まんだら第四篇〜虚空のスキャット53


夏木立の合間を縫って山間に点在する民家を眺めている両の目はまぶしさを一層募らせ、澄んだ意識を胸中に収めながら生い茂った雑草たちのうえに歩を休めた。真新しい空気を気持ちよく運んでくる涼風には、草いきれを浄化する瑞々しい効果が備わっているようで思わず鼻孔を力ませてしまい、これ以上は嗅ぎとれないくらい緑から夏の匂いを奪った。奢侈に耽る様相を想い描きつつ、耳をそばだてては野鳥や蝉の音を慈しみ、振り返るまでもなく背にした下方に広がっている紺碧の海を早くも懐かしがった。
ここに来れば仙人の心境をかいま見れるのだと夢想した。
去年の父も同じく夢想したに違いない。真夏の山には一緒しなかったが、狂おしいほどに陽光の衰退を拒み続けた秋口の山々に花萌えるより色づく紅葉を夢みたと話していたから。
父の夢は儚く散ったかにみえたけど、あの鮮血を口にした光景からは悪夢を超え出た異相が夕映えにときめく侘しさとなって抽出された。それは散り去って小川の水面に浮かびゆく花弁の残像であり続けることで、逆に無造作にすくいとるのが億劫な日常へと据え置かれた。
遠藤とどんな関わりを持ったのか今となっては計り知れないけれど、父も父なら正真正銘の異形なる化身こそ美代であった。
「そうだ、あれからの美代さんにまつわる風聞を砂理ちゃんに聞かせていない。もっともぼくにしたところでその詳細を知ってはおらず、これもまた残像であるが故に性急な解明を望んだりしないだろう」
見つめ合うと呼んで差し支えないふたりのまなこは張りつめながらも、次第に緊張がほぐれる具合で沈黙を破り、水分を浸した指先で溶かされる薄紙のように穴があき、閉ざす役割から解放される安堵を共有する雰囲気を醸して向こう側を明示する。
「吸血事件などと喧伝されたには違いないけど、ことの真相は地元のあいだでもよく判明していないみたいなんだ。記事では猟奇的な局面を打ち出そうとしていたが、被害にあった少女らはのどを噛みつかれたとか重傷を負ったとかまで到ってなく、精々手や腕からにじみ出た血におののきながら泣きわめいていたという目撃者の証言があるだけで、手ひどい行為を受けたわけでも乱暴されたわけでもなさそうなのさ。元々ひかえめな性格なうえ美人であったことから擁護する側に立ったひともいたようでね、その説明によれば、子供たちは転んだりなんらかの擦り傷を自分で負っていたところに偶然美代さんが居合わせて、つまりまあ、ここからがどうしても奇異な行動にとられるんだろうけど、その傷口をなめてあげたいたと云う情況であった、そう主張してやまない穏健なひとたちは結構いたらしい。想像すると美代さんは過分に傷をいたわったんじゃないだろうか。それが子供の親らは手当から逸脱した印象を濃くさせ、日頃から下校時には不審者に注意するよう諭していた警戒も加担し、短期間のうちに同一者により引き起こされてしまったことで、常軌から外れた変質的な事件だと騒ぎだしたんだ。また当の美代さんがほとんど弁明らしい弁明を行なっていないのも、あらぬ風聞となって巷に流れていった要因じゃないかな。どうして事件性を帯びて来てるのに黙認していたか、ぼくにはよくわからない。美代さんのこころの問題だから。願わくば、うちの父が小説のなかに於いて陽炎であろう見果てない夢を推量してくれるのを頼みにしている。美代さんの件はここまでが今のところ知り得るすべてさ」
ごく手短かだったが砂理に聞かせたあとに感ずる充足のような余韻は清らかな鈴の音を想起させた。
それは今日と云う一日の終わりにふさわしい語りだったのだと、晃一に黄昏の調べが親し気に奏でられているようで、背伸びもするまでもなく辛口の酒を含んだときに感じる苦みを納得させ、そのまま等身大の現在を快く見つめられるのだった。そして曇天にも律儀に返礼する自らの影ぼうしを愛おしく感じる。行き交う見知らぬ影のなかにも雑踏にまぎれては、きっとこんな想いを忍ばせているのだろう。
大きな交差点にさしかかったところで晃一は右手のなかに思わぬ冷気を感じ、すぐさまそれが砂理の冬景色から抜け出た人肌の冷たさであるのを認めた。驚きで胸がいっぱいになるより、都会と郷里の冬の相違を漠然と比較している野方図な意識が先立ち、砂理の顔をおもむろに眺めたときには、掌に微かなぬくもりを覚えつつあった。返す言葉は必要ないと確信されたから晃一は無言で、その柔らかな季節の体感をしっかりつかみとった。砂理の表情に格別の変化は見られなかったが、信号待ちをしているあいだに左右を走り抜けてゆく車の騒音で、ちょうどその気持ちのささやきが掻き消されていると信じこんだ。
青信号が点滅し、ふたりは交差点を渡りだす。仲のよい恋人同士に映っているのだろうか、、、この眼帯のおかげで少しは奇抜な面立ちと思われているのでは、、、この場に及んでもそんな意識がせり出してくる自分に舌打ちする。
灰色に被われた空模様の一角が黄ばんだ明るみを示すなか、ふたりのうしろ姿は人混みのさきに消えていった。