まんだら第四篇〜虚空のスキャット33


親子が取り残された室内には戸惑いも然ることながら、一種の空隙が特異な様相で現れ、あたかも大きくひろげられた断面図に阻まれたような息苦しさを覚えさせた。しかしそれは、見ることも、聞くことも、嗅ぎ分けることも、触れることも叶わず、真空状態が部屋に充満しつつある感覚だけに傾斜していった。
遠藤夫人があらわにした奇矯な表情にとらわれたのはわずかの間だったが、その隙に砂理が姿を消し去るふうに外へ出ていったのを、晃一もどうした事態だったのか認められないまま立ちすくんでいる。
「何も言わずに駆け出していった」唖然とした声色でつぶやく。
「きっと急な連絡だったんだよ。気になるなら様子を見てくればいい、、、」孝博の口ぶりも確固とした助言とは言い難く、そのあとへ続く言葉があやふやになってしまうのを半ば自覚している。
ふたりは顔を見合わせる仕草さも避けたい心境だった。真空は物質を腐食させないのだろうが、ここにある精神は間違いなく蝕まれる寸前であった。今すぐにでも美代がすっと現れ、身構える猶予なき情況が恐怖だけで構成される。慇懃な挨拶など墓穴に生き埋めされるごとく葬られ、砂理への懸念は闇夜の突風となって吹き消され、邪視に魅入られるのが対面の礼式であるかのごとく、なすすべもないうちに緊縛を甘んじて受け入れるしかない。
亡き主人の魂魄がこの真空に揺らいでいるようで仕方ないのは、夫人の異様な笑みと、ひとりの女性がこの場からいなくなっただけで妄想されるのか、、、おそらくそれだけではあるまい。吸血鬼、、、やはり吸血鬼をどこかで怖れてしまっているのだ。口先では精神病理学的な接触が最優先されるべき可能性を謳いながら、こころの底には得体の知れない感触を残してきた。遠藤の学術的と云う口吻の陰には、こうして彼が研究していた呪力と呼んでいい魔の刻が張りついている。やっと今、秒針を刻む音が聞え出した。
だが、怖れに素直に応じるだけならば、わざわざ連れ立ってここにやって来るだろうか、、、願っていたのは恐怖のもうひとつ裏に潜んでいる何かではないのか、、、
目くらましのようなつむじ風が脳裏をめぐると、奇妙なことに動揺が少し治まり、真空に対して心身を投げ入れている現在がいとおしく思えてきた。
「以心伝心って奴かな、おまえ気色が悪いじゃないのか。おれもそうだ、ここの空気は普段感じることない、形容出来ないものがある。しかし、もう怖がらなくていい、悪霊などではないよ、ひとの霊だよ、生きた人間の霊魂だ。自分以外のな。そう念じたほうがいい」
「それって合理的に考えろって意味」
「そうかも知れない、でもそれほど深く考えなくてかまわないよ。激しい感情は伝わりやすいけど、その他の思惑やら想念は自分自身以外やはり理解不能であるってことだから、おまけにその自分もしょっちゅうな」
孝博の目もとにほのかな明るみが灯ったの見た晃一は、
「自分の霊は感じないってことになるね。それでかまわないの」やや鋭さを片目にとどめながらそう訊いた。
「今はそのほうが賢明だってことだよ。そうじゃないと折角ここまで来た甲斐がないから。異様なる空間に抱かれ、奇怪なる女性とまみえる、それでいいじゃないか」
「わかったよ。砂理ちゃん気になるからちょっと出てくる。多分、玄関先あたりにいると思う。早くしないと美代さんが来ちゃうといけないから」
晃一の面にはいつもの若々しさが帰っていた。部屋から出てゆく後ろ姿にも悠然とした雰囲気が感じられた。魔の刻はあれから絶え間なく孝博に呪文をささやきかけたし、真空で充たされたと判じないわけにいかない室内は間隙を埋め尽くしてしまったので、もう息苦しくなかった。どうやら舞台装置が完成されたようなので、断面図は仕舞われたのだろう。一瞬、晃一がこぼしていった「自分の霊」と云う言葉に促され人体模型図の、内蔵や血管、筋、骨などがあからさまに浮き出し、屹立する様を想い描いてみれば、微笑がこぼれ落ちるくらい世界が動転しているのが疑似体験出来てしまい、酒に酔った気分を味わえた。

現実の時計も絶え間なく秒針を刻んでいた。すでに二時まえをさしている。この家に着いたのが一時十五分、これは孝博の腕時計でも、書架の片隅に掛けられている幾分古くさい銀縁をした丸い壁時計でも確認された。そして今も同じくともに相違はない。晃一が砂理を気遣って部屋を出てから三十分になる。美代にしても姿を見せるのを恥じらっているのか、ただ焦らしているだけなのか、ドアが開かれる気配さえ忍ばせているかのようだ。
時間こそ魔物かも知れない。いつもあくせくしているのは殆ど時間のお陰だから。夫人の顔つきひとつでもおののいてしまい、整合的に記憶を模索して躍起となっていたではないか。しかしながら酔った心持ちがもたらす高揚はそれくらいの経過に泰然と立ち向えた。まだ大丈夫だとも言えた。その根気を養う気概が反対に緊張を強いる。よからぬ事態がちょうど気体となって棺の中から煙りだそうとしている。幻想小説を読み耽りながら、実際にぼやを知るような時差をともない。
それは寸秒の時差だった。「二時になったらおれもこの部屋を出てみよう」
現実のぼやは火のまわり方次第で取り返しのつかない結果がもたらされる。孝博はあくまで律儀であった。無窮なる空間にも射し込むひかりのように直情であった、いや、むしろ磁場によってねじ曲がっている体感を得ていない無情なひかりであった。