm前後のムクノキが5本も残っている。

寺の縁起では、鼓ヶ浦の海中より鼓の音が聞こえたので、網を入れたところ、鼓にのって白衣の観音が現れ、この観音を堂に安置したとある。この白衣観音の信仰は平安末期に始まったという。安産、子育て、子授けに霊験ありとして、全国各地から参拝客が訪れる。境内の不断桜は国指定天然記念物。仁王門は県指定文化財である。また、この寺家一帯は伊勢型紙の生産地。この寺院の木の葉の虫食いから型紙が思いついたといわれる。

  もくじ
26 亀山公園のアラカシ 
(ブナ科、アラカシ) 亀山市本丸町

 かつての亀山城本丸御殿北側の池向かい斜面には、三重県最大ではないかと思われる幹周囲240cm、樹高8.5mのアラカシがある。伊勢平野では、弥生時代に栄えたイチイガシを伐った後はアラカシが繁茂したという。今、県内でカシといえば、アラカシを指すほど多く生育するが、なぜかここには太い木は少ない。

この亀山城跡を含む亀山公園内でもアラカシが多い、しかし、なぜかイチイガシが17本も生育し、三重県北部で最大のイチイガシがあるところである。イチイガシが生育するところは、自然がよく保たれている指標でもある。

この亀山藩の藩主の居城は、かつて、江戸時代初頭には丹波亀山城の天守の解体と間違えられ、天守を取り壊されたり、明治6年(1873)の廃城令によって、殆どの構造物が取り壊された歴史の背景にあって、多分、緑地はよく保全されてきたと思われる。

また、城跡内に亀山神社の森があったことも、古い森林維持に効果があったと思う。

もくじ
27 宗英寺のイチョウ 
 (イチョウ科、イチョウ) 亀山市南野町 宗英寺
 宗英寺山門横のイチョウは昭和12(1937)に県指定天然記念物。県内最大のイチョウで、幹周囲805cm、樹高23m雌株このイチョウ(公孫樹)は古いだけあって、亀山城主 板倉勝澄の一代記の大塚雅春著『五重の塔』の“公孫樹の賦(ふ)”に登場する。

「新十郎(勝澄)は享保8年(172310月、8歳のときに、母於蓮(おれん)の方に死に別れをした。傷心の新十郎は、亀山城西之丸の石垣にかがみ込んで、城下に広がる家々に屋根を眺める。どの家からも、夕餉(ゆうげ)の支度をする、かまどの煙がのぼり、幸せな一家団欒(だんらん)の様子がうかがえた。西南の方角をぼんやりと眺めていると、宗英寺境内のイチョウの黄葉が、風にのってひらひらと乱舞しながら、まるで紅ひわの群れのように飛んでいくのを見て、目を見張った。」とある。

このイチョウから亀山城まで、1km。今から280年前の享保8年頃でも、遠くからも望むことができる大樹であった。また、この寺の奥様・久野陽子さんは児童文学作家。このイチョウは久野さんの創作童話『六平ちゃんと いちょうの木』の話にも登場する。

  もくじ
28 野村一里塚のムクノキ 
 (ニレ科、ムクノキ) 亀山市野村町 野村一里塚
 一里塚とは江戸時代、幕府が江戸日本橋を起点として、旅人の道標・休憩所として街道筋の一里毎に直径約10m程の塚(小山)をつくり、塚の上には木を植えるなどして配置されたもの。この塚に何を植えるか、三代将軍家光に伺いをたてたところ、「余の木(余った木)を植えよ」とのことだった。これを、三代の将軍に仕え、老齢のため耳の遠かった家老・土井利勝が「エノキ」と聞き違え、各地にエノキが植えられたという。

ところが、亀山藩ではエノキによく似たムクノキとまた間違えて植えてしまった、いま、このムクノキは3.5mの塚の上で、幹周囲570cm、樹高11.5mになっている。このムクノキにくっ付いて、偶然にエノキが育つ。 かつて、南側の塚は大正三年(1914)に取り去られてしまったが、これは本物のエノキであった。

  文政9年(1826)、長崎に滞在したフォン・シ-ボルトは江戸参府の旅に同行し、『江戸参府紀行』を著し、この付近を通ったとき、一里塚の正確さに感嘆したと書いている。かつての東海道一里塚は、県内に12ヵ所あったが、昔のままの形を保つのはこれだけ。昭和9年に国指定の史跡になっている。
  もくじ
29 関神社のウラジロガシ
(ブナ科、ウラジロガシ) 亀山市関町木崎 関神社 
 関神社入口石段右の石垣上には幹周囲325cm、樹高12.5mのウラジロガシがあり、前の広場に傾いて伸びる。よく似たシラカシは各地に太い木はあるが、ウラジロガシの巨木があるのは珍しく、人の生活圏では、関神社のウラジロガシが最大の木ではないかと思われる。

この反対側の左石垣上には太いがナギあるが、関神社は熊野権現から勧請されたのに因む。熊野三山造営奉行であった平重盛が、ナギは霊力のある木として、平治元年(1159)熊野権現の社殿落成の記念に植えている。平重盛の子・資盛(すけもり)は若い頃、神社の近くの「久我の庄」に流された。ここで生まれた孫の実忠(さねただ)は関氏の祖といわれる。その関係から、関神社の氏子が熊野権現に代参の折、記念にもち帰って植えた木かもしれない。

  7月下旬には関神社の祭礼が行われる。神輿や曳山が町内を練り歩く。曳山は絢爛豪華(けんらんごうか)な4台(古くは16台)の山車が町を練り歩く。よく「そこまでがせいいっぱい」という意味で使われる「関の山」という言葉は、この祭りの山車が語源。

  もくじ
30 関神社お旅所のトウカエデ
 (カエデ科、トウカエデ) 亀山市関町新所 関神社お旅所
 この御旅所広場には2本の古いカエデがある。東側は幹周囲262cm、樹高18mのトウカエデと、西側には地上1mの幹周囲25cmのイロハモミジ。このトウカエデは、私の調査では県内1位の太さ。イロハモミジも県内有数の太さである。

三重県内にある古いトウカエデは旧家と、旧家のある学校や社寺に多い。このためか、この中国東南部原産のトウカエデは富の象徴の木でもあった。特に、明治末に東京の街路樹の10種に選ばれたことが、話題を呼んだと思われる。

 7月下旬には恒例の「関宿夏まつり」がおこなわれる。関神社の祭礼で、神輿や曳山が町内を練り歩く。関神社から御旅所へ、はっぴ姿の若衆が神輿を御渡しする勇壮な祭。一方、曳山は絢爛豪華(けんらんごうか)な四台の山車(江戸時代には十六台あった)が町を練り歩く。よく「そこまでがせいいっぱい」という意味で使われる「関の山」という言葉は、この祭りの山車が語源。町内の街道をふさぎ、これ以上は通るに通れない様子を表現したという。御旅所の近くには県指定史跡の「西の追分」があり、東海道から大和・伊賀街道が分岐している。

  もくじ
31 加太・川俣神社のサカキ
 (ツバキ科、サカキ) 亀山市加太板屋 川俣神社
 鈴鹿川流域には川俣(かわまた)神社が六社ある。最上流にある加太の川俣神社は、当初アマタノ川とトント川の合流地点にあったので川俣神社と呼んだといわれる。寛文8年(1668)に今の地に鎮座したが、ここも「川俣城」のあったところであった。

 この本殿裏には県内一の大きさと思われるサカキがあり、幹周囲163cm、樹高20m、地上約7mで二又の木。このサカキは本殿の真裏にあったので、古い昔はその枝が神事に使われた木だったかもしれない。

このサカキの近くには幹周囲181cmの太いイヌガシがあるが、この木も私の調査では、県内一の太さの木である。また、境内林には神木スギの巨木やシラカシの大木があり、この地方では珍しい低木のナガバジュズネノキが多く見られる。そのため境内社叢は平成16年に旧関町の町指定天然記念物になるが、この地はその以前の昭和53年に関町指定文化財(史跡)になっている。

この神社の境内には土俵がある。これは「加太三人相撲」の故事にならった相撲場。伊勢、伊賀、江州の国境の草刈り場は、三地区代表の相撲で草刈場の優先権を決めたという。

  もくじ
32 光月寺のクロガネモチ
 (モチノキ科、クロガネモチ) 津市芸濃町椋本 光月寺
 かつての椋本村は伊勢別街道の椋本宿としてにぎわったところ。伊勢別街道は 東海道の関宿と伊勢街道の江戸橋を結ぶ約22kmの街道。江戸時代には東海道を通り京都方面からの参宮客で賑わった。常夜燈や古い家並みが残り、往時を偲ばせる。今、寺院は10ヵ寺もある。古くから有名な「椋本の大ムク」の近くに光月(こうげつ)寺があり、この寺の墓地南には、幹周囲388cm樹高17m、高さ11mのところで古い昔に主幹が折れたクロガネモチがある。根元の幹には空洞が見られ、太い幹は土手の石垣の代用になっている。多分、県内一の太さと思う。しかし、この木は自然木のようなところに育ち、地元でもあまり知られていないと思われる。

クロガネモチは「黒鉄(くろがね)」の強そうな名や、語感から「金持ち」に通じるとして、縁起の良い木として植えられ、古くは旧家や社寺に植栽されたが、野生にも太い木がある。

  もくじ
33 椋本の大椋
(ニレ科、ムクノキ) 津市芸濃町椋本
 この大きなムクノキから、かつての椋本村の名ができた。昭和9年には、国指定の天然記念物。 昭和63年にかつての環境庁行った「緑の国勢調査」では ムクノキの全国2位の太さで、幹周囲9.5mだったが、今計ると。幹周囲809cm、樹高16m。石柱枠の中にあり、太いしめ縄をつける。幹には多くの治療跡がある。最近、鉄製の三脚支柱がつけられた。平成2年6月2日に「新日本名木百選」になる。樹齢千年以上といわれるだけあって、この木にまつわる伝説も多い、平安時代初期の武将・坂上田村麻呂の家来・野添大膳は都を追われ、息子とともに流浪の末、この木の下で暮らしたという。源平の動乱の世には、平家の落人・花木太右衛門と酉口織口もこの大樹の傍で安住の地を得た。また、滝川一益は織田信長に従って北伊勢を攻めたが、北畠の臣・野呂民部之輔はこの大ムクにかくれて、助かったという。巨樹研究家・牧野和春はこの「椋本の大ムク」について、一本の巨樹を中心に人間の営みが展開され、歴史が生まれたと。そして、これは村の発生の一類型を示し、日本人の抱くユートピア観の投影であるかも知れないと記している。
  もくじ
34 三重大学三翠園のポンドサイプレス
(スギ科、ポンドサイプレス) 三重大学三翠園
 三重大学の同窓会館「三翠会館」の庭園は「三翠園」。ここには、県内唯一と思われる幹周囲125cm、樹高14mのポンドサイプレスがある。ポンドサイプレスはアメリカ南東部が原産で、沼沢地、湖沼地や河畔に好んで生育する。ヌマスギと同じ地域に生育し、葉はヌマスギのように羽状にならず、小枝に針先形で圧着する。

大正14年に、東京の目黒区にあった国立林業試験場から送られてきたものである。大正11年に三重高等農林学校が創立したが、3年後に正面前に、植物見本園がつくられた。この造成を担当したのは、当時林学科の馬岡隆清助教授。試験場から送られてきた苗木は約50種で、各5本程度あった。

ポンドサイプレスはなぜかラクウショウの中にあった。今は無いが、この学校が大学になるまでの校長官舎にも1本あったという。その後、三重高等農林学校の十周年には記念行事として、同窓会館が計画された。昭和11年には「三翠会館」として竣工したが、その付属庭園の設計、施工は園芸学の進武雄先生が担当した。

この植栽でポンドサイプレスは植物見本園から、移植されてきた。その時の樹高は約3mであった。当時、価値観のある木として、同窓会館に植栽が選ばれた木であった。
  もくじ
35 県立博物館のセンペルセコイア
(スギ科、センペルセコイア) 津市広明町 県立博物館
 センペルセコイアはアメリカのオレゴン州南部からカリフォルニア州に分布し、太平洋側に近い山地の標高700mから1000mあたりに生育する。世界一高くなる木として有名で、高さ110m、幹周囲25m にもなる常緑樹。日本には明治中期に渡来したとされているが、江戸時代末に入ったとする文献もある。別名をセカイヤメスギ(世界爺雌杉)とかイチイモドキともいう。

