妖婆伝20 雨上がりの気配を宵の口に感じるのも悪くない。鉛色の空が青みがかる、何となく得をしたような、憂いの置いてかれたような風色と違って、夜空にはさながら寝入った幼児の夢見がひろがり、底辺に遊ぶ重しをなくした初々しくもしめやかな混乱があった。静けさだけを取り柄とした、そのお陰で別方向からやってくる侘しさの斉整を引き受けなければいけなかったが。 ひとり夕餉をいただき杯を煽る。最初は申し訳なく、気まずく、遠慮がちであったけれど、酔いの手助けもあり、客人という大義名分を鵜呑みにするのが酒の味わいだと、不敵な思いに駆られだして、老婆、舟虫と酌み交わしている情景のなかへ埋没し始めていた。少しの違和も生じないのが不思議といえば、不思議だったが、日中からのときの経過はあまりに間延びしていたのだと想いなし、奇妙な物語の変遷に現実の時間をはめこむ没意義に頷けば、ほろ酔い気分もまた小夢の語りに含まれている気がした。 「この分でしたら明日は晴れるでしょう」 停滞し続けよう努めている流れに逆らってみたくなったのは、いくらかの気恥ずかしさがあったのだろう。折角うつつを抜かしているにも関わらず、わずかの呵責を口にしてみせる小胆、自分から話題にするのは無粋であり、下手すれば二人のもてなしを損ねてしまいかねない。どうしてそんな早まったことを言ってしまったのか。 「どうかいな、この辺の天気は変わりやすいのじゃ」 「明日は明日よ」 案の定、苦々しく半分呆れているふうな返答が寄越された。 「はあ、そうですね」 実に情けない声で了解してみると、不意に異なった考えが横切った。先を急いだわけでない、峠越えに縛られているのでもない、あべこべにたゆたっているこの現況へ執着しているのだ。胸の片隅では明日も客人のまま留まっていたい、例えまやかしであろうと半睡の情態が恋しく、それはたなびく霞の向こうで悩まし気な顔をした舟虫であり、語りのなかに棲む小夢であり、つまり自分を取り囲むすべては決して色褪せてはならないのだった。村はずれに、山々の遠方に、鉄道のゆく先に、風の彼方に拡散する願いより、妖しい気流の渦巻いく辻に立ち、こじんまりした、けれども無限の謎をはらんだ四方を見据えていたい。 「ひとり酒もなんですから、ご一緒しませんか」 今度は卑下でも気詰まりでもなかった。沸々と体中の毛穴から立ちのぼってきた酒気は責務になって、素直な心持ちを後押しした。夢に呑まれていたとしても、自分はそこで出会った者らと触れ合いたかった。悪鬼であろうが、妖魔であろうが、ひとでなしであろうが、、、 「あれま、心遣い、それじゃ、相伴にあずかろうかねえ。舟虫や、杯を持ってきておくれ」 すくっと立ち上がった舟虫の姿勢は健気で、その足もとに落ちた影は濃く、畳の目を美しく覆い隠した。 「あんた、いける方だね」 老婆は舟虫の影から這い出したふうな、それでいて悪びれてない様子をまるで写し鏡にしてみせる声色を使ってくれた。駆け出しの気分を、夕焼けに染まった始まりの情趣を。宵の色は残照なしに見届けられない、生酔いが頬の赤みをともなうように。 「いえ、それほどでも。それに随門師匠でしたか、のちの経緯を聞きたいものです」 「そりゃ、殊勝な心掛けじゃわい、はははっ、酩酊してしもうたらいけんわな」 果たして老婆の昔話しは今夜中に終わるのだろうか。疑心を抱くことすら無駄であると思いつつ、あきらかに自分は百歳を過ぎてなお闊達な口調に委ねていたけれど、そのわけは念頭に上らせるまでもない。 「ばあ様は冷やでよかったわね、あたしも」 口のなかは熱を帯だしていたので自分も同じものを所望した。井戸水か湧き水にでもさらしておいたのだろうか、きりりと冷やされたその舌触りに驚いた。しかし、冷酒に感嘆した素振りはあえてなおざりするよう、神妙な顔つきでちゃぶ台を見つめていた。相伴とともに語りが再開されることを望んでいるふうな装いだったが、他でもない、先程まで右隣に座していた小夢のまぼろしに成り代り、あたかも前世からの約束事であったかのように舟虫が寄り添ったからである。自分の寡黙は早鐘をついたまま、幻影と隣合わせ、いや、交わった事実に圧倒されていたので、その戸惑いのさなかに凝固するしか能がなかったのだ。 女から徳利を受ける。正面の老婆の顔をうかがうのが照れ臭く、必要以上に目線を意識してしまい、うつむき加減が気弱で仕方なくなり、増々もって陰鬱な表情をしめしていた。 哀れなのか、奇特であるのか、それとも果報者なのか、香り立つ女の匂いは運ばれることで、新たな因果を生みだす。遠い過去の出来事が色鮮やかによみがえるとき、その眼の奥に眠る宝石の価値は無限大となる。どうした事情なのだろう、まぼろしが現実に即す場面から免れたいとは、、、 一時の狼狽と気軽にかわすことが出来ない、これでは初心な女学生と誹謗されても仕方あるまい。自分は港町の風景に、随門師匠の風貌に想い馳せることで、肩先さえすぐ触れそうな舟虫の存在を薄め、一刻も早く老婆が喋りだすのを待ち構えていた。 そんな焦りにも似た気後れを知ってか知らぬか、舟虫の体温は伝わって来そうなほど身近にありながら、表情を知るのがためらわれている自分と同じ気振りで通している。くらくら脱力しかけた身構えは、体をなしていなかったはずの小夢のまぼろしに支えられていた。そう、すでに老婆の口は開いており、陽光を浴びてなお、寂寞と駆けゆく夜の意想へ紛れこんでいた。至福にありながら、おいそれと境地を認められない頑迷が善くも悪くも堤防になって自分を遮断しているのだ。 小夢ならすぐに抱きしめただろうか。妙を攻略したように無益な情念をたぎらせられない。自分の横に舟虫がいる。ただそれだけ、、、満蔵だったら悪知恵を働かすに違いない、無邪気という隠れ蓑を用いて。 |
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