まんだら第四篇〜虚空のスキャット43


やあ、元気そうだね。あれ以来だけど、ごめん、連絡しなくって。もう年も越えたけど、去年は夏が長かったんで、この寒さはけっこうきついよ」
粉雪が灰色の空から舞い降りてくる。晃一はダウンジャケットのファスナーを引き上げる仕草をした。すでに顎に届くまでしっかり閉じられている。
「初詣の帰りだったけど、よくこの辺りにいるってわかったわね。ひさしぶりだし、びっくりしちゃった。晃一くんも元気みたいね。明けましてあめでとう」
白いコートの襟が寒空で乾燥気味な頬に触れている。
「おめでとう。どこか喫茶店にでも行こうよ。立ち話じゃ寒すぎるし、少し聞いて欲しいこともあるから」
都心では有名な神社もさすがに一月の半ばも過ぎると人出は減ったが、砂理のような若い女性のすがたは珍しいわけではなかった。
「晃一くんもお参りに来てたんだ」
「違うよ。学校の友達に用事があってさっき別れたとこだった。大通りの向こうからどうも砂理ちゃんらしきひとが見えたから思わず後を追ったんだ。片目でも視力はいいんだよ。でも君も連れ立って歩いていたから声をかけづらくて、、、」
「それでしばらくしてから電話くれたわけ」
「そう、悶々としてから意を決して」
「わたしがあのまま連れとどこかに行く予定があったらどうしたの」
「いや、そんな予定はキャンセルすると思った。必ず来てくれると信じてた」
砂理の頬に微かな朱がさした。「あら随分と強気ね。だけど実際たいした予定もなかったし。ねえ、晃一くん、わたしお昼まだなんだ。予定っていうのはそれなの」
晃一は満面が笑顔になるのをこらえきれず「そりゃ、ちょうどいい。実はぼくは朝から何も食べてないんだ」
雑踏にまかせてゆっくり歩きだしていたふたりは同時に足を止め、お互いを見つめ合い笑みを交換した。
「あったかいものが食べたいの」白い吐息が言葉になる。「そのほうがいい。で、何にする」
砂理は今日の献立を発表するみたいな事務的な口ぶりで、「うどん」と答えた。「できれば関西風のかつおだしが効いているやつ。讃岐うどんでもいいよ」
「讃岐は四国だからねえ。あるよ、その関西風ってやつを食べさせてくれるお店。食堂みたいなとこだけど、関西風だと思う。かやくうどんで通じる」
「かやくうどんで通じる」思わず言い返してしまう。
「そう、かまぼこにちくわ、油あげの千切りと万能ねぎ、と少量の天かす」
「わたしのお母さんもそれと同じ具で作ってくれるわ。わかめも入っているけど、かやくうどんって言って」
「うちの父親にも聞いたことがあるんだ。上京したての頃、あきらかにうどん屋の店構えを見定めてからのれんをくぐり、かやくうどんって注文したら、ありませんって言われたって。目の前が真っ暗になったそうだよ。そしたらカウンターの中から主人らしき年配の男のひとが、関東じゃ、おかめうどんって呼ぶんだ、って。でも実際は違うよね。おかめうどんは、卵焼きと鳴戸巻き、大きめの麩、それに竹の子や甘辛い椎茸なんかがのっている」
「そうと決まれば早く行こうよ。この近くなの」
「五分ばかり歩くかな」
「五分あればどん兵衛が出来ちゃうね」
「じゃあ、そっちにする」
「今日はかやくうどんにするわ。だってどん兵衛ならいつでも食べれるし。だったら言うなってね」
砂理の表情は曇り空の下でも晴れやかに光って見えた。去年の出来事は季節の悪戯ではなかったかと訝ってしまう。晃一は、あれからの日々が線上に今日まで連なっているとは思えなかった。だからこそ砂理にも一切連絡をしなかったし、すべてを忘れてしまおうとさえ決意した。
「あのさ、あれからお父さんも変わりないわけ」
決意を鈍らせる思惑を援護するのが役目であるかのように、昼飯まえだろうと何だろうと、自ら選択した行為に疑問符は追随する。せめて、かやくうどんを食べてからその件に向き合う腹つもりであったけど、砂理を呼び出したのだから当然の成り行きだ。彼女だって似たような気持ちを抱き続けて年を越したことだろう。
「ぼくらは何か変わったと思うかな。あとで話そうと思ってたんだけど、父さんは確かに変わったよ。それを君に聞かせるべきかどうか迷った」
ビルの谷間だと粉雪の舞い方が違って見える。北風の勢いで飛び去っているみたいで、とても足もとまで落ちては来ない。なかには空を目指し吹き上がって行こうとしている。晃一は決して触れることのない砂理の横顔に冷たい彫像と同じ手触りを感じた。