わが国でも、生育が早く大木になる。 強風に遭うと幹が折れたり、倒れたりするので、県内ではあまり見ない。

県立博物館のセンペルセコイアは、平成19年3月に強剪定されて、幹周囲336cm、剪定樹高18m。博物館旧事務所の裏側に一本あり、イヌナシやトキワマンサクの稀少樹木と共に育つ。この入手については、戦後であるのにはっきりしない。

 なお、セコイアというのはアメリカ原住民のチェロキー族の酋長セクオイヤーを記念したもの。日本の鮮新世には、これに近い種の遺体が多く出土しており、本邦産の亜炭や褐炭は、この木が主要なものとなったとされる。有史前の森林を構成した大木は40種ほどあったとされ、今、地球上に生き残ったのが、このセンペルセコイアとセコイアオスギとされ、ともにアメリカに育つ。

  もくじ
36 古河の大イチョウ
(イチョウ科、イチョウ) 津市西丸之内
 明治3年に藩制が改革され、旧藩士による軍隊は解散し、平民兵が優先して編成された。しかし、旧藩士隊は明治戊辰の役で東征し、戦功を挙げてした誇りがあった。だが、旧藩士は不遇であった。

これを不満とした彼等は集まって、建白書を大参事に提出し、藩庁の役人の辞職を勧告。ところが、この企ては失敗に終わり、旧藩士は謹慎の上、責任を取らされる事態となった。

結果、長谷部一(藤堂監物)と山下直左衛門の両名が責めを負って、自決する事件となった。世に言う「監物騒動」である。監物(けんもつ)はまだ27歳の若さであった。この切腹の場所が、彼の屋敷にあったイチョウの下だったという。新政府になって、「切腹まかりならぬ」時代であった。この騒動に県庁はウヤムヤに事を収めてしまった。

この後、このイチョウに監物の怨念だという不気味な噂が広まり、また、この木には霊魂があるといわれ、道路内ではあるが伐採されることなく、現在に到っている。

  なお、「古河の大いちょう」は上記のいきさつから「監物イチョウ」ともいわれる。古くは「古河」と「建部」の境界木だといわれる。いま、津中心部から津インターに向かう道の途中で、古河ガード東にあって、樹齢400年といわれる。今、幹周囲488cm、樹高20.5m。幹にかなり腐りが入る

  もくじ
37 櫛形小学校のダイオウショウ
(マツ科、ダイオウショウ) 津市分部 櫛形小学校
 櫛形小学校正門前への登り道の脇には幹周囲329cm、樹高24.5mの県内最大のダイオウショウがある。球果を多くつける木である。櫛形小学校は通称「でんでん山」といわれる前田山の上にある。

大正14年に現在地へ新校舎を建てて移転したが、付近ははげ山だったので、上級の在校生が家からいろいろな苗木を持ち寄って学校に植えたという。この中にダイオウショウがあったといわれる。

しかし、ダイオウショウがアメリカから渡来したのは明治末年で、当時は珍しく高価と思われるので、在校の児童が持ち寄ったとは考えにくい。そのため、私は多くの人に聞いて調べたことがある。

 そのうち、この学校に昭和13年に入学した東尾さんの話によると、平泉神社前に前田という庄屋があって、昭和12年頃に学校の講堂を寄付したが、その記念にこの三葉松(ダイオウショウ)を寄付して記念植樹したという。その当時デンデン山へ上がる道は、今は無いが南側にもあって、ここにも三葉松があって、計2本あった。

当時、子供達はこの長い松葉を結んで、頭にかぶせて遊んだという。なお、デンデン山といわれるのは、昔、この山で時を告げるのに太鼓をたたいた音から言われたという。この山に下には軽便の安濃鉄道の支線が走った。

  もくじ
38 射山神社のイチイガシ
(ブナ科、イチイガシ) 津市榊原町 射山神社
 射山神社の森には4本の古いイチイガシがある。うち一本はしめ縄を付けた神木で、「宮の湯」の由緒書の裏側の境内林にある。その幹周囲は358cm、樹高は22m。幹の先は折れたと思われる痕がある。イチイガシは縄文、弥生時代には伊勢平野には最も栄えた木とされるが、今、旧久居市では、当神社と七栗神社の2ヵ所にしかない貴重な木である。暖地のイチイガシのある林では、必ず地表に、最小の樹木ツルコウジがみられる。この神社でもツルコウジが見られる。

平安時代の王朝文学の才媛・清少納言は『枕草子』の一部の写本に「湯は、ななくりの湯。有馬の湯。玉造の湯。」と書いた。平安時代、宮中で話題にになった温泉であった。この「ななくりの湯」は榊原温泉のことで、室町時代までは七栗と呼ばれていた。

榊原温泉にある射山神社の射山は湯山のなまりと云われる。かつて境内には「宮の湯」と呼ばれた「湯所(湯元)」があった。今、神社前の手洗い場には「長命水」と云われる湧水がある。ここはかつて「榊の井」と呼ばれ、この付近に多くあったサカキは、この「長命水」に浸した後、伊勢の神宮に献上された。古代に栄えたイチイガシがある神社にふさわしく、この神社では温泉を使った湯立神事が古式ゆかしく行われる。

  もくじ
39 香良洲公園のクロマツ
(マツ科、クロマツ) 津市香良洲町 香良洲公園
 三角州地帯の香良洲町の海岸には香良洲公園があり、ここは県内一とされるクロマツ純林。最大と思われるクロマツは幹周囲354cm、樹高17.5mの大きさ。ここは防風林、防砂林で、夏は海水浴の場。明治40年の「三重県案内」でも「風光絶好にして明石にゆずらず伊勢湾風景第一の地」と紹介された。戦時中は近くに「三重海軍航空隊」があった。

古い伝説もある。大同2年(807)東北に向かう途中の征夷大将軍・大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)は、戦勝を祈願して神宮に参拝するが、台風で一時香良洲浦に避難。この時、地元の香良媛が舞楽でもてなした。将軍はかぶら矢を立てて再会を約束して出発したが、矢を立てたところが、野原だったので、香良洲町の前の旧村名の矢野村になったという。更に将軍が馬をつないだマツがあり、これを「駒繫(こまつなぎ)松」といって海岸にあった。

しかし、この古松は宝永4年(1707)の富士山の噴火にともなう地震津波で根が洗われ、寛延4年(1751ころ枯死したという。その後、里人は復活すべく「大伴弟麻呂駒松」を指定している。

  もくじ
40 石橋のエノキ
(ニレ科、エノキ) 津市一志町石橋
 昭和41年、朝倉書店から刊行された矢頭献一・岩田利治著の図説樹木学には「エノキの樹幹」として「石橋のエノキ」の写真が載っている。付近に木の無い雲出川堤防に、この木が一本だけそびえるので、古くからよく目立つ木であった。また、近鉄大阪線の電車からもよく見える木である。いま、この木は幹周囲496cm。樹高16m。およそ高さ3m付近で10幹立ち。

かつて、大正10年から昭和18年までの間、ここには「中勢軽便鉄道」の石橋駅があった。当時、この駅では乗客のほか貨物も運ばれた。養蚕の盛んな地帯でもあったで、桑畑用の魚カス肥料が、駅の引込み線を利用して多く降ろされた。地元ではこの木をヨノミと呼ぶ。夏には格好の木陰を提供してくれる。駅のあった頃も木陰用の木であったらしい。

この「中勢軽便鉄道」は最終的には岩田橋駅から伊勢川口駅まで路線距離20.6kmを走った。部分的には明治41年に営業を始めており、煙突が妙に細長い蒸気機関車「キ22号」に引かれた。この軽便鉄道は宮尾登美子著の『伽羅(きゃら)の香り』でも登場する。

  もくじ
41 成福寺のイスノキ
(マンサク科、イスノキ) 津市一志町大仰 成福寺
 天台真盛宗・成福寺の前に雲出川が流れる。これより約1kmあまり上流には「笠着地蔵」の巨岩がある。真盛上人(しんせいしょうにん)が宝珠丸(ほうじゅまる)といった子供の頃、川に投げ込まれ笠に乗って漂着したところ。

天台真盛宗の開祖「真盛上人」は、この「笠着地蔵」の近くの誕生寺が誕生の地であるが、この下流の成福寺には真盛上人慈父母菩提所があり、真盛上人の五輪塔、真盛上人の石碑、叔母の盛善比丘尼(せいぜんびくに)の石碑がある。

この三つの碑の真後ろには、半分石垣に埋まった大きなイスノキがある。その大きさは地上50cmの幹周囲が332cm、樹高10.5m。地上1m付近より5株立ち。多くの枝で枯れが目立ち弱っている。そのせいかフシアブラムシ類の虫こぶは少ない。地元では真盛上人が亡くなった頃にこの碑が造られ、イスノキも植えられたので、樹齢は500年としている。当時大変珍しい木であったので、入手には有力者がからんでいると思う。地元の人は、このイスノキをヒョンノキとかヒョウノキと呼ぶ。

この寺の前の川には江戸時代、「大仰の渡し」があったが、そこに「撫ぜ地蔵」があって人々はこの地蔵を撫で渡川の安全をねがった。この「撫ぜ地蔵」は、この寺のイスノキの下に移っている。

  もくじ
42 矢頭の大杉
(スギ科、スギ) 津市一志町波瀬 矢頭中宮公園
 古くから「中宮(ちゅうぐう)さん」といわれ、いま、矢頭中宮公園といわれる。ログハウス2棟、テント10張り分のスペースのあるキャンプ場で、矢頭山登山口。

また、明治の合祀までは矢頭神社であった。神社境内だったため、今も巨木が多く残る。「矢頭の大杉」といわれるスギは幹周囲944cm、樹高48mあり、幹の先は以前に落雷か風害で折れたと思われる。根元に巨大なコブがある。昭和28年に「県天然記念物」、平成元年には「みえ新名木10選」に選ばれた。旧境内には幹直径1m以上のスギは約30本あり、次に太いスギは幹周囲830cmの幹に空洞がある木で、かつて中が火災にあったことがある。この林床にはヤマブキ、ウリノキ、ホソバタブが多く見られる。

この旧矢頭神社の後ろにひかえる矢頭山は霊山であった。約1300年前の文武天皇の時代、修験道の祖・役小角が開いたといわれる。ある晴れた日、小角が天を眺めていると、白羽の矢が二本飛んできて、峰をかすめ麓の郷に下りたという。そこで、この山を「矢頭山」といい、矢の落ちたところを「矢下(やおろし)」といったが、この地名は両者とも現存する。
  もくじ
43 南出・白山比咩神社のオガタマノキ
(モクレン科、オガタマノキ) 津市白山町南出 白山比咩神社
 白山比咩神社本殿の裏側の下がり法面に、オガタマノキが5本ある。最大の木は地上30cmの幹周囲が252cm。あとの4本の太さは幹周囲201cmで樹高14.5m181cm132cm150cm

オガタマノキは三重県南部には時々見られるが、この付近では植栽木以外の野生は見られない。この神社のオガタマノキはほぼ5本が近寄って生育する。

普通、オガタマノキは「招魂の木」といって神社によく植えられる。その植栽場所は神社参道の入口か本殿前のよく目立つ所である。

しかし、この神社の場合、あまり人目につきにくい社殿裏側で、自然植生の中に生育する。したがって野生とも考えられ、そうなると三重県の北限の木となる。オガタマノキはタネを多く着ける。推定ではあるが、かつて古い時代、社殿前にオガタマノキがあって、この親木は枯れ、そのタネが裏側で発芽したとも考えられる。今、本殿前側には古いネズは残る。

 この神社の森には付近にあまり見られない木が多い。イチイガシ、ヤマモガシ、ルリミノキ、ツルコウジ、タイミンタチバナ、ミミズバイ等があり、40年ほど前には、私は太いタマミズキも見た。

