妖婆伝3 老婆の放った眼光は顔中のしわを際立たせながら、自分に届けられている気がし、その返礼として同じような輝きを見て取られのだと思った。湯飲みを口へ運ぶ仕草も演出されているのか、茶の香は百幾年の歳月に従順な漂いをしめし、句読点の按配で寸暇を惜しみつつ、潤いを得て淀みなき語りが続けられる。 「孫の話しのまえに黙念先生のことを聞いてもらおうか。まこともって澄みきった沢じゃった、そりゃ瞭然じゃわ、ようよう目指した地へ辿り着いたのがわかった。しばらくすると眼のまえに蒼い影が迫っておって、おお、黙念先生に違いあるまい、そう感じた途端、意識が薄らいでいったんじゃよ。まるで夢のささやきだわな、先生にはわしの目的がお見通しなんだろうて、、、わしのあたまに伝わってくる、めくるめく絵巻物となってな。それはそれは雄大な調べじゃった。しかし朦朧とした加減じゃさか、すべてを言い尽くすのは無理じゃし、あんたにどこまで汲み取ってもらえるか知れん、で、要領よく話すとするわい。 黙念先生は驚くなかれ人間だったそうな、だが厭世にとらわれ山椒魚に転生したんじゃと。わしのしんの臓がぴくりぴくりし始めたとき、おぼろげにことの真相が明らかになってきた。ああ、このわしも、あのもろ助も千代子も、そして大勢の仲間たちも、意思疎通の可能な奴らは皆一緒だったから、つまり人間だったのじゃなあ、とすれば、わしはもとのすがたに戻るため躍起になっているわけになる。なんとも複雑な気持ちになってのう、それで限りなく言葉に近い意識を持っていたのか、悠久の時間が河川に溶けこみ霊妙な種が生じたんじゃなく、すでにこの心身に巣くっていたのか、それでも危うく興ざめになりかけた心持ちへ働きかけていたのは、やはり意志だったから情に流されることなく、わしはひたすら願いを乞うた。黙念先生はほんの少し哀しい眼をしてなあ、秘法を授けてくれたんよ。さぞかし深遠な教義だろうってな、身を引き締めておったわい。ところがあんた、伝授はいたって簡単とにかく焦らないこと、女人なら誰でもよいなど考えぬよう、おのれが恋慕うくらい、また情欲がすべてを包み興奮しながらも遣る瀬なさを相手に見いだしたとき、無心でつまり死を覚悟で突入せよ、、、他言は永劫無用なり。 こう言えばいかにも厳しい激しい響きがあるように聞こえるじゃろうけど、それが不思議なことに皮膜を隔てた向こう側からやんわり鳴っているんじゃよ。澄みきった沢は邪念を消し去ってしまうのやら、はたまた沢そのものの声明であるのやら。 わしは教えをありがたく頂いてのう、黙念先生にお礼をしようとしっかり眼を見開いたのじゃが、すでにその影はなく、辺りは鈴の音が仄かに遠のいていくような気配が残るのみじゃった。 茫然としていても仕方がないのでもと来た流れを下っていったわい。そうじゃとも、行きとは正反対の静かな呼吸でな。それからわしは待った。陽が昇り、そして沈むのをどれだけ、数えきれないほど、だが決して忘れ去ることなく、日々を過ごした。やがて胸ときめく女人を川辺に発見したんじゃ。歳の頃は十七、八でな、背は低からず高からず、ほどよい肉付きがまた若さを新鮮にしておって、好感はもちろんとてその中になんとも言えぬ色香をひそましては、こちらを惹きつける具合が初々しくも早瀬のように切ない。格好から察するに農家の娘みたいじゃけれど、本来の明るさと同居しているのか、どことなく内気な顔つきが、却ってためらいを知らぬふうにも、いや、恥じらう風情を自覚しているからこそ、楚々とした目もとに小さな魔性が眠っておる、まだ目覚めを知らない柔肌の赤みのようにな。 その柔肌を抱くとともにこの身であることの願望が芽生えたところ、もうひとつの肉欲が台頭して来たらしい。わしの方にも魔物は棲んでいるから、まだ目線を交わらすことなくとも互いの距離に甘い空気が漂って、そうじゃよ、女人特有の匂いはひろがって雄が放つとろみと重なり合い、青空に舞い上がって行くようだった。 娘はひとり山菜を摘みに来た様子での、視界に飛び込んできたわけで、笊には収穫が盛られていていたから、帰り道なんだろうて、絶対に見失わぬようわしは陸を這い這いあとを追ったんじゃよ。やがて幸運が訪れたのも天明に違いないじゃろう、娘が小用を催し木陰に身を隠す素振りを見せたとき、わしは脳内から発せられた号令によって一直線に娘のほとへと忍んで行った。 