ねずみのチューザー20


見据えていたようでその実、しめやかな空気になだめられていたのか、凝視にまで至らなかったのは、苔子が音もなく障子をしめ姿を隠したあとに漂った名残りへ溶解している、薄ら寒い想いによるものだったようだ。けれども、少女の笑みを求めるまえに僕の眼中をよぎった光景は消え去ることなく、温熱が次第に冷めるようにこの身を通過する。
チューザーの児戯めいた挙動がなによりも僕の気持ちを代弁していてくれたから、それより深く思案してみるまでもなく、小さな波紋はそれらしく静かにさざれていただけさ。茶を口に含みながら揺曳する目はもう一度、夕日をしみ込ませた障子の明るみに慰撫されだした。もげもげ太にしろ、苔子にしろどうもここの家人は余情を投げあたえる才覚があるのか、それとも僕が勝手に心もとなさをすげ替えているだけなのか、どちらにしても今はその鎮座のなかに浸るしかなかった。反照の加減により刻一刻と過ぎゆくのを格別意識しなかったのはいうまでもないだろう。チューザーもいつしか知らず走りまわるのを止めて大人しくしていたし、それから会話を交わした覚えもないんだ。
風呂の支度がと、ふたたび苔子が顔を出すまでどれくらいの間だったか、そしてチューザーから「それがしは浴槽は苦手でありますので、御先にどうぞ」そう促されたまま座敷をあとにし、廊下を踏みしめる足の裏にかつてない感触を覚えながら、苔子のうしろ姿を見つめているのか、ただぼんやりと案内されるままなのか自分でも判別つかないうちに、「こちらでございます」と、さながら風呂場の湯気に湿ったふうな声色を耳に届けられるまでは、どこか夢心地だったんだろうね。
夢といえばここまでの道のりも夢のまた夢みたいなものだし、が、それだけではなく突き刺さるいばらを抱きかかえた煩いも間違いなく同居しているので、このひんやりした廊下がもたらす目覚めのような感じを愛おしいものとして受け入れた。そのときだった、古びた木戸に手をかけた苔子は半身をこちらに向け、ここに来て初めて笑みを浮かべてくれた。ほっそりした面すべてが豹変するわけでもないけど、釣り目勝ちな双眸はほんの気持ちまなじりが下がり、毅然としたあご先は口角がやわらかに上がることで、凡庸だと思われた唇がとても可愛らしい生き物に見え、白い歯並びは心底無言に徹する感情だけをそよがせる。もちろん僕の思い込みかも知れないが、それまで木彫りの人形であった苔子の顔かたちに仄かなかがやきが宿り、それが先ほどまでの夕映えにせよ、こうして廊下を伝い陽のあたるところから奥まったなかで笑みが咲くのは、まさに黄昏どきの路傍に見つける一輪の草花であった。
湯に身を沈める瞬間、あらたに生まれかわる何かがもたげかけたのだが、どうした意想であれこの肌を包みこむ、しかし、どこまでもかけ離れているような気分に浸食されたまま僕もそっと微笑んでみたんだ。湯船にたたえられた熱気が毛穴から浸透してくる。一番風呂らしく湯気はほとんど目立たずに、肩先からうえにあの懐かし気なとりとめもない情趣が泳ぎだし、風呂場の造りを見回すことさえ忘れてしまって、ときにさらわれたのか、あるいは夕暮れの空が落ちてきたのか、想いは自在な雲の流れになり目のまえに人造の湯気を呼び寄せた。ほとんど形はなさないものの、胸のなかにたかぶった妄念と、脳裏から降りてくる弛みない情感が湯に混じっては火照ったからだから発散してゆき、夢幻と和解している現象を思い知る。
湯船は温泉地の家族風呂ほどの広さがあり手足は自由を取り戻した。わびし気に天井へ引っついている裸電球のあかりはほんのり灯り、脳裏へと創りだされる湯気には最適な陰影を保っていた。方や漫然とよぎってゆくまだまだ未知なるものに対する怖れが、遠く離れてはすぐに近づいているような気がし、もはや冷や汗とはいえないしずくとなって額から頬に伝わるのがわかる。あれこれ思考をめぐらさずにはおれない性格なんだよ。でも困った性分と割り切ってきたたからこそ、苔子の笑みがついさっき授けられたんだと思いなし、そして更に突き進んで欲情の破片を汗のしずくに見立てると、湯煙でむせ返るくらい頭を曇らせてから一カ所だけ設けられた小窓にしたたる水滴へ重ね合わせたんだ。空の様子もうかがい知れないガラスの小窓は暗色にくすむのでもなく、裸電球の照りに応えるのでもなく、土気色から人肌色に変わりつつある生気で明るみ、艶やかさと滑らかさを同時に持っていた。
段々と膨らみつつある湯気の向こうには「闇姫」やら「卍党」やら「ミューラー大佐」やら「諜報」といった言葉が無造作に並びはじめたけど、温まりだした身体はそれらを閑却してしまい、冷や水を浴びせるのが一番の効用だと願ってしまったわけさ。そうだよ、冷静な欲情などと相矛盾する妄念を抱く限り、たいそれた期待などしないほうがいい。無論これも逆説でね、可能性が期待に裏打ちされている以上、焦りは禁物なんだ。これはまえにも話したはずだよな。それから脳内の湯気が形成したものと、期待の成就を常に計りにかけておく事。だって僕は試されているんだよ、そうさ、バスのなかでも、この屋敷のなかでも、、、
小面倒だって言うのかい、湯煙なんかわざわざこしらえなくてもかまわないと。さあ、それはどうだろう、このくらいが丁度いいんだよ。だって一人相撲は確かに物悲しいけど、所詮は己が作り出した砂上の楼閣、責任転嫁の手間もはぶける。さて、続きに戻ろう。小窓のガラスに点綴したものと同じ数だけ僕の顔面からも汗がこぼれた頃、木戸の先から物音が純然と聞こえ間をおかずに、「よろしければお背中を流させて下さい」と、苔子の憂い秘めた声が響いた。驚きはしなかったし、慌てたりもしないさ。では待っていたのだろうか、そうともいえるが、そうともいえない。と、いう次第で木戸は開けられ、風呂場にこもった湯気の大半は苔子の声のするほうへ緩やかに移り、反対に冷気がこのせまい湯船に忍びよってきた。
白襦袢を襷がけにした苔子は少女である背丈から、艶麗な気配を先延ばし、調節なのかそのふさやかな黒髪をうしろに束ねることで妙齢の色香を抑えているかに見えた。