  もくじ
44 成願寺のネズ
(ヒノキ科、ネズ) 津市白山町上ノ村 成願寺
 成願寺境内の塀の外側で、本堂裏側の出入り口下には古いネズがある。その大きさは幹周囲109cm、樹高6で、幹の多くの部分に腐りが入る。この木の下には3体の地蔵が祀られる。このネズと地蔵の前は広場になっているが、ここは祇園さんの行事の行われるところ。

 ネズはスギの葉に似ているが、手で持てないほど葉の先が尖っている。そのため、昔はこの葉をネズミの通路に置いて侵入を防いだ。このことから別名ネズミサシという。ネズは伊賀地方の里山には多いが、伊勢地方ではあまり見ない。従って伊勢地方での植栽は、神社仏閣や旧家の庭にのみ稀に見られるに過ぎない。この寺に、古い時代に何故植えられたかは判らないが、近くの南出・白山比咩(しらやまひめ)神社本殿前側にも古いネズがあるので、この地区共通の価値観のある木であることは間違いない。

なお成願寺は、明応3年(1494)に伊勢国司北畠材親の部将で小倭郷上ノ村の城主・新長門守が真盛上人に帰依、出家して真九法師と称し、戦乱によって失った長男と次男をはじめ一族の菩提を弔うために建立を発願し、城近くに開創したものである。

  もくじ
45 長楽寺のカヤ
(イチイ科、カヤ) 津市美杉町八知 長楽寺
 長楽寺の前庭広場と西側の墓地との境付近に、幹周囲353cm、樹高19mの大きなカヤがある。老いた木のため幹の一部に腐りが入いる。この木には寺には珍しいしめ縄がある。このカヤの種子は約3cmで大きい。かつて、カヤの種子は重要な食糧や油原料であった。

この寺には大海人皇子にまつわる伝説がある。壬申の乱の前年の671年、大海人皇子が大津の宮で髪をおろし、吉野隠退に向かう。吉野に向う途中、神末(こうずえ 現 奈良県御杖村)で近江朝廷軍に襲われる。この時、居合わせた木こりの機転で、丸木で作っていた水槽に隠れて難を逃れる。ついで、大海人皇子は追手をあざむいて逆の伊勢に向かう。

この八知の地に来た時、空腹と疲れのため草むらの中で、倒れているところを東七という百姓に助けられ、介抱をうけ元気を取り戻す。のち、壬申の乱に勝利した大海人皇子は、天武天皇に即位するが、この助けられた論功行賞により、神末に薬師寺を贈り、八知には七堂伽藍をそなえた長楽寺を贈ったという。後、この寺は信長の兵火にあって消滅。この時の火事の焼け焦げた後遺症が、大正時代までこのカヤノキに残っていたと伝えられる。

  もくじ
46 東平寺のシイ
(ブナ科、シイ) 津市美杉町八知比津 東平寺
 寺境内と墓地のあいだに列状にスダジイと思われる古い木が約7mピッチで6本ある。これらの木は昭和53年に「東平寺のシイノキ樹叢」として県の天然記念物になっている。 

最も太い木は南側の木で、斜面の下部の木。大きさは幹周囲485cm、樹高15m。この木は古い時代に谷側に倒れたが、多くの根に支えられて倒壊がまぬがれ、そのまま根が露出して生長してきた。また、根元には古い道祖神らしい石仏が祭られている。

なぜか、この木の下には立派な五輪塔が数基あるが、これは北畠の家臣の墓と教えてもらった。そういえばこの近くには、南北朝時代から戦国時代にかけて伊勢国で大きな勢力を持った国司北畠氏の本拠地がある。北畠居館跡(現北畠神社)・霧山城跡がその痕跡として残っている。その城下町は「小京都」とも言われ、伊勢の山間地に文化の華を咲かせたところであった。

  もくじ
47 正念寺のヤマザクラ
(バラ科、ヤマザクラ) 津市美杉町奥津 正念寺
 正念寺山門は鐘が備わった豪華なもの。その重厚な山門にふさわしい県内有数の太さのヤマザクラがある。山門を入った左隣にあり、幹周囲425cm、樹高16m

 ヤマザクラは江戸時代の桜の代名詞だった。明治の中頃ソメイヨシノが現れて主役を退いた。しかし、古いサクラの多くはヤマザクラで、寺院、神社、小学校跡、並木には今もヤマザクラの大木をみる。ヤマザクラは花が開く頃に葉も展開するので、花と若葉の絶妙のコントラストすばらしいといわれる。

寺は約350年前、和歌山から曹洞宗を広めにきた僧が人々に請われ、本堂を建立したという。本尊は聖観音、小堂には弥勒菩薩がまつられる。寺の前の道はかつての「伊勢本街道」が通った歴史の道。そのため、街道には常夜燈が残り、これは文久4年(1864)建立で、そこに「諸願成就」と刻まれる。

  もくじ
48 真福院のケヤキ
(ニレ科、ケヤキ) 津市美杉町三多気 真福院
 急な参道の石段を登り終えると真福院山門あり、その手前は、昔の山門代わりではないかと思われる巨大なスギが両側に対にある。この近くには幹周囲646cm、樹高35mのケヤキの巨木があり、この木は「真福院のケヤキ」として昭和15(1940)に県の天然記念物になっている。

昭和55年に三重県で開かれた「全国植樹祭の手播き行事」で使われた皇后陛下のお手播き種子は、このケヤキ等から採取された。なお、上記の参道のスギの太い方は幹周囲67cmのこれも巨木。

国道368号から真福院の山門に至る1.5km余の道は「三多気のサクラ」として昭和17年に国の名勝に指定された桜の名所。「新日本街路樹100景」「日本さくら名所百選」などにも選ばれたところ。この寺は伊勢国司北畠氏に祈願所であったので、この威光にあやかろうと、各地から参詣の人が訪れたが、そのとき願掛けのしるしとして、各地からサクラ苗を持参したという。そのためこの並木のサクラはヤマザクラではあるが、各個体は微妙に違うという。このサクラの太い木は幹周囲360cm

  もくじ
49 国津神社のケヤキ
(ニレ科、ケヤキ) 津市美杉町太郎生 国津神社
 太郎生・国津神社の本殿下広場には、昭和15年に県天然記念物になったケヤキがあり、2幹立ちで幹周囲は790cm396cmで、地際50cm上の幹周囲は13.5m、樹高28.5m。太い幹の方はかなり以前の台風で縦に亀裂ができたため、2カ所をワイヤーロープで縛っている。樹齢が1000年といわれるだけあって、この木にまつわる言い伝えも多い。

このケヤキの周りを、願い事を唱えて百遍まわると願い事かなうという。また、この幹に東側から、そっと耳を当てると、楽しい笑い声や歌声が聞こえてくるというが、これを聞いた人は、願い事がかなうという。

この境内にはケヤキが多く、他に直径1m以上の木が4本もある。また、本殿左前には空洞の目立つ幹周囲322cmのカゴノキの大木がある。なぜか境内裏山にもカゴノキは多い。

明治40(1907) に村内9社を合祀。このとき、日神(ひかわ)の山王権現も合祀したが、石造十三重塔一基も移建した。この十三重石塔は国の重要文化財に大正151926)年指定されている。鎌倉時代後期の石像美術を代表する十三重石塔で、高さ3.8m、この地方共通の大洞石で作られている。

  もくじ
50 下太郎生のヤナギ
(ヤナギ科、コゴメヤナギ) 津市美杉町太郎生 
 名張川沿いの国道369号線に一本のコゴメヤナギの雌株が残る。この木は今、幹周囲350cm、樹高14m

かつて、この川沿いの土手には、ケヤキ、サクラ、カエデ等がある竹やぶで、ヤナギも23本あったという。昔は道から緩やかな斜面になっていたので、そこを通って川へ降りられた。

昭和34年にこの地を襲った伊勢湾台風で、この川縁は流され、近くの民家も一軒流される大被害に遇った。

この地は今、このヤナギ一本が残り、高さ5mの石積みの絶壁の上に育つ。伊勢湾台風の生き残りの記念の木でもある。このヤナギの下にはバス停があり、猿子橋の近くで、尼ヶ岳や大洞山へ上る倉骨林道がここから始まる。このヤナギより下流の川中には、シダレヤナギが一本育つが、この木はこの台風のとき流れ着いたものが育ったと、付近の人は言う。

  もくじ
51 日神不動院のオハツキイチョウ
(イチョウ科、イチョウ) 津市美杉町太郎生 日神不動院
 「日神」は平家の落人の隠れ里といわれる伝説がある。この里の南を流れる日神(ひかわ)川の向こうに日神山不動院がある。日神不動院前には幹周囲406cm、樹高30.5mの太いイチョウがあり、平成12年に三重県指定天然記念物。

このイチョウはオハツキイチョウで、葉に上方また葉に上に実のギンナンをつける。この木の葉が半分ほど落ち、地面が見えないほどの落葉が積もった時、オハツキイチョウタイプのぎんなんを探したところ、10個拾うのに約3分くらい要する密度で見つかった。多分、葉の1パーセントくらいがお葉付きになっているのではないかと思った。そのお葉付きの状況は写真のとおりであった。多くは葉の中央に、実の胚珠が一個付くがその多くは発育不良で、葉は小さく奇形になっている。

 オハツキイチョウは葉の上に実を付けるが、葉に胞子を付けるシダに近く、進化していない植物の証拠といわれる。

  もくじ
52 善覚寺のヒヨクヒバ
(ヒノキ科、ヒヨクヒバ) 松阪市大黒田町 善覚寺
 松阪市内で 国道42号と国道166号の分岐点付近に、檀家が二千を超える善覚寺がある。この本堂前には対になってヒヨクヒバがあり、向かって右側の木は幹周囲272cm、樹高13.5m。県内最大のヒヨクヒバと思われる。幹の中心部が空洞であるため、幹折れを心配して、最近、檀家の造園業者が担当して、この木の頂部を一部切って、樹高を低くした。

寺の本堂が今の地に移ったのは寛保3年(1743)。その時ある程度の大きさの木を植えたとすると、この木の樹齢は300年近くになるかも知れない。

この木は方言でスイリュウヒバといわれるが、この寺でも同じように呼ばれる。ヒヨクヒバは古くは資産家の庭に好んで植えられ、富の象徴の庭木だと思う。また、この寺の鐘撞堂近くには幹周囲126cmのよく剪定されたイブキもあって、この木も富の象徴の庭木で、近くの松阪城跡にも見られる。寺の歴史も古いだけあって、古い木も多い。本堂と庫裏の裏側の庭園には、モミが幹周囲260cm、ヒノキが幹周囲247cmあり、古いカイナンサラサドウダンなどもある。

  もくじ
53 松阪第一小学校のラクウショウ
(スギ科、ラクウショウ) 松阪市殿町 第一小学校
 北アメリカ原産のラクウショウが第一小学校に植えられたのは、明治38(1905)とされる。日露戦争の戦勝記念に、地元の豪商小津家が寄贈したといわれている。

したがって樹齢は100年を超える。今、この木は幹周囲447cm、樹高28m小津家は江戸時代から、伊勢商人として活躍した家柄。当時の当主は13代の小津清左衛門長幸で、紙問屋や小津銀行を経営していた。長男修太郎はこの小学校を卒業していた。

その後、昭和60年にこの小学校は建替えられたが、この学校のシンボルのこの木を保存するため、この木から離れて校舎の位置は逆算して決められた。なお、今は無いが、以前この木は小津家屋敷と山室山神社(旧本居神社)にもあった。これを裏付けるように、県立博物館の植物標本リストには、服部哲太郎が大正35月に採取したラクウショウがある。

なお、この木は冬になると、葉が短枝(たんし)についたまま落ちる様が、鳥の羽根が落ちるのに似ているので落羽松の名がある。また、沼地に育つので、ヌマスギともいわれる。

  もくじ
54 蘭宇気白神社のモミ
(マツ科、モミ)松阪市柚原町(ゆのはらちょう)蘭宇気白神社(あららぎうけはくじんじゃ)
 「アララギさん」と地元で、信仰される蘭(あららぎ)神社は、正式には蘭宇気白(あららぎうけはく)神社。蘭、宇気比(うけひ)、白山の3社が、明治末年の神社の合祀でできた社名。