無防備そうでいて、山鳥の枝に休まるときの可憐な警戒心がそのうしろ姿にある。まくられた着物の裾から張りのある山の実がのぞいている。勢いを増す速度を叱咤するよう桃割れの間から清水を想わせる小水がほとばしっておった。わしは無心だった。だから、排水口を遡るよう娘のほとの位置だけを頼りに、、その苔むし滑った亀裂を眺める猶予なぞなく、一気にあたまから突っ込んだんよ。水中の岩穴とはまるで異なる感触が全身を支配するのは閃光のごとくじゃった。わしは胴体をひねりながら行き着く先まで侵入し、これまで味わったことのない柔らかな暗黒に包まれ、深い眠りへ誘われる穏やかな陶酔を感じ、娘の悲鳴を彼方に聞いた。 わしの意識はそこで途絶えたんじゃ。そして覚醒したときに久しく失っていた体感を得ながら、激しい違和を知ったのだから、おそらく娘も失神していたと思われる。なぜなら目覚めたのは娘のからだであり、わしの記憶だったからじゃよ。幾度も瞬きしてみてな、神妙な気分なんだが、胸の隆起をその重みで認めれば、胸の奥底からどうしたことか軽い笑みが込み上がってきたりしてな、増々眼をぱちくりしておった。仰向けのまま瞳に張りついている空をまぶしそうに見つめながら、瞬きすることで現実を了解しようと努めていたのかだろうかいな、それとも回避するまねごとでもしないと治まりが悪いみたいな、ようは娘に対する供養だったかも知れん、多分な。女犯などといった大義名分は成り立たんよ、戒律が大手を振って歩いてくれたならわしは破戒者として枠組みでくくられ、人間らしさの隅っこに気恥ずかしくとも居られただろうよ。ところが女体をむさぼるよりもっともっと罪な所業を行なったんじゃ、からだを乗っ取り娘の無垢な意識を葬ってしまったわけだから、、、命を奪ったに等しいわな。 空高く駆け上がっていく悔恨が、ちょうど天に唾を吐くことと似て、己の顔に落ちてこないよう、良識に縛られない為に、この双の眼に性急な闇をつくりださないといけなかった。ほとんどまじないに思うだろうが、あのときは次第に人間の血が通いだすのを留められないし、乗っ取った娘にわしが同化し始めているは拒めない、さすがに若い肉体じゃて、罪悪感にはおかまいなくどんどん血はめぐり、こころなしか雄である身に女人の魂が浸透してゆく思いがする。わしは眼を閉じてみた。ああ、いかん、暗黒の領域は余計に魂が彷徨してしまうわい。だがな、一方ではさして深くもない供養より人間に転生した歓びを押し殺せずに、一刻も早い順応を求めているんじゃよ。そしてこうなった以上、意志を貫いた限り、娘の肉体を生かす術に大義を見いだしているおのれに気づき愕然としたものの、もはや意識と身体は不可分になりつつあったから、下手に怯んで分裂した人間になっては一生のあいだ宿業を背負うはめになる。これでは娘も浮かばれんだろう、結局そんなこじつけを了承しながらわしは、衝動ではなく悲願としてことに及んだ有り様を肯定するしかなかった。 さあ、ここからはあんたも推測がつくだろう、そうじゃ、わしは瘴気に当てられたと病いを装ってまんまと娘に化けおおせ、都合がよくない場面に接したときもなんとか上手くかわして家人の様子やら、生活ぶりを学習していったんじゃ。やがて嫁にも行く、子宝にも恵まれる、その頃にはすっかり村の風習になじんで、それどころかうなぎの牛太郎であった覚えもあやふやになる始末での、心身は女人のそれにならい今日に至ったという次第なんじゃわ。つまりわしは超人として生命を燃焼したと言ってみてもよかろう。 うなぎ時代と一緒でこれまでの年月、細々したなりわいや暮らしぶりは端折らせてもらうよ。あんたの興味をあげてみると大方こういうところでないかな、化けの皮を剥がされそうな情況はなかったのか、後悔はしなかったのか、再び転生を望むのか、黙念先生との誓約を破って果たして難はないのか、そしてこの孫娘の秘密とやらは、、、そうかい、そうかい、あんた素直じゃな、でも慌てんでもええ、まあ茶でもあがりなさい、せんべいもどうじゃ、まだ日暮れてもおらん、ここまでは前振りじゃて、話しの佳境はこれからよな」 |
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