回想


それはそうでしょう、あなたの目つきはまるで警戒心の強い猫のような感じがしたのですから、わたしだって夜行性の動物の身構えをもってしまいます。一瞬のことだったと言いたげなのはわかりますけど、ええ、確かにその後はすっかり快活な笑顔に返りましたよ、しかし、こうやって記憶の奥底をうかがわなくとも、つい先日まであなたに会うたび、まるで海と空の青みのように間違いない広がりで意識を占領していたのです。からだの解放より、いえ、身を寄せることのはかなげな情感より、もっとしっかり居座っていたのだと思います。
ようやく寝ついた子供の小さな呼吸さえ濃い霧みたいになって、その場から静かに後ずさりする自分の足もとが不確かだったのは、気が急いていたばかりじゃありません。それこそ一夜の逢瀬に向かわせる香しい恐れと忌まわしい悦びが、眼前にはだかりながらも車窓を流れゆく風景のように、去りつつあるのは不思議なものです。あなたは湯上がりの着替えを眺めているふうなさっぱりした目線でしたけど、そう隠しきれるものではありません。わたしは気恥ずかしさゆえに、ええ、こう言うといかにも弁明に聞こえるかも知れませんが、わざとぞんざいな素振りをしていたのです。どうしてって、あなたを引き止めておきたいのはやまやまでしたけど、短い期日でしかありません、あす一日、あさってまで、あともう少しだけ、、、想いの強さが勝るほどにわたしは哀しみも同時に引き受けなくてはいけないのです。そんなことくらい承知しているはずのに、いかにもって面持ちですましていましたね。あのときです、わたしの胸を去来していたもやもやが断ち切れたと感じたのは。
案外と単純なもの、あなたの控えめな口ぶりの裏がわにすっかり惚れ込んでしまったのですから。わたしの影をそこに託してみたのか、あるいは別種の影法師ですっぽり覆われてしまいたかったのか、その両方でもあったのでしょう、きっと。
あの夏はほんとうにうだる暑さでしたね。薄い生地に汗がへばりついてはその実、不快さはいつになく汚れであることに妙な期待を抱かせ、案の定わたしは熱したからだから染みだす、決してさらさらしたものではない情念を認めてしまいました。
三日目の夜でしたか、呼吸の乱れに忘我の余韻を乗せて、火照ったほほに羞恥とは異なった赤みがさしているのを愛おしく感じながら、うっとりと、かなうことならこのまま眠りつきたく願ったおり、ぽつりぽつり、そうちょうど熱帯夜の通り雨の幻聴のごとく、あなたは語りだしました。なんでも蚊帳を吊って待っている女がいたそうで、わたしは随分と古風な恋話しだと、腹のなかでは軽んじていたのですけど、聞けば夢の光景だったと言うじゃありませんか。どこか小馬鹿にされたみたいで他の女との色ごとなんて疎ましい、でも思いはさほど憎々しいとまででなく、むしろ軽んじていた気分と歩調がそろったようで、夢の最中であるのは今も同じではないだろうかって、ほくそ笑んでおりました。
で、わたしの方も負けず猫を玩具にした想い出を聞かせてあげたんでしたわ。それからどうしたと、えらく執心だったのが懐かしくもあり、少しばかり考えてみますとうら覚えだった話しに聞き入ったあなたの気持ちが、よい景観をのぞきこんでる望遠鏡となってよみがえってきて、結局わたしは恋におちたわけでも弄ばれただけでもなく、あなたという男を見物していたに過ぎないと思えてきたのでした。
郊外とはいえ、夜間の静まりは水を打ったという調子ではない、慣れた耳にだって車両の行き来は風はなくともしきりに届けられるし、人語ともざわめきとも区別のつかない気配に四方は囲まれています。
遠く離れた故郷と交わった感覚があなたを支配したのも無理はありませんけど、わたしにはどうしても田舎の景観と混同させようと努めているのが見抜けてしまい、しかも罪のない意識だけにこのからだを通過していった悦楽が却って虚しく、また切なく、一週間の日々が尽きてしまうのをあなたに不平等に分け与えたのでした。
反対にわたしの気概には誰もが触れることが出来そうで出来ないのです。奥義とか秘密なんて、高尚なもったいぶりなんかじゃありません。ただのひとりよがり、とでも言っておきましょうか。
面白がってよいものやら、これしか能がないというくらい昼夜を問わず肉体をむさぼったあなたは、ひとり散歩に行ってくると虚脱した声を残し、薮のなかに姿をくらませてしまうことが度々。ああ、わたしのせいだわ、偶然の出会い、ふたりにもたらした残像だけが現在でも鮮やかなごとく、あのときだって精魂を奪ってあげたと、高野聖を彷彿させる忌まわしげでしたたかな念は確かすぎるほどでしたもの。
あなたの幻影はわたしの操作、そうですわ、夢のからくり、大きな手のひらの上で戯れる些細な、けれどもいたわしい情愛。
わたしに追いつける道理がありません。常に脱皮を繰り返し姿かたちを決して同様に留めぬ蝶をいつまでも追い求める哀れなあなた、まだまだ脱ぎ捨てた抜け殻に執着している様子ですね。


2013.3.12