かつてのこの地は、北畠氏築城の多気御所へ続く街道の入口にあたり、柚原(ゆのはら)の地名も、北畠家臣の湯原(ゆのはら)半九郎に由来するという。

蘭川沿いには蘭神社の森があり、およそ直径1m以上のスギは20本ほどあって、この神社の森はスギの森。スギに混じって2本の太いモミがある。最大のモミは本殿正面の石段上り口で、川の傍にあり、幹周囲463cm、樹高41.5m。多分、県内最大のモミと思われる。

モミは大気汚染に弱い木とされる。それに材もそれほど優れていないので造林されることも無く、モミは減少の一途をたどる。しかし、数少ない天然林と、神社仏閣の境内林には時々残っている。

私は現地見学会で神社仏閣の目立つところにモミがあると、モミは臣(おみ)を意味し、「けらい」のことで、その神社や寺の守り神であろうと説明している。

  もくじ
55 来迎寺のツバキ 
 (ツバキ科、ツバキ) 松阪市飯南町深野 来迎寺(らいこうじ)
 かつては「朝鮮ツバキ」といったが、平成12年に当時の飯南町指定天然記念物になった時、品種を詳しく調べられて「オランダ紅(こう)ツバキ」になった。このツバキは本堂南側の斜面にあり、三重県内有数の太いツバキで、幹周囲168cm、樹高8m。この寺に伝わっている話によると、このツバキは秀吉が朝鮮出兵した文禄元年(1592)、加藤清正が朝鮮から持ち帰ったものという。ただ、加藤清正とこの寺とのつながりはないから、珍しいものに「朝鮮」を頭につけて呼んだパターンだと思う。

このツバキの花は、この付近に見ない珍しい品種である。花は八重咲き、紅色でやや小輪、それに咲く時期が遅く、サクラと同じ頃の4月中旬頃。花びらはツバキには珍しく、一枚ずつ落ちる。

  かつて、江戸城表坊主などをつとめた碩学の名僧といわれた摂門(ふもん)上人が、寛政年間(1789-1801)に、この来迎寺で修行している。彼は13歳のとき突然出家し、江戸を出て神宮や長谷寺参拝の途上の寄留であった。また、上人は少年時代の見聞をもとに、文政5年(1822)に『南勢雑記』を著している。その記述の中で「深野の紙も名物のひとつなり」と記されているように、来迎寺のある深野地区は、紙すきが盛んで、最盛期には250戸の農家が、これに携わっていた。

  もくじ
56 出鹿の魯桑  
(クワ科、クワ) 松阪市飯南町粥見 
 字・出鹿(いずか)の大桑といわれる魯桑(ろそう)は地際周囲435cm、高さ1m付近から5幹になり、うち1本は折れるがつながっている、5幹のうち最大の幹は幹周囲183cm。樹高12m。この木の下は茶畑であったと思われるが、柿やシキミも植えてあって、今は荒れている。魯桑は栽培桑の品種。かつて、『広報いいなん』の昭和60年3月号で「出鹿地区の桑」として紹介され、その後、平成15年3月に服部保さんが『三重県蚕糸業史補遺・三重県における蚕糸関連の史跡』で「出鹿の大桑」と紹介された。出鹿の善龍寺の近くにあって、地元の坂口さんの所有。ところが、この木は地元の人や、役場で聞いても伐られてありませんといわれるほど、知られていない。多分、三重県最大のクワであるのに。

蚕糸業は明治中期から昭和初期まで外貨獲得の雄として、大きな役割を果たした。三重間の大正9年のマユの生産は全国7位。三重県の桑園面積は昭和5年がピークで、2.2ha.あった。この年の水田が7万haだったので、如何に桑畑が多かったか想像できる。今、クワの木に出くわすのは稀になった。

 もくじ
57 飯南高校のハナノキ
 (カエデ科、ハナノキ) 松阪市飯南町粥見 飯南高等学校
 国道166号線に接した飯南高校の敷地は13ha大面積。校舎のあるところまでスギ、ヒノキ並木を150mも通らねばならない。

校歌でも「年老う杉の並木道の 緑に深くつつまれて・・・・」と歌われる。この入り口付近に大きいハナノキがあり、高さ1mの位置の幹周囲が374cm。3主幹立ちで、樹高は20m。近くに植栽されたヒマラヤシーダ、コウヨウザン、イヌツゲ、ハマオモトなどがあるので、古くは学校(研修所)の植物園の生き残りかもしれない。

 飯南高校は昭和23年に松阪北高校粥見分校として開校しているが、この地は、それ以前は農業後継者養成の県農業勧修所であり、このスギ、ヒノキ並木は昭和8年頃植えられたとされるので、この樹齢は75年。ハナノキもこの頃植えられたとすると樹齢75年になる。また、この木は昭和60年7月号の『広報いいなん』で紹介されたがその時の幹周囲は240cm

 もくじ
58 粥見の山茶花 
 (ツバキ科、サザンカ) 松阪市飯南町粥見
 「粥見の山茶花」は地際周囲169cm、樹高11mで地上40cmのところで二又にのびる。この木の近くの高瀬家所有の古いサザンカであり、旧飯南町時代の平成1010月に天然記念物に指定されている。

11月上旬から12月中旬にかけて、濃いピンク色の多弁花を大量に着けるので、この冬の花が散る時、下の道のアスファルトはピンク色に変わる。この木の所有者の話によると、3代前の人が植えたと思われ、樹齢は120150年生と推定している。このサザンカの育つ奥側の山手には小さな祠の紀伊神社があり、これは高瀬家一族の社。したがって、このサザンカは神社に付随して植えられた木と思う。かつて、この神社の4月の祭日には多くののぼりが立ち、当事者は白装束で正装して、祭りを執り行い、モチまきなどを行った。

このサザンカの近くには和歌山街道が通り、この旧家付近には古いヒメシャラ、ゲッケイジュ、サクラ、スモモ、イチョウ等のこの旧家が収集した古い木がある。

 もくじ
59 春日寺のエドヒガン 
(バラ科、エドヒガン) 松阪市飯南町向粥見 春谷寺 
 櫛田川をはさんで、県立飯南高校の川向いには、波留(はる)と呼ばれる40戸ほどの集落がある。この地にある波留遺跡からは、石器や土器が多数出土し、古くから人が住んだ所でもある。この地の山すそには、ひなびた本堂をもつ春谷寺が建つ。寺の記録は焼失しているが、寺の本尊の厨子は、飯南町内では最も古く、寺の創立は明暦2年(1656)と推定されている

さて、この古刹の前の石垣上には、三重県有数の古いエドヒガンがあり、地元では「彼岸ザクラ」 と呼んでいる。幹周囲389cm、樹高10m。古木のわりに毎年ピンク色の美しい花をつける。平成8年、当時の町指定の天然記念物になり、花の時期は、地元保存会によりライトアップされ、夜桜見物もできる。

昔、この木が落雷にあって、幹に傷が入り、そこから幹の中が腐り、空洞になった。その穴にはムササビが住んだ。一時、この木には幽霊が住むと噂されたのは、この木に住むムササビの鳴き声だったという。

最近、幹は更に腐りが進み、心配した地元では、樹木医に外科手術を依頼した。幹の空洞の腐りを取り除き、ここに発泡ウレタンを注入、さらに施肥などの治療をおこなった。また、この地を桜の名所にすべく、この木と同じエドヒガンの植栽も行っている。

 もくじ
60 有間野神社のオオツクバネガシ 
(ブナ科、オオツクバネガシ)松阪市飯南町有間野 有間野神社 
 有間野神社の森の裏側ではあるが、オオツクバネガシの太い木があって、幹周囲338cm、樹高24m。オオツクバネガシはアカガシとツクバネガシの雑種とされ、葉の形はツクバネガシの大型タイプで、葉柄はアカガシのように長い。各地にアカガシかツクバネガシか判らないタイプが多いが、このハイブリリットが雑種強勢の原理で、多く残ったのではなかろうか。

この境内はスギの森。直径1m以上のスギが約10本あり、最大は幹周囲530cm。現地で出会ったこの神社の宮世話の人は、このスギの巨木は樹齢350-360年といっていたので、オオツクバネガシも300年を超えているかもしれない。

境内林には太い木が多い。入り口の鳥居付幹周囲188cmのユズリハ、神木のクスノキは幹周囲380cm。本殿裏側には幹周囲26cmのタブノキもある。

古くは有間野村であった。明治2年(1869)には戸数は57戸。元暦元年(1184年)には、有間野の地で熾烈(しれつ)な源平合戦が展開され、その舞台となった場所。平信兼が義経に攻められ自刃した滝野城がある。有間野の地にある神社は、明治426月に合祀されて有間野神社と称したが、それまでは八王子神社、稲荷社、浅間神社、上出山神社の4社あり、八王子神社の地が有間野神社。

  もくじ
61 水屋神社の大クス 
(クスノキ科、クスノキ) 松阪市飯高町赤桶(あこう) 水屋神社 
 水屋神社本殿裏にあるクスノキは神木で、県内の樹木のなかで太さが第2位の巨樹。幹周囲1380cm、樹高39.5m。昭和63年の「緑の国勢調査」でも、全国巨木リストの48位に入った。この木は、昭和42年に三重県指定天然記念物になっている。

神社が春日系だけあって、このクスノキの神木の両側には、神の使いの「鹿」に相当するカゴノキ(鹿子の木)の大木を従えている。本殿西の境内林にも幹周囲349cmのカゴノの巨木もある。更に「二号楠」というのが本殿左側にあり、その幹周囲も935cmの巨木。他にも腐りの入ったムクノキや「水屋の大杉」という巨木もある。

  「水屋の大クス」は地元では、「大楠さん」と敬称をつけて親しまれる。昭和43年にできた『赤桶音頭』では「楠は神の木 水屋の楠は おらが自慢の 日本で一よ わしの女房も こりゃえ 日本一こりゃえ」と歌われ、昭和47年につくられた『水屋小唄』では「水屋大楠 香りの葉から とった香りを あの娘(こ)がつけりゃ 虫もつかずと ソレ神だのみ  ほんに赤桶は つみなとこ」と歌われる。この水屋神社の裏を流れる櫛田川には、天照大神と天児屋根命(あめのこやねのみこと=春日の神)が国境をきめた礫石(つぶていし)伝説の大石がある。

もくじ
62 福本の大トチノキ 
 (トチノキ科、トチノキ) 松阪市飯高町富永
 トチノキの果実は大きく、あく抜きすれば食用になる。このため縄文時代の遺跡からも出土する。県内最大と思われるトチノキは人里離れた山奥の富永区有林にあり、地上50cmの幹周囲が610cm、樹高25mでおよそ3幹に伸び、南北の枝張りは21m。古木のため樹皮には波紋がある。キズタがのぼりつく。西南向きの斜面のスギ林内にあり、くぼみ状にあって、かつて炭窯のため平坦に整地された千枚岩で、地際は少し埋まっていると思われる。

古木のため樹皮には波紋がある。キズタがのぼりつく。西南向きの斜面のスギ林内の残し木であり、くぼみ状にあって、かつて炭窯のため平坦に整地された千枚岩で、地際は少し埋まっていると思われる。平成9年の旧飯高町の時「福本の大トチノキ」として町天然記念物になっている。

 この福本一帯にはトチノキの古木が残る。トチノキ果実は食料になったので、山の木を伐採しても残す風習があった。特にこの地は紀州藩の土地であったので、この実を飢餓にそなえて採取するため、御留木として残された木と推定されている。現在でも山村では「とち餅」がつくられる。
もくじ 
63 黒瀧神社のスギ 
(スギ科、スギ) 松阪市飯高町森 黒瀧神社 

“黒瀧神社の夫婦スギ”は、平成9218日に当時の飯南郡飯高町の天然記念物指定を受けている。

この木の幹は途中で二本にわかれるので、夫婦スギといわれ、いつもしめ縄をつけた神社のご神木。幹周囲は880cm、高いほうの樹高が45mの巨木。地際の幹の隙間に小さな祠が祭られている。この木は本殿の左に約20m離れたヒノキ林の山側にあり、この木の下にはサカキが多い。

この境内にはスギの大木は他にも本殿前方に3本あり、その幹周囲は639cm611cm 472cm、といずれも巨木である。今から40年余前に、神社前に湿地があって、そこに珍しいシナノキ科のヘラノキがあったと思うが、今は見当たらない。

 櫛田川の上流の蓮川流域は明治8年に森村として発足するが、それまでは深野村、犬飼村、家野村、柏野村、久谷村、大俣村、塩ヶ瀬村、猿山(えてやま)村、蓮(はちす)村、青田(おうだ)村があった。それにあわせて各地に氏神もあったが、かつての深野村にあった天神社に、明治41年には合祀して黒瀧神社の呼称の許可をとっている。 

 もくじ
64 雲林院のニッケイ 
 (クスノキ科、ニッケイ) 松阪市飯高町森 雲林寺
 雲林寺のニッケイは庫裏前広場先の斜面にあり、幹周囲243cm、樹高14m。葉はよく茂っている。

ニッケイは、中国南部等が原産で日本には享保年間(17111736)に渡来。幹皮や根皮などから本来は生薬料を生産したが、一般には特有の芳香がある駄菓子として栽培された。最近はこの特有の芳香がアロマテラピー(芳香療法)として話題になっている。

三重県では「にっきの木」と呼ばれることが多く、寺、神社や旧家に植えられていることが多い。この寺の境内には、他に注目すべき木として幹周囲179cmのギンモクセイと幹周囲222cmのゴヨウマツの古い木がある。  

雲林寺は、かつての森村に統合される前の犬飼村にあった。明治2年(1869)には家数25戸、人口145人に過ぎなかった。最近、蓮(はちす)ダムによる水没の移住で戸数が増えた所である。この地には、天正5(1577)に北畠具親(きたばたけとものり)の挙兵の際築かれた「森城」があった。この地が「森ノ郷」とよばれたのに因むが、その後の「森村」の呼称はここが発祥かもしれない。
  もくじ
65 東漸寺のゴヨウマツ  
 (マツ科、ゴヨウマツ) 松阪市飯高町森 東漸寺
  東漸寺は約350年前の創建という古刹。寺の鐘つき堂のそばには、三重県内有数のゴヨウマツの大木があり、幹周囲319cm、樹高19m。高さ2m付近から太い2枝が出て、更に高さ4m付近から6幹に分かれる。

ゴヨウマツは庭木のなかでも、高級な木であった。古くは、清少納言の「枕草子」、吉田兼好の「徒然草」に植えたい木として「五葉」を取り上げている。この地でも当然、価値観のある木として、文化の中心地の寺に植えられたと想像される。

  東漸寺の過去帳記録によると、この地には木地師(木地屋)が多く住んだ。寛文12年(1672 から慶応2年(1866)の間に 211名を 数えた。木地師は、木材に「ろくろ」をかけて、椀や盆をつくる職人。第五十五代文徳(もんとく)天皇の第一皇子の惟喬(これたか)親王(844897)が、木地師の元祖とされ、木地師には小倉や小椋の姓が多かった。

この東漸寺のある森地内には、苗字帯刀を許された木地師の小倉吉右衛門(襲名)が、代々居を構えて、一帯を統括。山の木をよく知る木地師達が、この地の奥山から、ゴヨウマツを採取してきて、この寺に寄進しても不思議ではない。

 もくじ
66 青田の大カシ 
 (ブナ科、アカガシ) 松阪市飯高町青田(おおだ)
  かつて、青田地区には小学校と中学校分校があったほど、人が住んでいた。しかし、蓮(はちす)ダムの建設にあわせて廃村になった。この青田地区でも最奥の字小井戸の山腹には4軒ほどが寄り添うように生活していた。奈良県境には6km。北畠氏にまつわる青田城跡も近くにあった。

この一軒の平野家の裏山には、県内一の太さのアカガシがあり、幹周囲733cm、樹高23m、南北の枝張りは27mカシの仲間では格段に大きい。

ちなみに県内2位の太さのカシは、私の調査では伊賀市坂下(さかげ)の酒解(さかとけ)神社のアカガシで、幹周囲は580cm。平野家の裏山の木は何度も炭焼き用に伐採されたが、この一本の巨木は山腹の強風から家をまもる木として、代々大切にされて残された。巨大になって神秘的になったこの木は、晩鳥(ばんどり=ムササビ)の棲んだが、今はアオゲラが棲む。

私は平成7年、(社)三重県緑化推進協会機関紙「緑の森」で紹介した時は「加杖坂のアカガシ」として記載した。その後の『みえの樹木百選』でも「加杖坂のアカガシ」。しかし、平成9年に飯高町指定天然記念物になった時の名称は「青田の大カシ」である。

 もくじ
67 加波神社跡のモチノキ 
(モチノキ科、モチノキ) 松阪市飯高町加波(かば) 

 加波神社跡には唯一モチノキだけが残っている。幹周囲は412cm樹高14m。樹幹はモチノキとは信じられないほどコブ状のふくらみが多い。高さ5m付近で幹は二又で、古木のわりには葉は多い。県内最大のモチノキと思われる。幹の膨れるその隙間から、なぜかオモトが生える。旧社の小祠の裏側にこのモチノキはあり、斜面上部はスギ林。地表はシャガが多い。

加波神社とはこの地の地名から通称いわれるもので、本来は「作神社」「八雲神社」と思う。この加波神社はおそらく明治末年の合祀で、廃社になったところと思う。今、小さな祠はあるが、古い木で幹にこぶがある当時でも名木のモチノキ1本だけを、記念に残したものと思う。

地元の加波の伝説には、兄の源頼朝に追われた弟の蒲冠者(がまのかんじゃ)といわれた源範頼(みやもとののりより)を住まわせた、「二階平」という屋敷跡が川向かいにある。この加波の地には櫛田川の上流の波瀬川に沿って、かつての和歌山街道が通り、今は国道166号。また、この地には昭和51年までは小学校もあった。 

もくじ 
68 西村広休植物園跡のフウ
(マンサク科、フウ) 多気町相可 西村広休植物園跡 
  西村廣休(ひろよし)植物園跡は多気町平成681多気町指定の史跡。ここには昭和121118日三重県指定天然記念物のフウがあり、この木は幹周囲319cm、樹高19m。また、多気郡農協相可支所前にあるタラヨウは平成681多気町指定天然記念物。

西村廣休(181689)は江戸時代の豪商相可大和屋の11代当主。江戸時代後期、全国に名を知れた本草学者でもあった。

彼は邸内に植物園を2ヶ所つくり、珍しい植物を2000種集めて栽培して研究した。大和屋はこの相可に本宅を構え初瀬街道に面し、その面積は2600坪もあった。江戸本石町四丁目に出店を置き、呉服屋、紙問屋、為替方を営んだ。なかでも大和屋の為替方の営業は紀州、藤堂、会津、桑名などの大名、諸侯の金を貸す、いわゆる大名貸しをおこない、莫大な御用金を調達していた。

この金額は江戸末期で75千両を超えたといわれる。その上明治新政府にも御用基金を上納。しかし、藩制の崩壊、明治維新の大変動で、貸し付けた御用金のほとんどが回収できず、倒産に見舞われた。この悲劇は明治20年から30年に起こった。

  もくじ 
69 千鳥ヶ瀬のムクノキ 
(ニレ科、ムクノキ) 多気町相可 相可高校前 
 平安時代末期の歌人西行は、伊勢詣で相可へたどり着いた。西行は従者が相可の宿を探しに行く間、この地の小川で休息した。この時、西行は千鳥の鳴き声を耳にして「つかれぬる われを友よぶ 千鳥ヶ瀬 越えて相可に 旅寝こそすれ」と詠んだ。以来この地を「千鳥ヶ瀬」といわれる。

いま、この地にムクノキの古木が一本あり、幹周囲514cm、樹高15mになる。幹枝には多くのキズタが登り着き、幹の中は空洞。かつての伊勢本街道の上を覆うように、このムクノキは伸びる。

この傍らには塞神社(さいのかみしゃ)が祠られる。この祠は、伊勢本街道の旅人の安全を祈願してつくられたという。ある時、この祠は他の神社に合祀されたが、その後、この地に災害が多発。これは合祀の祟りと噂され、昭和38年には、この塞神社は元の位置に再建された。

すると、わざわいは無くなり、隣接の相可高校は高校野球で甲子園出場というおまけつきの御利益があった。しかし、祠の傍の道にせり出したムクノキは、通行の邪魔になって伐採が望まれた。しかし、これにも祟りをおそれ人達は、この部分の延長80mの道幅は、平成5年に拡張され、古いムクノキは残った。

もくじ 
70 津田神社のスギ 
 (スギ科、スギ) 多気町井内林(いのうちばやし) 津田神社

 津田神社の神木スギの巨木は本殿前にあり、幹周囲782cm、樹高38m。地際に枠を作り保護された神木。地際には「伊勢白龍大明神」の碑がある。

この津田地区出身の森本竹俊さんは大正7年第一次世界大戦争で西シベリアのバイカル湖に出兵した。母は息子の無事を祈願して、津田神社に日参。大正9年に本人は帰還するが、この母親の祈願に感激した彼は、幾度か寄進を繰り返した。昭和32年の津田神社遷宮祭には、ハナミズキ苗の紅白の花一対を奉納している。

さて、森本さんは観光株式会社を創立すべく、津田神社で昭和32年に祈願祭をおこなった。祈願が終了して帰り際、神社の神木スギの根元から、「白いヘビ」が登ろうとしているところを目撃。これは「登り竜」で吉兆として、更に「伊勢白龍大明神奉賛会」を開くことを決めた。

ところが、地元の人はこの「白いヘビ」のことは信用せず、冷ややかであった。翌年、神社の玉垣の修理で地元の各区長、氏子総代に動員がかかった。この時石垣を破ったところ、その中から「白いヘビ」が現れ大騒ぎとなる。そこで、伊勢白龍大明鎮座祭は昭和33329日に盛大に行われた。 

もくじ
71 金剛座寺のホルトノキ 
(ホルトノキ科、ホルトノキ)多気町神坂(こうざか) 金剛座寺 

 金剛座寺は山腹にあって、そこを平地にならして、本堂や庫裏が山側にあり、ならした先の盛土の天端位置には、この付近にはない2本のホルトノキがある。太い方は寺の客殿の南側で崖の上にあり、幹周囲379cm、樹高13.5m。境内のこのような天端位置には地主桜、ナギ、ツゲ、ホルトノキ、ニッコウヒバ、イチョウ、ツバキの品種“玉の浦”などがある。したがってホルトノキは植栽されたものと思われる。

この寺の住職による『金剛座寺略縁起』解読によると、ホルトノキはポルトガルノキとして、ほかにスパイスのサンバチョウジ等の記述があり、また、この寺の本堂は、近くの相可の西村家の寄進でつくられているので、当主の本草学者でもあった西村広休が寄進したとのではないか思われる。

金剛座寺の古い寺名は穴師(子)寺。開山は、白鳳2(680)に藤原鎌足説と、白鳳9年藤原不等説があるほど古い歴史がある。当寺は平安時代末に活躍した歌人・西行法師が訪れたという伝説があり、法師の祖先の藤原家に縁のあるこの寺に植えられてあった桜を詠んだという歌「昔より菩提の樹(うえき)それながら 出(いで)し佛の影(けい)ぞ残れる」が、この寺の御詠歌になっている。 

もくじ 
72 近長谷寺のボダイジュ 
 (シナノキ科、ボダイジュ)多気町長谷 近長谷寺

近長谷寺本堂前に幹周囲101cm、樹高7.5m仏教伝来にちなむ木のボダイジュがある。太さはないが、この木の地際の広がりは170Χ140cmもあるので、県内有数の古い木と思われる。

奈良県桜井市にある真言宗豊山派の総本山長谷寺は長谷詣といわれ、『源氏物語』や『枕草子』にも記される古い歴史がある寺。この長谷寺観音への信仰は、平安時代以降は特に盛んになり、鎌倉時代にはいると、長谷寺本尊像を摸して、長谷寺式と呼ばれる十一面観音像が各地で造られた

この多気町長谷の近長谷寺も、この長谷寺信仰から創建され、高さ6メートル余りの巨大な長谷寺式「十一面観音立像」が安置されている。もちろんこの像は大正2年国指定重要文化財。

なお、この近長谷寺の開創は仁和元年(885)。現在の本堂は、元禄3(1694)に再建されたもの。伊勢の皇大神宮に近いということで、近の一字を加え、「近長谷寺」といれる。近長谷寺の十一面観音像は日本三大長谷観音の一つとされる大きな像。この寺を、地域の人は親しみを込めて「近長さん」と呼ぶ。この長谷地区では「御田植祭り」が行われるが、十一面観音にちなんで、半径11メートルの車田がある。 

もくじ 
73 佐那神社の手力の大ヒノキ 
(ヒノキ科、ヒノキ) 多気町仁田(にた) 佐那神社 
 佐那神社本殿前に幹周囲353cm、樹高24.5mの「手力の大桧」というヒノキの大木がある。地際はゴロタ石が敷き詰められ小さな鳥居があり、賽銭が上がる。佐那神社の主祭神は「天手力男命(あめのたぢからおのみこと)」である。この神は天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩屋に隠れた時、戸を開いて大神を連れ出す役目で活躍した力の神。そのため、手の力すなわち腕力の象徴、つまり人間の筋力に宿る霊を神格化した神とされる。「手力の大桧」はこの神になぞらえた木と思う。

ヒノキは昔から日本の木の文化を支えた材で、『日本書紀の中では、「スギとクスノキは船に、ヒノキは宮殿に、マキ(槙)は棺にせよ」とある。ヒノキが宮殿建築用として使われて、最適最高の材であり、本殿前にあるこの手力の大桧の意義は大きい。

佐那神社境内林奥にはスギ神木があり幹周囲957センチ。地上1.5メートルで、2本立ちになっている。またイチイガシが11本もある。イチイガシの育つ森には、共通的に地表にツルコウジとアリドオシが多いが、この森でもツルコウジとアリドオシが多い。

もくじ 
74 前村の大楠 
 (クスノキ科、クスノキ) 多気町前村
 幹周囲811cm、樹高29.5mの「前村の大楠」の北側下には、かつての熊野街道が通り、道をはさんで大楠組集会所があり、南側にはJR紀勢本線が通る。この大楠にはしめ縄があり、地際付近の空洞は治療された痕がある。下には祠が祭られる。この大楠に隣接して、太い幹周囲360cmのカゴノキが生育する。このカゴノキは地際は大きな空洞になり、その中には掃除道具一式が収納されている。

かつての南北朝時代、この地は北畠氏と南朝派の隠れ里だった。一族はこの地で王朝の復興を願った。帰農した遺臣たちは、この地にクスノキを記念に植えたが、これは忠臣・楠木正成の名にちなんだものだった。

その後、ここの里人はこの遺蹟を後世に伝えるため、クスノキを神木として仰ぎ、木の下に祠をつくり祭った。このクスノキは熊野街道の熊野詣や参宮客の名物にもなった。

江戸時代から明治時代中期にかけて、このクスノキの近くには、楠本屋と大楠屋という旅篭もあった。昭和54年には、この町内一の巨木がきっかけになり、「町の木」はクスノキになった。また、このクスノキは「大楠」として、平成元年、多気町指定天然記念物になった。

もくじ 
75 本楽寺のイチョウ  
(イチョウ科、イチョウ) 多気町丹生 本楽寺 

 本堂の向かって右前、庫裡前には幹が8本に分かれて伸びるイチョウがある。地際周囲855cm、樹高14.5m。地際より8幹に杯状に斜いて分かれる。うち8本の太い幹の長さは5-6mで、かなり腐りも目立つ。8幹の幹周囲は最大が280cmで、最小が180cm。それぞれの太い幹先には、多くの萌芽枝が見られる。

住職の話しでは、このギンナンはオハツキイチョウという。この木は、近くの多気町下出江の竹内家から、江戸時代に寄贈があったと古文書にあるという。木の幹をすべて斜めに伸ばす技術は只者ではない。

この地は丹生水銀生産で多い時は1800人が住んだという。この中に、庭木を杯状に伸ばす技術者が流れ住んでいたかもしれない。

境内広場には古いボダイジュもあり、幹周囲は106cmだが、地際周囲は300cmもある。この寺の本堂裏には、回遊式庭園があり、池の中心部には茶室もある。ここは快楽園(けらくえん)と呼ばれ、文化13年(1816)に、本堂再建にあわせて造られた。平成15年3月には町の文化財に指定される。 

もくじ
76 油田家のメタセコイア 
 (スギ科、メタセコイア) 多気町車川

かつて造り酒屋であった油田家の屋敷跡には太いメタセコイアがあり、幹周囲393cm、樹高30m私の調査では、三重県一の太さのメタセコイアである。おそらく、この苗はこの車川の山林に木原造林(株)が昭和33年ころ植えていた一本であろう。当時、この苗は東大から入ったと聞いた。木原造林(株)の社長はこの地を訪れると、よくこの造り酒屋の油田家に寄っていたというから、木原造林(株)の社長から直接プレゼントされたものかもしれない。この木は屋敷内ではあるが、川の縁で水に恵まれ、付近に邪魔物がなかったので、大きく育ったと思う。

メタセコイアは日本では化石でしか見つかっておらず、絶滅した木としてアケボノスギと命名されていた。ところが、昭和20年に中国湖北省で見つかり、昭和 24年にアメリカからわが国に入っている。その後、この木は挿し木で増やされ、各地に植えられた。 

もくじ 
77 柳原観音のモミ  
(マツ科、モミ) 大台町柳原(やなぎはら) 千福寺 

 柳原(やないばら)観音は「柳原手引観音・千福寺」という真言宗の寺。かつて、巡礼者達が旅先の安全を祈願したお寺という。また境内から眺望すると、下を流れる宮川の流れは美しく、旅する人々や近在の人々に親しまれてきた。

ちなみに本堂の十一面観音像は聖徳太子の作と伝えられるご本尊である。毎年2月と8月の大祭には火渡りの行事が行なわれる。寺の別名に手引観音と呼ばれるのは、花山法皇のご詠歌「あらとうと手引き賜える観世音貴きいやしき人をえらばず」と詠まれたのに由来する。

境内には幹周囲324cm、樹高20.5mの太いモミがある。昔、落雷の被害に遭い、今は幹の途中から3本の幹になる。神社や寺院のモミは、臣(オミ)と読みかえて、その施設の守り役の木とされる。この木は建物の裏側にあるので、その由緒で植えられたものでないと思われる。

しかし、古い昔は寺に隣接してこの木の近くに神社があったので、やはり、このモミは臣(オミ)であったかも知れない。この木は南側を流れる、宮川を見下ろして育つ。この寺の庭園には、なぜか古いシキミが5本もある。 

もくじ 
78 荻原神社のイチイガシ 
(ブナ科、イチイガシ) 大台町江馬(えま) 荻原神社 

県内2位の太さと思われるイチイガシは大台町江馬の荻原神社にある。本殿真裏にあり、しめ縄を付けた神木で、幹周囲406cm、樹高45mである。この境内にはイチイガシが他に2本あり、いずれも神木扱いで幹周囲は291cm241cm。境内のスギも巨木で幹周囲450cm.

 かつて、近畿地方のの平野部はイチイガシを主とする原生林に覆われていた。ところが弥生時代から古墳時代にかけ、人口増にともなって開発が進んだ。特に真直ぐに伸びるイチガシの伐採が進み、多くの原生林は失われた。その後には、環境に適応性の高いアラカシがとってかわった。こんな背景にあって、イチイガシの古木の多い森は、森林がよく保全されてきた指標と思われる。

 さて、荻原神社の創建は天正年間(1573-)以前とされる。古くは榎村神社、八王子神社といい、明治3年には八柱神社に改称。明治40年には、当時の荻原村の多く点在した神社を合祀して、村名と同じ神社名になった。戦前この地から多く満州開拓団に渡ったが、昭和61年には、旧開拓団の双龍神社の霊の返還を果たし、この神社に合祀している。 

もくじ 
79 大杉神社の大杉 
(スギ科、スギ) 大台町大杉 大杉神社 

宮川ダムで廃村になった集落より更に高い位置に大杉神社はある。この大杉神社の神木「大杉谷の大杉」は幹周囲755cm、樹高48mの巨木。ミニ拝殿の奥の本殿に相当するところにこのスギはある。昭和30年に県指定天然記念物、平成元年に「みえ新名木十選」になった。樹齢は現地の説明版によると約1200年とある。この神木に宿る神は、大変気の荒い神という。参詣に不敬があると、直ちに嵐をおこすといわれた。また、古くから紀州の漁師から海上の安全と大漁を祈願して、遠くから参詣があった。

大正14年(1925)には、5日間も燃え続けた山火事は、このご神木の手前で消えたが、これもこの神木の霊力だといわれた。今、境内林には古いモミ、ツガ、ミズメ、ヒメシャラなどがある。

 南北朝の頃からこの地は「大杉の里」と呼ばれたが、昭和34年までは「大杉谷村」だった。往古の昔、この地は宮川を利用して神宮の御用材を伐り出した「御仙山(みそまやま)」であり、大スギなどの巨木が多くあった。

 もくじ
80 大淵寺のスダジイ  
(ブナ科、スダジイ) 大台町久豆 大淵寺 

 宮川ダムの少し下流で、宮川流域の最も奥の集落の寺は大淵寺で、しかも斜面にある集落の最上部に寺はある。この大淵寺は、昔は下を流れる宮川の川縁にあった。ここには大きな淵があったので、寺の名の起こりとなった。

この地で、水害と火災に遭って、高い山腹に移転したが、今度は台風時に大木が倒れて、本堂を壊し、再び移転した。現在の地に落ち着いたのは、享保4年(1719)であった。この地も大木が多かった。その中で、形の良いシイノキが一本墓地に残された。この木はいま、幹周囲690cm、樹高20.5mのスダジイで、寺の西側の墓地脇にある。県内最大のスダジイと思われる。

 シイノキにはツブラジイとスダジイがある。ツブラジイのドングリは長さ1cm前後で球形に近く、スダジイのドングリは長さ1.5cm前後で細長い。内陸のシイノキはツブラジイとされるが、調べてみてもほとんどツブラジイである。ところが天然記念物になるようなシイノキはすべてスダジイである。巨木のドングリは、同じ木でも年により長さが違うのを観察したので、私は豊作年にはツブラジイ型ドングリ、凶作年にはスダジイ型ドングリが成るように思う。

もくじ
81 松井孫右衛門人柱堤のケヤキ 
(ニレ科、ケヤキ) 伊勢市中島2 

 宮川堤公園の最上流部に松井孫右衛門人柱堤があり、延長約200mほどある。この堤防の両方の法面(のりめん)のほぼ中間部には、高木の落葉広葉樹のケヤキ、ムクノキ、エノキ、カラスザンショウの太い木が育つ。幹周囲200cmの太い木は30本はある。このうち最大の木は幹周囲560cm、樹高28mのケヤキ。堤防上の天端幅(てんばはば)は今の車走れる幅はないが、昔の人の人力ででは大工事であったと思われる。また、堤防の法面に高木を植えるのが常識だったかもしれない。かつて薩摩藩が造った木曽三川工事の油島でも千本松原が残っている。

さて、この松井孫右衛門人柱堤は、寛永10年(1633)、度重なる洪水の被害を見かねた宮川ほとりの庄屋・松井孫右衛門は、自ら人柱 となって宮川を鎮めようと思い立ち、生きながら堤防の下に埋められたという。

人々は、川の猛威から田畑や家を守ろうと何度も堤防を築いたが、洪水のたびに壊された。この庄屋が人柱となって以来、中島側の堤が決壊したことはないという。掃守社跡地には「松井孫右衛門人柱堤の碑」があり、8月25日にはその遺徳を偲ぶ命日祭が行われる。俳人・山口誓子は「孫右衛門西向き花のここ浄土」と詠んでいる。

 もくじ
82 弥栄の松 
 (マツ科、クロマツ) 伊勢市大湊町

日保見山八幡宮前の「弥栄(いやさか)の松」は樹齢四百年余古木といわれる。この木は幹周囲353cm、樹高11m、南北の枝張りは18m。地際には、踏圧を防ぐため、直径6mの円内部分が枠で守られ、その中はゴロタ石のマルチングが施されている。神社のうら側の堤防のむこうは伊勢の海である。クロマツは海岸地方で防風林、防潮林などの 保安林として植栽されてきた。

なお、伊勢の大湊は古い造船の歴史のある町である。大湊は伊勢湾に面し、宮川、五十鈴川の下流三角州にできた自然の良港。背後にある大台ヶ原、大杉谷には大原始林があって、スギ、ヒノキ、ケヤキなどの造船用材は宮川を筏で河口の大湊に運ばれた。

平安時代には、神宮領荘園神税米の輸送のため、諸国から神役船が大湊に入港。南北朝時代、南朝の元勲・北畠親房は、熊野水軍と連合して、船艦20余艘を建造している。

文禄元年(1592)、鳥羽城主九鬼嘉隆は秀吉の大陸進攻の命を受けて兵船300余艘を建造、旗船は「鬼宿丸」は長さ33.8m、幅11.8mもあり、この船は後に「日本丸」と改名されている。寛永7(1630)には、幕府の命により、伊能忠敬の測量船も大湊で造られた。
  もくじ
83 神宮勾玉池のハナノキ 
 (カエデ科、ハナノキ) 伊勢市豊川町 神宮外宮

 ハナノキは昭和2年5月、岐阜県付知町(当時)の崇敬家牧野彦太郎さんが、木曾川流域に生えていたものを献納。当初は3本あったが今に残ったのは一本で、雄の木。今の大きさは幹周囲288cm、樹高22m。勾玉池(まがたまいけ)周辺にあり、地際の根の一部が異様に盛り上がる。

ハナノキはカエデの仲間。葉に先立って美しい真っ赤な花を多くつける。特に雄の木の花が美しく、むかし、この雄の木を眺めていた人が、花は咲くが、実がならないのでハナノキと呼んだという。

ハナノキの分布は、岐阜・愛知・長野三県の接点付近のみに限られ、北アメリカ産のアメリカハナノキと同様、“第三紀植物”の遺存種といわれる。勾玉池のハナノキは池の縁に育ち、秋の紅葉した落ち葉が水面を赤く染めるのも、また美しい。

また、この近くにはヒトツバタゴもある。昭和5年、同じ牧野彦太郎さんが献木。5月後半に真っ白い花が咲き、甘い香りをふりまいて咲き、珍木ナンジャモンジャの木として毎年新聞に紹介される。 

  もくじ
84 神宮勾玉池のアキニレ  
 (ニレ科、アキニレ) 伊勢市豊川町 神宮外宮
 外宮勾玉池の奥の池縁には幹周囲208cm、樹高18mのアキニレがあり、県内最大の大きさと思われる。外宮神苑にある勾玉池は、池の形が勾玉の形をしていのでこの名がある。この池は明治22年(1889)9月に造られたので、その頃池の造成にあわせて植えられたとすれば、樹齢120年近くになる。

アキニレは本州中部以西の暖地に分布するが、県内では野生のものをあまり見たことがないので、この木は庭木として入手したものを植栽したものと思う。県内のアキニレは学校、公園に稀に古い木があり、最近は街路樹として植栽される。

 さて、勾玉池は最近、「伊勢志摩きらり千選」に紹介される。この池の一部では6月にはハナショウブで彩られ、北側の池畔には舞楽の舞台が常設されていて、神宮観月会が仲秋の名月の宵に行われ、また一隅には「あこねさん」と呼ばれて親しまれている茜(あこね)神社もある。

  もくじ
85 外宮の台湾産樹木  

(ツバキ科、タイワンツバキ モクレン科、タイワンオガタマ マツ科、ユサン  ヒノキ科、ショウナンボク)

伊勢市豊川町 神宮外宮 
 外宮(豊受大神宮)の北御門の北西方向には、以前木材置場があったが、最近新しく駐車場に整備された。この土地には台湾産の珍しい樹木が生育していた。

今に残るこの木は縁石で区画された中で保護されている。これ等の木は、明治42年3月29日、時の逓信大臣・後藤新平が献木した台湾産の木であった。

日本が台湾を領有した時、彼は明治31(1898)から台湾総督府民生局長(のち民生長官)をしていた関係で、台湾産の木を献木したと思われる。当時の献木のリストはベニヒ、タイワンスギ、ユサン、ナギ、ショウナンボク、コノテガシワ、タイワンアカマツ、コウヨウザン、タイワンオガタマ、アカガシ(校讃)、イチイガシ、シイノキ(柯仔)、アベマキ、モモタマナ、クスノキ、フウ、アカギ、ゲッキツ、タイワンツバキ、テンニンカ、の20種、130 本であった。

いまこの駐車場に残っている注目すべき木は次のものがある。幹周囲354cmのフウ。ショウナンボクが5本あり最大は幹周囲197cm。幹周囲201cmのユサンがあり、これはわが国に渡来の最初の木と思われる。

地際周囲173cm201cmの2本のタイワンオガタマ。タイワンツバキは日本にないタイワンツバキ属で、ここには1本あり、2幹立ちで幹周囲は97cmと73cm。コウヨウザンは幹周囲115cm.。ほかにクスノキとアベマキも生育する。また、神宮徴古館庭園や神宮美術館庭園にもこの仲間と思われる木がある。
   
もくじ 
左ショウナンボク、右上タイワンオガタマ、右下左タイワンツバキ、右下右ユサン 
86 新開の臥龍梅 
(バラ科、ウメ 伊勢市御園町新開(しんがい) 新開臥龍梅公園 
 新開臥龍梅公園には臥龍タイプの梅は5本あり、枝張り約4m。昭和46年8月1日に当時の御園村の天然記念物。菅原道真ゆかりの梅を、伊勢の地に奉納したものであるという。「八つ房」ともいうタイプもある。この園内には多くの梅があり、菅原神社もある。

道真は平安前期の公家、学者であった。宇多(うだ)、醍醐(だいご)天皇に信任されて右大臣にまでになるが、藤原時平(ふじわらのときひら)の中傷により失脚し、九州大宰府(だざいふ)に権師(ごんのそつ)として左遷される。醍醐天皇の廃位を謀ったという無実の罪きせられた道真は、延喜元年(901)2月、京都の自邸を去るとき「東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花、あるじなしとて春な忘れそ」と詠んでいる。

またこの際、道真の傍に仕えていた、妻の続きの今村刑部師親(いまむらぎょうぶもろちか)に、伊勢の神宮祈願の印として、梅のタネ二個を託したという。この冤罪(えんざい)の晴れるのを祈願したものであった。当所のこの梅林は荒廃状態となるが、応安元年(1368)、この地に小庵を開いた裕善和尚が、境内に梅園を再建したという。

  もくじ
87 堅神神社のウバメガシ 

(ブナ科、ウバメガシ) 鳥羽市堅神町 堅神神社 

 堅神神社は近鉄鳥羽線の「池の浦駅」前にある。神社下側の斜面には、前池に覆いかぶさるように伸びるウバメガシの巨木がある。腐朽の入ったその幹周囲は309cm、傾いた幹長は10mこの境内林には幹周囲79cmのシャシャンポ、幹周囲268cmのヤマモモの古い木もある。

この神社のウバメガシは私の調査では、県内最大の太さである。これに次ぐ木として、同じ様な単幹状の木は伊勢市二見町松下の「松下社の大クス」横に地上1mの幹周囲が297cmのウバメガシ、大紀町錦の錦福羅公園の町天然記念物の幹周囲244cmのウバメガシがあった

ウバメガシの古い木の多くは、地際から多幹状に育つことが多く、例えば尾鷲市南浦・リュウノタニの伐採天然林には地際周囲312cm14本株立ちのウバメガシを見た。南伊勢市内瀬のウバメガシは地際から広がって幹周囲100cm前後の木が7本も株立状に生育する。また、ウバメガシは昔から価値観のある庭木であったと思う。旧家の目立つところや茶室のにじり口等に用いられている。 

  もくじ
88 庫蔵寺のイスノキ 
(マンサク科、イスノキ) 鳥羽市河内町(こうちちょう) 庫蔵寺 

丸興山庫蔵寺山門前斜面の境内林には幹周囲381cm、樹高13.5mの太いイスノキがある。現地の説明版によると、庫蔵寺の約5haの境内林には、幹周囲1m以上のイスノキが21本あるとある。またそれ以下の小さい木は多数とあり、昭和53年2月7日には「庫蔵寺のイスノキ樹叢」として県天然記念物の指定をうけている。

なお、丸興山庫蔵寺は天長2年(825)に、弘法大師が朝熊山金剛証寺の奥の院として建立され、弘法大師の作とされる虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)が本尊。室町時代には、雲海上人(うんかいしょうにん)により国土鎮護のため護摩求聞持法を修めた霊場として中興された。また、戦国時代に九鬼水軍の武将・九鬼義隆(くきよしたか)が鳥羽城築城の地鎮と安全の祈願を命じ、祈願寺となる。文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)に際し、九鬼が水軍を率いた巨船の旗艦に、丸興山の丸をとり「日本丸」と名付けている。それ以後、日本の船舶には「丸」をつけるならわしになったとされる。

本堂は永禄4(1561)建立。内部の格天井には、極彩色で花や天女、仏像が描かれている。平成6年には平成の大修復が完了。この本堂は、大正9年に国指定重要文化財。また本堂裏側に、慶長10年建立の鎮守堂があるが、これも昭和31年に国指定重要文化財になっている。 

  もくじ
89 庫蔵寺のコツブガヤ 
(イチイ科、コツブガヤ) 鳥羽市河内町(こうちちょう) 庫蔵寺 

国の天然記念物「庫蔵寺のコツブガヤ」は本堂右前広場の端にあり、平成5年1月20日に指定をうけている。いま幹周囲431cm、樹高25m推定樹齢400年といわれる。コツブガヤはカヤの変種。

その種子が普通のカヤは長さが平均25mm位に対し、このコツブガヤは長さが15mm以下で、球形に近いかたちをしている。この木は平成3年(1991)、岡与一先生が調べて分かったもの。

コツブガヤは昭和初期に、今の名張市長瀬の大矢宅裏庭で、国津村布生(現・名張市布生)出身で九州大教授の森川均一博士が発見。昭和3年(1928)に学会に発表してコツブガヤと命名された。

この木は昭和11(1936)県の天然記念物に指定されたが、昭和34年の暴風雨で倒木し、指定が解除されている。ところが、この木の近くに幼苗があったので、大矢さんが近くの山林に移植。平成15年、名張市制五十周年記念誌で樹木の調査をしていた葛山博次先生が、これをコツブガヤであることを確認している。 

  もくじ
90 家建の茶屋跡にオオシマザクラ 
(バラ科、オオシマザクラ) 志摩市磯部町恵利原 

 旧磯部から宇治へ越える旧道は「逢坂越え」。この旧道の「天の岩戸」の手前で、山道に入る所に、明治末期まで「家建(やたて)茶屋」というがあった。昔、志摩から伊勢に向かう旅人が休息した所である。

この跡地には古いオオシマザクラがあり、平成11年に当時の磯部町の天然記念物になっている。その大きさは地際から株立ち状になって、地際周囲304cm、樹高10.5m、枝張り22m。近くの「天の岩戸」は神宮林の近くにあって、天照大御神が隠れ住まわれたという伝説の場所。この水穴から湧き出る岩清水は「日本の名水100選」に選ばれている。

このオオシマザクラの満開になる4月上旬には花見の会が開かれ、この名水を使って野点(のだて)や、地元名物の「さわ餅」が振舞われる。

 オオシマザクラの花は白く大きいが、葉も同時に開く。この木の本来の分布は伊豆半島や房総半島であるので、この「家建の茶屋跡のオオシマザクラ」は他から入手して植栽された木と思われる。場所が茶屋であるので、葉は桜餅を包む目的に植えたかもしれない。オオシマザクラの葉は、江戸の向島の長命寺で、桜餅として享保2(1717)、最初に売り出している。 

 もくじ
91 立神・宇気比神社のヤマモモ  
 (ヤマモモ科、ヤマモモ) 志摩市阿児町立神 宇気比神社

 神社境内の裏側で人目につきにくい所に、県内最大ではないかと思われるヤマモモがあり、幹は中空で幹周囲366cm、樹高14m。この神社の境内には古い木が多く、幹周囲293cmのケヤキ、幹周囲332cmのホルトノキ、幹周囲120cmのモッコク、幹周囲263cmのイヌマキ等もある。境内林にはタイミンタチバナ、ツルコウジ、ミミズバイ、イヌガシ、カクレミノ、アリドオシ、カゴノキ、バリバリノキ、サカキ等もある。

 ヤマモモは、痩せ地や植栽直後でも葉が良く茂る。これは根に空中窒素を固定できる根粒菌が共生するためである。そのためヤマモモは志摩地方の乾燥した山地で、特に目立って葉を茂らせている。合併前の阿児町ではヤマモモが「町の木」であった。

  宇気比神社では、延宝年間(1673-)から行われる恒例の「ヒッポロ神事」がある。1月には烏帽子(えぼし)や裃(かみしも)をつけた人が、神事を長時間かけて行われる。このうち獅子舞神事の歌譜(うたふが「ヒッポリョーリョ」など口伝えで習うことから、「ヒッポロ神事」と地元の人はいう。この獅子舞は 県下でも最も古いしきたりを伝えるといわれ、市の無形文化財 
 もくじ
92 船越神社のホルトノキ 
(ホルトノキ科、ホルトノキ) 志摩市大王町船越 船越神社 

船越神社下の船越保育所運動場の一角に、枠で囲まれた中にホルトノキがあり、3幹立ちで、地上50cm上で幹周囲322cm、樹高15m。神社の木と聞いたが、神社はその地域の文化の中心。独り生えでなく植栽されたところにあるので、古くからホルトノキが価値観のある木であったと思われる。本殿前側には太いモチノキもある。神社裏山は津波災害時の避難場所として、最近整備された。

 「船越」の地名は英虞湾から伊勢湾側まで、船を運べるほどの陸地しかないということ。その距離は500m。その中央が船越神社である。

境内で、今の船越保育所のあるところは、かつて「船越座」という回り舞台を備えた芝居小屋があった。この芝居小屋は、安政4年(1857)から戦後まで続いた。毎年、夏の天王祭には歌舞伎が演じられ、広場には桟敷が組まれ、多くの人で賑った。

その後、建物の老朽化が進み、地元で維持できなくなり、神奈川県川崎市多摩区枡形に移築され保存された。この建物は、「旧船越の舞台」として、昭和51年に、国指定重要有形民俗文化財になっている。 

 もくじ
93 おりきさんの木 

(ナンヨウスギ科、ニューカレドニアマツ) 志摩市志摩町和具 旧志摩町役場 

  志摩町役場は平成6年に新しい役場に移ったが、この旧役場下の駐車場には、幹周囲274cm、樹高20mのニュ-カレドニアマツがある。地際は新しく鉄線枠で保護された。この木は最近植えられた幼苗を除けば、 三重県内唯一のものと思う。平成元年に「新みえ名木十選」になった。別名をクックアロウカリアといい、ニューカレドニアやポリネシアに自生する。

さて、この木は明治27年、片田出身の伊東りきがアメリカから里帰りの土産にもってきたもので、 叔父で医者をしていた伊藤雲碩(うんせき)に送ったものである。

この苗木は10cmほどで、トランクの中に入れて来たという。伊東りきは慶應元年(1865)当時の片田村の漢方医伊東雲鱗(うんりん)の二女として生まれた。兄の医者の修行に同行して東京へ出るが、当時横浜に来ていたレンガ製造技師のアメリカ人家族の家に、メイドとして入り込む。

この家族は2年後に帰国するが、りきはこの家族になりすましてアメリカに渡る。

明治22年、りき24歳の時であった。明治27(1894)、アメリカで財をなした彼女は生涯一度の里帰りをするが、この時この苗を持ってくる。 翌年の明治28年、彼女は志摩地方の移民をつれて再びアメリカへ渡る。 その後、アメリカ移民の面倒をよく見る。

もくじ 
94 田丸城跡のハゼノキ  

(ウルシ科、ハゼノキ) 玉城町田丸 田丸城跡 

田丸城跡の本丸と二の丸の間の裏側土手には、幹周囲343cm、樹高14mの巨大なハゼノキがある。かつて、誰にも知られていなかった県内最大のこのハゼノキは、平成5年の「第17回全国育樹祭」の記念誌『郷土の樹木』ではじめて紹介された。

この木について、三重大学の武田明正先生は、鳥類などによって自然に散布された種から発芽したか、あるいは、勧業に熱心だった紀州藩が植栽を勧めたハゼノキの子孫かと記した。ハゼノキは蝋(ろう)を採取するため、栽培されたものが野生化したとされる。

かつての田丸城は、東側に初瀬街道、南側に熊野街道が、神宮に入るところで合流する交通の要衝にある。この地は古くは玉丸山といって、延元元年(1336)、南朝側の北畠親房、顕信父子がこの地に砦を構えたのに始まる。永禄11(1568)、 織田信長の伊勢侵攻では、北畠氏と和睦して、信長の二男信雄が北畠の養子になり、田丸城主となる。のち、裏切って北畠国司を滅ぼしてしまう。元和5年(1619)には和歌山藩領となり、明治維新まで続いた。明治4年(1871)城内の建物は取り払われている。昭和28年に県指定の史跡になった。 

  もくじ
95 久具都比売神社のクスノキ   

(クスノキ科、クスノキ) 度会町上久具(かみくぐ) 久具都比売神社

 久具都比売(くぐつひめ)神社は、県道38号線から久具都比売橋を南へ渡った宮川の岸辺の森にある。伊勢の神宮の摂社。この神社の森周辺にはスギ、ヒノキ、イチイガシ、オガタマノキ、カゴノキ、カヤなどの古い木が生育し、地表にはツルコウジも多い。森の中央には幹周囲797cm樹高23mのクスノキの巨木がある。伊勢志摩地方では有数の大きさのクスノキである。

 久具都比売神社は「延喜式」の「神名帳」にも記された神社。その祭神は「皇太神宮儀式帳」によれば、「久具都比売命(くぐつひめのみこと)」と「久具都比古命(くぐつひこのみこと)」とあり、ヒメ・ヒコという男女の対偶神になっている。

この神社の森に隣接して、宮川の「上久具(かみくぐ)の渡し跡」がある。近くに久具都比売橋ができるまでは、明治から平成6年3月までの約90年間、両岸の人々を運び続けた大切なルートであった。特に、学童の通学路として、子供たちはこの渡し場をわたって学校へ通った。ここが県内で最後となった渡し場であった。
もくじ
96 内瀬のハマボウ
(アオイ科、ハマボウ) 南伊勢町内瀬(ないぜ) 伊勢路川河口 

 伊勢路川河口には本州最大級のハマボウの群落があり、手元の資料では面積2haとなっている。この群落で太い木と思われる木は、地上20cm上で幹周囲60cm、樹高3m以下である。現地の説明板には、この内瀬出身の元京都大学の赤井龍男先生は「夏、美しい黄色の一日花を咲かせるハマボウは、地元では昔からイソツバキと呼んだ。半マングローブといわれる珍しい木は、根元から多くの枝をだして、タコの足のように根を張りめぐらして、洪水時に川岸を護り、海の堆砂を防ぎ、津波の被害を少なくする役目あった。それに生物多様性維持のビオトープでもある。」と書いている。

以前、これだけのハマボウの群生地があるのだから、町に天然記念物として指定して保護してはと、申し入れたが、その頃、この河川改修が予定されていたので、見送りたいという話だった。今、この河口の河川はビオトープを配慮した県内では最初と思われる工事ができている。

三重県内では、ハマボウは海岸部に点々と生育し、津市河芸町の田中川河口が北限とされる。ハマボウは海岸で船をつなげる唯一の木として、植えられたとも言われるので、本来の天然分布かどうか判らない。

もくじ 
97 穂原小学校のダイオウショウ 
 (マツ科、ダイオウショウ) 南伊勢町伊勢路 穂原小学校

穂原小学校の正門近くには、北アメリカ産の古いダイオウショウがあり、幹周囲255cm、樹高18.5m津市櫛形小学校のダイオウショウに次いで、県内二位の太さと思う。

かって、穂原小学校の旧校舎のときは、このダイオウショウ付近には、小学校では県内で最も多く樹木が収集されていたと思われる庭があった。今もトキワマンサク、オリーブ、サルスベリ、ハマボウ、モチノキ、ウバメガシ、モミ、シノブヒバ、クロマツ、イヌマキの古い木が残っている。

このダイオウショウは昭和の始め頃植えられたと推定されるので、誰かこれらの樹木の収集について、熱心な人がいたにちがいないと思う。私の推定ではあるが、小学校からそれほど遠くない押淵地区の広出泰助さんは、昭和11年に天然記念物保護で文部大臣表彰をうけた人であり、現地の植物調査の案内人であったので、この人がかかわっていたのではないかと思う。

この小学校の校舎の南側の運動場側には幹周囲415cm、樹高16mのオハツキイチョウの大木もあり、乳イチョウの木でもある。この木は、この校舎ができる前にあった久昌寺の木であった。学校のブランコで遊ぶ子供達はこの木を「大イチョウ」と呼ぶ。 

もくじ
98 礫浦八幡神社のホルトノキ 

(ホルトノキ科、ホルトノキ)南伊勢町礫浦 礫浦八幡神社

境内林には太いホルトノキが3本あり、最大の木は幹周囲353cm、樹高27m。他に幹周囲325cm302cmのホルトノキもある。この境内林には幹周囲377cmのスギ、幹周囲227cmクロガネモチ、幹周囲205cmのオガタマノキの太い木も混じる。地表にはツルコウジが多い。

 この地には天照大神の「礫石(さざらいし)」という7寸四方ほどの円石があった。この石に五本の指の形の付いていたので、一名「五手の石」ともいわれた。この石にお祈りすると、天候が悪いときでも魚が捕れるといわれたので、昔から船乗りの信仰が厚つかった。今、礫浦八幡神社に御神体として祀られている。この礫石から、この地を礫浦と呼ばれたと思われる。

 この神社周辺には古墳が点在し、磯浦古墳群といわれ、神社の上方の宮山古墳の横穴式石室からは多くの葬具品に混じって、海産の副葬品のアワビやカキも出土した。6世紀後半の地位の高い人の古墳とされる。古い歴史のある土地だけあって、この神社には「こじめ祭り」とか「みこねぎ式」という神事が残っている。なかでも、漁村ならではの「塩切り」行事は、神様にお供えした塩漬けのます、鯛、伊勢えび、鰹を四人が揃って、まな板の上で裁き、切り身にする儀式。

もくじ 
99 河内・仙宮神社のバクチノキ 

(バラ科、バクチノキ)南伊勢町町河内(こうち) 仙宮神社 

仙宮神社本殿は津波を避けて、小山の山頂にあり、長い参道の石段がある。登り口には幹周囲203cm、樹高17.5mのバクチノキがあり、更に10m離れてもう一本あり、太さは幹周囲137cm。下に多くのバクチノキの子供苗も見る。また、この近くには地上30cm上の幹周囲が349cmの太い二幹立ちイロハモミもある。これらの木は参道に沿ってあるので、植栽されたものと思われる。

この古いバクチノキには説明板がついている。社伝によると、天竺(てんじく)僧・佛哲和尚が植え付けたとある。また、大正7年に苗木を明治神宮に献木したとある。ところが、仙宮神社のホームページの御創立由来によると「境内には、天竺僧佛哲和尚が植え付けた多羅樹の木がありその苗木を、大正七年に明治神宮へ献木している。」とある。この多羅樹とはモチノキ科のタラヨウを指すのが普通であり、留学僧が植えたとすればタラヨウは佛教ゆかりの木で、記念樹にふさわしい木である。

したがって、バクチノキはタラヨウと間違って植えられたとも思われる。また植栽当時、この地では恐らくタラヨウの苗は入手が難しく、バクチノキの苗は野生のものから容易に確保できたと思われる。 

もくじ 
「三重の巨樹・古木」の冊子は、県内の150本の巨樹・古木のガイドブックとして刊行したものです。
只今、緑の募金に500円以上ご協力いただいた方にご希望があれば当冊子を贈呈させていただいております。

戻る